第7話 束の間の幸せ
モデルの仕事はなくなったが、毎週必ず金曜日は深津の家へ行くことにしている。
深津の絵の秘密は普通に暮らしていたら一生涯お目にかかれないだろう金持ち階級の中では有名らしい。口コミで広がり、順番待ちの状態だそうだ。正確にいえば深津が使う絵の具に特殊な能力があるらしいが、彼の画力があるからこそ写真と同一の物が出てくるのだ。海外からの注文も何度か受けたことがあるらしい。忙しい深津はそれでも金曜日だけは真由のために時間を空けてくれている。真由が帰るまでずっと。
あまり外へ行くのは嫌いという事は分かっているのでもっぱら家の中で話すか、絵を描いたりしている。そういうたわいのない時間が真由は好きだった。
たまに真由を即興で描いたりもする。
「ここからは真由ちゃんは出てこないから、安心して」
苦笑と共に深津は言うが、真由にとっては白田さんから真由ちゃんに格上げされたことが嬉しい。
「だって本物がここにいるから」
そう言われ、沈黙の後、そっとキスされたのは先週の事だ。
「ちょっと、私、幸せ者なんじゃない?」
真由は自室でベッドに転がりながらテディーベアに話しかける。
まだ深津の事は気恥ずかしくて友達にはもちろん、母にも話していない。現在真由のノロケを聞いてくれるのは、小学生の時に買ってもらい、今では大分くたびれてきたこの茶色のクマ一匹だけなのだ。
(でもねぇ)
彼の言う『頭の中のつかめない霞』が深津の表情を曇らせるのを真由は時折見かける。
真由を見ながらそういう表情をするのだ。
本人は自覚がないようで、声をかけると元の表情にもどる。絵を描くのに没頭して違う世界にトリップしても、こちらの世界に絶対帰ってきてくれることは知っているからいい。しかし、何かを探るように真由を見る彼は、何かを見つけたらそのままどこかへ行ってしまいそうで真由を怖がらせる。だから率先して声をかけ、真由の元へ引き戻すようにしていた。
「きっと、そのうち、そんな表情もしなくなるよね?」
再び真由はクマに話しかけた。
「真由ちゃーん、ちょっと手伝ってくれない?」
あいかわらず元気のいい母の声が聞こえる。真由は上半身を起き上がらせた。
「はーい」
真由はクマの鼻の頭を一度つついてから母の声が聞こえた方へと行く。
玄関には厳重に梱包された荷物が数個届いていた。
「今度のグループ展に参加する一人が遠く徳島にいてね、こちらに来られそうになくて絵だけ送って来たの。ここにあっても邪魔だから、お母さんの部屋に運ぶの手伝って」
大小様々な梱包を母と両端を持ち合って運ぶ。
「あ、送って来たのは絵だけじゃないみたい」
最後に一番小さな包みの送り状には製菓と書かれていた。
「あら、気が利くじゃない。さっそくいただいちゃいましょうか」
ダイニングテーブルで真由は包みを開ける。中から狸の顔が一面に描かれた箱が現れた。母曰く、徳島銘菓らしい。
「真由ちゃんは紅茶で良かったわよね」
自分にはコーヒーを入れたカップを持って母が正面に座る。
「ありがと」
お菓子の箱を母へ渡す。殻だと思っていた郵送袋を捨てようと掴むと中にまだ何か入っているのに真由は気が付いた。白い大ぶりな封筒だった。
「あ、それ、絵の写真ね」
「みてもいい?」
「いいわよ」
さっそく真由は開封してみる。中からは七枚の写真と手紙が入っていた。手紙は母に渡し、写真をめくる。パステルカラーの優しい色合いでファンタジックな絵だ。どの絵にも必ず擬人化されたライオンがいた。
「本の挿絵を主に活動している子なの。もう会場も決まったし、絵の配置を考えなくちゃいけないでしょ。絵の梱包を取っちゃうとまた会場に運ぶ時に包み直すのが面倒だから写真を送ってもらったの」
「他の人の絵もある?」
「あるわよ、写真だけだけどね。後のみんなは近場だから、実物は会場に直に持ってきてもらうことにしたの。みんなちゃんと締め切りを守ってくれたのね。守っていないのは、お母さんくらいよ」
「ダメじゃん」
笑いながら立ちあがった母は自室から箱を持ってきた。その中の写真を取り出してそろえると、真由は上から順に眺めていった。
「みんなタッチが違うね」
十人十色とはまさにこのことだ。『永久への歳月』という共通のお題があるらしいのだが、モノクロの線画でしか描かない人や日本画の様な色合いなど、人によって全く違う。
一言ずつ何かしらコメントしつつ調子よくめくっていった真由の手がぴたりと止まる。
その絵から、どうしても目が離せない。
「どうしたの?」
全く動かなくなった真由に母が不思議顔で声をかけてきた。真由はゆっくりと写真を母に見せた。
「これ…」
「あ、やっぱり目に止まっちゃう?」
母は真由の手から写真を取り、ほうーっとため息をつく。
「真由ちゃんがフリーズしちゃうのも無理ないよね。今見てもはっとするほど素敵だし」
真由の頭の中は混乱しはじめた。なぜ、その絵が母の元にあるのだろう。真由が大切にしている名刺の裏に描かれているものと同じ風景の絵が。
「今回のグループ展って、確かお母さんの大学の同期の人たちでやるんだよね」
「そうよ、今回出品する人はみんな同じ年」
真由の頭に『盗作』という言葉が浮かんだ。
あの写真は深津の絵だ。何度も彼の絵を見ているからそれは間違いない。
深津の絵は特殊ゆえにある階級に特化されて一般市場ではみられないが、お母さんの同期の誰かが偶然知ってもおかしくない。流通しない事をいいことにマネをしたのかもしれない。美大を卒業するくらいの人なら、自分では深津の様なタッチは作り出せなくても忠実にまねることは簡単だろう。
真由は腹が立ってきた。
「その絵、描いた人、どこのだれ?」
「急にどうしたの? 真由ちゃん、こわーい」
冗談めかして言ったが、母は日ごろ温厚な真由の言葉が鋭い事に驚いたようだ。
母は写真を机の上に置いた。
「この絵を描いたのは深津くんって言ってね、お母さんの同期の人」
「深津くん…?」
出て来ると思わなかった名前に真由は戸惑った。
「そうよ、同期の中では誰も叶わないくらい才能あふれる人だった、そして…」
母は急にいたずらめいた顔をする。
「お母さんは深津くんが好きだったの」
きゃー、と母はわざとらしく頬に手を当てた。そうやって茶化す時は逆に母が本気の時だと真由は知っていた。
(深津さんのお父さん、かもしれない)
年齢と絵のタッチから推測するに、たぶんそうなるだろう。子が親の影響を受けるのはおかしくない。そういえば深津から家族の事を聞いたことがなかった。あの広い家にも一人で住んでいる。
(家庭の事情ってヤツだからなあ、簡単に聞けないし)
絵から実体を取り出すことができる彼を家族は理解していないのかもしれない。
だが、母には申し訳ないが、母の失恋は真由にはありがたかった。真由は母と真由の父がいたから生まれたわけで、母が深津のお父さんと結婚していたら真由はいないし、深津にも出会えなかった。
「たぶんユウくんもお母さんのこと、好きだったと思うんだ。残念ながら確かめることはできなかったけど」
「ユウくんって呼んでたんだ」
母の青春時代の話はなんだかくすぐったい。だが、そんな気持ちもいっぺんに吹き飛んでしまった。
「深津祐一郎。だから、ユウくん」
真由は本当に心臓が止まるのではないかと思った。親子で同姓同名はあり得ないだろう。
頭の中では警報が鳴り響きだす。先を知るのがとても、怖い。
心とは裏腹に、口は勝手に言葉を発していた。
「その深津祐一郎…さんは、今は、何してる?」
母は俯いて、写真を人差し指でいとおしそうに撫ぜている。
「卒業してすぐにね、ユウくんは事故に巻き込まれて亡くなったのよ。急だったから、驚いちゃって」
急な事に驚いているのはこっちの方だわ、と真由は思う。同時に、やっぱり、と心のどこかがそう思っていた。
「その深津さんの写真とか、ないの?」
真由は最後の望みをかけて尋ねた。親子で同姓同名はおかしいが、赤の他人なら同姓同名でもおかしくは、ない。しかし母は首を横にふった。
「それが、結婚や引っ越しのごたごたでもろもろ行方不明なのよね。残念だわ。こんど本腰入れて卒業アルバムとか探してみようかしら」
真由はたまらず立ち上がった。
「ごめん、急に気分が悪くなっちゃった…」
「えっ、真由ちゃん大丈夫?」
「たぶん寝れば治ると思う」
そう言い捨てて、真由は自室へ駆け込んだ。