第10話 老紳士
真由は暫くそのままアトリエの床に突っ伏したままでいた。体の力が抜け、動けない。でも、もうこのまま動けなくてもいいと思った。
《心が落ち着いてきましたかな?》
耳元でそう低い声を聞いた。
《最後、笑っていたな》
真由は眼を見開く。
(たまにここで聞くあの声だ!)
真由は涙を手の甲で拭うと、重い体をゆっくり起き上がらせ、辺りを見回した。真由以外はやはり誰もいない。
「もう今日でここにはこないんだから、最後ぐらい姿を見せたらどうなの」
今、真由は何も怖くなかった。深津を失う以外に怖いというものがこの世の中にあるとは思えない。
真由の声に呼応するように部屋の隅にぽおっと緑の光が浮かんだ。光の中に、小さなお爺さんが浮かんでいる。シルクハットをかぶり、片目に丸いメガネをはめ込んだ老紳士の風貌だった。
《はじめまして、お譲さん》
シルクハットを白い手袋をした片手で脱ぎ、優雅に一礼をする。
「誰?」
真由は身構える。
《誰、といわれても、困りますなぁ。あえて言えば…絵の具の精といったところかの》
くくく、と老紳士は笑った。
「あなたが、例の不思議な力を持つ絵の具って訳ね」
《さすが、深津と付き合うだけのことはある。飲み込みがはやいのう》
くいっと老紳士は背をのばした。
《今までワシと契約をしていた深津はお前さんの所為で消えてしまった。だが、ワシはお前が気に入った。ワシと契約をしろ》
唐突な申し出と上からの物の言いように真由は眉をひそめた。
「契約?」
《そうじゃ。ワシは昔から契約者とともにあった。ワシを使えば金儲けができるからな、ワシを知る者はみな契約者になりたがったものじゃ。もちろん、ワシが気に入らなければ契約などせぬがな。しかし、もう契約者を渡り歩くのは飽きた。だから、深津を選んだ。図間抜けて絵の才能があったからの。ワシを使って深津を描いたヤツから無理やり深津を契約者にしたのだ。ヤツはいわばワシの分身であり、脆い人間のようにすぐには死なないからな。だから、ワシも油断した。このような事態は想定しておらなんだ。今回の様に次の契約者がいないのは初めてじゃ》
「契約者がいないと何か困るわけ?」
真由はようやく口を挟むことができた。老紳士は大きく頷く。
《困る。ワシが消える。契約者がいてワシは能力を発揮する。契約者がいなければただの絵の具になり果てる。お譲さんも一度はワシの絵の具で描かれた身、ワシの凄さは誰よりもよく知っておろう。ワシをこの世から消すのは愚の骨頂とは思わんか?》
よくしゃべる老人だ、と真由は思った。きっと今までちやほやとご機嫌を取られながら傅かれてきたのだろう、真由も当然この老人の言う事を聞くと思っている。
真由は老紳士に真正面から向かうと、きっぱりと言った。
「思わない。だって、もう深津さんみたいに苦しむ人は見たくないの」
踵を返そうとした真由を老紳士は慌てて呼びとめる。威圧的だった声色も少し鳴りを潜めた。
《そうだ、ひとついいことを教えてやろう》
老紳士は人差し指を部屋の端にある棚に向けた。
《三番目の棚の絵、それを見てみろ》
迷ったが、真由は老紳士のいう棚の絵を手に取ってみた。八号くらいのキャンバスだった。
「あ…」
真由の肖像画だった。
優しくほほ笑んでこちらを見ている。油彩だった。黄色を基調に綺麗に彩色され、少し開かれた口元から、今にも自分の声が聞こえてきそうだ。その下に小さく黒で深津のサインがあり、その隣に「Goddess of hope」と書かれていた。
「褒めすぎだよ」
希望の女神、とは。少しでも自分が深津に希望を与えることが出来ていたのなら嬉しいと思う。真由は何気に裏を返し、息をのんだ。
最愛の真由へ
何度読み直しても、そう書かれている。真由は力なくその場に座り込んでしまった。
お互いの気持ちが通じでも、好きだ、とか、愛している、とか言葉にして言われたことはないし、真由もはっきりとは口に出して言ったことはないと思う。確かに深津とは長い付き合いではなかった。しかし、それは結果論で、真由自身もこんなに深津との別れが早いとは今日ここに来るまで思ってもみなかったのだ。
(でも、深津さんはこうやって文字にして残しておいてくれた)
母でも他の誰でもなく、真由を好きでいてくれたのだ。
《お前へのクリスマスプレゼントだったのかもな》
音もなく老紳士は真由の隣へ移動していた。
(ありがとう、深津さん)
真由はそっと絵を抱き締めた。深津と同じ、油彩の香りがする。
《残念ながら、その絵も消える》
真由は驚いて老紳士をみた。再び老紳士はくくく、と笑った。
《深津はワシの分身みたいなもの。ワシが消えれば、深津のこの世での証しも同時にすべて消える。あたりまえじゃろ? ただでさえこの世にいてはならなかったのだ。作品だけではないぞ。お譲さん、あなたの心の中の深津さえ、この世から消えるのだ》
真由は咄嗟に叫んでいた。
「絶対忘れない。約束したんだから!」
自分の言った言葉が真由にとって効果的だった事を知った老紳士はにやりと笑った。
《絶対忘れる。約束は果たせまい》
老紳士は再び高飛車な調子を取り戻す。彼の瞳は真由の一言を待ち、怪しく輝いた。
真由は一度だけきゅっと瞳を閉じ、再び開けた。
「いいわ、あなたと契約する。でも、私はあなたを使って絵は描かないから。ま、描いても下手だから、変な物体が出てこられても困るし。それでもいいなら契約するわ」
老紳士はやれやれと軽く肩を竦めた。
《とりあえず契約者が見つかっただけでもよしとするさ。次の契約者はおいおい探すこととしよう。でも、お譲さんの絵も深津程ではなくとも、なかなか見どころはあるぞ》
彼なりのリップサービスのつもりなのかもしれない。真由は軽く苦笑を見せた。
《手を出すのだ》
真由は老紳士がやって見せたように同じく両手を差し出した。
辺り一面緑色の光に包まれたかと思うと、耳元で何かの呪文が聞こえる。光が納まるとともに、真由の両手に重さが加わった。
絵の具の入った古びた木箱が一つ、手の上に乗っていた。