王弟妃は白い結婚を満喫してたら破滅寸前である。
ひたすらざまぁの百合短編、15000字ほどです。
※本作の王弟エランは短編「元婚約者としては誠に遺憾だが、王弟殿下には破滅していただく。 」の王弟と同一人物です。
※そちらの作中の「エランの妻」=本作の主人公ルティです。
※もちろん、あちらを読んでいなくてもお楽しみいただけます。
「わたくしを処刑し、民の怒りを鎮めなさい。ルティ」
二回りは小さな王妹の発言を聞き、ルティと呼ばれた女は身をこわばらせた。
彼女は口元を引き結び、顔を俯かせ、耳を傾け、聞いた言葉を脳で反芻する。
重大な選択のために思考に没頭する中。王弟妃ルティは目を細め、瞼の裏に在りし日を見た。
ヘーゼル大公令嬢ルティ・ヴィスカム。
だがこのように彼女が名を呼ばれることは、そうはない。
大公の娘と言っても末であり、家での扱いは比較的に雑であった。
いずれは適当な貴族に嫁に出される身で、ルティは毎日を好きなように過ごしていた。
教養や礼法は最低限ながらも身に着け、あとはお菓子を好きなだけ食べながら、魔法を好んで学んでいた。
大公本邸の蔵書は概ね読んでしまった頃、ルティは初めて王都、そして王城に足を踏み入れた。
デピュタントにはだいぶ早いが、茶会にかこつけての顔見せ。嫁入り先探しである。
大公自身も夫人も所要で席を外す中、ルティはがっつりお茶とお菓子を摂取。
生理的緊急事態に直面し、茶会会場から王宮内に出て、無事対応完了。しかし帰り道――――迷子になった。
そうして、城の敷地外れにある庭園に面した廊下に迷い込み、偶然に古書庫を見つけて侵入。
夢中になって魔法関連の古書を読み漁っていたルティはそこで、彼女と出逢った。
「あら、大公のところの子ね」
その子は第一印象が強烈で、ルティは今もなお細部までよく覚えている。
ボロボロの布を纏って、大きな本を脇に抱えた子。髪は長いが、よく見ないと女の子だとわからなかった。
そしておとぎ話に出てくるような、金髪碧眼。髪はくすんでいたが、目は魔石のような不思議な色合いであった。
当時のルティは知らなかったが、王家独特の髪と瞳の色だ。ただ最近は血が薄れたのか、この色でない王族も多い。
「なんでわかったんです?」
幼いルティはその子の素性よりも、彼女の言動の方に興味が向いた。
言葉が少し丁寧になったのは、母がこの日のためにルティを強烈に躾けた影響が半分。
残り半分は……ルティがボロの奥に直感的に見た、その幼子の持つ気品ゆえだった。
「まず羽織の布。北方特産の毛織物でしょう。毛羽立ちもなく、発色もいい。ヤギのものだったかしら?
次に髪の編み込み。北部騎馬民族の女性は、その編みの複雑さと美しさを競い合うという。
今代ヘーゼル大公が為した融和によって文化交流が著しく、大公領の女性の間では流行っているそうね。
最後はそのブローチ。他の家の者がその花柄の装飾をつけていたら、それはもう大変なことになるでしょうね?」
ルティは言われ、胸元のブローチを落としたり失くしたりしてはならないと、きつく言われていたことを思い出した。
家紋を模しており、これは彼女が大公家の娘だと保証する大事な品である。
中央の大き目の石は高価な魔石加工品であり、小さな飾り石と合わせて複数の魔法を可能にする逸品であった。
ルティがブローチを確認していると、幼子が近づいてきてじっとその石を見始めた。
「家紋由来だからというのもあるけど……あら、網式通信魔石じゃないの。昨年論文が発表された八星型……。
流通どころか開発の話も聞かない。すごい貴重品だわ。
ということは、大公家はかの英傑ご本人に伝手があるのね?
あなた、これは西方のご婦人が作ったものではなくて?
わたくしと……同じ色の髪と目をした」
ルティは幾度か会った貴婦人のことを思い出し、頷いた。
このブローチはルティ用に調整されているらしく、製作者本人がわざわざ納入にやってきていた。
少し日に焼けた感じの逞しい印象の女性と二人で西からはるばる訪れて、ルティに魔石や魔道具の話をあれこれ聞かせてくれていた。
以降も二月に一度くらいは二人でヘーゼル領に来ており、そのたびにルティは魔法や西方、帝国の話をせがんでいる。
ついでに、塩気のものを中心においしいお土産をいつも持ってきてくれるので、ルティは二人が大好きだった。
「そう……奇縁ね」
呟き、さらに見入る彼女の脇にある本の表紙が、ルティの視界に入った。
「『死を…………想え』?」
「あら、あなた西方古語が読めるのね。それに……素敵な訳し方だわ」
「まほうのせかいでは、あいさつのようなものだったと、みました」
「わたくしもまだ死霊術は学び始めだというのに……よければ講義をお願いしたいわね」
ルティにとっては魔法講義=先生とのお話(議論)であり、とても楽しいものであった。
幼子の申し出に、彼女はそのはしばみ色の瞳を輝かせ、得意げに胸を張った。
「死しゃとかかわるならば、まずかれらになにをもとめるか、きめなくてはなりません」
「いたずらに彼らの眠りを妨げれば、こちらが引きずり込まれるから、ね?」
「ちがいます。かれらは死から生にむかっているのです。ねむりではありません。
われらとはいく道とありようがちがうのです。ふたつは円のふちのようなもの。
まじわらず、むすぶのにはたがいのゆく道にひってきするろうりょくが、ひつようです。
しっぱいはとうぜんであり、あやまちはもっと多い。
ゆえ、死りょうじゅつのとは、死にむかうはんえんのなか、しょうがい一度の大まほうを、まずさだめるのです」
舌の回り切らない口で語られるそれは――――どんな古書にも載っていない、最新の死霊術師の言葉であった。
真理の宿りかけた瞳で見つめられ、高度な魔法講義に聞き入る幼子が、小さく喉を鳴らしている。
「わたしは、しょうがいのさいごに、死しゃたる自身とのたいわに、このまほうをつかうとさだめています。
自身もまたえんかんたる生命たるのか、たしかめて残すためです。
そのこころみがなれば、生と死のこんげんのひとつが、つまびらかになるでしょう。
…………? どうしたのですか? どこか、いたいのですか? おなかがすきましたか?」
ルティが慌てて声をかけたのは、目の前の幼子が目に涙をためていたからだ。
「ち、がいます。大丈夫。ただわたくしが死霊術を私欲に使おうとしていたのが、恥ずかしくなったのです」
「まほうにきせんはありませんよ?」
恥じ入る幼子にルティが当然のように答える。幼子の大きく見開かれた紺碧の瞳から、溜まった涙がそのまま流れ落ちた。
「ただ、ひとにめいわくはかけないようにすれば、よいのです。
あなたは、まず死しゃのことをおもんぱかった。
つぎに、自身にがいがおよぶことをおそれた。
よきまほうのと、です。とてもえらいです」
ルティは自分の思う最高の笑顔を浮かべた。
炎の魔法に失敗して小火事を起こしかけたり、魔法で空を飛んで墜落して足をくじいたり、水中呼吸の魔法を試して効果時間が切れておぼれかけたことを思い出したからだ。
たくさん人に迷惑をかけており、ルティは自分が良い魔法の徒ではないと自覚していた。
ただ恥ずかしいので、人には知られたくなかった。特に目の前の幼子は良い生徒になりそうなので、とても見栄が張りたくなっていた。
なので少し誤魔化すように、話を元に戻した。
「それであなたは、死しゃになにをのぞむのですか?」
「…………話が、したいのです」
「そうですか。一度だけでいいなら、そうむずかしくはありません。
たくさんのひとと一度ずつおはなしがしたいなら、そのまほうせんもんのまほうつかいになりなさい。
ただし」
ルティは幼子の蒼い瞳をじっと見つめる。
「もしだれかと何度もおはなしがしたいなら、それをあなたのしょうがいのまほうとさだめなさい。
それはかれらが死から生へゆく道をかんそくするのとおなじ。
ひとがおもうより、ずっとむずかしいまほうなのです。
そしてこれはわたしのよそうですが、あなたのつかいたいまほうはそれですね?」
「え、ええ」
「ならばむねをはりなさい。それは死りょうじゅつのおうぎです。死をたんきゅうするまほうです。
ほら、そこに書いてあるでしょう」
ルティは彼女が持っている本を、手で示す。
「『メメント・モリ』。
かつてあいさつのようにかわされたことば。だれもたどりつけなかった大まほう。
死を、おもいなさい。あなたがのぞむ、だれかたったひとりの、死を」
「――――――――はい、先生。
わたくしは、この古書庫の主であった魔人の死を。
我が母の死を、生涯にわたり想います」
幼子がそっと呟き、宣言した。
ルティは踊り出しそうになるほど胸が熱くなり、顔に喜色を浮かべた。
初めての生徒である。名前も知らないボロボロの幼子のことが、ルティはとても愛おしくなった。
そしてダンスのお稽古を思い出し、羞恥で顔が赤くなった。何度もこけたことを思い出したのだ。
「まだ生きていたのか。愚かな妹よ」
そこへ。
不躾な男の声が突き刺さった。
冷たく威圧的な言葉に、ルティは身を固くし、さっと声と目の前の幼子の間に割って入った。
声の主は古書庫入り口におり、二人を睨みつけている。
髪が魔石のような色合いだが、瞳は青みが強い。煌びやかな服装をした、ルティより年上の男の子。
ルティはその襟に花びらの描かれたバッチを見て、反射的に頭を下げそうになった。
それが王族の男性が身に着けるものだと教わっていたからだ。
しかし先の言葉と自身が背中にかばった生徒のことを思い出し、男の子を強く見返す。
「あら。父上はご内密に処理してくださったのに。
まるでわたくしに向けられた刺客のことを、ご存知のような物言いですね? 兄上」
「…………チッ。言葉の綾だと言うこともわからないのか、愚妹め」
今のは自分にもわかった、とルティは胸の内で呟いた。
言葉の綾、などではなく……確かにこの男が、後ろの幼子に暗殺者を放ったのだ、ということが。
男は隠しているつもりなのかもしれないが、明らかにいら立ちが顔に出ていた。
「視界に入れるのも不快だ。陰気がうつる。食事も与えぬのに、しぶとい奴め」
「なるほど、わたくしへの食糧の差し止めも兄上の仕業だったと。
この後、父上にお話をさせていただきましょう」
「…………何の話だ。証拠もなく、父上がそのような戯言を聞くものかよ」
「わたくしは、離宮に食料を安全に届けてほしいとお願いするだけです。
顔色が悪いですね? 兄上」
「ボロで気色の悪い貴様に言われる筋合いはない」
自分を間に挟んでなされる悪口の応酬に、どうしていいかわからずルティはおろおろする。
「……そろそろお客人の前で、無礼なもの言いはお控えいただきたいのですが。兄上」
「これが客なものかよ。愚鈍な豚だ。それから」
彼は腰をかがめ、ルティの後ろの幼子に目線を合わせたようだった。
目を細め、強く睨んでいる。
「いい加減、俺を兄と言うのをやめろ。虫唾が走る」
「ではエラン第二王子殿下。わたくしのこともレンと、名前で呼んでくださいませ」
「貴様の名を口に上らせるなど、汚らわしい。名前も呼ぶな。関わるな」
幼子の名を知り、また男がさらなる侮辱を重ねる様を見て。
ルティのはしばみ色の瞳に、強く光が灯った。
「おことばですが、だいにおうじでんか」
ルティは一歩前に進み出て、淑女の礼をとった。
いくら直されてもこけたり躓いたりしていたが、その時は滑らかに一礼を果たした。
なお――――本来この国では、王族と知った初対面の相手には、膝をついて臣下の礼をとる。
ルティもそう教えられていた。それも知っていた。
つまりこれは。
幼い彼女の、反逆の証。
「なんだ愚物。発言を許した覚えはないぞ」
苛立つ王子はそれに気づいた様子もない。
ルティが浮かべる挑戦的な、決意に満ちた表情を読み取ることもない。
ルティは口元を引き結び、姿勢を正し、首筋を伸ばし、喉を引き締めて前を向いた。
彼女の意思が言葉に乗って、決然と回りだす。
「貴様に発言を許される覚えはないということだ」
「――――なに?」
男の声が怒気を孕む。
後ろの幼子がルティの上着の裾を引っ張ったが、彼女は首を横に少し振って再び前を向いた。
「このヘーゼルの証に、貴様の名を刻み込んでやろう。エラン。
宮廷に不穏をもたらす賊徒め。
私の教え子に手を出すならば、貴様は敵だ」
「言わせておけば……!」
エランは腰に下げた剣の柄に手をかけ、滑らかに刃を抜き放った。
その切っ先が、ルティの肌を僅かに掠めて、そのまま眼前につきつけられる。
ルティは頬の焼けるような感触に――――口元を不敵に歪めた。
「ヘーゼルの女の顔に傷をつけたな?」
「それがどうした、無礼者め」
ルティの後ろで、幼子が「ぁ」と小さく呟いた。
優秀な生徒に、ルティは少し嬉しくなった。
故事である。かつてヘーゼルは一時、セラサイト家を従えていたことがあった。
末の娘を傷つけられたことに怒ったヘーゼル当主が、王都に攻め上がったのだ。
後に主権はセラサイト家に返上されたが、ゆえにこの国には王が空位だった期間がある。
そして幼子はまた、別のことにも気づいたのだろうと、ルティは悟った。
王子の向こう、古書庫の開け放たれた扉の外、廊下に偉丈夫がいること。
彼は手に加工魔石を持っており、ルティのブローチ――――網式通信魔石を辿って、ここに来たのだろうということ。
八星型は重情報通信にも耐えられる端末であり、映像を始め様々な情報を収集しているということ。
ルティは切っ先、王子、そして扉の向こうへ順に目線を向ける。
書庫の外の偉丈夫は、そっと頷いた。
ルティは王子の青い瞳に目を合わせ、宣戦布告の続きを紡いだ――――
(あの後は、大変でした)
薄く目を開け、ルティはテーブルの向こうにいる、王女レンを見る。
身代わりに自分を処刑せよと言った、己の愛する生徒を。
あれから幾年。最も古い記憶の彼女とは異なり、レンは小柄ながらも気品あふれる淑女に育っていた。
本当は同い年だと知った時はたいそう驚いたものだったが、今でもときどき、互いの年齢上下がわからなくなる。
ルティがエランに宣戦布告をした後。
二人が剣と魔法で戦い始め、駆け付けた大人たちがその場はおさめたものの。
王家と大公家は水面下でやり合い、後には貴族の反乱にすら火が付いた。
反乱自体は王家救済と仲裁を買って出た南方辺境伯がおさめたが、国の混乱は続いている。
ルティは……矛を収めた王家と大公家の思惑で、互いの結びつきのためにと、当のエランの妻として迎え入れられた。
なんとエランはルティのことをすっかり忘れており、あまつさえ初夜に「お前を愛することはない」と宣った。
聞くところによるとエランは、婚約者だった東方のアカシア伯爵の娘を振って、男爵家の令嬢と恋仲になったらしい。
だが身分差もあって令嬢との婚姻はならず、男爵家はお取り潰しに遭い、カトレアという令嬢も亡くなったとか。
一方当のルティは、末の王女・レンと共に育った。
ヘーゼル家がレンの保護を謳い、王都の別邸で身柄を確保したことも背景にある。
二人は様々な教養を教え合いながら成長し、貴族が通う魔導特殊学園……通称・貴族学園を避け、本校たる魔導学園の方に入学。
卒業後は二人そろって、魔法省に入省した。
レンは嫁の貰い手がさっぱりつかなかったが、一方のルティは何の因果かエランの妻となった。
実情は仮面夫婦であったが、ルティは表向き王弟妃として社交界で活動。
一方で魔法省外勤職員の席も維持し、時折王国各地へ赴き、魔物の退治を行っていた。
そんな穏やかな日々に。
(まさか、エランが私の研究の一部を流用し、人を殺して魔石を取り出す非道に手を染めていたとは……)
夫の凶行という、爆弾が投げ込まれた。
その所業は瞬く間に民衆に知れ渡り、おまけに当のエラン、および一味の人間は姿をくらました。
魔石を取り出す施術を行っていた宮廷魔術師の資料が残されており、そこからルティの関与まで疑われている始末だ。
ルティは完全に濡れ衣であったが、それを証明することが難しい。
遺族が王宮まで詰めかける事態になっており……せめて一味のいずれかが捕まらないと、まずい状況になっていた。
そんな折、ルティに取り調べを受けよという打診が入った。ルティ本人の地位と後ろ盾のことも鑑み、いきなり捕縛とはなっていない。
だがこれは……もう逃げられないということに、他ならない。
ルティは今一度、目の前の問題に目を向ける。
逃げ場のない自分を慮り、身代わりを買って出た……愛しい生徒のことに。
(確かに、流用された研究はレン様との共同名義。
王妹であるレン様が処刑となれば、民衆もいったんはおさまるでしょう。問題は)
嘆息漏れぬように気をつけながら、ルティは気を静めようと静かに呼吸する。
(レン様の提案を断ったところで、打開策がないということ。私の処刑は、免れない)
ルティは必死に頭を巡らす。だが、良案は思い浮かばない。
「…………お母さまとも話し、出した結論です」
ルティの耳に、止めの宣告が為された。
レンの母は側妃の一人であった。だがそれ以上に、〝古書の魔人〟という魔法使いとして有名だ。
ルティらの先達・魔法省外勤職員でもあり、王国や近隣諸国各地の古書収集に熱を上げていた人物だった。
魔法はもちろん、あらゆる教養を身に着けていると言われている。故人になって久しく、ルティは人伝にしかその人となりを知らない。
そしてその娘たるレンは死霊術の奥義に辿りつきつつあり、母・ベルとの対話に成功していた。
つまり先のレンの一言は、知の泉とすら言われる魔人に「策なし」と言われたに等しい。
(いえ……何か。きっと何かあるはずです)
だがルティは、諦めなかった。初めての、大事な生徒を犠牲にするわけにはいかない。
共に生きてきた彼女を見捨てるわけにも、自身が犠牲となって悲しませるわけにもいかない。
(死は道の別れ。その先も続いており、悲しむべきものではない。
しかし別れは別れ、なのです。私は……レン様と、まだ共に歩みたい。
我々の学びのどこかに、きっと活路が――――)
決意を胸に、ルティは目を開く。
蒼い瞳が、じっと彼女を見ていた。
(学び……経験……これまでの……)
レンの瞳の中に、ルティはこれまでの人生の数々を見た。
幾度もの波乱が持ち上がりながらも、表面上は穏やかだった人生。
多くの人々の手によって、維持されてきた平和。
それが今、揺らごうとしている。
(………………………………あれ? これは、もしや)
彼女の、選択は。
◇ ◇ ◇
「無様ですね、兄上」
レンの涼やかな声が、少しの反響を残す。
王宮地下には、狭いながらも牢屋がある。
ルティとレンは、その特別な地下牢にやってきていた。ほのかな魔法の光が、むき出しの石の空間に光と闇を与えている。
牢は一つ。鉄格子の向こうに、足枷をはめられ、鎖につながれた王弟エランの姿があった。
ルティにとっての仮初の夫は、かなりやつれた様子だ。剣士としてかなり鍛え込んでいたはずだが、明らかにボロボロである。
「かつての婚約者や恋人に頼り、捕まったと聞きました。
女を、人を弄んだ兄上らしい末路です」
「俺を、兄と、呼ぶな。愚物め」
話を進めるレンの後ろから、意外に瞳に光の残ったエランを見て、ルティは胸元のブローチに手を当てた。
そこに収まる石は樹脂に包まれており、変わった感触が手に伝わる。
そしてルティは反対の手に持っていた大きな袋を、地下室の隅に置いた。
「そうですか兄上。あなたの言うことなど聞く気はありません」
「なにを、しに、きた」
「安心してください、話ではないですよ。差し入れというか……処刑方法が決まりましたので」
レンが振り返り、二人とともに来ていたこの牢専属の看守を見た。
看守が進み出て、レンとルティを一度ずつ見て。
二人から頷き返されたのを確認し、鉄格子の扉に鍵を差し込んだ。
鍵を捻って回し、さらに扉を引いて開ける。
看守とルティが、下がった。
瞬間、鎖でつながれたはずのエランが、猛然と駆け出し――――――――
「無様ですね、我が夫よ」
割り込んで牢の出入り口に立ちふさがったルティに、阻まれた。
彼の放った貫手は、ルティの喉元で何かに阻まれて止まっている。
「俺の妻を名乗るなら、俺に従え!」
「馬鹿め。私が貴様の妻になど甘んじたのは、この日のためよ。
今こそ。この証に名を刻んだ、私の敵を滅ぼすとき」
白い結婚を言い出されることは――――大公家側の調査で、わかっていたのだ。
彼がすでに、不能であると。
女に対して強い劣等感を抱えており、手が出せないのだと。
ルティはそれを承知の上で、自身の目的のため、好機と見てエランに近づいただけだった。
だが。単に害しただけでは、この男は心を折らないとルティは判断した。
ゆえに少しの種を撒き、機が熟すのを待っていたのだ。
「貴様ッ」
エランは力を込めるが、腕も体も進まない。
一方ルティの腕、脚、顔や髪、腹や頭、背中に喉……その全身には、小さな丸い光が浮かんだ。
喉の光が少し大きくなり、エランの手刀を押し返す。
それは力弱く見えるが、無数に魔法が詰め込まれた光であった。
「これは、魔法!?」
大きくなる光に、エランが押し返される。
身の危険を感じたのか、彼は牢の奥まで飛び退った。
ルティは何もしない。
だが光は複雑に展開し、天に舞う星のように地下牢に散りばめられていく。
「こんな魔法など知らぬ……お前は、いったい」
ルティは詠唱もせず、印を結ぶ身振り手振りすらない。
ルティの身に着けるブローチは小さな魔法なら使えるが、魔法媒介と違って攻撃に類するものを起こすことは不可能だ。
およそ魔法の常識からは外れた事の起こりに、エランは驚きと焦りをその顔に浮かべている。
彼は迫る強大な力の予感に構え、身を固くした。魔力を込め、全身に薄く防護の光を纏う。
「東の遠国に、天が落ちることを恐れた男の故事がある」
エランの質問には答えず、ルティは朗々と語りだした。
長く研鑽を続けた魔法の徒、ルティ・ヴィスカム。
彼女は大公令嬢としては、無名に近い。王弟妃として、少し社交の場で名が聞かれる程度だ。
ただ。魔法に関わる者たちに、彼女の名を知らぬ者はいない。
魔法省外勤…………外部勤務特殊戦闘職員、セラサイト王国の誇る戦略兵器たち。
その中でも史上最強と名高い、あらゆる大型の魔物を打ち倒した、破魔の魔人。
彼女には詠唱も、印も、舞踏も、媒介も、魔力すらも必要ない。
幼き日、すでに真理に至った彼女には、何も必要ない。
「…………なに?」
「無学なり、王弟エラン。
それは魔法界で議論されてきた、三大不可能魔法の一つ。
一つはやはり東国の故事〝矛盾〟。
一つは西国の死霊術〝メメント・モリ〟。
そして」
魔法とはすなわち彼女――――――――ルティ自身である。
「【杞憂成る】」
ルティの呼び声に応え、地下室のすべてが闇となった。
「!?」
エランがおそらくは驚きの声を発したが、それが音となることはなかった。
闇は彼に向かって収束し……直に晴れた。
あとには全身の骨を砕かれ、石の床に倒れ伏すエランが残された。
「天が落ちてきた気分はどうですか? エラン」
ルティの声に、エランは応えない。目を白黒させながら、動かぬ体で身悶えしている。
「……本当に規格外ですね、ルティ。未だにわたくし、なぜあなたが印も詠唱もなく、それほどの大魔法が使えるのか、理解が及びません」
「魔法とはことわりです。人が本来、水の中で生きられないのと同じ。人は魔法の中では生きられない。
ですが魔法の中で生きる者にとっては、魔法とは呼吸に等しき当然。
こちらに一度身を潜らせれば、そんな難しいことではないのですね」
ルティは生徒の質問に丁寧に答えたものの、さしものレンも魔法の奥義にはまだ頭がついて行かない様子だった。
彼女はルティの講義からはいったん目を逸らし、倒れたエランの方に目を向けた。
「…………ルティ、それは生きてるのですか?」
「生きていますとも、レン様。動けぬようにしただけです」
「その目的なら、もっとやりやすい魔法があったのでは……?」
「いいえレン様。いいですか?魔法は抵抗ができるのです。不確実な効き様では逃げられます。
魔力防護を抜いて確実に取り押さえられる捕縛の魔法は数が限られており、基本的に肉体以外のところに支障を来させます。
今回は精神は正常なまま残さなくてはならず、そのため緻密な重力制御で骨を安全に砕き切るこの魔法が最適なのです。
天が落ちるというのは概念であり、それが成った時の恐怖を体現するものであって、これは死とは異なる。
誰もが思うような恐怖を与えることがこの魔法の神髄であり、闇と痛みなき自由の強奪はそれを可能に――――」
「おれ、が。っきさま、を。おそれる、ものか」
倒れ伏したエランは意識があり、しかし彼はほとんど体を動かせぬまま言葉を紡いだ。
その瞳の光は、まだ消えていない。
「話を最後まで聞かない人ですね。可能にするだけで、今回は用いてません。
あなたに恐怖を与えるのは今の魔法でも、我々でもないのですから」
「これ、ね」
レンが大きな袋を担いできて、ルティの後ろにやってきた。
先ほどルティが、牢の入り口に置いてきたものだ。
ルティが道を譲ると、レンは鉄格子の内側、エランが絶対手が届かないだろうところに袋を置き……布を解いた。
「なん、だ。それ、は」
中身は巨大な、貝のような石のような代物であった。
「形は整える時間がありませんでした。
わたくしの魔法を込めてあります。その上で、低出力で持続して動き続けるものです。
あとは魔法発動のために、登録が必要なのですよね」
レンはナイフを取り出して倒れ伏すエランに近寄り、顔を薄く切った。
にじんだ彼の血を指ですくい、そのまま彼女は貝のところまで戻り、指を押し当てる。
「【メメント・モリ】」
ルティの呼び声に応え、貝がほの暗い地下牢で不気味に赤い輝きを放つ。
貝から……一つ、また一つと、半透明の人型が浮き上がった。
レンが道を譲ると、それらはエランを遠巻きに囲んだ。
「ルカイン! ライル! メナール! お前たち、探したんだぞ!」
人影は、エランの知己であった。
宮廷魔術師ルカイン。助祭ライル。騎士メナール。
いずれも貴族学園の頃からの、王弟エランの友である。
「ルカイン、魔石の製法を記した資料の隠し場所はどこだ!
ライル、まだ王都にいくらか隠れ家を持っていたはずだろう! 資産を持って逃げよう!
メナール! お前がいれば二人でどんな敵でも蹴散らせる!
皆がいればまだ――――――――なんだ、なぜ、俺を睨んでいる?
それ、に。なんで、体が、透けて」
人を殺して魔石取り出しを行っていた実行犯、ルカイン。
凄絶な拷問の果て、民衆に晒され、数日石を投げられ、最後は体を割いて処刑された。
教団を隠れ蓑に、街で人を薬でかどわかしていたライル。
教団が彼を捕らえ、最期は隠れ家で毒を飲まされた。全身焼けるような痛みにさらされながら、七日生きたという。
小競り合いの絶えない国境付近で暴れまわり、敵味方問わず人をさらったメナール。
被害者の家族らに滅多打ちにされ、父である騎士団長に首を刎ねられた。
『あんたが下手打ったおかげで、ひどい目にあった。痛くて……ほら、こういう感じだ』
「いぎぃ!?」
透明なルカインが屈んで触れると、エランは身をよじらせて悶えた。
『いろんな薬を使ったし飲みもした。でもあの毒はひどかったなぁ。こんな味でさ』
「ぐーっ!?」
ライルがエランの喉を掴む。それだけで彼は焼けるような感覚を味わい、がくがくと震えた。
『そうそう。動けない中いたぶられるのは効いたぜ。親父は剣技がすごすぎて、首切られた感覚わかんなくてさぁ。あれは残念だったなぁ』
「や、やめ! あ、が!」
メナールがエランの背中を踏む。だがエランはそれ以外のところが、あちこち痛むようだった。
「…………兄上。それが死者との対話。道別れたる者たちとの、違う価値観をもってのふれあいです。
ただどうにも、あなたは多くの人と濃い縁を結ばれていた様子」
レンの静かな声が響く。
貝からは、次から次へと半透明の人々が湧き出ていた。
「死者、だと!? じゃあ、こいつらは皆!」
「おや、まだ元気ですね。ゆっくりとお楽しみいただけそうです」
「なぜこんな真似を! 貴様ら、俺の妹と、妻だろう! こんなひどい――――」
「ひどいだなんて。わたくしはただ、あなたの知己と会わせてあげているだけです。
なかなか口を割らず、方々に策をめぐらせて生き残ろうとする兄上に手を焼きまして。
さる魔女に相談したら……『エランと縁の濃い者たちに、その処遇を委ねると良い』と助言いただいたのです。
喜んでいただけているようですね?」
「あの、あいつ! ゆるさ……ぎゃ!? やめ、ま」
『エラン、俺の話を』『エラン、私はね』『俺とさエラン』『エラン』『エラン』『エラン』
「やめてくれ俺の名前を呼ぶな!しぬ、死んでしまう!?」
「死にはしませんし、気も狂いませんよ兄上。
死霊術は様々な危険をはらんでいるので、そうならぬように防護措置がついています。
では」
レンが、牢を出る。
「好きなだけ、積もる話をされるといいでしょう」
「くそ、くそ! あの魔女といい、貴様といい!
女どもめ――――ルティ!!」
苦悶の中から名を呼ばれ、牢の外に出ようとしたルティは振り返る。
動けぬ体を芋虫のように悶えさせながら、夫がルティを真っ直ぐに見ていた。
「一度くらい! 妻の務めを果たせ! この俺を助けろッ!」
「いえ。昨日をもって我々の結婚は無効ですし。そのお願いは聞けませんよ」
「――――――――は?」
ルティは胸元のブローチを弄りながら、答える。
初夜の夜も、サイドテーブルに置いておいたそれを。
「いわゆる白い結婚。片方が強いたものであると証明できるなら、一定の期間と強いられたほうの申し立てをもって、無効にできるのです。
離縁ではなく、無効。昨日が期限日でしたので、日が変わった時点で私とあなたは夫婦でもなんでもなくなりました」
「ぇ」
「年齢だけは重ねてしまいましたが、私の様々な意味での身の潔白は証明されたということです」
「な、なにが身の潔白だ! 俺たちの魔石採取は貴様の研究が発端だ! 俺をどう罰しようとも、その咎からは逃れられんぞ!
馬鹿な民衆どもは革命と浮かれ、すぐにでも貴様を血祭りにあげるだろうよ!!」
ルティは存外にしぶとい様子のエランに向かって、盛大にため息を吐いて見せた。
それから――――不敵な笑みを浮かべる。
亡霊たちが道を譲る中、彼の近くまで歩み寄り、背を屈め、その瞳を覗き込んだ。
「な、なんだ! 何がおかしい!」
「おかしいとも、わかっていないのか? 私は貴様の敵だ。
最後の一片まで、容赦などするものかよ」
「俺は王弟だ! 貴様らのような愚物が何をしたところで――――」
「革命を起こしたのは、この私だ」
エランは、瞳を見開く。口元は笑うかのように歪み、首が弱く振られ、顔には油と汗が大量に浮いていた。
「何が王弟だ。笑わせるな。
この国は強大な貴族勢力に囲まれている。
北はヘーゼル、南のカガチ、東はブロッサム。
西では、かつて帝国との融和を成し遂げた偉人が一大勢力を築いている。
中央で王家に近い貴族は、これまでの争いでほとんど粛清された。
セラサイト王家など、いつでも覆せるのだよ。
私一人の意思でもな」
「うそ、だ」
「嘘なものか。私こそが革命軍の首魁だ。
王の首に手をかけている者だ。
王族すべての命を握り込んでいる者だ。
まだわからないのか?
私はお前の武力を優に上回る。
お前の権力のすべてを上回った。
父親を手にかけ、他の王族をも葬り去ってきた罪人よ。
この国に――――お前の居場所は、ない。
末期まで、死者と戯れているがいい」
「ぁ、ぁ……」
元夫の瞳の中から、ゆっくりと光が消えていくのを確認し。
ルティは静かに立ち上がって……亡霊たちに、場所を譲った。
貝からは、まだまだ次の者たちが溢れ出てきている。
「…………なるほど。あの男、ずっと自分が頂点のつもりだったのですね」
牢を出たルティを、レンが出迎える。
彼女の後ろで看守が扉を閉め、鍵をかけた。
「元々傲岸不遜な男でしたが、先代国王を手にかけたことで拍車がかかったのでしょう。
人を虐殺しても咎められず、魔石も売れに売れて大成功。
それが脳に焼き付いていたのでしょうね」
「勉強になったわ、先生。行きましょう」
レンが地上へ続く階段を、看守に続いて登っていく。
ルティは一度だけ。芋虫のように悶えながら、光の消えた目をし、なぜか穏やかな口調で亡霊と対話をしているかつての夫を見て。
(名乗った覚えもないのに、名前を憶えられていたのですね。
――――気持ち悪い)
光ある地上を目指した。
◇ ◇ ◇
「さて、次の議題を片付けなければなりませんね」
かつて自分を処刑しろと宣ったのと同じ席で、くつろいだ様子のレンが穏やかに言った。
ルティはケーキを置いた大皿にフォークを伸ばそうとして……すでに一つもないのに気づき、すごすごと腕を下げる。
レンが手を挙げると、控えていた使用人がテーブルの大皿を下げた。
まもなく、種々のケーキが乗った皿が運ばれてくる。
皿がテーブルに乗って早々、ルティはいくつかのケーキを自分の皿に取り始めた。
「あなたは……学園に通う頃には、すっきりした体型になりましたけど。
中身は変わりませんねぇ。この年になっても子どもっぽい先生です」
頬張らないように気をつけながらケーキを素早く口に運んでいたルティは、皿を置いて茶を一口飲む。
口の中からものがなくなってから、一息ついて言葉を紡いだ。
「甘いものの前に、大人も子どももありません。レン様はもう良いのですか?」
「夕食が食べられなくなりますし。あとルティ……もういい加減、〝様〟は良いでしょう」
「王家は解体しない方針ですし、あなたが王妹なのは変わりありませんから」
「革命軍首魁に言われるとむず痒いわね? 特に首のあたりが」
指先を首の前で横に引きながら、レンが笑顔で告げる。
生殺与奪を握っているのは確かであるが、そう言われてもルティとしては困るしかない。
「あなたを処刑から守りたくておこしたのに、そこを怖がられても」
民を怒らせた外道・エランたちは見つからず、民衆の怒りに火がつくのは時間の問題。
一味とみなされかれない自分と、犠牲になろうとするレンを守るために……ルティは自ら、革命を起こした。
これまで幾度も、王国の火種は致命傷となる前に鎮火され続けてきた。革命以前にも、南方辺境伯が鎮めた貴族の反乱があった。
ルティはそれを鑑み、もういっそ完全に爆発させてしまえばいい、と思い至ったのだ。
と言っても、大したことはしていない。
国の最高戦力を保有する魔法省……つまり自分の上司や先輩らに泣きつき、友人たちにいくつかの手紙を出し、父の大公に発破をかけただけだ。
今こそ、故事にならって王都に攻め上がるときだ、と。
果たして大公はすぐに、民衆をまとめ上げようとしていた勢力と接触を図り、その頭にルティを押し込んだ。
革命軍はあっという間に組織され、北からは革命を援護する大公、南からは示し合わせたカガチ辺境伯らが王都に攻め上がった。
頼りの魔法省はルティの要請で動かず、エラン一味の一人を息子に持つ騎士団長が投降し、王国側の抵抗は一瞬で瓦解。
そしてエランたちおよび協力者を、国を挙げて捜索。
東のブロッサムの魔女の協力もあって、そのすべてが誅される運びとなった。
「あら。さっきはエランを破滅させるために、革命を起こしたような口ぶりでしたが?」
「私が彼に興味を持つわけがないでしょう? あんなのついでです、ついで」
「ならばなぜ、婚姻を引き受けたのです?
大公は断っても良いと念を押していましたし、わたくしは反対したのに」
ルティはケーキを一つ口の中に放り込み、そしてフォークを口にくわえて動きをとめた。
無作法に気づき、フォークを皿に戻して、また茶を一口。
それから、使用人を呼び、全員を部屋から引き上げさせた。
さらにルティは念のため、いくつかの魔法を使う。
音、光、魔力、あらゆる手段でこの部屋の中を知ることができぬようにした。
「え、これ何を聞かされるんです私? ルティ?」
笑顔を引き攣らせている王妹に、ルティは少し肩の力が抜けたような、曖昧な顔を向けた。
「…………レンをひどい目に遭わせていた男を、必ず破滅させてやろうと思っていました。
あなたと出逢ったあの日から、ずっと」
「まさ、か。ルティ、あなた」
「弁明しておきますが、研究成果を流用されたのは完全にミスです。
あの男のことだから、妻のものならば必ず勝手に使い、油断してまずいことをするだろうと見込みましたが。
そもそも、それ以前にルカインに盗み出されていたのですよね……私の手落ちです」
王都で再会したエランがすっかりルティを忘れていた様子だったので、父に婚姻を打診されたときに思いついた手だったのだ。
ルティとしてはエランの懐に入り込み、油断を誘うかネタを挙げるかするくらいのつもりだった。
ところがそれ以前に、エランはとんでもないことに手を染めていた。
先代国王が崩御した時点で気づくべきではあったが、残念ながらルティはそこまで勘の良い方ではなかった。
また当時は卒業からの魔法省入り、国王暗殺、自身の婚姻話が同時期に重なったため、ルティ自身がそれどころではなかった、というのもある。
「ある意味、完全に肩透かし。失策でした。
それどころか、私が追い詰められたのは王弟の妃だったからというのもありますし。
私に策謀は無理ですね。向いていませんでした。
婚期も思いっきり逃しましたし、踏んだり蹴ったりです」
ため息を隠すようにお茶をもう一口のみ、ルティはカップを置いた。
顔を上げると……なぜか視線の先の碧眼が、きらきらと輝いて見えた。
「それならルティ。良い話があるのですが」
「はぁ。さっきの議題、とやらはいいのですか?」
「それにも関係します。王家は権威として残し、国家運営組織に政府を置くことに決まりました。
当然にその長には、あなたがおさまることになります」
「…………私はまた外勤に戻りたいし、魔法の研究もしたいのですが。まぁ初代は仕方がないでしょう。私の起こした革命ですし」
「はい。これに当たって、南西諸国のいくつかの国をモデルにするのですが。
いくらかは文化風習も取り入れ、外交に役立てようという話が挙がっています」
「良い話ですね。それで?」
「国家元首同士の外交の席には、妻……ファーストレディが同席するのが、常だそうですよ?」
「…………………………………………ん?」
ルティは勘の良い方ではない。
レンの妙な言い回し、国家元首の件と、行き遅れの話題。
すべてが彼女の頭の中で繋がったのは……完全に外堀が埋められた、後のことであった。
こうしてセラサイトは、王家は残るものの、王国ではなくなった。
この歴史を習った者の多くは、革命軍のリーダーが女性と聞き、まず驚く。
次いで、三大不可能魔法のうちの二つを習得した、未だ最強と呼ばれる魔人と同一人物であると聞き、二度驚く。
そして、近代革命が始まったばかりのこの時期に。
セラサイト初代首相の彼女に〝妻〟がいたことを知り、三度驚くのだ。