第1話
夢をみた────
あたりは夕やけ色に染まり、遠くに見える山も木々もすべてを茜色に飲み込んでいる。
その真っ赤な空を背景に、はらはらと落ちゆく銀杏の葉。それはいくつもいくつも螺旋を描き、まるで雪のように舞い落ちる。
広い背中がみえる────
その人は自転車を走らせている。背恰好から見て男の人のようだ。夕やけに向かってひたすら進んでいるように見える。
それを追いかけるようにどこからともなく聞こえてくる異国の音楽。
赤い空に銀杏の葉。背を向けている男の人は自転車を走らせ、それらにかぶさるように懐かしいような切ないような洋楽の歌。
いったい何の曲だろう────そして男の人はいったい誰だろう────
そう思ったとき、その人がうしろを振り向こうとした。ゆっくりと首をめぐらせてこちらに顔を向けようとする。
その人は─────
あたしはボーッとして歩いていた。
「ち、づ、る!」
立ち止まり、振り返る。誰かがあたしの肩をたたいたのだ。ちょうど曲がり角にさしかかったところである。
「ん……」
顔に朝の木漏れ日がさし、眩しそうに目を細める。あたしはこころもち顔を上げた。
「銀杏の木……」
そこには大きな銀杏の木がたっていた。四月の陽射しを浴びて青々とした葉は、ときおり吹く風にゆられてとても気持ちよさそうに見える。
(そういえば今朝の夢……)
あたしは思い出した。夕やけに銀杏の木が映えて、とってもきれいだった。それにあの不思議な感じの外国の曲────
聞いたことあるような無いような、なんだかやさしい気持ちになれそうな、そんなステキな曲だった。
(あの人はだれだったのだろう……)
すっかり声をかけられたことも忘れて、あたしは自分の世界に入り込んでいた。
「ちょっと! 千鶴!」
「ああ…さとちゃん…」
「ああ…じゃないわよ」
顔をしかめた少女がこっちをにらみつけている。彼女は中学のころからの仲のよい友だちで、名前は浜崎さと。
「今日からわたしたち高校生なんだよ」
彼女はちっちゃくてあたしより頭ひとつぶん背が低かった。でも、彼女はあたしにとってお姉さんのような存在なのだ。
「もっとしっかりしなきゃ…」
彼女は意味ありげに微笑む。
「そんなことだと、アニキをだれかに取られちゃうぞ」
「も────! 変なこといわないでよ!」
あたしは叫んだ。叫びながら、今朝の夢に出てきた男の人は絶対に彼だと思った。
「にいちゃん先輩はあたしのもんよ!」
あたしは羽賀千鶴。今日から県立栄高等学校に通うことになった花の十五才。七月で十六才になる。
こういってはなんだけど、そう悪くない顔をしてると思う。クリクリ目玉に、このフワフワっとした茶色の髪。自慢の天然パーマなんだから。
(これでもあたしの髪はツヤツヤ天使の輪ができるのよ)
そう思いながら手で自分の髪をさわった。
それと、あたしは自分をわりとモテるほうだと思ってる。中学の時に何通かラブレターもらったことあったし────でも、そんなことどうでもいい。あたしには心に決めた王子さまがいるんだもの。
その人の名は兄切東吾っていうんだ。変な名前だと思うだろうけど、実はあたしもそう思ってる。彼は、そのため「アニキ」ってみんなから呼ばれてるんだ。
(でも、それも変なあだ名だよねえ)
あたしにはとても先輩のこと「アニキ」なんて呼べない。だから「にいちゃん先輩」って呼んでるんだけど。
彼はひとつ年上の先輩だ。同じ中学の出身で、この高校に入ったのも彼がここに入ったからだ。いわゆる追っかけである。とっても大変だった。だってあたし、顔はよくても頭わるいんだもん。
「うふ…」
ピカピカのブレザーに身をつつみ、ちょっと行儀悪くほくそえむ。
「今日からあたしもこの高校の生徒……」
大好きなにいちゃん先輩の通うこの学校の生徒なんだ。
「や────羽賀じゃないか」
と、ひたりきっていたあたしの耳に聞き覚えのある声が────
「え……」
耳を疑う。目がテンになる。目の前にその先輩が立っていたのだ。
「よかったなー。この高校はいれて」
「………」
みるみるうちに顔が真っ赤になる。横でさとちゃんがあたしの脇腹をつっついた。
「そうだ。よかったらキミも僕の部に入らないか?」
「えっ?」
先輩の顔がすぐ間近にあって、思わず見つめてしまった。彼はにっこりと、あけっぴろげな笑い顔をあたしに向けている。
「そ…そんな…あたし…運動だめだから…」
なんとも情けない。しどろもどろでそう言うと、見つめていられなくなり下を向いてしまった。
「知ってるよ。中学のときは帰宅部だったんだろ。でも大丈夫。自転車くらいなら乗れるでしょ」
「え……?」
不審に思って顔を上げた。だって先輩って確か───
「僕さーバスケットやめて、サイクリング同好会ってのやってんだ。会員は僕ひとり。よかったらさ、入ってくれよ」
「えっえ────?」
思わず響きわたる大声。でも気になんかしちゃいられない。
「せんぱい、バスケットやめちゃったんですか────っ?」
「がんばれぇ────!」
声をかぎりに叫ぶ人々。みなぎる熱気。振り回されるこぶし。上気した顏、顏、顏。そんななか、にいちゃん先輩だけを見つめているあたしがいた。彼はドリブルしながら相手チームの身体をすり抜けて走っていく。まるで高い林を猛スピードで抜けていくように。
「オ─────!!」
ひときわ大きな歓声が上がった。先輩が華麗なジャンプでシュートを決めたからだ。
「にいちゃんせんぱぁ────い!!」
あたしは夢中になって手をふり、叫んでいた────
先輩は、母校の中学のヒーローだった。バスケット部のキャプテンで、チームを率いていつも他の学校から優勝をさらっていたのだ。
女の子にもとってもモテてた。
バスケットをするのに背はやはりあったほうがいい。でも彼はそんなに背が高いわけではなかった。あたしより頭ひとつぶん高いといったところだ。だけど彼はそんなことまったく気にしてないみたいだった。
それと頭も短く刈り込んでいる。坊主とまではいかなくてもかなりツンツンした髪の毛だ。最近はやりのシャンプーの香りのしてきそうなサラサラヘアというわけじゃない。
(でも彼は笑顔がとってもさわやかなのよ)
あたしは先輩のこの潔い頭が好きだ。
およそ美少年とは言いがたい顔だけど、えてしてスポーツのできる笑顔の似合う人ってモテるものなのよ。あたしなんかとくに運痴だから、スポーツできる人って神さまみたいな存在だったんだ。
それなのに、ああ、それなのに────
どうして先輩、バスケットやめちゃったのよぉぉ───
「はぁ────」
あたしはトボトボと廊下を歩いていた。
とりあえず、お近づきにはなれるので先輩の『サイクリング同好会』には入会することにした。
「あたしはテニスやるんだからヤダよ」
一緒に入って、とさそったけど、さとちゃんには断られた。
「あーあ…」
今日はよくボーッとする日だ。こんな日はきっと何かやらかすぞ────誰かがそうささやいたとしてもわからなかったかもしれない。だから前から人が歩いてきてたのにまったく気づいてなかったのだ。
───ドンッ!
「痛いっ!」
悲鳴をあげてその場にひっくり返り、尻もちをついてしまった。
「ばっきゃろー!」
とたんに罵声が上がる。
「廊下のど真ん中でボーッと突っ立ってんなよな!」
(な、なんですってぇー!)
あたしは猛然と頭を振り上げた。
(げっ!)
顔が一瞬のうちに強張る。
(なんなのーこいつ!)
やたらでっかい身体に赤い髪。それになんてー目つきの悪い───眉間にシワよせて人のことにらみつけてる。
でも負けない。昔っからお前はにらむと恐いって言われてんだから。
「何にらんでんだよ。邪魔だ。どけよ」
あたしはムカ───っときた。
「ちょっと。人にぶつかっておいてそーゆー言いぐさはないでしょ」
ふんっとばかりに手を差し出す。
「手貸してくれてもいーんじゃない?」
「あにいってんだよ。そっちがボーッとしてんのが悪いんだろ。自分で起きろ!」
そいつは、そう捨てゼリフを残してさっさと行ってしまった。
「なんなのよーあいつ! くやしいー!」
座り込んだまま足をばたつかせ、これ見よがしに叫びちらす。人には見せられない恰好だとは思うが、そうせずにはいられなかったのだ。
「千鶴。なにやってんの。もお───子供みたいなことしないのー」
ちょうど通りかかったさとちゃんが、駆け寄ってきた。
恥ずかしい───顏を赤くしたあたしを彼女は手をつかんで立たせてくれた。
「さ、教室に入らないと」
「うん。でも、さとちゃんとちがうクラスで悲しいな」
しょんぼりして見せる。照れ隠しもあったかもしれない。
「なにいってんの。隣のクラスでしょ」
そんなあたしを笑い飛ばす彼女。肩をばしんと叩いてくる。
「いつでも遊びにおいで」
「うんっ」
あたしはピョンと立ち上がった。嬉しそうに彼女にうなずく。
(あたしは泣く子も黙る羽賀千鶴だぞ)
すでに赤毛男の姿は見えない。
「んべぇ────」
でもあたしは彼の消えた方向にアッカンベーをしてみせた。こんなことくらいで泣いてたまるか。
それから、さとちゃんのあとに続いてあたしは走りだした。自分のクラスに向かって。
クラスの戸は開いていた。
ここは教室棟。学校の敷地内の一番南側にある。窓は南側にあり、外を眺めるとそこは校庭だ。
一年生の教室は最上階の三階にある。二年生は二階、三年生は一階とだんだん下がっていく。あたしは最初、なんでだろうと疑問に思った。
(三年生は受験生だからかなあ)
きっと勉強のしすぎで遅刻する人が多いんだろう。
「さて…」
ということで、あたしは教室に入った。思い思いに散らばる生徒たちに目を向ける。
(なんだ。よく見てみればけっこう知ってる人がいっぱいじゃん)
なんとなくホッとする。なんだか楽しい気分になってきた。
その時!
「ぼーっと突っ立ってんじゃねー。どけよ、このボケ」
「!」
あたしは憤然として振り向いた。
(げっ!)
そこには、さっきのあいつ、あの赤毛野郎が立っていたのだ。
「なんだ、お前。さっきの目つきのわりー女じゃん」
「なんですってぇ────」
何かひとこと言い返そうとして、猛然とにらみつける。
「こらー、さっさと教室入れー」
にらみあっているふたりの間を割って入ってきた人物あり。
「わっ、センセーだ!」
慌てふためく生徒たち。みんなそれぞれの席に座る。
多少の不服はあったものの、彼らにならってあたしも机に書かれた名前をさがした。そして自分の席にびっくり仰天。
あたしは視力があまりよくない。
目が悪いからそりゃこの席はいいんだけど…でもこれはあんまり───教卓のすぐそば、それもいっちばん真ん前。それだけならまだしも────
(ゲゲゲ───ッ!)
思わずゲンナリしてしまった。
(ちょっと待ってよぉ───)
左隣にあの赤毛野郎がドッカと座りこんでるのだ。
(なんなのよお───!)
「取り敢えず席は先生が決めといたからな。目が悪くて前が見えん奴はいないかー。今なら替えてもいいぞー」
(ああー、あたしも替えてほしー)
でもいかんせんあたしも目が悪い。はっきりいって後ろの席にはいきたくない。
「………」
チラッと隣に目をやると、そこには憎たらしくなるほど『のほほーん』として座ってるあいつがいる。
(こいつはいーのかな。こんな前の席で)
とても真面目に授業を受けるような感じの男にはみえないのだけど。
あたしの視線を感じてるのかそうでないのか、その表情からはちっともわからない。
「はぁ───」
知らずため息が出る。
「おい」
あごを机につかんばかりにして前かがみになっていたあたしに、例のにっくき赤毛野郎が声をかけてきた。
(なによ)
黙ったまま目を眇める。
「お前なあ。入学式当日からシンキくせー顔すんなよな」
(あれ?)
なんでだろう。生意気そうだった声が心なしか和らいだような────
(ふむ……)
マジマジと奴を見つめた。
(こいつってば、けっこういい線いってるんじゃない?)
あたしは思った。そう、なんてったって背が高いってとこがいいかもしんない。
(でもこの目つき。どーにかならんのか)
「あんだよ。何じろじろ見てんだ」
(これこれ、これがいかん)
ムッとしてにらみつけてやった。こいつ、そーとーひねくれてんだ。すーぐ憎まれ口叩いてくるから────なんとなく先行きが不安なになってくるあたしだった。