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プロローグ

 

 気になって仕方がない。


 隣に座っている女性が身に着けている物が気になって仕方がないのだ。


 とにかく目が離せない。

 鮮やかなそれから視線を外すことができない。

 わたしは本を読むふりをしながら、メガネ越しにチラチラと盗み見していた。


 すると突然、彼女はバッグからガムを取り出して噛み始めた。

 それは、わたしが今噛んでいるのと同じブランドのガムだった。

 なんという偶然。


 もしかしたら……、


 今後の成りゆきに僅かな期待を抱いていると、彼女が腕時計を見てから入場口の方に顔を向けた。

 それにつられて顔を上げた時、すれ違うように彼女は視線を落として、わたしの靴の方に向けた。

 ダークブラウンのタッセルローファーに興味を持ったのか、しばらく視線がとどまっていた。

 わたしはこれ幸いと視線を落として彼女の足元を見た。

 今度はチラチラ見ではなくしっかりと見た。


 素晴らしい!


 その色に吸い寄せられそうになって、思わず感嘆の息を吐いてしまった。


 すると、気づいたのか、彼女が顔を上げた。


 わたしは慌てて本に視線を戻して、息を殺して様子を窺った。

 でも、大丈夫そうだった。

 気づかれたわけではないようだ。

 わたしはほっと胸を撫でおろして、またメガネ越しに盗み見を始めた。

 そして、彼女の身に着けている物が声をかけてくるのを待った。

 待ち続けた。


 待ちながら、ふと思った。

 最近の自分はどうもおかしいと。

 他人の持ち物やペットなどに異常に興味が湧くのだ。

 それだけでなく、それらの気持ちがわかるような気がするし、それらの声が聞こえてくることもある。

 更に、会話さえもできることがある。


 * * *


 先週の木曜日、残業で遅くなって終電に駆け込んだわたしは、隙間が空いている座席を見つけて無理矢理体をねじ入れた。


 右隣には小太りの中年男性が座っていて、大事そうにビジネスバッグを膝上に抱えて居眠りをしていた。


 そのバッグがパンパンに膨らんでいたので、資料がいっぱい入っているのかな、と思った途端、ため息が聞こえた。

 と同時に、ビジネスバッグの愚痴が始まった。


「こんなうだつの上がらないオッサンの脂っぽい手で毎日触られてさ、たまんねえぜ。

 ほんと最低。

 それにこんなにパンパンに書類詰め込まれてさ、完全に豚バッグ状態だろ。

 みっともないったらありゃしないよ。

 店頭に飾られていた時はスリムな体だったのにさ。

 ほんと、ため息しか出ないよ。

 なあ、あんた、俺の気持ちがわかるか?」


 えっ、わたし? 


 いきなりのことに戸惑っていると、

「ま、あんたも大変なんだろうな。

 終電帰りだもんな。

 こき使われて毎日ぼろぼろってとこだよな。

 まあ、体壊さないように気をつけなよ」

 と今度は同情された。

 そして、

「俺は次の駅で降りるけど、あんたは乗り過ごさないようにな。

 終点まで行っちゃったら帰りの電車はないぜ」と忠告された。


 唖然としていると、電車のスピードが落ちて、次の駅に滑り込んだ。

 すると、船を漕いでいた隣の中年男性がパッと目を覚まして席を立ち、すっすっとドアの前に歩いた。

 見事な変身ぶりだった。


 驚いて見ていると、ビジネスバッグがわたしに向かって手を振った。

 別れを惜しんでくれているような感じで、何回も振ってくれた。

 わたしも胸の前で小さく振り返した。


 お疲れ様、


 労いの言葉を心の中でかけた時、ドアが開いた。

 その途端、待ち切れないように中年男性が走り出した。

 乗換えがギリギリなのだろう。


 (つまづ)いたり転んだりしないように気をつけて、


 また心の中で呟くと、まるでそれを待っていたかのようにドアが閉まった。


 電車が動き出すと、急に自分のバッグと話したくなった。

 でも、心の中で声をかけても反応はなかった。

 ため息や愚痴さえも聞こえてこなかった。

 自分の持ち物とはコミュニケーションが取れないらしい。

 バッグの代わりにわたしがため息をついた。


 * * *


 そんなことを思い出していると、昨日のことが蘇ってきた。

 久しぶりに真っ青に晴れ渡った気持ちの良い土曜日だった。

 わたしは公園のベンチに座って散歩している人たちを眺めていた。

 週末とあってカップルや家族連れが多かったが、しばらくすると年齢不詳の若作りをした女性がポメラニアンを連れて歩いてきた。

 ヒールに膝上丈のスカートという格好で、しゃなりしゃなりと歩いてきた。


 男好きのしそうな派手な目鼻立ちをしている彼女は、ぬいぐるみのような容姿で人気のある小型犬を見せびらかすように抱え上げて、自分の顔に近づけた。

 ポメラニアンに負けない魅力があると誇示するかのように。


 距離が2メートルほどになった時、ポメラニアンと目が合った。

 と思ったら、いきなりウインクされた。

 魅力的なウインクだった。

 わたしはどうしてか照れて視線をそらし、クリーム系のふわふわとした毛並みに目をやった。

 ペットに興味のないわたしでも思わず触りたくなるくらい可愛い毛並みだ。


 わたしの前を通り過ぎたところで飼い主の女性が立ち止まって、ポメラニアンを地面に下ろした。

 知り合いに出会ったようだ。

 中年の小太りな女性がトイプードルを連れていた。

 この女性も派手な化粧をしている。

 着ているものも高そうだ。

 栗色のくるくるとした巻き毛が可愛いその犬が自慢のようで、ちゃん付けで呼んで毛を撫でている。


 しかし、そのうち会話に夢中になってきたらしく、犬のことはほったらかしになった。

 身振り手振りを交えて時々大きな笑い声を立て始めた。

 最近買ったブランド物の話や韓流スターの話だった。


 聞くとはなしに耳にしていると、構ってもらえなくなったポメラニアンが近づいてきて、わたしの前で立ち止まった。

 そして、くりくりっとした目で見つめられた。


「私の飼い主、浮気しているのよ」


 えっ、いきなり何? 


 聞いてはいけないことを聞いてしまった気がしてまごまごしていると、トイプードルが近づいてきた。


「私のとこもよ」


 ねえ、というふうに2頭が目を合わせて同時に頷いた。


「相手は家庭教師なの。大学院生」


 ポメラニアンだった。


「うちはイケメンの庭師。多分30代」


 トイプードルだった。


「昼間から連れ込んでやってるのよ」


「うちもよ」


 2頭がじろっと飼い主を見つめた。


「知らないのは亭主ばかりなりってね~」


「お気の毒にね~」


 ここにはいない夫二人を憐れんだ。


「あなたも浮気してるの?」


 ポメラニアンがいきなり矛先をこちらに向けた。

 突然だったので驚いたが、黙っているわけにはいかず、といって何を言ったらいいかわからなかったので、頭を左右に揺らすようにして、そうではないことを伝えた。


「嘘おっしゃい」


 即座に疑いの声と目が返ってきた。

 本当のことを言わないと許さないわよ、というような厳しいものだった。


「まだ独身だから……」


 なんとか声を絞り出すと、ポメラニアンの目の色と声が変わった。


「やり放題じゃないの! 

 手あたり次第に千切っては投げ、千切っては投げって感じでしょ」


 興味津々というような目で見つめられたので、今度は即座に首を強く振った。


「フリーセックスには興味がないの?」


 トイプードルが訝しげな目になった。


 頷くと、「据え膳も?」と畳みかけてきた。


 わたしは、また頷いた。

 女性に対しては、とても慎重なのだ。

 性欲は普通にあるが、それが最優先ではなかった。

 それより琴線に触れるかどうかを大事にしていた。

 だから、今まで付き合った女性は多くない。

 というよりも少ない。


「つまんない男ね」


「ほんと。犬も食わないわね」  


 わたしに興味を失くした2頭が飼い主の足元へ行って纏わりつくと、それをきっかけにするように世間話が終わった。

 年齢不詳の若作り女性と、金持ち風小太り中年女性はそれぞれのペットを連れて別々の道を歩き出した。


 最近こんなことを毎日のように経験している。

 ビジネスバッグやペット犬だけでなく、アリと会話したこともあるし、雑草と会話したこともある。

 多分、他の色々なものともコミュニケーションが取れるのではないかと思っている。


 でも、最近は会話だけでは物足りなくなってきた。

 そのものになりたいと思うようになってきたのだ。

 自分がビジネスバッグだったら……、

 ペット犬だったら……、

 アリだったら……、

 雑草だったら……、

 なれもしないのにそう考えてしまう。


 やっぱりわたしはおかしい。

 絶対におかしい。

 でも、例えおかしくてもどうしようもない。

 自然に考えてしまうことを止めることは出来ない。


 * * *


 そんなことを考えていると、隣の女性が足を動かした。

 それまでまっすぐ床に下ろしていた足を少し斜めにしたのだ。

 それで我に返った。

 そして、余計なことを考えるのを止めて、彼女が身に着けている鮮やかなものに意識を集中させた。

 もしかしたら声が聞こえるかもしれないと思って、耳を澄ました。

 しかし、何一つ声は聞こえてこなかった。


 それでも諦めずに耳を澄まし続けていたが、連日の寝不足がたたったのか、だんだん眠たくなってきた。

 大きなあくびが出ると、瞼が重くなって、目を開けていられなくなった。

 もう抗うことはできなかった。


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