【第17回】筆休みの思慮。(その2)
エッセイコラム「筆休みのぼやき」の第17回です。
今日のテーマも「印象」。
よろしくお願いします。
どうも、鍋島五尺と申します。
第17回、前回の続きです。
描いてあることは見たらわかるけど、描かれてないことは読み取らなきゃいけない。
どう読み取るかは環境次第、ってとこまでお話しましたね。
つまり、クレショフ効果は何も映像だけじゃないんです。
例えばモナ・リザを見る前に何を見ていたか。
ついさっき好きな絵を見た人、嫌いな絵を見た人。
その日の朝に、盛大にコーヒーをこぼした人。
ちょうどその日が誕生日の人。
そんな前後の出来事によって、同じ絵を見たとしても「何を読み取るか」は変わってきちゃうんです。
前後の出来事、と言っても直前直後だけじゃありません。
これまでどんな人生を歩んできたか。
これが「何を読み取るか」に大きく影響することがあります。
というか、これであらかた決まっちゃうんです。
楽観的な人生を送ってる人は楽観的に読み取る。
悲観的な人生を送ってる人は悲観的に読み取る。
でも正解はありませんから、どちらでも結構。
作品なんて解釈の幅があればあるほどいいんです。
芸術の面白さはその「印象」の多様さにあると思っています。
しかし。
とある条件が加わるとこの「印象」がきゅっと集束してしまい、多様性を失います。
それは作家による言及です。
もしダヴィンチが生き返って「モナ・リザは粗品のフリップを思い出し笑いしている」なんて言ってしまえば、他の読み取り方は全て邪道ということになります。
僕はこれがあまり好きじゃない。
受け取り方なんていくらだってあっていいんです。
僕が悲しんでいるように描写した部分をもしあなたが「この登場人物は喜んでいる」と思うのだったら、あなたの中で彼は喜んでいるんです。
そんな変化があったとしても面白いと思います。
でももし僕が「彼はこの場面で悲しんでいます」なんて言ってしまったら。
まあ面白くないことになります。
だって一通りしか解釈できないんだもん。
芸術の楽しさがなくなっちゃいます。
あ、向こうの方から文字数がやってきました。
マジでごめん、もう1回だけ持ち越します。
お付き合いを。
ということで「筆休めのぼやき」の第17回でした。
Re:明日に続く。
明日には結論を喋りますから。
本当にすみません。
もうちょっとだけお付き合いください。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
それじゃあまた明日。
鍋島五尺でした、ばいばい!