3 綺麗な月
あの嵐のようなお昼時から早くも数日立った。
今日の業務はそこそこに村長宅で島祭の警備内容と日程確認するためにお邪魔していた。
念に念を入れて互いに満足する頃には日は沈んでおり、村長のご家族には夜ご飯食べてって!と申し出があって。ご好意に甘えさせてもらいそのまま夕ご飯をご馳走になり。村長宅を出た頃には外は群青色、白銅の半月が浮かんでいた。
外灯は少ない。ここは俗に言う田舎。
自然を大切にする割には舗装の進んでいない砂利道だって勿論ある。慢心していれば野生の動物を轢きそうになったり荒削りで角の立った砂利がタイヤをパンクへ追い込んだりもした。
……と注意をしつつも足場は暗く、自転車に取り付けられているライトの光量は頼りない。荒々しい砂利を踏みしめているとガクンッと身体が前のめりになる感覚が起きる。不意に自然が作りだしたくぼみに前輪が取られたのだ。ガッシャーンと派手な音。空中に投げ出されトゲトゲとした砂利に背中から落ちて全身に鈍痛が走り抜けた。
ひっくり返った自転車の車輪がカラカラ……と虚しい音が鳴らすそばで痛みの走る場所を誤魔化すように必死に叩いたり擦ったりする。
ったく、ついてないなぁ……。
「明彦さん?」
「!?」
後ろから降ってきた声に思わず体を強ばらせた。なぜならば昼間にしか会うことのない人物の声だったからだ。
「あ、おい……さんですか」
振り向けられない。これは恥ずかしい。
こんな恥ずかしい姿を彼女には絶対に見られたくなくて。必死に振り返らないように胡座をかく。
「そんなに……恥ずかしいですか?」
後ろにいるのにふわふわと香る石鹸の匂い。
突如、白くも柔らかいタオルで顔を拭われる。
……どうやら泥がついていたらしく、円を描くように拭かれるのを感じた。
しばらく息のしづらい状態に身を任せていれば
石鹸に混ざった熱気で蒸された草の匂いが肺に少しずつ満ちていく。静寂の中、彼女の呼吸とタオルを擦られることで自分の中に響くくぐもった音に夜風の囁き。二人だけの世界に閉じ込められたと思えるくらいに雑音はなりを潜めていた。
「さぁ、取れましたよ」
こんなことで羞恥心を煽りたくなかった。
高ぶる気持ちを落ち着ける一心で夜空を見上げたつもりがその位置には月明かりに照らされた彼女の顔があった。
「────っ!!」
込み上げてくる熱を隠しきれなかった。乳白色の肌、濡れ烏の長い髪、黒曜石のような瞳……いざとなると口は開けど言葉が出ない。
目を反らす以外で自分の気持ちを誤魔化すしか他なかった事が非常に悔しく思えた。
「明彦さん……?」
彼女の心配そうな声音。
不器用な自分の性分をこの上なく呪った。
「大丈夫ですか?明彦さん!」
初めて聞いた強い呼びかけに心から驚く。肩を強く叩かれ、ビクッとしてしまう。年甲斐もなくいじけていたのに対して腹を立てたのだろうか。
「顔……真っ赤ですよ」
気付けば目の前に回り込まれ、膝を折って近づいた彼女との距離感は自然と近くなる。
互いの額がピタリと重なり、それは見つめ合う体勢になり。当たり前のように心臓は早鐘を打ち始める。
「わ、笑わないで下さい」
くすくすと声を出さないが口元は笑みを浮かべている。葵さんはどうして余裕があるのだろう。こんなにも密着しているのに。
それとも自分がまだまだ精神が未熟である証拠なのだろうか。直視出来ない、悔しい。
「よしよし」
少し冷えた手の平が私の頭を撫でる。
こんな風に誰かに慰められたのはいつだっただろう。
「……ん」
不意に華奢な体を腕の中へ閉じ込めた。
夏とは言えこの辺りは夜になると少し肌寒くなりやすい。……ただ自分は温もりを求めただけなのだと自分を言い聞かせる。
「ふふっ……良いですよ」
鼻先に石鹸とは違うあまい香り。
つやつやとした髪が視界の端に揺れる。
見るだけだったその肌は滑らかで、手足や体全体が細くて彼女は弱いと改めて思った。
「まるで、相思相愛の男女みたいね」
何の意図でそんなことを言うのだろうか。
彼女のその意味深長な発言が、自分の中で都合の良いように膨らんでいく。
「……月が綺麗ですね」
彼女を抱き締めているせいで自分から月なんて見えない。月なんて見なくてもいい。
彼女と居れば、何だって美しく見える。
何気ないこの風景さえも愛おしく感じるのだから。
「お祭り、一緒に回りたいです」
「わかりました。近い内に予定を教えますから……あと、もう少しだけ」
やった。と耳元で喜ぶ声がする。
この女性には到底勝てない、そう悟らざるにはいられなかった。ザァーと草を撫でる風音。特別な夜、それでも彼女の肌は少し冷たかった。