第2話 時の流れ
「きーてんの? 真由?」
友達の声に、真由は自分がぼーっとしていたことに初めて気づいた。白を基調とした天井の高いテラスから柔らかに降り注ぐ光が気持ち良かったのだ。
友人3人の視線がみな真由の顔に注がれていた。一週間前から再び大学が始まり、今日の三時限目が休講だったため、学食で同じ学科の仲が良い友達と時間を潰していた。
「再来週の金曜日だからね」
「何が?」
真由の気の抜けた返事に友人の一人、早瀬由香は溜息をついた。
「再来週の、金曜日に、N大の方々と、ゴーコンをします。もちろん参加、ですよね?」
まるで耳の遠い老人に話しかけるような口ぶりで真由の聞き逃した内容を話す。真由は即首をふった。
「N大って賢い人ばかりじゃん。私は…」
いかない、と言おうとした矢先、正面に座る田中美奈が机を一つ叩く。
「はい、真由の躊躇グゼ、一丁はいりました〜」
そう言われるのも無理はない。もう今年にはいって誘われた五回、全て断っているのだ。由香は顔を寄せて来ると小声で囁いた。
「もしかして、男ぎらい、とか?」
「嫌いじゃないけど…」
「別に女好きでも友達はやめないから、カミングアウトしてくれてもいいよ。あ、私はお相手できないけど」
「違うって」
真由は苦笑する。そういう恋愛も否定はしないが、自分はそうではない。むしろ、実は男に生まれ変わっても男を愛する自信が何故かあるのだ。右隣に座っていた後藤咲は優しく真由の腕にふれた。
「わらしべ長者、って話よ」
「民話…の?」
話の流れが読めない真由に咲は妖艶と微笑んだ。
「そう、貧乏な男が手にした一本のわらが最後には立派な家になるの。どうして藁から家に変わったと思う? 色んな人と出会ったからよ。真由もいつまでもそんなんじゃ、出会いなんて、皆無よ」
「皆無だね」
「皆無だわ」
他の二人も顔を見合わせて言う。冗談めかせず真面目な顔をして言うのが更に嫌だった。
「コンパだけが出会いの場じゃないじゃん」
言い返す真由に由香は背もたれに体を預けた。
「まーね。でも、残念ながらここは女子大だから、他の人より出会いが少ないのは確かよ。ただでさえ今の男子は草ばっか食って、積極的にこないっていうご時世なのに」
「男子が来ないのはご時世か由香のせいかは分からないけどね」
ほんわかした声で咲に毒吐かれ、由香はそのまま咲とバトルトークに突入した。いつもの事なので真由も気にしない。なんだかんだ言いあって仲を深める二人なのだ。美奈も面白がって二人の様子を見ている。
(最近の男の子は積極的じゃないんだね。ま、本人の性格にもよると思うけど)
そして真由は最近出会った積極的な一人の男を思い出した。
深津祐一郎。
(黒髪犬歯男…)
真由にモデルになってくれと言った。これもある意味出会いといえば出会いの部類に入るのではないだろうか。話せば多分、いや絶対笑われるだろうが、ネタにはなるだろう。
繁華街ならキャッチセールスだった、で話は終わってしまうのだろうが、住宅街の、初めて行った小さな古本屋での出来事だ。フツーではあまりないシチュエーションだと思う。
(そうよ、私にだって出会いくらいはあるもん)
真由は足もとからバッグを取り出し財布を探し出した。
(たしか、もらった名刺をこの辺に突っ込んだ気がしたんだけど)
カード入れの最後部にそれはあった。引っ張り出すと右の角が少しひしゃげている。親指と人差し指で丁寧に直し、何気に名刺の裏をみて真由の眼は釘づけになった。
そこに一面の草原が広がっていた。
ところどころに小さな黄色い花が咲き、遠くには広い青空が白い雲を浮かべている。
一瞬、草が揺れたような気さえして、真由はそっと絵の表面に触れてみた。
やはり絵だった。しかし、真由には窓枠で仕切られた中から広がる大地を眺めた気分に陥っていた。水彩で描かれている様なのだが、こんな名刺サイズの小さな絵で五感すべてを使って感じたのは初めてだった。母の絵も真由は好きなのだが、そこまで心を揺すられたことは、ない。
「真由?」
美奈に声をかけられ、真由は我に返る。そして急いで名刺を再び財布にしまった。
この絵を見た後ではもうあの出会いをネタにする気はまったく消えうせていた。笑い話にすることでこの絵が汚れてしまうとさえ思った。
四時限目、五時限目、と一般教養をこなし帰路につく。電車に揺られながら脳裏に浮かぶのは名刺の裏の絵と男の笑顔だった。それは家についても続き、夕食を早々に切り上げると、不思議顔の母をキッチンに置いて自分の部屋へ引き揚げた。
真由はベッドに寝転ぶともう一度名刺の裏の絵を眺めた。
(こんなに綺麗な絵を描く人がいるんだ)
もう一度会ってみたい、そういう思いが真由の心に浮かぶ。それを理性が慌てて消す。しばらく自分の中で葛藤をしたのち、真由はひらめいた。
「そうじゃん、一人で行こうとするからいけないんだ」
誰か誘っていけば危険も少なくなるだろう。真由は鞄から携帯を取り出すとアドレス帳を「あ」から眺めていった。やはり相手は画家なのだから、絵に興味のある友達の方が誘いやすいだろう。大学の友達の由美、咲、美奈は話を聞く限りあまり絵に興味がなさそうだ。しかも真由の母親が有名なイラストレーターだとも知らない。
真由は中学時代からの親友、水野友紀にメールを送ることにした。
《ユッキー、元気? ちょっと今度、画家の人と会うんだけど、一緒にきてくれないかな? 一人だと心細いし…。ユッキーは絵が好きだったよね? スゴく綺麗な絵を描く人だから是非会ってみて》
送信。
友紀とは中学時代の授業中、机を並べてノートの端にリレーマンガを描いて遊んだ仲だ。大学に入る時に高校時代の教科書は粗方捨てたが、その落書きされたノートだけは取っておいた。あの頃はまだ素直に絵が描けた時期だった。一緒に何度か美術館へ行ったこともある。大学に入ってからは春に一回会ったきりだが、会わないからといって疎遠になるような仲でもない。
真由が思った以上に早く友紀からの返信メールがやってきた。急いでメールを開く。
断りの言葉がなければいいけど…
《ヤホー、マユ元気? 私は彼氏が出来ましたっ♪》
綺麗なデコメで返ってきた。周りにはハートがいっぱい並び、飛び交っている。
「…聞いてないっつーの」
しかしここで返信しないと、やっかんでいると思われるかもしれない、なんて考えてしまう自分が嫌だったが一応驚いたテイで返信を出した。何度か交わしたメールでユッキーの彼氏情報は得るも、一緒に出かける肝心の約束は取り付けることができなかった。
「はあ、どうしよっかな」
真由はカーテンからちらりと外を見た。
そこには思いもかけない大きな満月が淡い白光に包まれていた。
惹かれるように真由は自分の部屋を出る。目の前は母の部屋だ。母にも声をかけようと思ったが、グループ展用か、仕事用か、絵を一心不乱に描いている姿がドアの隙間から見て取れたので、ひとりでベランダへ出た。
東の空には手を伸ばせばつかめそうな月が昇っていた。真由は暫く手すりに両腕を預け、眺めた。
「ユッキーに彼氏が出来たのかぁ」
意外に傷ついている自分がいた。もちろん親友が喜んでいるのは自分も嬉しい。が、取り残された感も否めない。かと言って異性に積極的にもなれない。
『もしかして、男ぎらい、とか?』
昼間の由香の言葉がよみがえる。男嫌いではないが、不信感は持っているかもしれない、と真由は思った。
(お父さんの死に場所が死に場所ですから)
真由の父、白田晃は真面目で大人しい性格で、真由の思い出す父の顔は食卓で人の良さそうな笑みを浮かべているか、日当たりのいいリビングで新聞を広げている姿だった。
真由にも母にも優しい父だったが、突然父が心臓発作をおこした。その場所が父の会社の部下の女性の部屋だったのだ。電話がかかり病院へ向かったが、父はもうすでにこの世の人ではなかった。
病院には父に付き添ったのだろう、部下の女性もいた。真由も知っている人だ。花見や忘年会など会社の行事の写真には必ず父の近くで写っていた。髪が乱れていたが写真より実物の方が綺麗な人だった。
「急に白田さんが具合が悪いと言ったのよ。家が近くだったから部屋にあげたらこんな事になって…」
気を動転させながら女性はそう話していた。本当かどうかは分からない。中学二年の真由は真実など知りたくなかった。父は真由のイメージの父のままでいて欲しかった。
父と女性の名誉の為に事実は伏せられたが、何故かお葬式の場で父がどこで亡くなっていたのか、もちろんはっきり言葉にしては誰も言わないが、すでに知られていた。しかもその話題は驚きをもって受け入れられてはいなかった。どこか皆、納得しているみたいだった。葬儀中の母の涙の半分は悲しみで、もう半分は神妙な顔でお悔やみを言っている人が腹の奥では笑っていると感じた悔し涙だったと思う。
父が亡くなって三年間、父の話は命日以外タブーだった。頑なに父に対して心を閉ざしていた母と思春期を過ごしたのだから、真由も少なからず男不信の影響は受けているだろう。
「なれない浮気に興奮しすぎちゃったんじゃないの?」
ようやく最近になって母はそういう軽口を叩くようになったが、父は浮気をしたと未だに信じているようだ。しかし、こうやって心内を口に出すようになったのはいい傾向だと思う。
「お母さんのわだかまりも少しずつ消えて、ユッキーにも彼氏が出来たし、時は確実に流れているのよね」
先ほど大きかった満月も少し南の空に上がった。心なしか円が小さくなったが、その変わり鈍い光が鋭く凛とした光となった。こんなに短時間で見える変化もあるのだ。
真由だけがこのまま立ち止まっていてはいけない気がした。
「明日ちょっとだけ、黒髪犬歯男がどんな所に住んでいるくらいは見てこようかな」
あんなに綺麗な絵を描く人には興味がある。しかし、さっそく男本人に会おう、という勇気を持ち合わせていないのが自分らしいと真由は一人苦笑した。