3. 誘惑
翌日、昼食の時間も過ぎた頃に起き出したユーディトは、何をするというでもなく、サロンでうとうととしていた。
食事は要らないと断ったが、コーヒーを頼むとレモン・タルトも一緒に運ばれて来たので、それだけはきちんと食べた。
冷たい雨のしとしとと降る陰気な日だったが、ほどよく暖められたサロンは、うたた寝には悪くない。
昨夜リールゥが「明日はこれ着てね」と選んでいったドレスは、胸元に切り替えの入っている、楽な着心地ものだった。それでも、艶のある深藍の生地で仕立てられたドレスは、蜘蛛糸で編まれたような繊細なレースが胸元や袖口にあしらわれていて、決して地味ではない。
髪を結い上げるのは、億劫なのでやめてしまった。
どうせ日中は何もできないのだ。猫足のカウチに寝そべると、ユーディトは夢の世界に渡っていった。
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端の見えない、長い廊下を歩いていた。パリの彼女の屋敷には、こんな廊下は無かったはずだ。
カツーン、カツーン、とブーツの華奢な踵が、いやに大きな音を立てる。
廊下には一定の間隔で、扉が並んでいた。自分は最初の扉の前に立ち止まると、それを開け放った。突然、野太い中年男の話し声が流れ出した。
ああそうだ、これは魔物に取り憑かれた大学教授の夢だ。虚栄心に支配された彼の心は、闇の住人を呼び寄せた。消えない名声をと望んだ彼は、そんなものなど与えられるはずもない、平凡な魔物に寿命を投げ渡した。
ファウストになり損なった男は、夢の中でも演壇に立って弁舌を振るっていた。
男の精気は不味かったが、彼の魂を吸った魔物は中々だった。
踵を返して部屋を出ると、次の扉へと進む。カツーン、カツーン、と足音だけが妙に生々しく響く。
次の扉を開くと聞こえたのは、子供の泣き声だった。
これは流行病で子を亡くした女の夢。嘆き悲しむ母親の心の闇は、魔物の甘美な餌だ。彼女に絡みつく魔を、ユーディトは次々と食べた。子供の霊は、その中にはいなかった。
ここに並ぶのは、これまでに彼女が覗いた人々の夢だ。
次の扉は、叶わぬ想いに囚われた、若い男の夢だった。恋敵と愛する女をその手で殺し、それでも満たされない想いから闇に堕ちた。愚かなこと、とユーディトはあざ笑う。暗い彼の精気は、最後の一滴まで飲み干した。
いつしか、彼女は最後の扉の前に来ていた。何故か少しためらってから、取っ手を回す。すると口を開けたのは、底の見えないぽっかりとした虚空だった。
それが誰のものか理解した瞬間、叫び声とともに現実の目覚めが訪れた。
「悪い夢でも見たのですか?」
目の前には、少し驚いたような表情のアドリアンが立っていた。手にはショールを持っている。




