安宿に降る星
フラウリーナは、レイノルドとは僅かに距離を置いて小さくなった。
毎日一緒に眠ってはいるものの、この小さな箱のような部屋の雰囲気がそうさせるのか、それともレイノルドにこの宿の用途を先に聞いてしまったせいだろうか。
眠気はあるが、同時に緊張もしてしまう。
未だ、ひょろりと長い印象が強い痩躯のレイノルドだが、その印象は病的というよりは細身で美しい――に変わってきている。
より一層彼が男性であることを意識してしまうと、僅かな衣擦れの音や呼吸の音さえ気になった。
熱の塊が、すぐ隣にある。
「フラウ。そう緊張するな。俺まで恥ずかしくなる」
「き、緊張してなどいませんわ。私は大丈夫です。いつでも心の準備はできておりますのよ」
「こんな場所では何もしない。不衛生な安宿でお前に手を出すほどに、飢えてはいない」
そう言いながらも、レイノルドはフラウリーナの体を自分の傍へと引き寄せた。
シャツからは、洗い立てのような石鹸の香りがする。
長い癖のある黒髪が顔に触れて、フラウリーナはくすぐったさに目を伏せた。
「お前と共に来て、よかった。あんな男に負けたのかと――負けて、泣き寝入りしていたのかと、自分を情けなく思うことができたからな」
「レノ様は情けなくなんてありませんわ。いつだって素敵です」
「いや。……何年も、世を拗ねていたのだ。お前が俺の元に来なければ、俺は死をえらんでいた。死して怨霊にでもなり、この国を呪っていたかもしれない」
「……っ、それは」
「お前は、雷や嵐だけではなく、怨霊も怖いのか?」
「……お化けの類は、苦手です」
素直に怖いのだと伝えると、レイノルドは微かに笑った。
天井をなぞるように、天井に向けた長い指が動く。
光玉が踊るように跳ねて、いくつもの小さな粒にわかれて天井に散った。
狭い部屋の天上が、星空に変わってしまったようだ。
まるで、空に浮かんでいるようでもある。ベッドだけがある小さな部屋が空に浮かび上がり、星の光に包まれているような光景に、フラウリーナはみとれた。
「綺麗です、レノ様。……以前も、星をふらせてくださいました。一人であなたの研究室にいる私に。不安だろうと」
「覚えているのか?」
「もちろんです。忘れたりはしませんわ。あの頃の私は、眠るのが怖かったのです。眠ってしまったら、もう二度と目覚めないのではないかと思っておりました」
天井に散らばる小さな星を見つめながら、フラウリーナは言葉を紡ぐ。
懐かしい。誰にも伝えられなかった恐怖の思い出だ。
口にすれば、きっと両親は悲しむだろう。
どうすることもできないのだから、恐怖は胸にしまっておかなくてはと考えていた。
「けれど眠りは唐突に訪れます。私にもどうにもならないことでした。……ですから、唐突に眠りが訪れるのに、眠れないような錯覚がありました。ずっと、怖かったのです」
「何故言わなかった、フラウ」
「困らせるだけだと考えておりましたの。でも、レノ様が星を、見せてくださって。この星の中で、眠れるのなら――二度と目覚めなくても怖くないと、思いました」
「……そんな風に、考えていたとは。俺はお前を、実験のためのサンプル程度にしか、思っていなかった。泣いたり騒いだりされると面倒だと思い、星を」
「それは、嘘です。あなたは優しい方ですわ、レノ様。部屋に溢れる星々は、優しさに満ちています。こんな優しい魔法を、私は他に知りません」
フラウリーナの言葉は、いつでも確信に満ちている。
彼が何をしようが、何を言おうが、レイノルドに対する信頼は、けして揺らいだりしない。
「フラウ……」
「ん……」
覆いかぶさるように、唇が合わさる。
感情をぶつけるように、噛みつくように。
唇が合わさり、舌が触れ合う。軟体動物のような粘膜の感触に、フラウリーナは切なげに眉を寄せた。
こうしてレイノルドが触れてくることは少ない。
感情の揺らぎが少ない彼にこうして激しく求められるように口づけられると、普段との落差に眩暈がする。
絡み合う粘膜と、重なり合う体の熱が小さな部屋を満たしていく。
ベッド以外には何もない部屋は、まるで閉じ込められているかのような不安感と、この場所で全て完結しているような安心感が同時に存在している。
その奥には奇妙な淫靡さがあり、いつもよりも――レイノルドの指先が肌に触れる感覚や、口腔内を撫でられる感覚がまざまざと感じられて、フラウリーナの閉じた瞳から生理的な涙が零れた。
「ふ、ぁ……」
「……この世の果てから、連れ戻されたような気分だ。残り僅かな人生を、全てお前に捧げる。俺に、色彩を与えてくれたお前に」
フラウリーナは、イリスの姿を見てしまい、不安や痛みを感じていた。
レイノルドは何も言わなかったが、まるでそれに気づいているかのように、フラウリーナの体を強く抱きしめる。
これが棺なのなら――なんと幸せな最後だろうと、フラウリーナは思う。
幼い少女だった時に感じたものと、同じような、いや、それ以上の幸福だった。




