イリス・グリーフィス
◇
夫の機嫌が悪い。イリスは不安げに視線を彷徨わせていた。
合理的で情に流されない兄フェルラドと、顔立ちも立ち振る舞いも美しい姉を持つイリスは、これといって特徴のない目立たない姫だった。
国王となった兄とも、隣国に嫁いだ姉とも年が離れているイリスは、前王がかなりの年齢になってからうまれた。今は亡き王妃が不貞を働いたという噂もあり、城の中で息を潜めるようにして過ごしていた。
兄も姉も年が離れすぎて兄姉という感じはしなかったし、二人から疎まれているというわけではなかったが――不貞の子であるという噂を口さがない使用人たちが話すのを聞いてしまってから、なんとなく居場所のなさを感じていたのだ。
それはただの噂である。だが、イリスの髪色は父と母とも違う。
黒髪に灰色の瞳という――地味な見た目でうまれてしまったということも、自分に出自に対する疑惑に拍車をかけていた。
そんなイリスの自分の血筋に対する疑惑をといてくれたのは、レイノルドだった。
ある日の昼下がり。イリスは十五歳。そろそろ結婚の話がでる年頃だ。
だが自分のような、誰が父とも分からない女が王家の姫と偽り嫁いでもいいのかと悩み続けていた。
兄王フェルラドは暗い顔をしている女を嫌う。
父も母もすでになく、フェルラドが父がわりのようなものだった。
愛想笑いがぎこちないイリスは「お前はグリーフィスの姫だ。もっと自覚を持て」と度々フェルラドに注意をされていた。
人形のように感情を隠し笑っていることが姫の正しい在り方である。
泣き言は一人きりのときだけにしろと、フェルラドは言っている。
だからイリスはいつも、悩みが心から弾けて顔に出そうになってしまうときは、城の敷地内にある温室へと逃げ込むことにしていた。
温室は元々、植物の好きな何代か前の王妃が建てたものである。
温度管理も植物の管理も大変で、潰してしまおうかという話が幾度か出たぐらいだ。
それを止めたのはレイノルドである。薬草の研究施設にすると言って、今では希少な薬草が育てられているが、魔法による管理が徹底されているために必要以外ではあまり人がよりつかない。
温室の中はいつもあたたかい。少し熱いぐらいだ。
風が循環していて、湿度が一定に保たれている。鈴蘭のようなもの、多肉植物のようなもの、不思議な星形の実をつけた木々。
イリスは薬草については詳しくないので、植物の名前がなんなのかは知らない。
けれど静かで誰もいない密閉された空間は、とても落ち着く。
城は人が多い。回廊を歩くと誰かしらにすれ違うので息が詰まった。
皆がイリスを、不貞の子だと白い目で見ている気がするのだ。
「……私は、どうしたらいいのでしょう」
温室の奥のベンチに座って、イリスは溜息をついた。
どうするもなにも、割り切るしかない。ただの噂だと自分に言い聞かせて、姫のように振る舞い、フェルラドの言うとおりに誰かと結婚をするべきだ。
「……誰かと思えば、イリス様ではないですか。どうしてこんなところに?」
何度目かの溜息をついたとき、黒衣の男が現れた。
イリスはあまりの美しさに、声を失った。植物の中に佇むレイノルドは、さながら精霊の王のように見えたのだ。
レイノルドと親しく話したことはない。立場上挨拶をして貰うことはあるが、イリスはレイノルドを少し怖いと思っていた。顔を見ることができずに、首元ばかりを見ていたのだ。
だから声をかけられて誰かと確認するために真っ直ぐに顔を見てしまい、その美しさに驚いたというわけである。
「レイノルド様……」
「温室になど用事はないでしょう。ここには危険な植物もあります。入るべきではありません。……見張りはなにをしていたのか」
「私……姿隠しの魔法が使えるのです。お兄様に怒られるので滅多に使いません。そんな魔法は、王家の姫としては相応しくない。暗殺者の魔法だと言われて」
「そうなのですね。それはすごい。特別な力ですよ」
「あ、ありがとうございます……」
精霊に祝福されたこの地では、大抵の人々は魔力を持つ。
ほんの僅かな光を灯すことしかできない者もいれば、レイノルドのように魔力を自在に操れる者もいる。
イリスが唯一使うことができるのは、姿隠しの魔法だった。
それはイリスが消えてしまいたいと願い続けていたからかもしれない。
兄と姉に比べて自分には価値がない。二人にとって自分はいらない荷物だろう。
消えてしまいたいと考えていたら、姿を消すことができた。
そうとは知らずに魔法を使い、使用人たちがイリスを一日中探し回ったのはイリスが五歳の時である。
フェルラドには叱られた。「二度と使うな」と言われた。
姿を隠すなど暗殺者や犯罪者のすることだ。王家の姫なら堂々としていろと。
だからイリスは温室にこっそり入るときだけその魔法を使うことにしていた。
魔法を使ったと言って褒められたのははじめてである。
「イリス様は植物に興味があるのですか?」
「それは、違います。恥ずかしながら、植物のことはよく知らないのです」
「そうですか。では何故ここに?」
「……それは」
「何か悩んでおいでのようですね。もしかして、あなたが不貞の子だと言われていることをでしょうか」
何故それを知っているのかとイリスは驚いた。
けれどそれもそうかと納得する。イリスの噂は有名で、イリスの悩みを察するのはたやすい。
けれど面と向かって言われたのははじめてだった。
「……はい。私は、誰の血が流れているのかさえわからないのです。髪の色も、両親とは違いますし」
「私と同じ、黒ですね」
「はい」
「魔力が濃い場合、髪色は黒くなる場合があります。魔力染色と呼ばれていますね」
「……そうなのですか?」
「ええ。灰色の瞳は先々代の王と同じです。先代の王は、灰色の瞳に金の星が飛んでいたと。あなたも同じですよ、イリス様」
「知らなかったです……」
「姿隠しは特殊な魔法ですが、先々代の王も使用できたと聞きます。姿隠しの魔法を使い、刺客から身を守ったという話も残されていますね」
レイノルドの言葉は淀みがなく明瞭で、イリスを励ますためではなく事実を告げているという印象だった。
それ故に、嘘ではないとわかるものだ。
「これは私の知る限りの情報です。あなたの悩みはあなたの中のものだ。情報は情報でしかありません。実際私は、王妃様が誰と子を成したかなど見ていた訳ではないのでしりません。ですが、あなたが産まれたときに、国王陛下は喜ばれていたそうですよ」
「……はい。それは、知っています」
「不貞の子の疑惑を信じていれば、うまれた子を抱いて喜ぶなどできないのではないかと考えます。あとは、あなたの気持ち次第です、イリス様」
「で、でも、皆が私を、父が違うと言うのです」
「イリス様。あなたの言う皆とは誰ですか? 城には人が多い。百人人が集まれば、その中には数人、腐ったものが混じる。その数人の言葉を、あなたは皆と言うのですか」
「……それは」
レイノルドは「イリス様、そろそろお帰りください。もうここにはこないように」と、イリスを温室から追い出した。
イリスはレイノルドの言葉を信じた。自分は正当な王家の血筋だと、堂々と振る舞うようになった。
フェルラドは何も言わなかったが、姉からは手紙で「以前からあなたは私の妹だと伝えていたでしょう」と軽く叱責をされた。
イリスはレイノルドに感謝をし、度々レイノルドの元に訪れるようになった。
感謝の感情が恋心に変わっていく。
誰にでも優しいレイノルドだったが、イリスには特別優しかった。
それは仕えている王の妹だということもあったのかもしれない。
やがて、イリスとレイノルドは恋仲になった。きっかけなどは特になかったが、共に過ごす日々の中でごく自然に、思い合うようになっていた。
婚約こそしていなかったが、レイノルドから「あなたを妻にしたい」とも言われた。
それは結局、叶わなかった。王に婚約を認めて貰う前に、レイノルドは隣国と通じて謀反をおこそうとしていたという罪で追放されてしまった。
一体何が起っているのかわからなかった。政治に女は口を挟めない。イリスが城の片隅で日々を過ごしている間に起った、あっという間のできごとだった。
何かの間違いだとイリスはフェルラドに訴えたが、フェルラドは聞く耳を持たなかった。
いや、聞いてはくれたが「お前の気持ちは理解したが、どうにもならないこともある」と無情にも訴えは黙殺された。
そして、イリスはフェルラドに命じられた。シャルノワールに嫁げと。
レイノルドがいなくなり悲嘆に暮れるイリスに、シャルノワールは優しくしてくれた。
もちろんレイノルドを想っていたが、王の命令に背くわけにもいかずに、イリスは嫁いだ。
シャルノワールのことも憎からず思っていた。きっと愛せると考えていた。
けれど――こんな日は、レイノルドを思い出す。
レイノルドは感情の波が少ない人間だった。特別嬉しそうな時もなければ、特別不機嫌な時もない。
いつも研究と仕事のことばかり考えていて、他者にはあまり興味がないようだった。
それが少し寂しいときもあれば、安心するときもあった。
シャルノワールは真逆で、いつも優しいが、酷く不機嫌になるときがある。
そういう時は会話もせず黙り込んで、部屋に籠ってしまう。
不機嫌を隠そうともせずにぶつけてくるシャルノワールのことを、苦手だと思うときがある。
今だに子供もできていないのは、そのせいかもしれない。
「イリス。レイノルドが戻ってくる」
城から戻ってきたシャルノワールの全身から苛立ちが伝わってくる。
部屋に籠るのかと思いきや、出迎えたイリスにシャルノワールは開口一番にそう言った。




