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ノックをしようとしたアドリアンは、ふいに扉が内側から開いて、慌てて脇にどいた。
中からは小心そうな顔つきの中年男が出て来た。焦点の定まらない目できっちりと扉を閉めると、たった今アドリアンが登ってきた螺旋階段を降りて行った。
改めてドアを叩いたアドリアンは、扉を開いたのが男性だったことを少し意外に思った。仕立ての良さそうな衣服に身を包んだ、やたらと顔の綺麗な男だ。かけている眼鏡の所為か、瞳の色はよく分からない。
「マダム・ハイデンブルートに面会に来たのだが」
なんとなく、部屋の主に出迎えられることを予想していた。助手と呼ぶには、この男の態度は堂々とし過ぎている。
「まずはおかけになってお待ち下さい」
面談室に通されて、机の前の肘掛け椅子を示された。
アドリアンが座ると、男は部屋の左手奥の扉から消えた。彼が全く足音を立てていなかったことに、今更ながら気付いた。
部屋の照明は、机の上の電灯だけだ。乳白色のガラスの傘には、翡翠色の蜻蛉の文様が浮かぶ。
薄暗くて細かい意匠までは分からないが、床のペルシャ絨毯から目の前のマホガニー製の机まで、部屋にある調度品は上質の物で揃えられている。随分と繁盛しているらしい。
美しき悪魔祓い師の噂は知人から聞いた。彼女を訪れた客は、何をしたのかされたのか、一様に言葉を濁す。いかがわしい事この上無いが、彼女のお陰で原因不明の悪夢や幻聴、幻覚がぴたりと治まった者も多いと言う。
半信半疑、いや九割方は疑いが占めていたが、それでもアドリアンは足を運ぶことにした。
座って待つこと数分。奥の扉が開き、顔を黒いヴェールで隠した黒衣の女性が現れた。
彼女は机の後ろの椅子に着席すると、両の手を組み合わせ、アドリアンをじっと見た。その一連の所作がはっとするほど優美で、彼は目を見開いた。
「今晩は、ムッシュー。まず、どうやってこちらをご存じになられたか、うかがってもよろしいでしょうか?」
随分と声が若い。少女の声、と言っても良いだろう。
「ヴァッサーマン氏から話を伺いました」
この部屋を訪れたことのある男性の名前を出した。
「それで直接、お越しになられたと?」
「ええ、手紙で説明するには少々差し支えのある話ですし、場所は分かりましたから」
本当の所は、どんな相手なのか、自分の目で確かめてから相談するか否か決めたかった。
「よく見付けられましたね」
声に怪訝そうな響きが混ざる。
「いや、簡単でしたよ」
「………………。それではご相談を伺いましょうか。そちらにどうぞ」
「寝椅子に、ですか?」
「ええ」
いきなり寝ろと促されて不審そうなアドリアンに、黒衣の婦人はさも当然と頷いた。
「目を閉じて下さい」
カウチに横たわると言われた。
(催眠術の一種か?)
ままよ、と目を閉じて大人しくしていたアドリアンは、そっと自分に触れる手に気付いた。
一呼吸置いて、「えっ?」と小さな声がした。
『どうした、ユーディト?』
今度は先ほどの派手な金髪の男の声だ。
(おや、ドイツ語だ。二人とも外国人か?)
『摂れないわ……。』
『本当か?』
二人が話しているのは、フランス語ではなく、ドイツ語だった。
アドリアンも教養として外国語は一通り学んでいたが、それほど堪能ではない。そのためか、二人の会話の内容が、今一つ理解できなかった。
『そう言うなら、ジーヴァもやってみて』
もう一つ、手が触れたような気がした。
『確かに。これはおかしいな。』
『ジーヴァもそう?』
金髪の男はジーヴァと言うのだろうか。
「あの……、そろそろ目を開けてもよろしいですか?」
遠慮がちにアドリアンが声をかけると、二人の会話がぴたりと止まった。
「うそ、起きてる……。」
起き上がって二人を見ると、まるで化け物でも見るような視線が返ってきた。
彼らの反応も疑問に思ったが、アドリアンはそれ以上に、黒衣の婦人の正体に仰天していた。
「公女ソブラスカ!?」
ヴェールを外したマダム・ハイデンブルートは、「幽霊公女」こと、ジュディット・イーヴ・ソブラスカ公女だった。