第9話 イヴイヴの雪
複雑な気持ちを抱えたまま、真由は何度目かの金曜日を迎えていた。
もう街を歩けばクリスマスソングがエンドレスに流れている。しかし真由には心浮き立つどころではなかった。
母のグループ展も昨日から始まり、なかなかの盛況ぶりだという。真由も案内DMをもらったが、母の絵と深津の絵が並んで写っているのさえ嫌で、DMさえあまり見ていない。バッグに突っ込んだままだった。
(明日はクリスマスイヴ、なんだよなあ)
早めに家を出て真由はデパートへ行った。あたたかなアンゴラのマフラーや、革の手袋。深津へのクリスマスのプレゼントを何か探そうと思い、いくつか手に取ってみるが、結局もとの棚に戻してしまう。
深津が『絵』だと知らない頃は楽しいクリスマスにしようといろいろ雑誌をよんだり、サイトをみたりしていたが、事実を知ってしまった今、クリスマスなど時の流れがわかるイベントはあえて避けた方がいいのではないかとも思う。
結局なにも買わずにデパートを出た。そのまま街を歩いていると小さな雑貨屋で小瓶に活けられたアイビーを見つけた。
(かわいー)
観葉植物なら季節を問わずいつでも緑色の葉をつけているので、いつもかわらない深津に合っていると思った。真由は早速プレゼント用に包んでもらう。透明のセロファンからみずみずしいアイビーのハート型の葉っぱが覗いている。歩くとそれが揺れ、真由はさらにその愛らしいプレゼントが気に入った。深津も気に入ってくれればいいと思う。
電車を乗り継いで深津の家に向かった。灰色の雲が低く垂れこめている。息も真っ白で、もしかしたら明日のクリスマスイヴに最近ではめずらしく雪が降るかもしれない。
手慣れた動作で鉄門扉を開け、チャイムを押して待つ。普段は深津が出迎えてくれるのだが、今日は待っても彼が出てこない。
「どこか出かけちゃったかな?」
二度ほどチャイムを押してみたが深津は出てこなかった。そっとドアを回してみると鍵が開いている。真由は勝手に上がらせてもらうことにした。
客間のソファーにしばらく腰をかけていた。深津に会ったらいつも通り普通に接しなくてはならない。変化を悟られてはいけない。真由は毎週金曜日、深津に会う前に自分に言い聞かせることを今も何度も自分に繰り返した。
突然何かが倒れる音がして、真由は驚いて立ち上がった。アトリエに深津がいるのかもしれない。他の誰かがいるなんて考えになかったし、何より聞こえてきた音が尋常でない。
気付くと真由はアトリエに走っていた。
扉を開くと初めに目に入ったのは舞っている白い画用紙だった。
床にも一面に画用紙が散らばっており、床のフローリングが見えないくらいだ。
その部屋の中心に深津はいた。座りこみ、片手を髪に突っ込んで俯いている。
「どうしたの」
彼の尋常でない姿に驚いた真由は走り寄り、深津の隣に座った。深津はただ一点を見つめ、動かない。
「描いても、描いても、いや、描けば描くほど自分が分からないんだ。前はそんなこと無かったのに」
「大丈夫、大丈夫。落ち着いて」
真由は努めて明るい声をだし、深津を抱き締める。背中も何度も撫でた。
そのまましばらく抱きしめていた。心を込めて、きゅっと。
彼が落ち着いた頃を見計らい、真由は辺りをみた。画用紙には何か描かれているが、途中まで描かれたものばかりで完成したものがない。中には描いたものの上に黒色でデタラメに幾筋もの線が引かれているものもある。
一枚一枚拾い、そろえていく。いつからこの絵を描き始めたのだろう。すべての画用紙を拾い終わるのに結構な時間がかかった。
その間も深津は部屋の真ん中で座ったままだった。
真由はそんな深津の背中を見つめ続けた。
彼の止まっていた時間が真由と出会う事で動き始めてしまったのだ。時が動いてはいけない人だったから、彼の心の中が混乱している。彼一人では解けないパズルだから、きっと彼の苦悩が取り除かれることはないだろう。
真由はそっと深津に近づき、もう一度抱き締めた。
「ちょっとの間、こうさせて、ね」
ぎゅっと背中を抱き締めると深津も抱き返してくれる。
「真由ちゃん、あったかいね」
深津はぽつりとそう言った。
(こんなに温かいのに、真由の温かさも分かってくれるのに)
どうして彼は真由と同じ世界の人ではないのだろう。
しばらくこのままでいた。離れられなかった。
(できるかしら、真由に…)
抱き締められながら何度も自分に問いただした。しかし彼を思えば思うほどやらなければならない気がする。
真由はそっと深津から離れた。
「ちょっと待ってて」
そう言って真由は客間に行き、置きっぱなしだった鞄からDMを取り出した。
手が、震える。
やっぱり、やめたい。それが本心だ。どうして好きな人といつまでも一緒にいてはいけないのだろう。別れはもうすこし先でもいいではないか。
しかし、真由のエゴだけで、これからも深津を苦しめ続けるのはもっといやだ。
真由は覚悟を決めた。
アトリエに戻った時には深津がアトリエの中心で立っていた。上を眺めている。天窓にはいつから降りだしたのだろう、雪がうっすらと積もり始めていた。
「綺麗だね、雪は好きなんだ」
真由も暫く共に眺めた。深津が好きな雪が今日、この時、降ってくれてよかった。
真由は封筒からDMを取り出す。そして深津に手渡した。
「…何?」
首を傾げながらも深津は受け取り、折られた紙を開いた。
「お母さんがね、グループ展を開いているの。これがお母さんの絵」
真由は赤色が鮮やかな絵を指さした。
「…」
深津は何も言わず、食い入るように真由の指さす絵を見ている。彼の手が微かに震え出した。
「お母さんが大学の同期の人たちと一緒にやっているんだ。N芸大時代の。それで、これが…」
真由は一度下くちびるをかんで、感情の波を押さえた。
「これが、深津祐一郎さんの絵」
「俺…の絵?」
「そう。他の誰の絵よりも素敵だわ」
真由は心からそう言った。
「真由ちゃん…」
深津は目を見開いた。だんだん悟ってきたようだ。真由の頬に温かいものが一筋流れた。
「深津さんは私のお母さんと同級生だったのよ。だけど、卒業してすぐに」
「事故で…亡くなった」
深津はそう続けた。同時に深津の体が淡く光り出した。
「もう苦しまなくていいよ、深津さん。深津さんのことは真由がずっと覚えているから」
笑おうとしているのに上手くいかない。
「真由ちゃん、ごめん、こんな役目、させて、ごめん」
光に包まれながら、深津は謝る。真由は首を横に振った。
「深津さんも真由の事、ずっと覚えているって約束して」
何度も頷いて真由をぎゅっと抱きしめた。きっと最後だろう。深津の体からは眩しさは感じるが、もう体温が感じられない。
「俺も真由ちゃんに出会えて良かったと思う」
「本当?」
どんな理由で真由に惹かれたとしても、そう言われてうれしかった。だが、もう時間がない。深津の足からすでに光の砂と化していた。
「今度は、同じ時代に生まれ変わろうね」
真由は叫んでいた。深津はもう声が発せないのか、笑って頷いた。真由が初めて彼に出会ったときから好きだった犬歯を見せて。
「深津さん…」
そう呟いた時はもう深津の光は全て消え、暗い部屋の中で一人、真由だけが立っていた。
終わったのだ。
真由は涙をこらえるのを止めた。声をあげて泣いた。
泣くというより叫びに近かったかもしれない。何度も、何度も声を上げた。