83:レウィアの思い
「アラクネが……?」
シーラから言い渡された情報はレウィアにとって何よりも嫌な情報であり、最初に彼女が言った通り出来れば聞きたくないものだった。
レウィアは座っていたベッドから立ちあがり、床に飛散しているカップの破片なども気に留めず歩き潰し、数歩前に歩く。やり場のない怒りを抑えるように彼女は自身の髪を掻いた。
「ッ……何が目的であの女は人間の大陸なんかに……?」
「情報によるとアラクネ様は竜と交戦したようです……恐らく彼女の目的は手柄を立てる事でしょう」
レウィアがブツブツと呟きながら考え込んでいると、シーラもベッドから立ちあがり、テーブルにカップを置きながら冷静にそう言った。
竜との交戦。その新しく出て来た情報にレウィアは益々目を見開いて驚く。慌てふためくような動作はないが、それでも普段お淑やかな彼女なりに動揺していた。
竜との交戦などそんな簡単に出来るものではない。そもそも竜と出会う事すら難しいし、出会ったとしても壮絶な闘いが繰り広げられる事が予想されるだろう。それを行ったという事は既にアラクネには確固たる目的があるという事だ。
(あの蜘蛛女……とうとう王になる資格を得る為に動き出したか)
アラクネの目的は単純だ。要するに周りに自分が魔王となる資格がある事を証明する為に手柄を立てようとしているのである。それも他の魔王候補を頷かせるくらい大きな功績。その為なら敵国であり、因縁の国である人間の大陸で暴れるのが最も効率が良い。レウィアはそこまで考え、目を細めながらシーラの方に顔を向けた。
「それで、竜はどうなったの……?」
「互いに負傷し、痛み分けになったようです。竜は逃走……アラクネ様も人間の大陸に身を潜ませたまま、どこかで傷を癒しているのでしょう」
どうやら勝負は引き分けになったらしい。その事実にレウィアは胸を撫でおろした。
ここで魔王候補の一人が竜を倒したなどという功績を持ってこられれば色々と面倒である。それに竜の中には仲間意識が強い者も居るのだ。それで魔族が目を付けられたりすればひとたまりもない。ひとまずは穏便に勝負が付いた事にレウィアは安堵する。最も不安はまだまだ残っているが。
レウィアは窓辺の方に移動し、廃れた城下町を見下ろしながら静かに息を吐く。彼女の気がかりな事はアラクネが勝手な事をして国が危機に直面する事ではない。もっと単純で、命より大切なものを気にしているのだ。
(ルナ……)
魔王の紋章を宿し、強大な力を所持している少女ルナ。レウィアにとって彼女は妹であり、そして絶対に守らなければならない大切な人である。この事は幼馴染のシーラにも伝えてないし、知っているのは自分の忠誠心の高い部下だけである。
本来魔王候補のレウィアにとって正統後継者の証を持つルナは野放しには出来ない人物のはずである。魔王候補ならば魔王は邪魔な存在、もしくは絶好の獲物として認識し、彼女を狙う。だがレウィアはそれをしない。かと言ってルナを魔族の国に招き入れようともしないし、魔王となるよう強要する事もしない。それはルナを大切な妹と認識し、彼女に魔王などという罪深い玉座に座って欲しくないからだ。
ルナは純粋である。心優しい人間に育てられ、他種族を受け入れる環境によって偏った思考を抱くような事はしない、他者を思える優しい子に育った。そんな子が魔王候補達の争いに巻き込まれればきっと心を壊される。欲深い魔族を目の当たりにし、絶望してしまうだろう。故にレウィアはルナを魔族の国の問題に巻き込みたくなかった。人間の大陸で、暖かい家族に囲まれながら静かに暮らしていて欲しかった。だがそれを踏みにじる要素が今回零れ落ちてしまったのである。
(アラクネはルナの存在に気づいてはいないと思うが……もしも人間の大陸で奴が暴れればルナの方が気付いて、接触してしまうかも知れない……)
可能性は低いが、アラクネとルナが出会ってしまうなんて状況があるかも知れない。アラクネがまず竜と交戦した事から魔王が人間の大陸に居る事は気付いていないようだが、それでも万が一と言う可能性があるのだ。それにルナの性格を考慮すれば、大陸で暴れているアラクネを放っておけず、接触しようとする可能性もある。それは出来れば止めたい。
「どうしますか?今なら部隊を出動させて呼び止める事が出来るかも知れませんが……」
「あの女がそれくらいで止まる訳がない。かと言って私が出るのも……」
シーラは部隊でアラクネを制止する事を提案するが、レウィアは静かに首を横に振るう。そして彼女自身も案を出すが、その案がどれだけ実現性の低いかは自身でも分かっていた。シーラも思い詰めるようにため息を吐き、口を開く。
「魔王候補が独断で他の大陸に行く事は禁じられている……もしもここでレウィアも人間の大陸に行けば、それを皮切りに次々と他の魔王候補も人間の大陸に乗り込むでしょうね」
アラクネ一人が勝手に人間の大陸に侵入するならまだしも、それを止めにレウィアまで追い掛ければ魔王候補が二人も人間の大陸に入った事になる。そうなれば他の魔王候補達はそれを指摘し、非難するだろう。そして自分達も人間の大陸に入らせろと言い出し、次々と侵入して来るはずだ。そうなったらもう戦争である。魔王が決まるまで彼らは大陸を破壊し尽くす。
レウィアは溜め込んだ怒りが爆発したかのように拳で壁を殴りつける。僅かに部屋全体が揺れ、天井にぶら下がっていたシャンデリアが音を鳴らした。そんな静かな怒りを見せるレウィアに気圧されたようにシーラは困った笑みを浮かべる。
「どうせあの蜘蛛女、遊びたいからだとかそんな理由で人間の大陸に入ったんだ……」
「アハハ……そうかも知れませんね。アラクネ様は自由な方ですから」
「そのせいでこの国が崩壊したらどうするつもりなの」
アラクネは自由奔放な魔族である。魔王候補という重要な立場でありながらその重みを自覚しておらず、ただ気に入らないという理由だけで他種族を滅ぼしたりする事もあった。彼女は力さえあれば何をしても許されると本気で思っているのだ。魔族の場合その節はあるが、彼女は極端過ぎる。
「数は……?」
「一人……ですがあの方の場合は関係ないでしょう」
レウィアはアラクネが何人で、もしくはどんな勢力を率いて人間の大陸に向かったのかを尋ねた。その問いに対してシーラは手の平を上げ、呆れたようにため息を零す。アラクネの場合、人数など然したる問題などないからだ。
「全ての蜘蛛の長、黒緋の蜘蛛……〈最悪の魔王候補〉と呼ばれる、最も出会いたくない魔族、か」
窓際に寄り掛かりながらレウィアはアラクネの呼び名を呟く。
自身が最強の魔王候補と呼ばれるように、彼女にも別の呼び名が与えられている。それが最悪の魔王候補。魔王候補の中でもとびきり狂っており、均衡を崩す一番危険な振舞いをする事からそう呼ばれるようになった。しかしアラクネ自身はそれを気にした様子は見せず、むしろ歓迎しているようであった。レウィアは歯を食いしばり、苛立つように拳を握り絞める。窓から見える廃れた景色はいつもより暗く見えた。
「……どうなさるつもりですか?レウィア」
「…………」
レウィアが呆然と景色を眺めていると、シーラが心配したように歩み寄ってそう話し掛ける。レウィアはしばし黙ったまま神妙な顔つきをしており、やがてゆっくりとシーラの方へと振り返った。
「ひとまずは情報を集める……今はそれしか出来ない」
今のレウィアは迂闊な行動を取る訳にはいかない。感情を優先してアラクネを追い掛けるような事をすれば、たちまちこの国の均衡は崩れてしまう。それに守らなければならない民も居るのだ。だからレウィアはまず有力な情報を得る事から始める事にした。
そんな辛い決断を下したレウィアを、シーラは静かに見守っていた。
「……レウィア、何か困った事があったら私に言ってください。宰相秘書と魔王候補と言えど、私達は親友なんですから」
「有難う……シーラ」
レウィアの不安を察し、シーラはそう助言した。本当なら宰相秘書が一人の魔王候補を助ける事すら禁止されているのに、それでもシーラをレウィアの事を助けたいと言った。その優しい言葉を掛けられ、先程まで暗い表情だったレウィアの顔が少しだけ明るくなった。相変わらず幽霊のような生気の少なさだが。
その後、シーラと別れたレウィアは何とかアラクネを引き戻す方法はないかと考えた。部下を使う、別の勢力に応援を頼む、緊急の手紙を送る。可能な限りに方法を思い浮かべる。しかしそのどれもが大した効果を示すものではないと判断し、彼女は疲れたように肩を落とした。
とにもかくにもアラクネを前にした場合、言葉で呼びかけるなど水を掴もうとするのと同じである。何を語り掛けたところであの狂った女には届きはしない。アラクネの目に映るものは全て自身の餌でしかないのだから。
「くっ……アラクネの奴、勝手な事を……」
「お落ち着きください。レウィア様」
苛立つレウィアを後ろで控えていた部下がそう声を掛ける。レウィア自身もここで鬱憤を晴らそうとしたところでそれは無意味な事は分かっている為、苛立ちを落ち着かせる為に息を大きく吐いて自分のベッドに腰を下ろした。
「せめてアラクネが宰相に許可を求めるとかしてくれれば、こっちにも引き留める時間があったのに……」
許可が下りるとは思えないが手順通りにやれば宰相から他の大陸に入るのを許される事もある。そうなれば他の誰にも咎められず堂々と大陸で暴れる事が出来るが、気性の荒い魔王候補達がそんな面倒な手順を踏む訳がない。
レウィアは考える。どうしたらこれ以上面倒な問題を起こさずに事を収拾する事が出来るか。どうすればルナが危険な目に遭わずに済むかを。
「でしたら、宰相にご相談なさったらどうです?あの方なら正式にアラクネを止める許可を与えてくれるかも知れませぬぞ」
「あんな奴に頭を下げるのは御免……それに、あの人は魔王候補より立場が上って訳じゃない。そこまでの権利は持ってない」
部下の魔族は宰相を頼れば良いのではと案を出すが、レウィアは首を振ってそれを拒否した。
そもそも宰相と魔王候補は地位的に見れば同じ位置に居るのだ。魔王が居ないこの国の一時的に政治を任されている人物であり、国が崩壊しない為の支えに過ぎない。その間に魔王候補が勝手な事をしようと、宰相にはそれを止める権限はない。
「仕方ない、ひとまず偵察用の影鳥達を出して。大陸のどこにアラクネが居るか、あぶり出す」
「はっ、承知致しました」
何にせよ目標がどこに居るかを確認しなければ始まらない。まずは目を揃える為にレウィアは偵察班を放つ事にした。本当はこれも勝手にやってはいけない事なのだが、今はそんな事気にしている暇はない。とにかく情報が欲しいのだ。
「何か分かった事があったらすぐに私に報せて。良いね?」
「もちろんで御座います。我が主よ」
「ん……それと、この事はくれぐれも外に漏れないように」
「はっ、心得ております」
大体の指示を部下に伝え、レウィアは確認を取る。部下の魔族も深々と頭を下げて改めて忠誠心を示す。それを見てレウィアも満足げに頷いた。全てを任しているのも彼を信頼しているからこそだ。魔王候補のレウィア一人では出来ない事もある。だが仲間が居れば、その足りない部分を補う事が出来る。レウィアはそれを承知していた。
「レウィア様、失礼致します」
ふと部屋の扉がノックされる音が響く。レウィアが入れと言うと扉を開けて一人の魔族の男が入って来た。使用人の一人だ。彼はレウィアの事を見ると膝を付き、頭を垂れた。
「どうしたの?」
「南地区の者達より報告です。暴獣種の魔物が現れ、被害が甚大だと」
「はぁ……またこれか」
使用人の報告を聞き、レウィアは頭を抱えた。
城下町は巨大な壁に囲まれており、地区ごとに更に細かい壁で分ける事によって敵に侵入されないようにしている。しかし町のすぐ外には凶暴な魔物が多く住みついており、最近気性が荒くなってきている魔物達は壁を飛び越えたり、破壊して入り込んで来る事があった。魔族と言えど戦えない者も居るし、魔物が凶暴過ぎる事もある。それらを鎮圧するのも力ある者の務め、つまり魔王候補である。
「すぐに向かう。案内して」
レウィアは常に腰に携えている魔剣を握り絞めると、そう言って使用人と共に部屋を出た。
魔王候補の彼女には休む暇がない。気がかりな事ばかりだというのに、一つ一つを対処している暇がないのだ。レウィアは己の細かすぎる性格を呪い、気分を誤魔化すように髪を指で弄った。




