第5話 初めてのデート
真由は高鳴る胸を抑え、二、三度深呼吸をした。
(犯罪だよね。不法侵入って)
東の空には丸い月が顔を出している。真っ赤な満月だった。
何かが起きる。そんな気がする。でも、起きなければそれはそれでいい。
ただ想像であれこれ考えるより、見た方が早いし納得する。そう思った真由は迷った挙句、水曜日の夜に深津の家に来ていた。
もう何度も来ているので勝手知っている庭だが、暗いとやはり歩きにくい。不気味に光る月明かりでも無いよりは有り難かった。
落ち葉で足音を立てないようにゆっくり進み、屋敷の北側に回り込む。そこには北向きの優しい自然光が入る深津のアトリエがある。
何かが起こるとしたらそこしか考えられない。
真由は腰をかがめながらアトリエの窓下へたどり着くことが出来た。だが、電気はついておらず、屋敷からは物音ひとつしない。
(馬鹿みたい)
防寒対策にダウンジャケットを着込み、使い捨てカイロを握って暫く窓の下に座っていた真由はそう思った。座り続けたお尻から冷たさがのぼって来る。血の様に赤かった月も今では空の一番高い所で見慣れた満月に変わっていた。
安堵のため息をつくと同時に辺りがぱっと明るくなる。真由はびくっと体を震わせた。
アトリエの室内灯がついたようだ。
真由はそっと立ち上がるとこっそり中をのぞく。アトリエには深津が一人、部屋の淵に置いてあったキャンバスを部屋の中心に置かれている茶色のイーゼルに載せた。
キャンバスにはまだ白い布が被せられたままだった。
(もちろん、絵を描くんだよね)
そう言い聞かせている自分に気づいた。目は深津から離せない。ふと彼は見上げた。部屋にある天窓をみたようだ。イーゼルの位置を調節し、深津はキャンバスにかけられた白い布を取る。そして入口にある電気のスイッチを切った。
この暗さでは絵は描けないだろう。天窓から入る月明かりにぼうっと照らされたキャンバスはそれ自体が浮かび上がって見えた。はっきりとは見えないが、キャンバスには猫の絵が描かれているようだ。
まるで儀式のような雰囲気に真由の心臓は脈を速く打ちだした。
深津はゆっくりと部屋の中心へ歩み寄る。彼はキャンバスへと手を伸ばした。
真由は目を疑った。深津の手はキャンバスに吸い込まれるように入って行く。そして、引き戻した彼の手には生きた猫が掴まれていた。茶グレーでトラの縞があり、ふさふさ毛の長毛種だった。
(あれが、ノルウェー・ジャン・なんちゃらキャット?)
よく名前は覚えていないが、会長のお爺さんが言っていた猫の名前だ。
深津は猫を慣れた手つきで抱きなおすと、猫の頭をなでながらそのままアトリエから出て行った。
(私は、何をみたのだろう?)
すぐには分からなかった。絵から猫が出て来たのだ。夢ではない、この目でしっかり見たのだ。
そういえば昔、深津が自分の描く絵は特殊だと言っていた。
「特殊どころの騒ぎじゃないじゃん」
しばらく真由はその場を動くことができなかった。
それから三日後、約束の土曜日。
もちろんバイトは仮病で休み、深津の家へ出かけた。昨日もモデルのバイトで深津の家へ行ったが、水曜日の夜の事は何も聞くことができなかった。
(不法侵入で覗いたのだから、聞くことなんて最初から出来ないんだけどね)
しかし不思議と真由は深津を怖いとは思わなかった。今も聞いたこともない色名の絵具がいっぱい並ぶ狭い画材屋の中を深津の後ろをついて歩いている。ここの画材屋も深津の家からほど近い。彼は近場しか行動しないようだ。しかしどこであろうと二人で出掛けるのは真由にはとても楽しい。
「白田さんは絵を描かないの?」
振り向きざま聞かれ、真由は危うく深津にぶつかりそうになる。苦笑を浮かべつつ真由は深津を見上げた。
「今は全然描きません」
「でも、画材に興味はあるんだ」
「昔は絵を描くのが好きでした。でも、だんだん機会が無くなっちゃって。大学じゃ美術の授業なんてないし」
本当に絵を描くのは好きだった。しかし、母がイラストレーターだとその血を引く真由も絵は上手く描けて当然という目で見られるのが嫌だったのだ。絵を描くのをやめた理由の大部分はそれだと思う。
「残念だね」
深津はそう言って軽く肩を竦めた。
どこに何の画材があるのか知り尽くしているようで、深津は迷いなく自分の欲しい画材を選んでいく。真由が考えていた以上に買い物は早く済んでしまった。
(つまんないな~)
そう思っていると深津から嬉しい誘いがかかった。
「これから時間があるなら、付き合ってほしいところがあるんだけど」
もちろん行くに決まっているじゃないですか。
真由は二つ返事で深津の後に付いて行った。彼は画材屋を出ると坂道を登りだす。丘を切り崩して造られた住宅街は見晴らしはいいが、坂道が付いて回る。真由が軽く息を切らし始めたころ、ようやく深津の足が止まった。
丘の頂上に作られた公園には誰もいなかった。沢山の紅葉が植えられており、所々植えられた針葉樹と相まってさらに紅色が際立って見えた。
「よく、ここの公園にはくるんですか?」
「いや。ふと思いついたから」
「こんなところにも紅葉の名所があるなんて、知らなかった」
真由は期せずして広がった光景に目を見張った。しばらく公園内を歩き、先に木の元で座っていた深津の所に戻る。
「はい」
笑顔と共に深津から手渡されたのは一冊のスケッチブックだった。真新しく、値段が付いたままだった。先程の画材屋でたぶん買ったものだろう。
「昔は絵を描いていたんでしょ? 久しぶりに描いてみたら」
「無理です!」
真由は慌てて断った。
「大丈夫だって」
深津も絵を描いていたらしく、そのまま自分のスケッチブックにむかった。
絵のうまい人の前で描くのには抵抗があったが、深津に絵を教えてもらえるチャンスかもしれない。そう思い直し、真由は黄色と黒の表紙をめくると深津の隣に座った。
「好きなの使っていいから」
濃さの違う鉛筆、パステル、カラーのペンが置かれている。真由は少し迷ってから使い慣れている鉛筆を手に取った。普段から筆圧が高い真由はHの濃さにした。道具は選んだものの、今度は何を描くか迷ってしまう。
「すぐに決めなくていいよ。ちゃんと周りと向き合って、心に響いてきたコを描いてあげて」
深津にそう言われ、しばらく周りを見回したのち、真由は近くの紅葉の若木を選んだ。まだ小さな木だというのに一人前に紅い葉をつけているのが可愛かった。
「よろしくね」
小さな葉っぱに少しふれてから真由は写生を始める。絵を描くのが久しぶりであれば、野外で絵を描くなんて、もしかしたら小学生ぶりかもしれない。
「意外に優しい絵を描くんだね」
夢中になって描いていたので隣に深津が来ていた事に気付かなかった。下書きは終わり、色鉛筆での色つけもほぼ終わりかけていた。
「意外、って私、どんな絵を描きそう?」
真由の問いに、そうだなあ、といって深津は少し考えるしぐさをした。
「目を引くような赤を効果的に使って元気よく描きそう」
それは母の絵だ、と真由は咄嗟に思った。華やかで人目を引く赤を上手く使う母の絵。
深津は母の事を知っているのだろうか。真由からは一度も話したことはない。偶に雑誌などメディアに出ているので知っていても可笑しくないとは思ったが、母は白田由理子ではなく旧姓の三倉由理子で世に出ているので、顔が似ていたとしてもすぐには結びつかないと思う。それに、深津の家には不思議なくらい外部とのつながりがないのだ。テレビもなければラジオもなく、今どき携帯電話も彼は持っていない。そこが少し浮世離れした印象を彼から受ける要因だとも思っていた。
「…いや」
深津はもう一度真由の絵を見た。
「やっぱり、この優しい色使いの方が、白田さんらしい。なんでそう思ったのかな」
何故か深津の表情に寂しさを見つけた真由は咄嗟に話題転換を図った。
「深津さんはもう描きあがったんですか?」
「もうすぐ。ちょっと敵情視察に来ただけ」
戻った笑顔に真由は安心した。
「私は終わったから、今度は深津さんの絵を描くところを見てもいいですか」
「いいよ」
モデルとして描かれている絵は一度も見せてくれないので、真由はあっさりと快諾した深津の答えに少し驚いた。しかし見せてくれるのだ。真由は先に元の位置に戻った深津の隣に、心持ち近めに、座った。
深津は高台から眼下に広がる街の風景を描いていた。見た目は同じだが、深津の手にかかると無機質でそれぞれに協調性のない建物も優しく調和のある景色に変わる。
「絵を描くって、深津さんにとってどういうことですか?」
水彩で手慣れた風に色を置いていく深津に真由は尋ねた。
「絵を描いている時は深く考えなくても自分が自分だと思える。逆に絵を描いていないと時々分からなくなるんだ、自分が。だから、いつも絵ばっかり描いている」
アイデンティティーの確認、というやつだろうか。母も絵は自己表現の最たるものと言っているが、それより深津の言葉は重く深く感じられる。
そのまま深津は自分の絵に没頭してしまった。隣にいる真由の存在も感じていないようだ。その変わり、真由は深津の横顔を遠慮なく見ることができた。でも…
(なんか、寂しいな)
ふと、父の顔が浮かんだ。
父のいたころはまだ有名なイラストレーターではなかった母だが、絵は描いていた。母も父の存在が消えてしまうくらい没頭して絵を描いていたのかもしれない。それで父も今の真由と同じ思いをしたのかもしれない。
(って、お父さんが絶対浮気したとは限らないし)
父が亡くなった今ではもう真意を尋ねることはできない。ならば真由の心持ち一つで決めてしまってもいいのではないだろうか。
「誰がなんと言おうと真由はお父さんを信じるよ」
小声で呟いてみた。思った以上に心が軽くなった気がした。
「ごめん、放置しちゃった?」
真由の独り言に反応したのか、笑顔と共に深津がこちらの世界にもどってきた。
(どれだけ放置されても、この笑顔と共に真由の元へ必ず帰ってきてくれたら、それで十分)
自分もいつも深津を笑顔で迎えてあげたい。そうなりたいと真由は強く思う。実行するべく真由も、きっと今までの人生の中で一番優しいだろう微笑みを浮かべた。
「もう完成ですか?」
「まだだけど、さすがに夕暮で寒くなってきたから。白田さんに風邪をひかせるわけにはいかないし」
全然寒くはなかったけど、深津が気を使ってくれるのは、嬉しい。
気づけば西の空がほんのりオレンジ色になっている。その中で大きな金色の星がひときわ輝いていた。
深津の片づけを手伝いながら、真由はこっそり星に祈った。
これからも、今日のようなデートが何回もできますように。