第5話
「おい」
「………」
「おい。ちづる!」
「ああん…?」
あたしは、ほお杖をついてボーッとしていた。そういえば、さっきからだれか呼んでたみたい。それは前方の教卓から聞こえる。
なによ、と思いながら声のしたほうへゆっくり顔を上げた。
───バシンッ!
「いたっ!」
いきなり頭をはたかれた。
「なにすんのよっ!」
あたしは叫んだ。意識が一瞬のうちにしゃんとする。
「ボーッとしてんじゃねーよ」
すると杉浦くんの怒声が上がった。
「だからってたたくことないでしょっ!」
あたしは両手で頭をおさえながら吠えた。
「あーあーうるせーなー。ぎゃんぎゃん吠えて、まるで犬みてー……」
「悪かったわねっ。あんたがあたしに手出しするから吠えんのよ。まったく…なんであんたなんかサイクリング部に入れちゃったのかしら東吾さんったら……」
「と・う・ご・さんだとぉぉぉぉ───?」
突然、杉浦くんの声が低くなった。
(なになになになに───?)
あたしは慌てたわよ。どうして彼の声が変わるの? なんか変なこと言ったっけ?
「おめーな。先輩のことを東吾さんって呼んでいいのは坂巻先輩だけなんだぞ。それを何を血迷ったことぬかしてやがる!」
「え……?」
あたしは目をぱちくりして彼を見つめた。
「あんだよぉ。なんかもんくあっか」
杉浦くんは教卓からこっちをにらみ下ろしている。
(杉浦くんって……もしかして……)
そういえば、さとちゃんと坂巻先輩のことを話してたとき、杉浦くんってば今みたいにすっごく声のトーンが落ちてた。これはもしかして───
「杉浦くん、あんたってもしかして、坂巻先輩のこと好きなんじゃ……ひっ…」
───バフンッ!
目の前が真っ白になった。もうもうと白い粉が煙のようにたちこめる。
「………」
あたしはもう呆然。
「あぁぁぁぁ────っ!」
その時、さとちゃんの叫び声が上がった。
「あんたっ。なにすんのよ。千鶴がまっしろになっちゃったじゃない!」
彼女は慌てて駆け寄ってきた。
「………」
あたしはまだ呆然としていた。
(なんなのよ、いったい。なんであたしがこんな目にあわなきゃなんないのお)
泣きたくなってきた。
彼がした仕打ち────あたしは頭を黒板消しで思いっきりぶったたかれたのだ。
「もーもー。これなかなかとれないのよー」
さとちゃんは一生懸命身体をパンパンはたいてくれている。でもあたしは硬直したように身体を動かせないでいた。
なぜだろう───すごいショックだった。痛みなんて感じてない。黒板消しなんて素手で叩かれたよりは全然へいき───けどどうしてだろう。まるで鈍器で頭を殴られたかのような打撃だった。
杉浦くんはなんでそうまでして彼女をかばうのだろう。それはやっぱり好きだからなんだろうか。
(ううん。関係ないじゃない)
心で首をふる。
(あたしは、ようやくにいちゃん先輩と両想いになれたのよ。杉浦くんなんて乱暴で、口が悪くて、あたしのこといじめてばっかりで大嫌いなんだから……)
キッと杉浦くんをにらみつける。
「!」
だけどあたしはびっくりして目を見張ってしまった。
「杉浦くん……」
彼の目はいつもとぜんぜん違っていた。なんていうか、まるで別人のような感じでこっちをじっと見つめている───というよりは、あたしを通り越してどこか別の次元を見つめているような、そんな感じだった。異様な不安を感じる視線───
「杉浦くん!」
あたしは叫ばずにはいられなかった。その声に、彼は我に返ったようだ。さかんに目をぱちくりさせている。さっきまでどこを見てるかわからなかった目が、現実の世界に戻ったような感じだ。その彼の目が、しっかりとした視線であたしをとらえた。
「杉浦くん……」
あまりの真剣なまなざしに、少し戸惑いを覚える。すると彼はぼそっと呟いた。
「おまえには似合わねーよ、先輩は」
「なっ……」
思わず絶句。でも彼はかまわず続ける。
「あのふたりはな、運命の絆で結ばれてんだよ。だれもそれを断ち切るこたぁできねーんだ。俺にだって、そしておまえにだってな。傷つくのは千鶴、おまえのほうだぞ。先輩のことはさっさと忘れるこった」
「そんなのうそだもん。先輩はあたしのこと好きだっていってくれたよ。きっともう坂巻さんのことはふっきれたにちがいないよ」
必死だった。彼の言ったことを信じたくなかった。せっぱつまったような、胸苦しさを感じる。あたしは自分自身に信じ込ませようとしていたのだ。
「…………」
それに対して杉浦くんの目は、いっそう憐れみに満ちたものに変わっていった。
(どうしてそんな目であたしのことを見るのよ。あたしが誰を好きになったっていいじゃない。たとえあんたの言ったことが本当だとしても、あんたには関係ない……)
「……あんたになんの関係があんのよ……」
あたしの声は震えていた。
「千鶴……」
「きやすく呼ばないでっ!」
そしてものすごい声で叫ぶ。
「あんたなんかに…あんたなんかにあたしの気持ちなんかわかるわけないっ!」
「千鶴!」
あたしは駆けだしていた。
(どこでもいい!)
あたしは心で叫んでいた。
(───杉浦くんのいないところだったらどこでもいい!)
駆けつづける。廊下を、階段を。ただがむしゃらに走りつづける。背中に杉浦くんの声を背負いながら。
「………」
走るあたしの頭に『エリーゼのために』と『すてきなサンデー』の曲が混じり合って、こんがらがって、すごい不協和音でぐるぐるとまわっていた。まるで、ふたつの曲の流れるメリーゴーランドに乗っているような気分だ。悪酔いしそうな気持ち悪さだ。
どうしたというのだろう。
先輩にくちづけされて、天にものぼる幸せを感じた。先輩に「好きだ」と言われて、これ以上はないという気持ちになった。
それなのに───あんなに激しく求められたのに、あたしはなぜか先輩の情熱が感じられなかった。心が冷めてて、変に冷静だった。もうひとりの自分が冷ややかな視線で、またたく星をじっと見つめていたのだ。
あの日、あの時、あたしの心は凍りついてしまった。
先輩に対する気持ちはうそじゃない。本当に好きだった。好きじゃなければ、くちびるを男の人に許すなんてできるわけないよ。
なのに───
なんでだろう───あの日の杉浦くんの『すてきなサンデー』をうたう声が耳から離れようとしないのは。
あたしをいつもいじめてきた彼───それなのに、どうしてその彼に『優しさ』を感じてしまうのか───
「だれか教えて───先輩…東吾さん……」
祈るような気持ちで部室へとたどりつく。
「………」
その手がとまった。
中には先輩がいた。でもひとりじゃなかった。
「坂巻さん……」
そう、そこにはあの彼女がいたのだ。
「お願い……」
坂巻さんの口から言葉がもれる。彼女の声は、ほんとうにかわいらしい。あたしのキンキン声とは雲泥の差だ。
「バスケ部に戻ってきて……」
彼女は懇願するように言う。
「………」
先輩はじっと黙ったまま、アップライトピアノをじっとみつめている。坂巻さんに背を向ける恰好でだ。
「あなたがいないと、今度の試合でうちは勝てないわ。お願いだから帰ってきて。みんなももう怒ってないし、岡部くんももう気にしてないって……」
「坂巻はどうなんだよ」
「え……?」
にいちゃん先輩はゆっくりと振り返った。
「坂巻ももう僕のことは考えてくれないってことか?」
「そ…そんな…わ…わたしは…」
色白の彼女の首筋がほんのりとピンク色に染まっていく。見ていてとてもきれいで、女のあたしでもクラクラきそうだ。
「なんでだよ!」
すると先輩が叫んだ。坂巻さんは彼の声にビクッと身体を震わせる。そしてかわいそうなくらいギュッと目をつむって下を向いた。
「なんでハッキリと言ってくれないんだよ」
心が冷たくなっていく。ふたりから視線をはずせない。
「僕か、あの岡部か、キミさえハッキリと気持ちをいってくれれば、僕だってヤツとうまくやっていける自信はあったんだ。なぜ自分の気持ちが素直に言えない? ひとこと言ってくれればいいんだよ。好きなら好き。嫌いなら嫌いって。なんでキミはそれが言えないんだ。僕はそんな優柔不断なのはイヤだ。なあ、坂巻。いい機会だから聞かせてくれよ。キミの本当の気持ちを。さあ! 坂巻!」
坂巻さんは震えていた。下を向いたままだが、顔が真っ青であるのがわかる。見ていてとても気の毒だ。もしかしたら失神してしまうかもしれない。
───ガタ……
(あ…しまった)
思わずドアにそえていた手に力が入ってしまい、物音がたってしまった。
「羽賀……」
にいちゃん先輩が呟いた。ふたりの視線がこっちへと向けられる。その視線が心に刺さるくらいに痛い。
「せんぱい……」
先輩は目を細めてあたしを見つめたかと思うと、おもむろに歩きだし、つかつかとこっちの方へやってきた。
───ガラッ
「あっ……」
先輩はドアを開けて、あたしの手をなかば乱暴につかんだ。そして中へ引き込む。
「坂巻。この子はハッキリと僕に告白してくれたぞ。先輩が好きだって。キミはずっとそのままなのか? ずっと自分の気持ちを殻のなかに閉じ込めたまま、これから生きていくのか?」
「先輩…やめて…坂巻さんがかわいそう…」
あたしは怯えていた。彼女が今にも倒れてしまいそうだったから───
「せんぱい……」
「東吾と呼べって言っただろっ!」
先輩は怒鳴った。
そして、そのとき───
「あっ!」
坂巻さんの身体がふらりとかたむいた。それはまるでスローモーションのようにゆっくりで、彼女の長くきれいなサラサラヘアがふわりと宙を舞った。不謹慎にも「きれい」と思ってしまい、あたしは見とれてしまった。
「あぶないっ!」
その時、叫んで飛び込んできた人物あり。
「坂巻先輩!」
それは杉浦くんだった。彼は間一髪といったところで、坂巻さんの魅力的な身体を抱きとめた。床まであと数センチといったところか。
「ああ…杉浦くんね…ありが…とう…」
彼女が弱々しく微笑んでそう言った。まだ青い顔をしていたけれど、いちおう無事のようだ。
「よかった……」
見るからにホッとした表情を見せて、杉浦くんは坂巻さんを見つめている。
───キュン……
胸がしめつけられる。
「!」
そして、そんな自分にびっくりしてしまった。これではまるであたし───
あたしは、あたしはもしかして───
「兄切先輩……」
杉浦くんの声が低くなっている。おまけに普段よりももっとかすれ声だ。
「こんなのあんまりだよ、先輩」
彼は顔を上げた。
(杉浦くん……)
あたしはさらに驚く。
彼の表情は苦悶にゆがんでいた。切ないというかなんというか、今にも泣きそうなその表情────それは、今まで見たことのない表情だった。
「言葉なんていらないじゃないですか。あなたには彼女の気持ちがわからないんですか。だれが見たって坂巻先輩はあなたのことを愛してますよ。そんなこと、あなただって感じているはずだ。それなのに、あなたは彼女の本質をわかろうとしない。彼女がどんなにあなたとの愛をつらぬきたいと思っているか、どうしてそれをわかろうとしないんだ。ただ愛していると、そう言って抱きしめてあげるだけで、彼女は変われるんだ。彼女はとても弱い存在なんですよ。か弱くて、だれかが支えてあげないと壊れてしまうほどに……彼女はあまりにあなたを愛しすぎて、でもバスケ部のみんなとの和も大切に思ってて、にっちもさっちもいかなくなってたんだ。あなたとの愛もつらぬきたい。しかし、そうしようとすると愛する人をさらに部でマズイ立場へと追い込んでしまう………」
杉浦くんの言葉が、心にしみこんでいく。
彼の声は悲痛だった。そして、そう感じれば感じるほど、あたしの気持ちはつらく悲しくなっていく───
「それなのに…それなのにあなたは自分の想いだけをぶつけるばかりで、彼女のそんな心を思ってやることもできずにいた。彼女があなたへの気持ちを言えないことを、あなたはチラリとでも考えたことがありますか? 俺はあなたを尊敬してます。バスケを始めたのもあなたのプレイにほれこんだからだ。あなたのように輝きたいと、自信のある男になりたいと思ったからなんです。でもあなたは、俺や坂巻先輩や、それに……」
杉浦くんはあたしを一瞥した。
「そこの千鶴に献身的に愛されるだけで、自分から真剣に愛そうという気持ちを起こさなかった。こんなこと言ったら生意気って言われるかもしれないけど、先輩……」
杉浦くんはいったん言葉を切ると、呼吸をととのえ、さらにつづけた。
「もっと彼女の心を理解してやらなきゃダメですよ。相手の心をわかって、察してやることも時には必要です。とくに坂巻先輩なんて千鶴とちがって神経が細いんだから……」
ムッとした。こんな時ながら、あたしは何か言わないではいられない気持ちになった。
そして、そう思った瞬間───
「おまえは……」
にいちゃん先輩が口をひらいたのだ。
「おまえと坂巻はデキてるのか……」
「え……?」
あたしはギョッとした。先輩はつかんでいた手をさらに強く握りしめてきたのだ。
「なにをばかなこと言ってるんですか」
杉浦くんが吐き捨てるようにそう言った。
「俺のことなんか関係ない。今はあなたと坂巻先輩の話をしてるんだ」
「坂巻……」
先輩が呟く。ますますあたしの手をきつく握りしめてくる。
「い…たい…」
思わずうめいたけれど、先輩はぜんぜん気づいてくれない。
「坂巻…キミもそうなのか? キミもコウのことが好きなのか?」
先輩の声が、まるで杉浦くんのように低くなって別人のようになっている。あたしの手はいまだに握りしめたままだ。
坂巻先輩は床に座り込んだまま、まだ真っ青な顔をしている。そんな彼女の身体を、杉浦くんは片膝をついて支えていた。そして、彼は顔だけあたしたちの方に向けている。
「………」
一瞬だけ、杉浦くんの目が、先輩に握られたあたしの手に向けられたような気がした。
でも、すぐに険しい表情で先輩へと視線を戻す。
「それ以上バカなことを言うんなら、俺だってだまっちゃいませんよ」
「だまれ! だまれ! だまれっ!」
ものすごい剣幕で怒鳴るにいちゃん先輩。
それはまるで、応援団の人を怒鳴ったあたしのようにヒステリックで、まったく彼らしからぬ行動だった。
「僕の気持ちを知ってて、おまえらはかげでバカな男だと笑っていたのか! そうなんだな!」
「せんぱ…い…やめ…て…」
あたしは切れ切れに訴えた。先輩につかまれた手の痛さが限界にまでたっしていたからだ。
───ガッ…
「あっ!」
あたしは叫んだ。いつの間にか、杉浦くんの拳が、にいちゃん先輩の顔に炸裂していたのだ。
そのおかげで、ようやく先輩の手の呪縛から解放された。見ると、腕に手のあとがついている。
「な…っにを…する!」
先輩は殴られて床に尻もちをついた。
「いくら尊敬してる先輩だからって…言っていいことと悪いことがある。俺をこれ以上怒らせないでくださいよ」
ボクサーのようにかまえて、杉浦くんはそう言った。彼の声はますますハスキーになっている。彼が必死に怒りをおさえている証拠だ。それがひしひしと伝わってきて息苦しさを感じる。
「うるさ…い。おまえなど、ただ背がデカイだけの木偶の坊のくせして、僕のようにバスケがしたいだと……笑わせるな……」
「なにをぉ……」
杉浦くんの目がいっそう険しくなる。
あたしは震え上がった。
ただでさえ杉浦くんのやぶにらみはこわいのに、今や彼の目は、そのひとにらみで相手を殺せそうなほどの迫力に満ちていたのだ。
「くそぉぉぉぉ───!!」
叫ぶ杉浦くん。頭をかかえて目をつむるあたし。
(やめて───)
そう心で叫んだとき────
「やめてぇぇぇぇ────!!」
心の叫びを代弁するような声があがった。でもあたしじゃない。実際に叫んだのはあの坂巻さんだったのだ。
「!」
びっくりして顔を上げ、目を開けた。そんな大きな声を出すような人という感じではなかったし、それに今の彼女はとても叫ぶことのできる状態ではないはず。
「坂巻さん……」
でもあたしは、この目で信じられない光景を見てしまった。
今まさに殴りかかろうとして、拳を振り上げている杉浦くん。床に座り込んでいた先輩は、自分の顔を杉浦くんに向けていた。さっきまでの雰囲気では、きっと挑戦的ににらみつけていたにちがいない。それが今は、驚きで目を大きくさせている。
それもそのはず、坂巻さんが先輩の身体を抱きかかえるようにして、杉浦くんの攻撃から守ろうとしていたからだ。
「さか…ま…き…」
やっとそれだけ呟くにいちゃん先輩。
「彼は…悪くない…の」
坂巻さんは震える声でそう言った。
「杉浦くん…ごめんなさい…」
彼女はゆっくりと杉浦くんを振り返った。
「坂巻先輩……」
杉浦くんは振り上げていた拳を下ろす。彼の表情はとてもつらそうだった。
あたしの心もつらかった。
(あたし…きっと杉浦くんのこと……)
いま気がついた。あんなににいちゃん先輩のことが好きだと思っていたのに、やさしくしてもらって抱きしめられて、この恋は本物だって信じていたのに───坂巻さんのことを好きな杉浦くんが、こんなにもあたしの心をとらえてしまっていたなんて───
「東吾さん……」
弱々しいけれど、とてもしっかりとした口調で彼女は先輩の名を呼んだ。
「み…づき…」
「!」
突然あたしは思い出した。あの時、先輩の言った言葉『つき』っていうのは、このことだったんだ。
(ああ! なんてこと!)
今になって気がついた。
先輩は、坂巻さんの代替えとしてしかあたしを見ていなかったということに。
愛してくれてたわけじゃなかった。
あの囁きも、あの抱擁も、そしてめくるめくあのくちづけも、ぜんぶ坂巻さんに向けられたものだったんだ。
「は…はは…そうだったのね…」
ショックだった───確かに心が壊れかけてしまいそうなほどにショックだったんだけど───でもなぜかホッとしていた。
それはあたしが杉浦くんを好きになってしまっていたからだと思う。でもこの新しい恋は、にいちゃん先輩のとき同様、最初からもうダメだってわかってる。
だって彼は先輩と同じで坂巻さんのことが好きだから───
「東吾さん。わたしがはっきりと言わなかったからこんなことになってしまったのね。部のみんなにも、そしてあなたにも、とてもつらく苦しい思いをさせてしまった。でも、わたしはそんなにみんなに想ってもらえるほどいい人間じゃない。あなたを独占したくて、わたしだけの東吾さんにしたくて、その気持ちをぶちまけたいと思えば思うほど言えなくなってしまったの。わたしはとてもこわかったのよ。胸に秘めた情熱をみんなに知られるのがこわくて、あなたに知られるのがこわくて……わたしは卑怯な人間よ。でも……」
坂巻さんは先輩の目をのぞきこむ。
「愛しているの。どうしようもなくあなたのことを……だから……わたしのことを許してちょうだい…お願いだから……もう一度、わたしのところに、みんなのところに帰ってきて……」
それは悲痛な心の叫びだった。
あたしは彼女の心が、どんなに先輩のことを愛しているかわかってしまって切なくなってしまった。
涙が流れてきた。あとからあとからあふれ出て、とめることができない。
坂巻さんを抱きしめるにいちゃん先輩が目に映った。その情景は流れつづける涙でゆれている。まるで海の底から見上げる水面のようにゆらゆらとしている。とても幻想的で美しい───
あたしは心からそう思ったのだった。