エピローグ
半月後。
事後処理も終わり、アドリアンは久方ぶりにパリに戻っていた。
木曜の午後三時。サンジェルマン・デ・プレの『キャフェ・サントラル』で昼から酒を飲んでいるのは、自分のようなろくでなしばかりだ。
逆光の中、ほっそりとしたシルエットが戸口に現れた時、彼は正直自分の目が信じられなかった。
ユーディトを誘い出してはみたものの、まさか本当に応じてくれるとは思っていなかったのだ。
明るい日差しの中に立つ彼女は、ただの十六才の少女に見えた。場所柄を考えてか、今日は飾りの少ない深緑の天鵞絨のドレスを着ている。その上に重ねた同色のケープの、首元のリボンが可愛い。
物珍しそうに店内を見回すと、ユーディトはアドリアンのテーブルに来た。
「お忍びは初めてですか、公女」
じろっと睨まれた。
「この場所でその呼び名はやめて頂戴」
「では、ジュディット」
「それも嫌」
「なら、ユーディトで」
彼女の夢魔たちがしているように、ドイツ語風に名を呼び替えた。
呼び捨てが気に食わないのか、ユーディトは不満そうな表情を変えなかったが、抗議を続けるのが面倒になったのだろう、それ以上は何も言われなかった。
「わたくしも同じ物を頂戴」
アドリアンの前にある、赤ワインのグラスを指して給仕に言った。
「カフェの安ワインも良いものですよ」
彼の言葉にユーディトは心底嫌そうな顔をしたが、うながされてグラスにしぶしぶ口を付ける。
「………………」
「いかがですか?」
「安っぽいわ。……でも、まあ、悪くはないですわ」
不承不承に認める。
「婚約を解消した、というのは本当ですの?」
こちらをひたと見た翡翠色の瞳に、アドリアンの口元が綻んだ。
「ええ、本当ですよ。刃物の扱いに長けた妻も悪くない、と思っていたのですが、本人に逃げられました。化け物屋敷に嫁ぐより、貧乏楽士の連れ合いになる方が遙かにマシだ、と言われてしまいましたよ」
「ほほ、甲斐性無し」
「全くですよ。正妻がいなければ側室も迎えられない。オーギュスタン家の伝統を継承できませんよ」
しょげてみせて、おもむろに彼女の手を取る。
「どちらかになっていただけませんか?」
「お断りしますわ。あなたは食えませんもの」
「残念。退屈しなくて済むのに」
「どちらがですの?」
「もちろん僕が、ですよ。夢魔のお姫さま」
「………………」
弱みをつかまれたと思っているのか、ユーディトは口をつぐんだ。それを可愛いと思う自分は、本当にろくでもない。
「今度オペラ座で『ファウスト』の公演があるのですが、ご一緒しませんか?あなたのお気に召すような題材の作品だと思いますが」
『ファウスト』は、悪魔に魂を売った男の、欲望の遍歴を描く物語だ。やがては地獄に堕ちる主人公の末路を思い出したのか、ユーディトはにこりと笑った。
「アドリアン」
「何でしょう、ユーディト」
「人ならぬ物だけが、闇を招くとは限りませんわね」
「おっしゃる通りですね」
笑顔で対峙する二人に、黄金色の小春日和の光が降り注いだ。
ここまで読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
はじめて書いたつたない作品ですが、ひとときの気分転換になれたら幸せです。
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