1. パサージュの悪魔祓い師
十九世紀末。
パリ、オスマン大通りの南側、パノラマ・アーケード。
色大理石のモザイクが美しい通路の両側には、華やかな商店が並ぶ。
その間を通り抜けた突き当たりのエレベーター隣、絡み合う蔦の意匠が守る金の螺旋階段を登った三階。
毛足の長い深緑色の絨毯が敷かれた暗い廊下の、数えて六番目がその扉だった。
薄笑いを浮かべた半獣神のノッカーの下には、小さい表札があった。
『ユーディト・ハイデンブルート』
ハイテンブルート。ドイツ語で「異教の血」を意味する。
「いかにもな名前だなあ……」
あきれたように笑うと、扉の前に立った青年はノッカーを握った。
「その…、夜な夜な、死んだ妻が夢に現れるのです。み、見るも恐ろしい形相で掴みかかってきて、もう生きた心地もしないのです……」
薄暗い部屋の中、陰気な声でぼそぼそと話す男には、髪を振り乱した女の死霊がべったりと貼り付いている。
(またか……)
ため息をつくと、ユーディトは言った。
「奥様の死霊が取り憑いております」
「や、やはりそうですか?」
男は青くなって辺りを見回す。彼に見えるはずがないのに。
「祓ってさし上げますので、そこに横になって下さい」
部屋の隅にある寝椅子を示す。
男が横たわると、席を立ったユーディトは側に近付いた。
「目を閉じて下さい」
男の瞼がおりていることを確認して、手をかざす。すると、薄闇の中で彼女の手が青白く発光した。男の呼吸が深い寝息になった。
「あーもう! ジーヴァ、不味そうだから代わりに食べない?」
ひっ、と声にならない声を上げて、女の霊が身をすくませた。
「そんな雑魚、私も要らん」
どこからともなく低い声が響くと、闇の中から鮮やかな金髪の男が現れた。
吸い込まれそうな濃緑色の瞳には、瞳孔が無い。通った鼻梁、形の整った唇。人と呼ぶには、彼の容姿は整いすぎていた。
「消えろ」
気だるげな表情を浮かべ、面倒くさそうに一声発する。緑柱石の瞳が、その一瞬だけ赤く光った。
ガタタ、とカーテンの向こうの窓が風に鳴ると、女の霊は消えていた。
「起きて、とっととお帰り」
ユーディトの声に、寝ていた男は夢遊病者のように起き上がると、懐から取り出した財布をそのまま置いて、部屋から出て行った。ジーヴァと呼ばれた男には気付きもしない。
「死霊は不味いから、嫌なのよねえ……」
寝椅子の手すりに座り、行儀悪く足をぶらぶらさせるユーディトに、金髪の男が笑い含みの声で返す。
「年を経たものは、そう悪くないぞ」
ジーヴァ–−-ジルヴァーヌスは強大な男の夢魔だ。人の夢の中に入り、甘美な夢を見せては精気を奪う妖魔だ。彼に力で劣る魔物も、餌食とする。
「そう?ワインと同じなのね。」
そう言ったユーディトが、何かに気付いたように顔を戸口に向けた。
「美味しそうな匂い……」
その時、トントン、と扉を叩く音がした。