力こそ正義です
本当は、聖水の瓶など叩き割ってやりたかったが、大事な証拠品である。
あの量の金貨を渡して、たった二本。一本は無料だとして、たった二本だ。
ディルーグは相手を見ているのだろう。フラウリーナたちがあの量の金貨を渡すことのできる金持ちだと判断したために、聖水の本数を渋って、大神殿に再び通うように差し向けたのだ。
思い出しても腹が立つ。
「お父様! どうしてあんなことが起こっているのに、公爵家は黙っておりますの?」
「それは、仕方のないことなんだよ、フラウリーナ。かつてレイノルド君が追放された時に、僕は幾度か陛下に進言をした。そのために、僕たちも中央の政治には口を出せない立場に追いやられたんだ。僕にとってはそれはさして重要なことではないが、大多数の人間が黒を白と言えば、黒も白となってしまうものだからね」
「黒は黒ですわ」
公爵家に帰ってから王都で見たものを伝えるフラウリーナが、肩を怒らせる。
隣にいるレイノルドによしよしと頭を撫でられて、一気に頬を染めた。
「れ、レノ様、そうみだりに撫でられると私、嬉しくて、怒りが持続しなくなってしまいます」
「それはよかった。落ち着け、フラウ。王国は広い。少なくとも、辺境ではこのようなろくでもないものは広まっていなかった。公爵領もだな」
「はい。それはそうですけれど」
「今のところは、大神殿のみで配られているようだよ。噂を聞きつけた人々が、王国各地から押し寄せている。これは多分、レイノルド君の作った薬草を使用した製剤所が閉鎖されたからだね」
「公爵領では未だ、薬が出回っているようですが」
「それは僕が、路頭に迷ってしまった医師や調薬師を公爵領で匿っているからだよ。薬の密造をしているんだ」
にこやかに、ローゼンハイム公爵は言う。
レイノルドに仕事を全て丸投げしてすっかり隠居を決め込んでいる公爵は、いつも寝起きのような格好をしている。
今日も羊柄の寝衣に、三角帽子をかぶって、片手には羊のお昼寝クッションを抱えている。
公爵家のリビングルームである。
たくさんのお菓子と紅茶が用意されているテーブルの前のソファに、公爵はゆったりと座っている。
その周りには大量に本が積まれていて、必要なものは全て手が届く場所に置かれていた。
「常々思っていたのですが、公爵領だけで十分に国として成立しそうですね」
「独立しちゃおうか」
冗談なのか、本気なのかよくわからない表情で、公爵が言った。
「そりゃあいいな。全く、海賊でもしねぇようなあくどい商売をしてやがるぜ。あくどい上にみみっちいな。もっと、悪は悪らしく、華やかな悪行をしやがれって話だ」
服装を整えて髪型も髭も整えて、眼帯も新しいものに変えたせいか、すっかり華やかな海の男という風情になったレオニードが、公爵のために準備されているお菓子をつまみ食いしつつ、酒を飲みながら口を挟む。
「薬草の効果は古い時代から実証されているというのに。ただ、どの薬草がどの病状に効くのかを分類して、薬として開発してくれたのがレイノルド君というだけで」
相変わらず筋骨隆々の体を惜しげもなく晒しているウォードが、落ち着いた声音で続けた。
サバイバルとは常に冷静さが求められるものなので、見た目とは違いウォードはとても頭の回転が速く冷静な男である。
「王都での商売が軌道に乗れば、各地に広めるつもりなのだろうな。よもや、ハルトルート様までもが騙されるとは思いたくないがな」
「あそこの坊ちゃんは俺たちが育てたようなものだ。そう甘ちゃんではないだろう」
「ハルトルート家の坊ちゃんというと、オルベリク様ですわね」
「リーナちゃん、知っているか?」
「リーナちゃん、こんな若造ではなく、オルベリク坊ちゃんと結婚した方がいいぞ」
「黙れ……ではなく。少し静かにしてくれませんか、お二人とも。今は真剣な話をしています」
オルベリクと結婚しろ、結婚しろと騒ぎだす着流しのギルスと竜騎士リンドを、レイノルドは睨んだ。
フラウリーナはオルベリク・ハルトルート辺境伯について思い出す。
精悍な顔立ちと立派な体躯の、いかにも騎士というような見た目の男だ。
眠り病だったフラウリーナを忌避せずに声をかけてくれるような、爽やかで優しい男性だったような気がする。
気がするというのは、フラウリーナにとっては男性とは光り輝くレイノルドだけで、他は有象無象に過ぎないのだ。
それはあくまでも、恋愛対象としては、という意味でだが。
「独立はともかくとして、このままでは被害者が増える一方です。救える命を救わずに見殺しにはできませんわ!」
「リーナちゃんいい子だ……」
「俺たちはリーナちゃんの味方だぞ」
「俺たちは何をしようか」
「なんでもするぞ、リーナちゃんのためなら」
今にも王都に軍を向けそうな勢いで、老兵たちが盛り上がっている。
フラウリーナは少し考えて、軽く首を傾げる。
「力こそ正義ですわ」
「その結論になるのか。俺も同意をしたいところだが、国家転覆ともなれば多くの血が流れるのだぞ、フラウ」
「それは嫌ですわね。私、シャルノワールに酷い恥をかかせようと思っていたのですわ。でもきっと、それ以上のお仕置きが必要なのですわね。お金を稼ぐために多くの人を騙すのも許せなければ、何人もの権力のある人たちがそれに加担するのも許せませんもの」
それぞれが、偽りの聖水を眺めながら考える。
一体どうやったら、罪を明るみにして、王国民の目を覚ますことができるのだろうと。




