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銀杏の木の下で  作者: 谷兼天慈
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第4話

 ある日の放課後、いつものようにルンルン気分で同好会部室前にやってきたあたし。

「あれ?」

 部室前の廊下を誰かがうろうろしている。

「だれだろう……」

 目をこらして見つめる。女の人だ。それもすごく大人っぽい人。真っ直ぐなサラサラヘアが腰まで伸びている。体つきはほっそりとしているわけじゃないけれど、全体的にとても均整がとれていて、女の目から見ても魅力的なスタイルだ。顔なんか彫りが深くて、見ようによっては外人さんっぽい。

「すごい美人……」

 思わず呟く。ハトが豆鉄砲くらったような表情を、あたしはしていたかもしれない。

 彼女はしばらくうろうろしていたけれど、ため息をつくとうらめしそうな表情を見せながら、向こうへと歩きだした。

「なに突っ立ってんのよ。千鶴」

 あたしの背中をバシンと誰かが叩いた。後ろを振り返ると、さとちゃんだった。

「痛いわねぇ……」

「わるい、わるい…」

 彼女は両手を合わせて謝った。すると、立ち去ろうとしていたさっきの美人を見つけたらしく呟いた。

「あっれー。あの人……」

「えっ…さとちゃん知ってるの?」

「うん。あの人、坂巻美月さかまきみづきさんって言って、バスケット部のマネージャーだよ」

「バスケット部の……?」

 あたしは廊下の向こうを見やった。すでにあの魅力的な女の人の姿は見えなくなっている。

「?」

 視線を感じる。

 顔を向けると、横に立つさとちゃんの意味ありげな目にぶつかった。彼女はあたしをじっと見つめている。

「千鶴……」

 なんだか彼女の声が思いつめてるように聞こえるのは気のせいだろうか───

「わたし…聞いちゃったんだけど…」

「え……?」

 歯切れの悪い口調に不安を感じる。それでも彼女は意を決したように喋ってくれた。

「兄切先輩がバスケットをやめたのって……同じバスケット部の部員同士でひとりの女をめぐって争ったからだって……」

「………」

 彼女の言葉は、あたしの心に少なからず衝撃を与えた。

「その女って……」

 イヤな予感がして呟く。それを察した彼女が言った。

「そう…その女って、さっきの坂巻さんのことだよ……」


「テニス部の先輩から聞いたんだけど……」

 さとちゃんは声をひそめてそう言った。

 にいちゃん先輩はお休みだったのか、いつまでたっても部室にはだれもこなかった。

 だから、あたしと彼女はあれから学生食堂へとやってきて、二人でうどんを食べることにしたのだ。

「兄切先輩は、なんたってバスケのヒーローだったじゃない。入学早々、やっぱり三年生から勧誘がきたわけなのよ…」

 さとちゃんは、ズズズ───っとお汁をすするとさらに話をすすめる。

「すごかったらしいわよ」

「え…? なにが?」

 キョトンとして顔を突き出すと、いい匂いの湯気がたちのぼって鼻をくすぐった。

「あれよ。えこひいきってやつ」

 さとちゃんはどんぶりにお箸をつっこんだまま、ぐっと顔を近づけてきた。

「そりゃもう下にも置かぬ待遇だったんだって。同じ一年だけでなく、二年生の先輩からもいい顔されてなかったみたいよ」

「そうだったんだ……」

 あたしはにいちゃん先輩の優しい笑顔を思い浮かべた。

(つらかっただろうな、せんぱい)

「僕、すんごくバスケが好きなんだ」

 以前、あの仲が悪くなった友だちと三人で試合のあと一緒にごはん食べたとき、先輩はそう言ってた。

「バスケができない生活なんて考えられないよ。高校行っても大学すすんでも、絶対にバスケはやめない」

 キラキラと大きな目を輝かせていた先輩の顔が、ついこの間のように思い出せる。そんな彼にバスケをやめさせるほど、きっと何かつらいことがあったに違いない。

「坂巻さんは中学のときからバスケのマネージャーをしていたそうよ」

 いよいよ彼女の登場だ。いったい何があったのだろう。

「当時、うちの高校のマネージャーは坂巻さんの先輩だったらしくて、もちろん後輩の彼女に誘いがきたわけよ」

「ふんふん…」

 とてもうどんを食べる気分ではなくなってしまった。あたしはお箸もつけずに、彼女の言葉を一語一句聞きもらすまいと耳をダンボのようにしていた。

「坂巻さんの顔、よく見た?」

 彼女のその言葉に、ちょっと首をかしげて考え込む。

「う……ん。すごく髪のきれいな美人だったよね…だけど、なんかきつそうな顔だったような気もするけど……」

「そうなのよ!」

 あたしは思わずびっくり!

 彼女がガタンと立ち上がり、そして再びドシンと椅子に座ったからだ。

「彼女って、ああいう感じの美人だからきつい性格かなって思われがちなんだけど、その実、とっても気がよわくっておとなしくて、いー人なんだって。最初わたしもしんじらんなかったのよ。でもねーそうじゃないんだってわかっちゃったんだ」

「…………」

 何も返せず、ただただ彼女の顔を見つめるばかりだ。どうしちゃったんだろ。いつもの彼女じゃないよ、これは。

「これが話してみるとよっくわかるのよ」

 そんなあたしの思いも知らずに喋りつづける彼女。

「テニス部とバスケ部って仲良くってねー。よく合コンするんだ。あたしが入ってくる前からの恒例らしくて、なにかっていうとやってるみたいよ。お互いの試合が終わるたんびに、やれ打ち上げだとかなんとかって銘打って……よーするに楽しんでんのよね。この間もあったのよ。その時に坂巻さんの隣の席になったの。いー人よー。女のわたしから見てもかわいくってさー。男がほっとかないのも無理ないわ、あれでは」

「さとちゃぁ───ん……」

 視線も恨めしく、あたしは情けない声を上げた。

「あっ…いっけなぁーい。ごめん、ちづる」

 彼女は頭をかきかき謝った。

「えっとぉ……そうそう。それでね。足切先輩と同期で入った岡部さんっていう人がいるんだけど、この人もとってもバスケのうまい人でねー。だけど足切先輩ほど有名ってわけじゃなかったのよ。でもこの人がまたすごく背の高い人で…ほら、兄切先輩ってあんまし背たかくないじゃない」

「それだけうまいってことよ」

 ムッとしてそう言い返す。

「ごめん。ごめん」

 彼女は謝りながら話をつづけた。

「そうよね。バスケって背がたかけりゃオッケーみたいなとこあるよね。背が高くない先輩がそれをものともせずにあそこまでやってきたってことは、すごく頑張ってきたんだってわかるし、それは才能っていってもいいくらいだもんね。だけど岡部さんはそうは思わなかった……」

 ちょっと彼女の顔がまじめになる。

「兄切先輩はどうやら中学のときから坂巻さんのこと好きだったらしいのよ」

「えっ……?」

 あたしは自分の耳をうたがった。それっていつから? まさか───

「ほら。あんたと仲よかったあの子、前に先輩と付き合ってた……あの子との仲がダメになったのって坂巻さんが原因だったみたい」

 やっぱり───じゃあ、あたしは関係なかったんだ───ちょっとガッカリ。

「で、高校入って同じ部で一緒に行動するようになって、先輩は坂巻さんにアタックしはじめた。それをひごろからよく思ってなかった岡部さんが邪魔したってことなのよ」

「邪魔した……?」

 怪訝に思い目を細める。

「岡部さんも坂巻さんのこと、好きだったのよ」

「ああ。そっか…」

 納得してうなずくと、彼女はしんみりとした声で続けた。

「すごかったみたいね。ほとんどの部員が先輩の敵にまわっちゃって…坂巻さんもいたたまれなくなっちゃったみたいよ。神経の細い人だから、全部じぶんが悪いんだって思いつめちゃって……だれもそんなふうに思ってなんかいなかったのに……」

「先輩も彼女もかわいそう……」

 あたしの呟きに、彼女もこくりとうなずいた。

「それでとうとう坂巻さん、部をやめるって言いだしたの。それを聞いた先輩が、自分がやめるから彼女にはバスケ部にいてほしいって懇願したそうよ」

「せんぱい……」

 何だか胸が苦しい。そんなに彼女のことが好きだったんだ。とてもあたしじゃたちうちできないよ───でも、とうの坂巻さんの気持ちってどうだったんだろ。

「その坂巻さんはそれで先輩の気持ちにこたえてあげたのかな……」

───バンッ!

「きゃっ……」

 あたしは飛び上がってしまった。だれかがテーブルを平手で叩いたからだ。

 見ればうどんの汁が、今の衝撃で飛び散っている。顔にもひっかかってしまった。すでに冷めてしまっていたそれは熱くはなかったが、あまりいい気はしない。

「なにすんのよっ!」

 テーブルには叩いた本人の手があった。ごつごつしたそれは男のものであることがわかる。誰だ、こいつ───あたしは顔を上げた。

「杉浦くん!」

 そこには恐い顔をした杉浦くんが立っていた。

「よくよく女ってーのは下らねーウワサ話が好きらしーな」

(ヤバイ!)

 あたしは震え上がった。

 彼の声のトーンがすんごく低くなっている。入学してからこっち、彼と行動をともにするようになって、だんだんと彼の性格っていうのがわかるようになった。だから、これってものすごくヤバイ状況なのよ。こんなふうな声のトーンになったときってゲンコツが飛んでくるまえぶれなのだ。

───ガタンッ!

 いきなり立ち上がる。あたしにしてはものすごく素早い反応だ。

「あっ!」

 杉浦くんとさとちゃんの叫び声が同時に上がった。

「どしたの、ちづる?」

「こらぁー。逃げるなぁ、千鶴!」

 冷めたうどんも、あっけにとられて見つめるさとちゃんも、そして仁王さまのような形相の杉浦くんもその場に残したまま、あたしは脱兎の如く逃げ去っていた。

「………」

 耳をふさぎながら走る。背中にふたりの叫び声と怒鳴り声が聞こえた。でも、かまわず必死に走った。これ以上はない走りだったと思う。運痴のあたしにしては。


 そしていつのまにか部室へとやってきた。

「せんぱい……?」

 ドアが少し開いている。そっと覗き込む。

 すると中に先輩がひとりでいた。彼は窓辺に置かれたピアノに手をそえ、じっとして動かない。まるで一対の彫像のようだ。

 サイクリング同好会が部室にしている教室は視聴覚室なんだけど、なぜかアップライトピアノが置いてある。聞くところによると、音楽室に新しくいれた上等なグランドピアノのために、以前つかっていたこのピアノの置くところがなくて、とりあえずここに置いているのだそうだ。

───ポロン……

 先輩はふたをあけて音を出した。

 すでに夕闇がせまった教室はシーンとしていて、ピアノの音が妙に物悲しく聞こえる。

───ガラガラ……

 あたしは決心して中に入った。

 音を出していた先輩の指がとまる。でも彼は身じろぎもせずにじっと鍵盤を見つめていた。

「………」

 入ったはいいが、あたしは先輩に声がかけられない。じっと立ったままで先輩を見つめつづけた。

 息苦しい時間がすぎる。と、突然───

「キミはピアノひけたよね」

「え……?」

 あたしはドキリとした。先輩がいつのまにかこっちをじっと見つめていたからだ。窓を背にしているから、先輩の表情はよくはわからないけれど、それでも彼の視線を痛いほど感じた。

「僕のためにひいてくれないかな」

「あの……」

 迷いが胸に広がる。

(せんぱいは、坂巻さんのこと今でも好きですか?)

 心ではそう呟いていたが、あたしの口から出た言葉は───

「なにをひけばいいんですか?」

 なぜかとても悲しくなった。どうしてそんな気持ちになるのかわからない。涙が出そうになって、それを我慢しようとして、さらに言葉を続けた。

「あたし、けっこううまいんですよ。なんでも言ってください。たいていのリクエストにはこたえられると思います」

「はは…たのもしいな。じゃああの曲…なんていったかな……タラタラタラリララ……」

「エリーゼのために……ですね」

 あたしは即答した。

「そうそう。そんな曲名だった」

 ピアノに近づくと椅子に座る。彼は相変わらず窓を背にしたまま、ピアノの右側に立っていた。そのために鍵盤にかげができてしまい、手元が見えにくい。

「あ……ここに立ってると暗いよね」

 先輩はそう言うと左側に場所をかわってくれた。

「すみません……」

 軽く謝り、あたしは背筋をピンと張った。

 そして目を閉じる。ピアノをひくときはいつもこうやって精神を集中させるのだ。頭にその曲の音譜を並べ、そしてイメージを思い浮かべる。

 いちばん大好きな時───

「………」

 無言のままおもむろに目をあけた。

 両の手をふんわりと鍵盤にのせる。やさしくなでるように、右の小指でそっと鍵盤をおさえる。

───ポロン……

 次の瞬間、この場所にピアノの音色が漂いはじめた。

 すでに心は別の世界に踏み込んでいた。心が飛んでしまっているというか、なんというか───いつもそうなんだ。ピアノをひきはじめると、なにもかも忘れてしまえる。

 かたわらに大好きな先輩がいることも、そしてここが学校の教室であることも忘れてしまい、あたしの心は『エリーゼのために』を作曲した偉大なべートーヴェンの境地に立っていた。

 音楽が心をとらえて放さない────

 ピアノをひいている時だけ、なんでもできそうなそんな気持ちになれる。あたしにとってのすべて。子供のころからいだきつづけた夢───

 そう、にいちゃん先輩がバスケなしじゃダメだっていったあの気持ち───それとおんなじなんだ。

「…………」

 何かの気配を感じ、ふっと目をあけた。いつの間にか目を閉じてひいていたみたい。よくあることよ、こんなこと。気持ちがのってくると目を閉じてしまうの───酔いしれるっていうのかな。

「!」

 あたしは手をとめた。曲がぷつんと途切れる。

「せ…せんぱい……?」

 ああ、信じられない。あたしの身体が先輩の力強い両腕に包みこまれている。

「羽賀……」

 背後から彼はやさしく抱いてくれた。何がどうなっているのか考えられない。慌ててうしろの先輩の顔を見ようとして顔だけ巡らせる。

「あ……」

 くちびるにそっと触れるものがあった。それは先輩のくちびるだった。

 びっくりして目をこらす。すでに先輩の顔はあたしから離れていたけど、そこにはじっと見つめる目があった。

(あ…ダメ…この目に弱いのよね、あたし)

「………」

 先輩がぐっと顔を近づけてきた。そして、ささやくように言う。

「羽賀……キミの気持ちはまだ変わっていないかい?」

「え……?」

 先輩の少し大きい目が、じーっとあたしの目をのぞきこんでいる。

「あたし……」

 思わず口をついて出る言葉。

「あたし、にいちゃん先輩だいすき。ずっとずっと好きだったの。忘れられるわけない」

 熱にうかされたようにそう言った。ほとんどもうろうとしている。

「いい子だ」

 先輩は満足そうににっこり笑って目をほそめた。

「みんなキミのように素直になればいいのにな。僕はキミのそういうところが好きだよ」

 すると、とつぜん先輩の顔が離れた。それでも、相変わらず彼はあたしの目を見つめたままだ。その彼の目が何かを思い出したかのように変わった。と同時に、くちもとをいたずらっぽくニッとしてみせる。

「聞いたよ」

「え……?」

 あたしはわけがわからず怪訝な顔をした。

「僕の先輩にね、応援団の団長してる人がいてね。キミのこと話してくれたよ」

「は……?」

 彼の意図がわからず困惑する。

「団員を怒鳴りつけたそうじゃないか」

「えっ?」

 先輩が笑っている。さっきまでのいい雰囲気がまるで消え失せてしまって、あたしとしてはちょっと残念───

「あっあれは…その…」

「校歌を覚える特訓は、栄高の毎年の恒例なんだが……」

「なんであんなこと恒例なのよ……」

 思わずボソッと呟く。

「まあ、そう言うなよ。これも新入生の中から、応援団へ入団するにふさわしい人物を探すためなんだそうだから」

「へぇー…」

 あのとき壇上の真ん中にいた男の人を思い出した。きっとあの人が団長さんにちがいない。

「で、彼が言うには、今年はすごい子がいるぞって教えてくれたんだ」

「はあ……」

 あたしは何だかイヤな予感がしてきた。

(ま、まさか…それって……)

「すごい声で団員を怒鳴りつけて、女ながらあっぱれってことで、こいつはいい応援団員になるぞって言ってた」

(げげっ、やっぱし!)

 先輩の微笑がいっそう深くなった。

「ものすごい剣幕だったそうじゃないか」

「あっ…あれはだって…あたし笑ってないのに……決めつけるから……」

 激しくうろたえるあたし。でもにいちゃん先輩は相変わらずやさしそうに見つめてくれた。

「だけど、彼女は応援団にはあげませんって僕は言ったんだ」

 再び先輩は真面目な声になった。

───ガタン───

「あ……」

 先輩はあたしを椅子から立ち上がらせた。

「キミのように、思ったことをハッキリと言う女の子が僕は大好きだ……」

 動悸が激しくなっていく。先輩の顔がだんだんと近づいてくる。

「もう一度いってくれ。僕が好きだって」

「あ…せ、んぱ…い…」

 ギュッと抱きしめられて、まったく身体が動かせない。

 あたしはうれしくて、でもなんだかとてもこわくて、身体がふるえてくるのをとめられなかった。

「ふるえてるの? そんなに僕に抱かれてうれしいの?」

 そうだと思った。あたしはこんな日がくるのをずっと待ち望んでいた。

「僕もうれしいよ。キミがそこまで僕のことを好きでいてくれて」

 さらに先輩はあたしをきつく抱きしめてくる。

「ああ……」

 にいちゃん先輩に好きだと言われ、抱きしめられ、くちづけされ、身体全体、心全体で彼を感じることをいつもあたしは願っていたのよ。

 だから、あたしが震えてるのはこわいからじゃない。

「せんぱい……」

「東吾だよ……」

 先輩の甘いささやき声が耳元に聞こえる。

「東吾さん……」

「好きだよ。ちづる……」

「あたしも…あたしも好きです。東吾さん」

 先輩が微笑んだような気がした。抱きしめられていて彼の顔は見ることができなかったけれど感じる。彼が満足そうにほほえんでいるのを───

「あ……」

 そして彼は、再びくちづけてくれた。

 それはさっきのやさしくふれるような口づけではなく、いつか映画で見たような、大人の男と女がするような荒々しくて激しいものだった。

(ああ…)

 めくるめく光の渦が身体も心もつつみこんでいく────

 幸せだった。大人へと一歩ふみこんだような、そんな晴れがましさを感じていた。激しくくちびるを求められながら、あたしは陶酔の世界へと入り込んでいった。

「………」

 そのあたしの目が、ふっととらえた窓から見える空。すでにとっぷりと日は暮れてしまい、空は夜のよそおいを見せていた。

 「……つ…き…」

 先輩が呟く。そして、さらに激しく求めてくる。

「んん…」

 くぐもったような声があたしの口からもれた。

(つき…?)

 先輩の呟きになぜか違和感を感じた。空へと目を向ける。星がチラチラと見えはじめた空には月なんか出ていない。

「………」

 その時、一気に熱が冷めていくのを心で感じ取った。

 あたしの心でゆっくりと頭をもたげてきたものはいったい何なのか───その時にはわからなかった───というよりも、故意にわかろうとしなかった。

「………」

 あたしは貪るように星を見つめ続ける。星たちはなにもしゃべらない。ひっそりと窓のガラスに映るこの光景をのぞきこんでいるばかりだ。

 彼らはあたしたちの甘いひとときを、ただじっと見つめつづけるだけ───それこそいつまでも───

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