7. 解呪の対価
アドリアンは、駆け付けた使用人たちの手を借りて、暴れるバベットをシーツでぐるぐる巻きにして、なんとか拘束した。彼女の監視と介抱はロベールと女中頭に任せて、彼はユーディトたちの行方を追った。
ごうごうと吹き荒れる風の音で、彼らの居場所はすぐに判明した。二階のジュヌヴィエーヴの部屋だ。
「公女!」
手燭を手に駆け込んだアドリアンは、目の前の現実離れした光景に、凍り付いたように立ちすくんでしまった。
真っ二つに切られた絵の前に、霧をまとったような女が仁王立ちになっている。闇の中、赤く煌々と光るのは彼女の両目。
(灰色の婦人!)
突如吹き起こった風に厚地のカーテンが舞い上がり、公女の闇色の髪も自らの意思を持つようにうねうねと踊った。華奢な少女は、灰色の婦人と対峙している。
『ユーディト、彼女を甘く見るんじゃない!』
少し離れた所でジーヴァが叫んだ。
『大丈夫よ』
言い置いて、すたすたとユーディトは灰色の婦人に近付いた。
そのまま手をのばして触れようとする。
「そなたの餌食にはなりませぬ!」
かっと見開かれた彼女の目がまた赤く光った、と思うとユーディトは数歩分、吹き飛ばされていた。
『言わんこっちゃ無い。食い意地を張るから……』
『食い意地?』
彼女を受け止めたジーヴァのあきれ混じりの台詞に、アドリアンは眉根を寄せた。何ともこの場にそぐわない単語が、耳に入ってきた気がする。そろそろ、自分のドイツ語力に自信が無くなってきた。
『私にやらせろ、ユーディト』
肩を抱くジーヴァを、ユーディトは振り返った。
『いやよ! わたくし、お腹が空いているの!』
彼の手を振り払うと、再度灰色の婦人に近付く。
『リールゥ、お前なら出来るか?』
『こんなの、あなたじゃなきゃ無理よ……』
ジーヴァの問いに、リールゥは強ばった顔で首を振った。ジーヴァはもどかしそうに歯噛みする。
カツン、とユーディトが靴音を響かせて立ち止まった。
「大人しく食べられなさい」
そう言ってのばされた彼女の手が、薄青く光っているように思えて、アドリアンは目をしばたいた。
「させぬと言うておろう!」
一喝すると、灰色の婦人の目が再び赤く光った。だが今度は、ユーディトは吹き飛ばされず、彼女を巻き込むように吹き起こった旋風に、その場に縫い止められた。
「そなたを食らえば、妾の枷も外れよう」
動けない彼女に灰色の婦人が近付く。
『馬鹿っ、ユーディト、命じろ!』
ジーヴァの妙に人間くさい声が響く。
すると、それまで黙ってうつむいていたユーディトが、静かに顔を上げた。伏せられていた薄紫の瞼がゆるゆると上げられると、深紅の瞳が輝いた。
「死霊の分際で、身の程知らずな。とっととお逝き!」
ざあっ、と涼やかな風が吹き抜けると、灰色の婦人の姿はどこにも無かった。深い森の夜気を思わせる芳香が、一瞬アドリアンの鼻腔を満たした。
「ユーディト!」
ジーヴァの声に我に返ると、気を失った彼女が倒れる所だった。慌てて駆け寄って支えようとしたが、ジーヴァの方が早かった。
「さっさと寝室を用意しろ、バカ殿!」
ユーディトを抱き上げた魔物の声に、アドリアンは使用人がいる方へと走った。




