第3話 画家の家
真由は再び古本屋の前に立っていた。
金子國義の画集を買った場所であり、例の男と出会った場所。ネットで名刺の住所を調べた時に男の家がこの古本屋のとても近くだということが分かった。この古本屋は彼の行動範囲内なのだろう。彼に会うことを恐れて古本屋内に足を踏み入れることなく通過した。
ふとカーブミラーに映った自分の姿が目にはいり、真由は気恥ずかしくなる。
男に会うつもりはないと思っているのに、選んだ服は真由が一番お気に入りのワンピースだったのだ。しかし、今更ここで脱ぐ訳にもいかず、気を取り直して家を探し始めた。
「ここ、なんだ」
プリントアウトした地図の指す場所には欝蒼と生える木々があり、その奥にどっしりとした一軒家が建っていた。敷地も広そうだ。真由は垣根の間から中を眺めた。
予想外の建物だった。黒髪犬歯男は見た目に若く真由よりせいぜい二、三歳年上位だろう。真由の中に若い画家=貧乏という思い込みがあり、かってにアパートに住んでいるものだと漠然と考えていた。しかしここは高級住宅街の真ん中、ボロいアパートがある方がおかしい。
「じゃあ、金持ちの息子なのかもしれない」
他の位置から家を眺めようと思った時、背後からエンジン音か聞こえ、止まった。振り返ると、それは一台の白い自動車で、門扉の前に横付けされた。運転席から一人の中年の女性が降り、黒髪犬歯男の敷地内へと入って行く。
「綺麗な女性…」
離れたところから見た真由にもそれは分かった。透け感のある白のブラウスに黒い細身のパンツが彼女のスラリとした体形を際立たせている。セレブという言葉が似合う女性だった。近づいたらきっとDTFの匂いがすると思う。車はベンツでS600と書かれていた。よく分からないが、高そうだ。
女性が家の中に入って行ったことに少しがっかりしている自分を認めざるを得なかった。あの女性も絵のモデルなのだろうか。勝手に自分だけが選ばれた気がしていたのだが、いろんな人に声をかけているのかもしれない。
「男だからね、仕方がないか」
分かり顔でそう呟いてみたものの、脳は全く理解することを拒否していた。それを認めれば父もやはり真由や母を裏切って浮気した可能性が高くなってしまう。母は浮気と決めつけているが、真由は父から直接聞いたわけではないので半信半疑、でも信じたいと言ったところだ。
急に虚しくなった真由は帰ろうとしたが、再び人の気配を感じて垣根の木に埋もれて隠れた。枝が肌に刺さって痛いが我慢だ。
先ほど入って行ったセレブ女性が出てきた。行きとは違い、帰りは彼女の腕に真っ白なロングコートチワワが抱かれていた。
「本当に、ありがとうございました」
セレブはしきりに感謝の意を何度も述べている。誰にいっているのか、木陰に埋もれている真由からは見えない。
ベンツが走り去った後も真由は木の中に埋もれていた。こんなに短期間で出てくるということは、モデルではないかもしれない。
「うちの垣根、気にいった?」
突然声をかけられ、真由は咄嗟に姿勢を正した。目の前には例の黒髪犬歯男が立っている。
古本屋の時も思ったが、この男には気配というものが感じられない。いつも声を掛けられてから気付いて、驚かされるのだ。そして、また軽く油彩の香りがした。
「拳、下してくれる? 俺、平和主義者だから」
両手を軽く挙げて苦笑しながら男はそう言った。真由は知らないうちに空手の型を取っていた。実際は空手など習った事はないので、見よう見まねの型だが。
「す、すみません」
真由は頬を赤らめながら両手を下した。同時に男も両手を下ろす。
「もう来てくれないかと思っていたけど、良かった。来てくれてありがとう」
そして、真由には禁じ手の犬歯の見える笑顔で笑った。
もう家を見に来ただけ、とは言えなくなってしまった。男の素直な笑顔に、照れる。照れた時の真由の癖で髪に手を触れると葉っぱがついていた。慌てて真由は他に葉っぱが付いていないか確かめ、服の汚れを払った。
「もうついてないみたいですよ。じゃあ、どうぞ」
「すみません」
さっきから何故か謝ってばかりだ。真由は勧められるまま男の後を付いていく。濃淡の黒い飛び石が交互に配置される間には柔らかな緑の苔が生えていた。それを眺めながら真由はお気に入りのワンピースを着てきて良かったとぼんやり思った。
恐る恐る入った玄関内はレトロ調で大正・昭和初期の和風洋館の趣があり、映画のセットにも使えそうだ。
「あのっ、モデルって事でしたよね?」
真由は入口で立ち止まると先に靴を脱いで上がった男へ声をかけた。上がり込んでしまう前に聞いておかなければならない事がある。
「そうだよ」
「どういうモデルですか?」
「どういう? 絵のモデルだけど?」
「…脱いだりしないです、よ」
思い切って言ってみた。実は真由にとって最大の心配事の一つでもあったのだ。
男は一瞬きょとんとしたが、すぐに肩をすくめた。
「それは残念だな。…って引かない、引かない」
身を固くした真由に男は苦笑で答えた。
「そんなのは求めてないよ。ただ、目の前にいてくれればいいんだ」
変な物の言い方だと真由は思ったが、当初の不安はとりあえず拭えたことに安堵した。
通されたのは客間で、ここも年代を感じさせる壁紙、じゅうたん、ソファー、マントルピースがある。古いが物が良いものなのだろう、テーブルも光沢のある飴色で深みのある良い味が出ていた。紅茶を出すと男は目の前の椅子に腰かけた。
「そういえばまだ名前を聞いてないね」
そう、相手はまだ自分の名前さえ知らないのだ。
少し冷静さを取り戻した真由は、殆ど知らない男の家に上がり込んでしまった自分の今までにない無謀さに戸惑いを感じ始めた。
「し、白田真由、です」
偽名でも名乗ろうかと思ったが、結局正直に言った。
「白田さんね。でも。本当によく来てくれたよ。どうして来てくれる気になったの? ま、頼んだ俺が聞くのもおかしな話だけどさ。我ながら唐突だったな、って思っていたから」
真由は今では大事に定期入れにしまってある名刺を取りだし、相手に見せた。
「深津さんの名刺の裏の絵が…そうさせたんです」
「それは、一番の褒め言葉かもしれない」
本当に深津は嬉しそうに笑った。絵が認められるのはきっと画家にとって大きな喜びなのだろう。事実を言ったのだが、喜んでもらえて真由も何故か嬉しくなる。
「じゃあ、さっそく白田さんを描いてもいいかな」
ここの部屋では描かないらしい。深津に付いて廊下に出る。通路の壁には沢山の絵が飾られていた。
「この絵はみんな深津さんが描かれたんですか?」
「みんなではないよ。前にここに住んでいた人の絵も掛けられているし」
前に住んでいた人の絵をそのまま掛けている? 真由は疑問に思ったが、まだ突っ込んで聞ける間柄でもないので、質問を飲みこんだ。
連れられた部屋は北向きの自然光が入るよう設計されており、ここが彼のアトリエらしく、多くのキャンバスや絵の具が置かれている。
「そこのソファーに楽に腰掛けて。今日来るって分かっていたら、お菓子くらい用意できたのに、何もなくてごめんね」
イーゼルを運びながら深津は謝ったが、どちらかというと連絡もなくいきなりやってきた真由の方が失礼にあたるのではないかと思った。
「じゃあ、描くね」
準備が整い、そのまま描き始めようとする深津に真由は思わず声をかけた。
「何か、ないんですか?」
「何かって?」
「ポーズ、とか」
真由はモデルなど一度もやった事がないので想像の域を出ないのだが、普通画家はモデルにポーズの注文をつけるものではないのだろうか。しかし深津は首を振った。
「特にいらない」
そういって再びキャンバスに向かいだす。柔和だった顔が一転、真面目な顔に変わる。その変化に、真由はこれ以上深津に問いかけることが出来なくなった。
(どうしたらいいんだろう)
何もしないというのも苦痛だ。しかし動かない方がいいだろうと判断し、真正面に座ったまま固まった。他に見る物もないので、深津祐一郎をこっそり観察してみた。
真由の好きなちょっと童顔の顔立ち。黒髪。それを偶にかきあげる何気ないしぐさは真由だけならず、多くの女性のツボには嵌まるのではないだろうか。しかも何かに一心不乱に取り組む姿も好感が持てる。
(ん〜、なんかずるいなあ)
そう考えていると、こちらを見た深津と目が合う。真由は慌てて軽く目を伏せた。
「別に動いてもかまわないよ。それに黙っているもの気づまりなら、何か質問を、あるならどうぞ。受け付けます」
質問、受け付け開始ですか。
聞きたい事はいっぱいあるような気はするが、何から聞いていいかが分からない。とりあえず思いついた事から尋ねてみた。
「名刺の裏の絵ってどこかの景色なんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「過去に見たことのある景色だと思うけれど、思い出せないんだ」
「記憶だけで描いたんですか?」
「そうだね。たまにふっと思い出した景色とか描いたりするよ」
真由は何か見ないと絵が描けないので画家というのは頭の構造が違うのかもしれない。
「さっきの綺麗な女性も、モデルさんなんですか?」
「さっき訪ねてきた人? 違うよ、お客さんの一人。頼まれていた作品を渡したんだ」
深津はこちらとキャンバスに視線を行き交せながら答えた。
犬を抱いていたのは覚えているが、絵を持っていたのまでは気がつかなかった。
「需要があるんですね」
悪い意味で言ったわけではなかったのだが、取りようによっては相手に誤解を与えたのではないかと真由は内心舌打ちをした。深津は気にすることもなく、それどころか悪戯っぽく瞳を揺らめかせた。
「おかげさまで、絵だけで食べていける程度には稼いでます」
「…すみません」
「いーえ。ご心配ありがとう」
深津は手を胸に当て、優雅に軽くお辞儀をして答えた。
確かにあれだけの絵が描ければ欲しがる人は多いのだろう。小さくても直筆の絵を手に入れたのはラッキーだったかもしれない。しかも、その画家に絵を描いてもらっているのだ。
真由は思い切ってここに来て良かったと思い始めた。
絵を描き始めてから一時間ほどして、深津の腕が止まった。
「今日は初日だし、ここまでにしようか。で、いい忘れたんだけど」
深津は描いていたキャンバスに白い布を被せるとこちらへやってきた。
「一日じゃさすがに絵は完成しないんだ。白田さんが来られる時でいいから、しばらく通ってくれないかな」
「わかりました。金曜日の授業後なら来られます」
真由は考えるより先に即答していた。深津はまた犬歯を見せて微笑む。
「よかった。じゃあ、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願います」
真由は慌てて頭を下げた。
「さっきの客間に移動してもらってもいいかな。お茶出すよ」
先に歩き出そうとする深津を真由は呼びとめた。
「あの、よければ今描いた絵を見せてもらってもいいですか?」
自分がどのように描かれたか興味がある。しかし深津は視線を落とした後、首を振った。
「ごめん、絵は見せられないんだ」
描き途中の絵は見せたくないのだろうか。無理強いもできない雰囲気だったので、それ以上何も言えなかった。
深津について部屋を出ようとすると、真由の耳に低い男の声が聞こえた。
《生身の人間とは…珍しい》
確かにそう聞こえた。真由は思わず振り向きアトリエ内を見まわしたが、誰もいない。
「どうしたの?」
先に廊下に出ていた深津が戻ってきた。
「誰かの声が聞こえたから…」
「たぶん、それはないよ。俺、ひとり暮らしだし。さあ、いこうか」
そくされるまま真由は廊下にでる。声は空耳だったかもしれないが、この広い屋敷に深津が一人で住んでいることに驚いた。アトリエのドアに鍵を掛けている深津に聞こうと思ったが、プライベートな事情があるかもしれないと思い、やめた。
「さっきはアッサムだったけど、今度はダージリンね」
客間で座っていると深津は再び紅茶を出してくれた。コーヒーは無いと言う。深津は紅茶が好きなようだ。同時に真由は封筒を渡された。
「なんですか?」
「どうぞ、お納め下さい。今日一回分のバイト料です」
中を見ると五千円札が一枚入っていた。
「貰い過ぎです。一時間しかやってないし!」
しかもただ座っていただけだ。真由が差し出す封筒を深津は押し返した。
「時間を拘束しているしね。それに…」
深津はいたずらめいた顔をする。
「さっきの女性のお客から幾らもらったと思う?」
真由はさっぱり見当がつかない。母の絵がいくらで売れているのかも真由は知らないのだが、多くて数十万くらいだろうか。
深津は真由に耳打ちした。
「ええっ、そんなに?」
真由が思っていたより一桁多かった。ちょっとした高級車が一台は買える。
(セレブ女性はそんなに大きな絵を持っていたようには見えなかったけど)
真由のリアクションに深津は声を立てて笑った。
「俺の絵はね、少々特殊なんだ。だから心配せずにそのお金は受け取ってください。その代わり毎週金曜日にはここへ来ること、ね」
黙って真由は頷いた。
ここに毎週金曜日、割りのいいバイトが発生した。