第3話
夏が終わり、秋がやってきた。
木々はだんだんとその緑を褪せさせていき、風情のある色へと変化していこうとしている。空は薄くたなびく雲があらわれはじめ、あの荒々しい入道雲もすっかりなりをひそめて久しい。
そんな秋色が濃くなってきたある日のこと、赤い自転車を走らせ、あたしは学校へと急いでいた。
「………」
あの曲がり角へやってきた。自転車をとめて顔を上げる。
「おはよう」
すっくと立つ銀杏の木に声をかける。
「あ……」
そのとき、銀杏の葉が風に吹かれてゆれてざわざわと音をたてた。まるであたしの声が聞こえたようなそんな反応に、なぜだかとても嬉しくなった。思わずにっこり微笑む。
「さあ。今日もサイクリング同好会でがんばるぞぉ───」
自転車にまたがったまま、ガッツポーズをしてみせる。
授業にがんばるぞ、といわないところがあたしらしい。いったい何のために高校へ来てるのか───このセリフを大人が聞いたらなんというだろう。
でも不登校しないだけマシだと思ってほしいな。
あたしは学校行くの、とっても楽しい。中学のころは、とにかくにいちゃん先輩に会いたいがために学校へ行ってたようなものだから、日曜日とか祭日には家にいても彼のことばかり考えてしまって、なんにも手につかなかった。そんなものだから、夏休みのような長期の休みなんてもう地獄のようなものだった。でも、とてもバスケに入るほどの度胸はなくてつらかったな。
「でも今はとっても幸せ。大好きな先輩と自転車でいろんなところに行けるんだもん」
あたしは幸せな笑顔を銀杏の木に向けた。
すると───
───サワサワサワ……
銀杏の葉がゆれた。なんだか、笑っているようにも聞こえる。
「お───ちづるぅ───!」
「?」
杉浦くんの声だ。どこだろう。キョロキョロとあたりを見回す。
「ここだ───ここ!」
声は頭の上からしているようだ。あたしは顔を上げた。
「あっ!」
銀杏の木のさらに上、かたわらに建っている校舎の屋上に彼がいた。手をふっている。
「なぁ───にやってんのぉ────!」
あたしは両手を頬にあてて叫んだ。
「おまえもきてみろよぉ───」
杉浦くんは精一杯の大声で叫んでいる。なんだかとっても機嫌がいいらしい。
「きんもちい───ぜぇぇ────!!」
「なっ、きもちいいだろ」
「うんっ!」
急いで屋上にあがってみると、杉浦くんの笑顔が迎えてくれた。
早朝の空気はとても気持ちいい。あたしは昔から早く学校に来るのが好きだった。
中学のときは徒歩通学だったので、だあれも通らない道をてくてく歩いて、好きな歌を口ずさんだものだ。
傍らにひっそり咲く名も知らない草花や、嫌われ者の雑草に朝日があたって、露がキラキラとまるで宝石のようにきらめく。そんなとき、思わず感動して足をとめるのだ。
キン───とした透明な空気と、やわらかな朝日、そして緑のみずみずしさに心をときめかせていた。
あたしはそのとき、世界を感じていた。世界を抱きしめたくて、自分のカバンをまるでそうしているように抱きしめたものだ。
それと同じで、誰もいない学校にも感動を感じる。
シン───とした校舎のなか、だれもいない教室で一番うしろの席にすわり、あたりを見まわす。すると、窓から朝日がさしこんできて、みんなの机や黒板に光があたる。すわっている自分の身体にも、ほのかにあたたかい光があたるのだ。
もう少しすればここも、大勢の級友たちにあふれて活気を取り戻し、楽しい一日が始まることだろう。だけど、それまでのこのひとときが、あたしにとって大切なんだ。朝日の黄金の光が、活力のみなもとになっていく。
それはあたしの命の充電時間───
だから、誰よりも早く学校に行くのが好きなんだ。
それが、あたしだけの特性だと思っていたのに────
「朝っていいよな」
杉浦くんがすがすがしく言う。
「………」
あたしは横に座る彼の顔を黙ったままじっと見つめた。
「朝日ってさ、なんかこう、一日の活力を俺にくれるようでさ。いーんだよなーこれが」
杉浦くんは手をひろげて深呼吸する。
「………」
複雑な気持ちだ。
そう、この杉浦孝という人も、あたしとおんなじ感性を持っているらしいのだ。
最初のあの最悪な出会いが、今ではウソのようなんだ。
だけど、あたしはまだこの人の本当の姿がわからない。だって、ちょっとしたことですぐにキレるんだもの。だからクラスのみんなは、彼のことをまるで腫れ物に触るように遠巻きにしているだけで、そんなふうだから彼も誰とも打ち解けられず、いつも一人でいることが多いんだ。
今みたいに、いつも優しければクラスのみんなともうまくやっていけるだろうに───
「この屋上……」
「え……?」
「この屋上、なんで封鎖されてるか知ってっか?」
「ああ……」
思わず顔をしかめる。
「知らないわけないよ。有名じゃん」
何年かまえ、当時の一年生の女生徒がここから飛び下りた。確かまだあたしが小学生のときのことだった。
あれ以来、屋上への入口は封鎖された。だれも屋上にはあがれないようになっていたのだ。
でも、あたしたちが入学したときには、なぜかすでに屋上への入口の鍵が開いていた。なぜ開いていたのか、それは誰にもわからないようだった。
先生たちはこのことを本当に知らないのだろうか。知ってたらまた鍵をかけなおすだろうから、きっと知らないんだろう。
だからこの屋上は、生徒たちだけの秘密の場所になっている。よくエスケープしにくる三年生や、お弁当を食べにくる女の子たちがいるみたい。
それはしかたのないことだと思う。だってここからの眺めは素晴らしいんだ。
とくに、夕やけが最高。今みたいな早朝の時間も大好きだけど、夕やけで赤く染まった空をここから見るのもまた格別なのだ。
あたしはフェンスに手をかけ西の空を見つめた。今はまだ夕やけの時間ではない。だけどあたしの目にはその色が鮮やかに映っていた。
真っ赤な夕映えに、黄色く色づきはじめた銀杏の葉───あたしは近頃、あの夢にみた風景をよく思い出すようになった。
(あの夢でみた人はいったい誰なんだろう)
夕映えを背景に自転車を走らす、ひろい背中を思い描く。
あの人はただの夢のなかの人、というだけの存在なのだろうか。あれから、夢の男の人が何かにつけ思い出されてしかたがない。
(にいちゃん先輩……という感じでもなかったしなぁ……)
いつのまにか、杉浦くんとの話題を忘れて自分だけの物思いにふけってしまっていた。そんなとき、彼が低い声で呟いたのだ。
「あの自殺した女生徒ってさ……」
「え……」
「俺の姉きなんだぜ」
「え……えっ、ええっ?」
とたんに目の前に現実が戻ってくる。あたしは彼の顔をマジマジと見つめた。
「杉浦くんのお姉さん?」
彼は妙に無表情な目を前方の空に向けている。
「姉きはな、男にフラれてここから飛び下りたんだよ。ほとんど発作的な行動さ」
「杉浦くん……」
うろたえて声が震える。こんなこと───こんな立ち入ったこと、あたし聞いていいんだろうか。
「そんな憐れそうな目で見んなよ。そりゃ、そんときの俺はまだガキで、わあわあ泣いたさ。けっこう美人でさ、心もやさしい女だったから、俺は姉きのこと好きだった。でも、死んじまったもんはしょーがねーじゃんか」
(ほんとに……?)
心で呟きながら彼を見つめる。
(ほんとにそう思ってんの?)
あたしには、杉浦くんがただ強がっているだけのようにしか見えなかった。
「にゃあ……」
その時、ふたりのそばに黒ネコがやってきた。こんな屋上までくるなんて、なんとなくちょっと不思議に感じる。ネコは杉浦くんの足に擦り寄ってきた。
「姉きはネコが大好きだった」
「にゃ……」
彼はネコを抱き上げた。ネコちゃんも気持ちよさそうに抱かれてる。
「黒ネコなんて不吉だーなんて言われてるけどさ、姉きは黒ネコがいっとう好きだったんだぜ」
そう言いながら、彼はネコの顔に自分の顔をすりよせた。彼のその顔はほんとうに無邪気で、なんだか母性本能をくすぐる。
「相手の男の人……うらんでる?」
思わずそう言った。言ってしまってから後悔した。彼の顔が険しくなったからだ。
「………」
彼はネコちゃんを下におろし、解放する。
「うらんださ」
屋上から歩き去っていく黒ネコを見つめながら、彼の声がさらに低くなった。
「なんでフッたんだってな」
でもすぐに表情が変化し、彼は気弱そうな声を出した。
「だけどしょーがねーよな。好きじゃなかったら断るしかねーじゃん。そんときはわからんかったけど、男と女の間のことなんて他人がどうこう言えるこっちゃねーさ」
再び、杉浦くんの顔が無表情になる。
「だから姉きは負けたのさ。自分にね。男なんてひとりじゃないってーのに、なんで自分をフッた男のために死ななきゃなんねーの。そんなのバカげてると思わねーか?」
彼の目が、あたしの目をまっすぐに見つめている。珍しくやぶにらみじゃない。
「杉浦くん、うそついてる」
「なにをっ…!」
彼は絶句した。思ってもみない言葉だったのだろう。でも、かまわずあたしは続ける。
「あたしの耳には、何だかあんたの言葉が虚ろに響くんだ」
彼の目を真剣な目で見つめかえす。
「本当はそんなふうに思ってないんでしょ。だめだよ。自分の心にうそついちゃ」
「ちがう!」
杉浦くんは過剰に反応し、叫んだ。
「今じゃ俺、姉きはバカな女だったんだって思ってる。うそじゃないぜ!」
「そんなのお姉さんがかわいそすぎるよ」
あたしも必死だった。
「あんたの言うことがほんとうなら、お姉さんはとってもステキな人だったんだね。だのに相手の人はそんなこともわかんないバカな男だったんだ」
「でも、人の好みなんてわかんねーぜ。スレたあばずれが好きだってやつもいるからな」
杉浦くんが反論する。
(この人、なに言ってんの)
呆れた。自分のお姉さんをフッた相手なんか、かばってる場合じゃないと思うけど。ずいぶん彼ってヒネてる。
「確かにあんたの言うとおりかもしれない。けど、フリかただよ、問題は。あたしはそれを目撃したわけじゃあないから断言するわけじゃないけど、きっと相手の男ってひどいフリかたしたんだと思う。でも、もしそれが違ってて、ひどいフリかたじゃなかったっていうんなら、お姉さんはそれだけ相手の人を本当に真剣に愛してたんだってことじゃないの? そんな気持ちわかるような気がする。あたしもきっと好きな人に対する気持ちが真実の愛だったら、それが壊れたとき死んじゃうかもしれない……」
「ばかっ!」
───バシッ!
「!」
頬に平手が飛んできた。それは、そんなに強いものじゃなかったけれど、なんだかとても痛かった。というよりも身体じゃなくて、痛いのは心のほうみたい。
「そんな…そんな悲しいこというなよ……」
「杉浦くん…」
彼の顔は怒っていなかった。叩かれたあたしよりも痛そうな表情をしていた。
「かんたんに死ぬなんて言うなよな。おまえはそれでいいかもしれねーけど、残されたもんの気持ちも考えてみろよ。もしかしたら、おまえのことを本気で愛してるやつがいるかもしれねーんだぜ。そいつのことはどーなるんだよ。そいつの心はどうしてくれんだ。自分の心が壊れてしまうと思うんなら、自分のしたことで他の誰かも壊れてしまうかもしれねーってちっとは思ってくれよ」
「…………」
あたしは言葉を失ってしまった。
「……そーゆーことなんだよ……」
目をそらした彼の表情は痛々しかった。
「別に俺は姉きを責めてるんじゃねーよ。ただ……ほんのちょっとだけ、俺のことを思い出してほしかっただけだ。姉きを心から慕っていた弟のことをさ」
足もとを見つめる彼の目が、苦渋の色に染まっていく。
「……それと俺自身もゆるせねー。傷ついた姉きを救ってやれなかった俺もな」
「そんな…あんたのせいじゃないよ……」
その呟きを聞き、杉浦くんはチラリとこっちを一瞥した。でもすぐに向こうのほうへと視線を向ける。その視線を追うと、そこにはあの銀杏の木が立っていた。
「姉きはあの銀杏の木が好きだった。よくあの木の下で梢を見上げていたよ。何かを祈るようにな」
あたしは何だか泣きそうになってきた。だから、それを振り払おうとして言った。心持ち早口になって。
「きっとその好きな人に想いが通じるように願いをかけてたんだよ」
「………」
すると、杉浦くんはなぜか神妙な表情を見せて、こっちに顔を向けた。
「……そうかな。でも俺は信じねーぞ。いくら願掛けしたって、人の心なんて思いどおりになんかできるもんか。絶対にな」
彼は思いつめた口調でそう言った。
「………」
あたしはもうそれ以上何も言えず、彼の顔を見つめるしかなかった。
そのとき、遠くで始業のベルが鳴り響く。それでもしばらく、あたしはそのまま彼のことを見つめつづけていた。