98:初めて見るもの
世界とは常に均衡を保っていなければならない器だ。そこにはぎりぎりまで水が注ぎこまれており、少しでも傾けばあっという間に中身は零れてしまう。そんな不安定な状態なのが、この世界の現状である。国王とは常にこの器が傾かないよう気を配らなければならない。
目の前に置かれた色とりどりな食事。どれも国の一流料理人が調理した物であり、一般人では決して口にする事は出来ないような豪華な食事がそこには並べられていた。だがその料理は半分も口が付けられておらず、ベッドのクッションに背中を預けながら国王は年老いたため息を零した。
「……もう良い。下げてくれ」
「はっ、承知致しました」
ベッドの横に控えている使用人にそう言い、トレイに載せられた料理を下げさせる。せっかく用意してくれた料理なのにもったいないと思うかも知れないが、食べられないものは食べられないから仕方がない。国王は僅かながらの罪悪感を抱きながらもそれを口にする事はなく、クッションにもたれ掛かりながら鼻からゆっくりと息を吐き出した。
最近の国王は食事の気力すら少なくなってきている。病気という訳ではないし、年相応な変化ではあるのだが、国の現状を考えると国王が弱って来ているようにしか見えない。主に最近周りで起こっている魔物の事件がその要因だろう。兵力を導入してもその根源を絶つ事が出来ず、蜘蛛型の魔物が湧き水のように溢れ出て来るのだ。これには頭を抱えても仕方がない。何とか解決策を模索しようにも蜘蛛はそこら中から現れる為、原因を見つけ出す事が出来ない。現在は冒険者ギルドにも依頼として情報を共有しているが、進展はあまりなかった。
このままでは大量の蜘蛛達にこの国を侵略されてしまうかも知れない。それくらい蜘蛛達の増加量は著しく、侵攻の勢いは凄まじいのだ。
そんな不安を抱きながら国王は自身の長い髭を弄り、それを少しでも和らげたいのか、横に控えていた兵士長のジークへと視線を向けた。
「ジークよ。蜘蛛型魔物の対処はどのようになっている?」
「はっ、現在兵士達を総動員で動かし、付近に集まっている蜘蛛達を駆除しております。直に被害は収まるかと……」
名前を呼ばれたジークは胸に手を当て、お辞儀の姿勢のように少し頭を下げるとそう現状を報告する。
付近で確認されている蜘蛛達は既に兵士を派遣して対処を行っている。突然大量の蜘蛛が現れれば脅威だが、敵が分かっている状況で十分な準備を整えて向かえば虫型の魔物など何ら脅威ではない。自惚れでも何でもなく、正確な分析の元ジークはそう答えを導き出していた。だが、だからと言っていつものように彼は自信に満ち溢れた表情を浮かべる事は出来なかった。
「そうか……ご苦労」
国王もその事は分かっているらしく、労はねぎらうが喜びを露わにしようとはしない。ジークから視線を外した後、疲れを吐き出すかのように大きく肩を落とした。
蜘蛛型魔物は既に何十匹と駆除している。村や街で被害報告が上がる度に兵士を派遣し、冒険者達にも依頼を出した。全員が魔物に意識を向けたおかげで迅速に対処出来たのだ。だがそれはあくまでも、姿を現した蜘蛛達だけに過ぎない。何処からともなく現れる蜘蛛型魔物の根源を断ち切れた訳ではないのだ。恐らく今回も一時しのぎに過ぎず、すぐにまた新しい蜘蛛の軍勢が現れる事だろう。それを思うと気持ちが重くなるのも当然の事であった。
せめて何か情報、何故新種の蜘蛛達が現れるようになったかが分かれば現状を打破出来るのに、と国王は口惜しそうに拳を震わせる。しわだらけで枝のように細いその腕は頼りなく、握り絞めればポキポキと情けない音を立てた。
今一番必要なのは情報なのだ。どんな事態や困難に見舞われた時でもまず優先して確保すべきなのは情報。情報がなければ現状を分析する事も作戦を練る事すら出来ない。だから情報収集の為に索敵班や調査班を出すのは率先すべき事なのだ。だが今回はその肝心の情報が全く入手出来ない。代わりに入って来るのは街や村の住人が消えるという奇妙な噂と、毎日聞かされる蜘蛛型魔物の出現報告。腕利きの冒険者達にも調査を依頼したというのに成果は全く上がらなかった。完全にお手上げな状況だ。後一つだけ希望は残っているが。
「……ファルシアの方から何か連絡は入っておるか?調査の件について」
身体を傾け、先程よりも僅かに明るめの声で国王はジークにそう尋ねる。
残っている希望。それはこの国の預言者であり、青の大魔術師であるファルシア・フオロワ。彼女は今回の件の調査に立候補してくれたのだ。
普段は預言や魔術の研究で王宮に居る彼女だが、今回の騒動を見て自ら調査に出ると申し出たのだ。彼女ならきっと何かしらの情報、もしくは事件の解決へと導いてくれるに違いない。国王はそう確信していた。
「預言者様でしたら護衛に付いていた兵士達が丁度帰ってまいりました。無事目的地には着いたようです」
「うむ……そうか」
ファルシアは既に王都を立ち、調査の為にある村へと向かっていた。どうやらその目的地にも無事到着出来たらしく、国王もその報せを聞いてまるで自分の事のように安堵した。
何でもあのファルシアが頼りにしている知り合いが辺境の村に居るらしく、そこへ助力を求めに行ったそうだ。プライドの高い彼女が直々に向かうというのだから、相当信頼の厚い人物なのだろう。国王は髭を弄りながらそんな事を考えた。
(あ奴が調査の為に知り合いの力を借りたいと言った時は本当に驚いたの……今まで人を使う事はしていたが、人を頼るなどというのは初めてだったからな)
王都でのファルシアの印象は殆どの人が共通している。プライドが高く、国王に忠誠を誓うお堅い女性。規律と平穏を重んじ、どんな外敵や障害も許さない完璧主義者。大体の人々がそう思っており、そしてその印象は半分以上合っている。主である国王ですら彼女には敬意を表しており、それだけの実力がある事を認めている。だからこそ自身の側近として魔術師協会と盟約を結んだのである。
そもそもファルシアは大抵の事は一人で出来てしまう。王宮からあまり離れないのも彼女が戦力の一部とされており、国王を守る盾の一人として数えられているからだ。それだけの実力を持つ彼女の場合、誰かに頼るよりも自分でする方が物事を効率的に進められるのである。他人の力を使う時も兵士に調査や用意して欲しい物を命令する時だけで、実質ファルシアが誰かに頼るという所を国王は見た事がなかった。だからこそ今回の事は珍しい事であり、王宮の兵士達ですら気になっている程であった。かく言う国王自身もその内の一人である。
(それにしても、あのファルシアがわざわざ会いに行く程の人物とは……一体何者なのだろうか……)
ファルシアが言うには今回のような未確認の魔物の調査にはうってつけの人物であるらしく、元冒険者でその頃に交流があったらしい。と言う事は現役だった頃はさぞ名を馳せた人物なのだろう。大魔術師であるファルシアが頼りにする程だ。実力はもちろんの事今回の危険が多い調査に協力を願う事から戦いだけでなく探索の技術も持ち合わせた者と予測出来る。ファルシア自身も「あの人にならどんな依頼も頼める」と豪語する程であった。その時の彼女の表情はまるで古い友人にでも会うかのように優しく、そんな表情をするファルシアを国王は初めて見た。今度帰って来た時に名を尋ねてみるか、そんな事を考えながら国王は朗報を待つのであった。
◇
鬱蒼と木々が生い茂っている山の中。そこで一つの馬車が通っていた。馬車の先頭部分では一人の男が馬の手綱を握っている。その人物、アレン・ホルダーは頬を掻きながら小さくため息を吐いた。いくら座っているだけとは言え手綱を握っている時は神経が要るし、揺れている時は尻が痛い。この歳では疲れを感じてしまうのも当然だ。だがその辛さはもう少しで終わる。アレンは山を下りた先の遠くの街を見つめ、口を開いた。
「ふぅー、ようやく街が見えて来たぞ」
森林に囲まれ、中央部分に川が流れている特徴的な形状をした街。〈渓谷の街〉。山に囲まれた所にあり、観光名所が多い事から数々の旅人や商人が訪れる。規模もアレンが住む村よりも何十倍も大きく、建物等も相似て大きい物が多い。村の事しか知らないリーシャとルナからすれば未知の物だらけだろう。
「街ー! 着いた!? 街着いたの父さん?」
「落ち着けってリーシャ、まだ着いた訳じゃないぞ。目的地が見えて来ただけさ」
「どこどこ?どこに見えるの?」
案の定アレンの独り言を鋭く聞き取ったリーシャは荷台の所から顔を出し、アレンの背に飛び乗るようにくっ付きながら街を探す。アレンはその予想通りの行動に苦笑し、街が見える方向を指差して教えたあげた。その途端、リーシャは目をキラキラと宝石のように輝かせ始めた。
「うわぁぁ……おっきい! 凄いおっきいね。父さん!」
「そうだぞー。街ってのは村より凄い大きいんだ。王都なんかはこれと比べ物にならないくらいだぞ」
やはり初めて街を見るリーシャにとってそれは新鮮で、驚愕する程の光景であったらしい。喜びを表現するように手をブンブンと振り、子供らしくはしゃいでいる。アレンはその様子を見てやはり連れて来て良かったと思った。
「リーシャ、馬車から落ちないよう気を付けて……」
すると荷台の方からルナも顔を出し、アレンの背中ではしゃいでいるリーシャにそう注意をした。
確かに落ちたりしたら危ないし、あまりはしゃがない方が安全だろう。それを理解しリーシャもアレンの背中から離れると荷台の部分に大人しく座った。
「どうだ?ルナ。あれが街だぞ」
「うん、凄い……本で見たのと違って本当に大きいのが分かる」
アレンはルナにも感想を尋ねてみたが、彼女の場合リーシャと違ってはしゃぐような事はせず、素直に顔を頷かせながら感想を言っていた。ただしその口調はいつもよりも興奮しているようで、ルナもリーシャと同様瞳を輝かせていた。やはり初めて見る街に興奮しているようだ。
「ねー父さん! あとどれくらいで着くの?」
「んー、そうだなぁ……この距離なら後少しかな」
「私早く街の中見てみたーい!」
「分かった分かった。大人しくしてればすぐに着くよ」
リーシャはもう落ち着けない程興奮しているらしく、街の中を見学したくてウズウズしている様子であった。まぁ子供ならそれが正しい反応なのだろう。アレンはリーシャを落ち着かせ、手綱を握り直す。別に急いでも良いが、それでは馬を疲れさせるだけだし、いざという時は事故に遭う可能性もある。旅は目的地に着く時が一番危ないものだ。経験上それを知っているアレンは緊張を緩めず、道順をしっかり確認しながら馬車を進ませる。そして道がなだらかになって来たところでふと後ろに視線をやった。
「ところでファルシアの奴は何してる?」
「ファルシアさんなら馬車の中で寝てるよー。死んでるみたいでなんか怖い」
そう言ってリーシャは荷台の布を退かし、中の様子をアレンに教える。そこでは静かに本を読んでいるシェルの姿と、その横で表現された通り死んだ様に眠っているファルシアの姿があった。最初は馬車が揺れるなり気持ち悪いなり散々文句を言っていたが、今では大きく馬車が揺れてもちっとも目を覚まさない。その様子を見てアレンは小さく笑みを零した。
「きっと王宮の仕事で疲れてんだろうな。昔も時間があった時はよく寝てたし」
昔付き合いがあった時もアレンはファルシアの様子を知っていた。彼女は休憩の時や移動時間の時にはよく睡眠を取っており、身体を休ませていたのだ。恐らくは王宮での預言者としての仕事や大魔術師の研究で忙しく、殆ど眠る暇もないのだろう。故にその習慣から休める時に休んでおく為、深い眠りに付いているのだ。アレンはそう思い、ファルシアが眠っている時は出来るだけ起こさないように気配りをしていた。その時の事を思い出し、何だか懐かしい気分になる。
「毛布掛けてあげなさい。この辺りは少し肌寒いからな」
「はーい」
アレンに言われ、リーシャも素直に従って荷物の中から毛布を取り出してファルシアに掛けて上げる。シェルは何だか不満げな目をしていたが、アレンはそれに気付かなかった。
いずれにせよファルシアが眠っていてくれるのは助かる。リーシャとルナの正体を勘付かれないよう出来るだけ近く居るのは避けるべき事の為、本人が眠っていれば何ら心配はない。アレンは視線を前に戻し、手綱を操って馬達を誘導する。
「さぁて、もうすぐ到着だ。ちゃんと座ってるんだぞ」
アレンはそう言い、子供達も元気よく返事をして荷台の中へと戻る。
段々と川の匂いもして来た。道もなだらかな為、この分だとリーシャの望み通り早く到着出来るかも知れない。アレンはそんな事を考えながらゆっくりと馬車を進ませた。