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第8話 真実

 なれない場所はやはり落ち着かない。


 真由はきょろきょろしながらN芸大のキャンパスを歩いていた。


 ここは母の母校だ。


 真由の通っている女子大もきっと共学の大学とは雰囲気が違うとは思うが、芸大の雰囲気も特殊に感じられる。


 母が卒業アルバムを探し出すのを待っていたらきっと一生かかってしまうだろう。真由は怖じ気づきそうな自分を抑え込みながら、N芸大を訪れていた。


 ここに来る前に真由は自分の大学の図書館へ立ち寄っていた。母の卒業した年は分かっている。そして深津が事故に会ったのは卒業直後といっていたから、三月か、遅くとも四月の新聞に手がかりがあるはずだと考えたのだ。


 マイクロフィルム化されたその年の新聞を真由は端から端まで丹念に調べた。四月の初めの新聞の中に小さな記事が一つ載せられていた。飲酒運転の車が歩道に乗り上げて人二人をはねた、というものだった。一人は七十八歳になるおばあさん、もう一人が深津祐一郎で二十二歳と書かれていた。


「本当だったんだ」


 母の話が裏付けされた形だ。実際記事で読むと俄然現実味が出てくる。


 深津の顔写真は載せられておらず、真由は安堵と不安が要り混じった溜息をついた。


 そしてその足でN芸大へ来たのだ。何か少しでも母の話す深津祐一郎が真由の知る深津祐一郎でない手がかりが見つかればいい。


「建物が多すぎて…どこへ行けばいいか、わからない」


 とにかく案内板を探そう、と真由はさまよい歩く。漸く見つけた建物の配置が描かれた案内版に目を通していると、背後から声をかけられた。


「もしかして、来年ここの大学受ける子?」


 振り向くと赤く染められた木綿のストールを胸元でねじねじに巻いた、いかにもマンガやドラマで出てきそうな芸術家らしい風貌の男性が立っていた。短い髪は自由に跳ね、両目はいつも楽しいことを探しているように踊っている。


「オープンキャンパスはもう終わっちゃったんだけどね~」


 真由を高校生と間違えているらしい。去年までは歴とした高校生だったので間違われてもおかしくはないとは思うが、きっと他の学生と雰囲気が違っていたので浮いて見えたのだろう。しかしせっかく声をかけてくれたのだ。利用しない手はない。


「こちらの大学の先生でいらっしゃいますか?」


「いらっしゃいますよ~」


 ちょっと変わった人みたいだ。話すと同時に体が微妙にしなる。しかし、真由は明るい彼の雰囲気に肩の力が抜けた。


「実は母がここの卒業生で」


「あ、そうなの? 何年の卒業生?」


 真由が答えると嬉しそうに眼を見開いた。


「おおおっ、僕はその三年前にここの大学を卒業したんだ~。もしかしたら、お母さんの事知っているかもしれな~い。誰?」


 こんなに学生がいるのに、しかも学年が違うのに知っているのだろうか、という疑問は浮かんだが、口にはしなかった。


「白田…じゃない、三倉由理子です」


「あら~、ユリちゃんの娘さん? そう言われると似てるな~」


 男は素っ頓狂な声を上げた。母の事を知っているらしい。


「最近活躍してるよね~。今日帰ったら三木を覚えているかってお母さんに聞いて見てよ。たぶん覚えていると思うよ。変な人だって言うかもしれないけど、そうでもないだろ?」


 この変なおじさんは三木という人らしい。


「それで、なに? 母と同じ大学を受けようって思っているの~? 是非受かってよ、僕が教えるからさあ~」


 まだ真由の事を高校生だと思っているようだ。真由は一応訂正しておいた。


「そうなの? 残念だな~。ユリちゃんの娘に手ほどきしたかった~」


 天を仰いで芝居くさく言う姿に真由は苦笑する。


「じゃあ、何しに来たの~? よかったら校内を案内するけど~」


「卒業アルバムを見に来たんです」


 突然の、すべての説明を省いた真由の言葉に三木は軽く首をかしげながらもすぐに笑顔に変えた。


「資料室にあると思う。こっちだよ~」


 真由は三木について広い校内を歩く。一人なら到底たどり着けなかったので、三木に会えたのは良かった。行きすがらお互いの自己紹介などする。三木は木版画と保存科学が専門らしい。


「これがそうじゃな~い?」


 資料室の本棚の中から三木は一冊の本を手渡してくれた。歳月のわりには綺麗な本だ。


 神妙な面持ちで真由は受け取ると、近くの椅子にすわった。


「めくらないの?」


 三木に指摘されるまで、真由はぼーっと表紙を見ていたらしい。三木が正面に座った事にさえ気づいていなかった。


「み、見ます」


 机に卒業アルバムを置くと、意を決してページをめくる。


 学園長の写真と言葉から始まり、授業風景や文化祭のスナップ写真が続く。


「あ、お母さんだ」


 若いころの母がこちらを向いて笑っている。デッサンの授業風景の一コマだった。三木が言うように真由と似ているかもしれない。真由は髪が長いが、母はショートカットだ。


 周りに知った顔、深津の顔がないか見てみたが、なかった。


(よかった)


 このままなければいい。祈るような気持ちでページをめくり続けた。一人ずつの写真と名前のページになる。真由は指で一人一人なぞって行った。


「ふかつ…ゆういちろう」


 真由の指の止まった所にそう書いてあった。


 その上には真由の知っている深津が笑顔で写っている。


「ユリちゃんじゃなくて、ユウの事を調べに来たの?」


 三木は初めて真面目な声でそう言った。真由は奥歯を噛みしめたが、間に合わなかった。


 瞳から、涙があふれてしまう。


「白田クン、とりあえず僕の研究室に行こうか」


 資料室には真由と三木だけがいる訳ではない。三木はアルバムを小脇に抱えると真由を優しく立たせた。


「あ、三木センセー、女の子泣かしちゃダメじゃないッスか」


 一度涙を流してしまうと、真由は止めることができなくなり、しゃくりあげ始めた。途中生徒に見つかり、三木はからかいを受ける。


「僕に女の子を泣かせるほどの甲斐性があると思うか~、答えよ」


「ない、ですね」


 生徒はきっぱりと答えた。


「正解だ」


 三木も大きく頷く。生徒は笑って去っていった。


「すみません…」


 真由は謝ったが、三木は肩に置いた手に力を入れただけだった。


 三木の研究室は多くの本がうず高く積まれている。本に備品が埋もれていると言った方が的確だろう。三木は無造作に本をどけると椅子を掘り出し、真由を座らせる。三木はいったん研究室から出て、戻ってきたときには手にコーヒーの入った紙コップを持っていた。


「とりあえず、飲んで落ち着いたら?」


 さし出された紙コップの温かさに、真由は再び泣き出してしまった。


 今、真由が愛し、真由の事を愛してくれている深津祐一郎は、特殊な絵の具を使って誰かが描いた絵だ。


(温もりもちゃんとあるのに)


 抱き締められた力強い感覚も、唇に触れた柔らかさも全て身体が覚えているというのに。


 一通り泣くと、少しだけ冷静になってきた。それを見極めた三木は本をずらし、机に座った。


「ユウは才能あふれるヤツだったよ。飛びぬけてね。しかも、それを鼻にもかけないし。ただ、ユウについてはね、ひとつ不思議な噂を聞いたことがある」


 三木は組んでいた腕を組み直した。


「どこかでユウがいまだに絵を描いているって言うんだ。しかし、ユウは残念ながら死んだ。僕もお葬式に参列したからね。ユウのお母さんの嘆きようといったらなかったよ。将来を有望視されていた息子を亡くしたんだから、当然だろうけど。白田クンは…ユウに会ったことがあるんじゃないの?」


 三木は真由の取り乱しようから何かを感じ取ったらしい。真由はただ黙っていた。本当は否定するべきところだったのかもしれない。


「死んだ人間がこの世に居続けるというのはフツーじゃない。この世のものでないものがこの世にいたら、秩序に逆らっているんだ、苦しんでいるに違いない」


 真由は頭に何かが過ぎるたびに苦悩の表情を見せる深津の顔を思い出した。


 たぶん深津を描いた絵師は深津の事をよく知っている人物ではないだろうか。彼の記憶から事故で亡くなった事を削るのには成功しているが、絵師の思い入れが過去の記憶を彼の中に中途半端に残し、それが彼を苦しめる。


(…すべて推測だわ)


 真由には推測以外何も分からない。


 しかしこの世のものでない深津がこの世にいることで、何か不都合が起きているのだろうか。


 深津を頼ってやってくる顧客達はみな可愛がっていた動物を亡くし、深津のお陰で再び出会う事が出来た。チワワのセレブ女性も何度も深津に感謝の意を述べていた。会長のお爺さんも再び猫に会えた時は満面の笑みで何度も猫に頬ずりしていたという。今までの顧客もそうだろう。みんな深津に感謝したはずだ。


(誰も不幸になってないじゃない)


 …誰も? 


 自分の心の声に、真由はひっかかった。初め三木を変な人だと思ったが、もしかしたらいたって正常な思考の持ち主かもしれない。


 確かに深津は苦しんでいる。


 三木は胸ポケットに手を彷徨わせ、一旦はたばこの箱を手にしたが、再び元に戻した。


「もし、もしだよ。白田クンがユウを知っているんだったら、彼を苦しみから解き放ってやって欲しい」


 彼を苦しみから解き放つ。


 それは彼に自分が絵であることを認識させることだろう。そうすれば、たぶん絵から出てきた真由のように砂になり、輝いて消えていくのだ。そして跡形も残らない。


(それじゃあ、私の心はどうなるのよ)


 すでに深津は自分の心に住み着いてしまった。再び彼のいない生活には戻れない。


 真由は俯いて、白い手に筋が浮き出るほどスカートを握りしめた。


「白田クンが出来無ければ、僕が彼の所へいってもいいよ」


「私、深津って人なんて、知りません。人違いでした、すみません」


 不自然に会話を切り上げて真由は三木の研究室から走り去った。


 N芸大を出て、校舎が見えなくなってようやく真由は走るのを止めた。


 白い息を上げつつ、葉をすっかり落とした近くの街路樹に手を付く。


(できない)


 深津をこの世から消すことなど、できない。


 しかし、家に着いてからも繰り返し思い出すのは三木の言葉だった。


『死んだ人間がこの世に居続けるというのはフツーじゃない。この世のものでないものがこの世にいたら、秩序に逆らっているんだ、苦しんでいるに違いない』


 真由は振り切るように寝返りを打つ。


(苦しんでいても、真由といればそのうち過去を振り返らなくなるんじゃない?)


 三木の言葉と都合のいい空想が交互にやってくる。


「そう、これからずっと一緒に巡る季節を過ごして…」


 …いけるわけない。


 真由の中の理性がそう言った。真由は巡る季節と共に年を重ねるが、深津は巡る季節とは切り離されて永遠の時を生きる。真由だけ年をとっていくことに深津は疑問を抱くだろう。生きている真由といる限り、遅かれ早かれ自分が人ではないと気付いてしまう。


(それより…)


 真由には気がかりな点があった。どうして深津は真由を選んだか、ということだ。


『白田さんを見ていると、昔の何かを思い出せそうなんだ…』


 そう耳元で囁かれた。昔の何か、とは母のことではないかと真由は思い始めていた。


 卒業アルバムをみて思ったが、やはり真由と若いころの母は似ていた。時が流れて由理子も年をとり、真由という娘がいることなど深津は全く知らないのだから、真由に母の面影を見つけても仕方がないのかもしれない。でも…


(お母さんの代わりだなんて、イヤだな)


 母も深津が母の事を好きじゃないかと言っていた。


 真由は枕元に座らせてあるテディーベアを布団の中に引き入れきゅっと抱き締めた。


 当時の二人がどんな時間を過ごしてきたかなど知らない。知りたくもない。誰でもない真由が深津を好きなのだ。相手にも真由自身を見てほしい。


「ねえ、どうしたらいいと思う?」


 答えるはずもないクマに真由は何度も問いかけた。


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