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12/22 セリフの句読点スタイルを修正しました。
今から何百年前の出来事かなど、もう分からないくらい昔の事だ。
その頃、人の言葉ではハールィチの地と呼ばれた片田舎で、身の丈を超えた野心を持てあました農夫が、二人の魔物と契約を交わした。
『ひとつ、魔物がその力を男と男の子孫に分け与える代償として、男の子孫は末代に至るまで、その寿命を分け与え続ける。
ひとつ、契約が違えられる事無く続けられる証しとして、また代を重ねるに従って弱まるであろう、魔物の力を補う術として、百五十年毎に男の家の当主は魔物と婚姻し、子を為す。
ひとつ、婚姻を結ぶ代の当主は、伴侶となる魔物を従える。
ひとつ、契約破棄の代償は、当主の死をもって支払う』
二人の魔物、すなわち一人の男の夢魔と一人の女の夢魔とこの「血の契約」を交わした男は、契約通りサキュバスを妻に迎え、ソブラスカ公爵家の始祖となった。
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そのソブラスカ家最後の姫は、いらいらと寝室を歩き回っていた。寝間着の裾が、彼女が方向転換する度に、ひらひらと床を舞う。
白大理石の暖炉では、ぱちぱちと薪がはぜている。
「あの男、どうして入って来れたの?」
パサージュのあの部屋は、ユーディトが許可を与えた人間しか行き着けない。通りがかりの人間には、エレベーター横のあの螺旋階段は、見えさえしないはずだ。
「何で眠らなかったの?おまけに記憶を消そうとしたのに、全く効かなかったわ」
「あれは記憶を操作しようとしたのか?」
美貌の夢魔の問いに、ユーディトは顔を上げた。
「そうよ。わたくし、ジーヴァほど力が無いもの。人一人殺すのは大儀だわ」
契約から千年以上の時を経て、夢魔ジルヴァーヌスは、稀に見る力の持ち主になった。もう一方の風来坊もしかり。
「殺そうとしなくて、良かったのかもしれないぞ」
寛いだ格好で寝椅子にかけていたジーヴァは、脚を組み替えた。
「どういうこと?」
「あの男、魔力が効かない体質かも知れない」
「何か知ってるの、ジーヴァ?」
遠くを見るような表情を見せた彼を、ユーディトは歩くのを止めてじっと見た。
「ごく稀にだが、魔物の影響を受けにくい人間がいる。ユーディト、お前の先祖もそんな男だったよ」
「でも、あなたと契約が結べたんでしょ?それなら、完全に効かないってわけじゃないじゃない」
「そうだな。お前の先祖の場合は、夢に惑わされないという程度のことだった」
夢魔が見せる甘美な夢は、人を惑わし言いなりにさせ、時には命を奪う。ソブラスカ家の始祖は、そんな魔力に耐性があったと言う。実際、そんな人間でなければ、魔物の血は彼の血脈に根付かなかっただろう。
だが、今日の男は違った。夢に惑わされないどころか、ユーディトもジーヴァも、彼の夢に入ることさえ出来なかったのだ。
「あの男、攻撃していたら反作用があったかもしれない」
「反作用……」
発動した魔力が、弾かれて返ってくることだ。
「そうなったらユーディト、お前は一溜まりもなかったぞ」
夢魔としてのユーディトの力は弱くはない。だが、自然現象まで操れるジーヴァとは違って、彼女の肉体はただの人間のものだ。あっさりとご臨終していただろう。
「そんな最期、笑うに笑えないわね」
乾いた笑い声を立てた彼女の頭を、ジーヴァはぽん、とたたいた。
「安心しろ。あれはただの人だ。始末する方法はあるさ」
「ありがとうジーヴァ。あなただけはわたくしの味方ね」
艶然と物騒な台詞を口にした夢魔に、ユーディトも無邪気な笑みを返した。