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第6話 真由の絵

 真由は信じられない言葉を聞いた気がした。


 金曜日、いつものように大学の授業後深津の家に来ている。深津は手にしていた絵筆を置くと満足げに一つ溜息をつき、真由に向ってこう言ったのだ。


「長い間、付き合ってくれてありがとう。明日からはもう自由の身だよ」


 初め深津が何を言っているのか分からなかった。


「絵が完成したんですか?」


 恐る恐る真由は聞いた。深津はキャンバスに白い布を掛けながら軽く頷く。


 いつかは絵も完成するだろう。それは分かっていた。


(いや、分かってなんかなかった。いつまでもこの時が続くと思ってた)


 何回もしたいと思っていたデートでさえ、まだこの間の一回きりで、次の約束は何もない。


(今回も私から言わなければいけない?)


 待っていたのだ。本当は深津から誘ってほしかった。でも、真由が深津の事を思っているようには彼は真由の事を思っていないのだろう。


 ふと昔、友達の由香の言葉を思い出した。


『ただでさえ今の男子は積極的にこないっていうご時世なのに』


 そうなら真由から言ってもいい。しかし、モデルになって欲しいと積極的に言ったのは深津の方なのだ。


(絵のモデル以外の真由には興味がないの?)


 眼の端にじんわりと温かいものがこみあげてくる。それを隠すように強く目を瞬かせると、真由は無理やり笑顔を作った。


「時々、遊びに来てもいいですか?」


 意外とすらすら口をついて出た。たまに行くくらいは許されるだろう。そう思っていたが、答えはやんわりとした否定だった。


「こんな絵ばっかり描いてる男の所に来たって楽しくないでしょ? さ、あっちの客間に移動してもらってもいいかな」


 反論しようとした真由に隙を与えないようにしているとしか思えなかった。仕方なく真由は立ち上がると深津の後に付いていく。


《さよなら、お譲さん》


 再びあの低い声を聞く。振り返るとやはり誰もおらず、部屋の中心にあるイーゼルに乗せられた、布がかかる絵が目に入っただけだった。


「深津さん」


 真由の呼び止めに先に廊下を歩き始めていた深津が戻ってきた。


「絵、見せてもらえますか? 最後に」


 最後、という言葉なんか使いたくなかった。でもこのままいけばそうなる。だから、絵を見ておきたかった。今まで一度も見たことがないのだ。真由にも見る権利はあると思う。


 しかし深津は顔を曇らせると、首を横に振った。


「ごめん。あの絵だけはみせられないんだ。本当に、ごめん」


 悲しそうな顔をされたら、それ以上強く言うことはできなかった。


 客間に移るといつものようにバイト料を渡される。いつもより多く入っていたので真由は返そうとしたが、そのまま押し切られた。同時になにか言われたが、覚えていない。


 深津の家から駅への下り坂を真由は俯きながら力いっぱい大闊歩した。悔し涙が勝手に溢れて来る。たまに指先でそれを払った。


(馬鹿みたい)


 一人で盛り上がっていたのが恥ずかしかった。でも相手に気持ちを伝えていないので、それは、きっと、無い事と同じになるのだろう。それも悔しかった。


「それに、なによ。あれだけモデルやらせといて見せられない絵、って!」


 自分の言葉に真由はぴたりと歩みを止めた。


 見せられない絵。


 真由は一つの仮説にたどり着いた。


(その考えが当たっているなら…どうして?)


 やはり今回も前回同様身を呈して調べるしか無いようだ。


 そう思ってからの四日間は本当に長い日々だった。スケジュール帳で調べた結果、次の満月まで四日もあったのだ。


 しかし当日、陽が暮れ始めると真由は落ち着かない心持ちに襲われた。


(単なる思いすごしかもしれない)  


 今まで絵から出て来たのは犬や猫だ。しかも、真由が実際に見たのは猫だけだ。その猫の注文主、会長のお爺さんは途中で作品を見に行っても見せてもらえなかったと言っていた。実は真由の仮説の根拠はその言葉だけだったのだ。深津の家へ向かう坂道で真由はだんだん気が弱くなってきた。


 十一月の終わりともなるとさすがに陽が落ちるのがはやい。等間隔の街路灯の明かりに励まされつつ真由は深津の家の門扉の前まで来た。


(ここまできたら、やるしかないでしょ)


 自分の中にまだある躊躇の心を叱りつけて真由はゆっくりと門扉の錠を横へずらしていく。鉄の棒が穴に刺さっているだけのそれは、時々きゅいきゅいと高い音を立てて真由をどきどきさせつつも簡単に開いた。


 二度目ともなるとやはり慣れるらしい。前よりはスムーズにアトリエにある窓の下まで来る事が出来た。


 前回同様人の気配は全くしない。しかし例の儀式は満月が中天にこないと始まらないのだ。真由はひたすら待った。待てば待つほど月はなかなか中天へ上がらない気がする。


 膝を抱え、寒さに耐え、じっと見ていた地面がぱっと明るくなった。


 真由はぴくりと体を震わせると空を見た。天の一番高い所に月がいた。ゆっくりと振り返り、窓から中を眺めた。


 部屋の中では深津が猫を出した時と同様に布の被せられたイーゼルを天窓の位置を確認しつつ配置している。場所が決まると掛けられていた布をさっと取り、入口付近にある電気のスイッチを切った。

窓へ向けられ、月明かりに照らし出された絵はまさしく真由だった。


 遠目から見てもそれは分かる。細部というよりきっと雰囲気が自分に近いのだろう。


 深津はキャンバスに近寄り、右手を差し伸べる。前の時と同じように、それは吸い込まれるようにキャンバスに入って行く。


 真由は桟をぎゅっと握った。


 深津の右手には細く透けた左手が握られており、引かれるまま浮かぶように真由が絵から抜けだした。


 体が揺らぐ絵の真由を深津が支える。そして深津は微笑んだ。


 真由の中で何かがはじけた。


 急いで立ち上がると真由は玄関まで駆け抜けた。幸か不幸か鍵は掛けられていない。そのまま上がり、アトリエまで真由は再び走った。頭は真っ白だ。


 急に開いた扉に、深津と絵の真由は驚いているようだ。真由は叫んでいた。


「なんで絵なんか描いたのよ!」


 そのまま真由は深津に詰め寄る。


「本物がずっとそばに居たいって思っているのに、絵なんか描いて」


 真由も自分が何を言い出すのか予測ができない。


「…何?」


 そう訊ねて深津を見上げる絵の真由の姿がさらに真由の心を逆なでする。


「離れなさいよ。あんたなんか所詮絵なんだから、消えちゃえ!」


 真由は絵の真由の腕を掴むと深津から引き離した。絵の真由は信じられない顔をする。


「私が、絵?」 


「そうよ」


 真由が頷くと絵の真由は深津にすがる瞳を見せた。何も言わない深津に絵の真由は窓を見て、少しの悲鳴と同時に絵の真由の足からキラキラした砂に変わって行く。


「えっ…」


 戸惑う真由をよそに絵の真由は足から輝きつつ消えていく。真由の掴んでいた相手の腕も砂と化し、真由の手のひらで少しの間輝いてから消えていった。


 アトリエには再び真由と深津の二人となる。相変わらず天窓からは月の光がベールのように差し込み、同時に沈黙も降りる。真由は深津に背を向けた。


 しばらくしてから真由はぽつりと呟いた。


「どうして消えちゃったんですか? 私が消えろって言ったから?」


「いや、本人に会って、自分が絵だと気付いたからだよ」


 深津は窓を指さした。深津と真由がぼんやりと映っている。暗い室内で、窓ガラスが鏡の役割を果たしていた。絵の真由は自分が真由とそっくりなのを知って消えていったのだろう。


「犬や猫なら気づかないからね、上手くいくんだ。大体ここに来る人は死んだペットの写真を持ってくるから、本物に出会う確率なんてゼロなんだろうけど」


 深津は軽く笑った。


「写真でいいんだ。じゃあ、生身の人は…初めて?」


「そうだね。生死にかかわらず人物は今までずっと断ってきたから」


 真由は振り返ると深津に向き合った。


「私じゃなくて、絵の方が良かったのは何故ですか? 絵だとずっと若いままでいるから?」


「そういうふうに思ったことは一度もない、というか…」


 深津は少し言いよどんだ。


「初めから何故か絵を描かなくては、って思いこんでいた。白田さんがずっとそばに居たいと思ってくれているなんて全く思いもよらなかった」


 真由は急に頬が上気するのを感じた。どさくさにまぎれてそんなことも言った気がする。


 でも、それは事実だ。きっとこの人ははっきり言わないと分からないのだろう。


「私は深津さんのそばに、います」


「怖くないの? あんな絵を描く俺は」


 深津の少し枯れた声が真由には好感が持てた。笑顔で首を横に振る。初めて猫を絵から取り出したのを見た時でさえ、驚いたが、怖いとは全く思わなかった。


 そっと一歩近づき、深津は壊れ物に触れるように真由を抱き寄せた。


 はっと一度は体を固くした真由だが、すぐに体を預けた。


 初めて会った時と同じく油彩の香りが微かにした。真由にとってはどんな香水よりも好きな香りとなった。


「白田さんを見ていると、昔の何かを思い出せそうなんだ…」


 耳元で深津は囁いた。


「何か?」


「そう。大切な、何か。でも、頭の中で霞のようにあって、つかめない」


 真由は深津を見上げた。彼の瞳は真由を映しながら苦痛にゆがんでいた。


《余計な事はしない方が賢明だぞ》


 いつもこの場所で聞こえる低い声。いつもと違い、少し不機嫌に聞こえた。しかし、今はよく分からない声の心配より、深津の苦悩を取り除いてあげたかった。


「これから一緒にそれを見つけていこう?」


 そう言ったものの、真由はその『何か』を見つけるのが怖い気がした。予感か不安か、深津がどこかへ行ってしまいそうな気がした。あの変な声を聞いたからかもしれない。


 ようやく深津は犬歯をちらりとのぞかせた。微笑んでくれたのだ。真由はそれだけで心が満たされる。


 深津はもう一度、今度は強く、真由を抱き締めた。


 彼の温もり、彼の香り。先ほどより強く感じる。


(私、幸せ慣れしてなさずぎなのかも)


 天窓から月が見守る中、確かめるように真由もきゅっと深津を抱き締めた。


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