82:暗黒大陸
…………黒く穢れた、欲望の世界。〈彼女〉はその世界で生まれ、他者の欲望を見ながら育った。そこでは常に争いが起こり、犠牲が出ていた。流れる血は泥のように濁り、嘆き叫ぶ声は業火の音へと変わる。そこに希望などなく、光もない。ただただ欲望の闇だけが広がり、全てを覆いつくす。
故に、生まれた希望を穢す訳にはいかない。この欲望だけが蔓延した世界に染める訳にはいかない。きっとソレが、世界を変えてくれる……。
彼女は望む。変革を……例えその瞳に、もう光が映らないとしても。
暗黒大陸。そこは人間の大陸とは海で隔たれた魔族達が住まう闇の大陸。地形や生息している魔物、植物なども大きく種類が違い、何よりも危険が多い。生息している魔物は殆どが人間の大陸に生息している魔物とは比べ物にならない程強く凶暴で、特に尋常じゃない程数が多い。暗黒大陸という過酷な環境が凶暴な魔物達を繁殖させたのだ。その結果この大陸では人間の大陸以上に弱肉強食の世界を象徴している。そんな力だけが物を言う世界で頂点に立つ種族が、魔族。人間よりも長寿で、体内に強力な魔力を持った邪悪な種族。彼らは大陸の中心に巨大な城と街を築き、そこで暮らしている。
魔族の国に王は居ない。それは魔族なら誰もが知っている事で、一部ではそれが当たり前と考えている。何も疑問を抱かない幼い子供が居る程だ。だがこれは明らかに異常であり、現に王という民を導く存在が居ない事によってこの国は目指すべき方向を見失っている。指導者が居ない事で国の在り方が低迷し始めているのだ。
だからと言ってすぐに王を決めるのもまた難しい。何百年も前なら魔王の紋章を持つ者が王となるのだが、百年前の大陸戦争によって前魔王が亡くなって以来、次なる紋章を持つ者が現れなくなったのだ。こうなれば魔族達は自分達で魔王となる者を選ばなくてはならない。だが如何せん力が全てと考え、欲深い彼らは誰もが魔王になりたいと願い、そして争った。幾つもの勢力に別れ、互いに威圧し、同胞同士で血を流し、王の座を奪い合う。これを繰り返し、現在は〈魔王候補〉と呼ばれる実力者達の無言の睨み合いによって落ち着いてる。そして王が居ない代わりに国の事は臨時で宰相が行う事となった。この国は今、自分で自分の首を絞めた状態のまま、絞首台に上り掛けているという破滅しかない未来を歩んで保たれているのだ。
この事にレウィア・ウル・ルーラーは無言の涙を流す。
最強の魔王候補と呼ばれている彼女だが、それはあくまでも周りが付けた評価に過ぎず、彼女自身は魔王という玉座にそれ程関心がある訳ではない。むしろ魔王候補達の争いによって流れる血を悲しみ、戦いに巻き込まれてしまう民達に罪悪感を抱いていた。それでも彼女が魔王候補の座に居続けているのは、他の魔王候補達を抑え込んでおく為だ。彼らは自分が魔王にふさわしいと主張する為に力を見せつけ、他の大陸を攻め込んだり、他の種族を攻撃したりする。そんな者達を野放しにしてれば、すぐにでもこの国は崩壊してしまう。故にレウィアは自分という最強の魔王候補が居座る事によって、他の魔王候補が自分勝手に動けないようにしているのだ。最も、その効果は時が経つに連れ徐々に弱まっているが。
ある日、レウィアは城下町を歩いていた。空は暗雲に包まれ、光を通さない。並んでいる建物も薄汚く、まるで戦争でもあったかのような酷さ。歩いている道も尖った石ころが転がっていたり、時には崩壊した建物の残骸が散らばっている。レウィアは普段着のドレスの上に纏っているマントに付いた埃をそっと払った。
「また作物が実らなかったよ……あそこの土は血が染み込み過ぎてる……」
「魚も駄目だ……凶暴な魚竜種の魔物が棲みついちまって漁なんかできやしねぇ」
大通りを歩いていると横から魔族の民達の声が聞こえてくる。どうやら収穫があまり良くなかったらしく、ただでさえ青い魔族達の顔は更に生気のないものとなっていた。
レウィアはそれを横目でチラリと見て通り過ぎていく。彼女は今フードを被っていない。その為民達はレウィアの存在には気付いていたが、誰も彼女に声を掛けようとする者は居なかった。建物の隅に座り込んでいる老人の魔族も、悲し気な表情を浮かべながら赤子を抱いている女性の魔族も、レウィアが通り過ぎても何も言わない。そんな気力すら彼らにはないのだ。
「聞いたか?また魔王候補達の争いで村が一つ滅んだらしいぞ」
「ああ……東の方にある村だろ。酷い話だよな」
ふと横から男の魔族達のそんな会話が聞こえてくる。魔王候補という言葉にレウィアは少しだけ反応したが、いつも聞く内容だった為、そこまで興味を示さなかった。
魔王候補達は毎日と言っても良い程争いを行っている。ただし争いと言っても表立った戦などではなく、裏で行う小競り合いだ。今回は一つの村がそれに巻き込まれ、滅んでしまったらしい。
レウィアはもう何度目になるか分からない言葉には出来ない怒りを心の中に抱いた。だがそれを口にしたところで無駄である事は分かっている為、彼女はその儚げで幽鬼のように静かな表情を僅かに歪め、唇を噛みしめた。
「レウィア様」
そのままその場所も通り過ぎようと思った時、突然レウィアは誰かに呼び止められた。振り返って見てみるとそこには少年と少女の魔族がちょこんと立っていた。顔立ちが似ている為兄妹だろう。しかしその見た目はみすぼらしく、髪はボサボサで着ている服も布で無理やり仕立てたような物だった。
「食べる物がないの。何かちょうだい」
「お願いしますレウィア様。僕は良いから妹だけにでも……」
兄妹は食べ物を恵んで欲しいらしく、妹の方は両手を出してレウィアにお願いして来た。それを聞いてレウィアは少し悩んだ跡、マントに裏にあるポケットを探って紙に包まれた飴玉を取り出す。
「今は……これしかないの。これで我慢してくれる?」
「わぁ! ありがとう、レウィア様」
レウィアが飴玉を差し出すと妹の方は嬉しそうにそれを受け取る。そしてコロンと小さなお口に飴玉を投げ入れ、美味しそうに味わった。兄の方もそれを見て自分の事のように嬉しそうに笑っている。
「ほら、君も」
「えっ……良いんですか?」
「男の子は食べないと大きくなれないよ」
「あ、有難うございます……!」
レウィアが兄の方にも飴玉を差し出すと、彼は意外そうな顔をしていた。遠慮気味だったのでレウィアは無理やり彼の手の中に飴玉を渡す。すると恥ずかしそうに顔を赤らめながらも頭を下げてお礼を言い、兄も飴玉を口に入れた。兄妹の口の中で飴玉をコロコロと転がす音が聞こえてくる。
こうして兄妹は改めてお礼を言うと走り去っていった。レウィアもそれを見送り、また歩き出そうとする。するとまた彼女を呼び止める声が聞こえて来た。
「レウィア様」
「ああ、お前か」
レウィアが横に視線を向けるとそこには老齢の魔族の男が彼女に歩み寄って来ていた。燕尾服に似たスーツを着こなし、しわは多いが背筋も曲がっていない体格の良い男性。彼はレウィアの部下であり、側近に近い存在である。ただしレウィア自体の実力が高い為、そこまで側近は必要とされていない為、主に事務的な仕事や伝達が彼の役目となる。その男はレウィアの前に立つと胸に手を当てて律儀にお辞儀をした。
「民を助けるのは良い事ですが、この国に王が現れない限りそんな事をしても切りがないですぞ」
「分かってる……分かってるよ」
部下の忠告を聞き、レウィアは相変わらず儚げな表情を浮かべながら頷く。
自分がやっている事に意味がない事は理解している。あの子達に食べ物をあげたところでそれは一時しのぎに過ぎない。彼らはすぐにまたお腹が空き、ひもじい思いをするだろう。その状況を打開するにはこの国自体を変えるしか方法はないのだ。ただしそれが、一番難しいのだが。
(一番良いのは王が決まる事だが、私が王になろうとしたところで血は流れる……犠牲が少ないのは魔王候補達が対立し合っている今の状況だけど……それでも破滅の道を進んでいるのには変わりない……)
レウィアは暗雲の空を見上げながら考える。どうすれば争いもなく、平和の時を過ごす事が出来るかを。
レウィアにとって今の状況は悲しくもあるが、その代わり大きな犠牲も出ない最低限の安全を確保を出来ている状況であった。血を流す者が居るとしても魔王候補達が正面から争い合っていた時と比べればかなり少ない。何より魔王候補達が表立って争わない為、一応はこうして国が成り立っているのだ。歪な形をした積木の上に載せられている状況だが、それでも民達は生きていける。それが本人達にとって幸せな事かは分からないが。
「レウィア様、参りましょう」
「……ああ」
部下に言われ、レウィアは歩き始める。向かうは主なき城、魔王城。竜が何十頭も入れるくらい巨大で、城下町と同じくらいの規模がある禍々しい城。レウィアはその天高く聳え立っている城に軽蔑の視線を向けながら向かった。
この国の宰相は少し特殊である。本来は最高大臣という官職なのだが、他の大臣が存在しない事と現在の役割を考慮して宰相と呼ばれている。この人物は面白いくらい欲がないのだ。
代理とは言え国を纏める仕事を任されているのだからそれは王と同じと言っても過言ではない。権利はないがその力を扱う事は出来る。そうなればこの国を支配し、自分こそが魔王となろうと考えるはずである。普通の魔族ならば。しかし今の宰相は何故かそんな欲がなく、魔王候補達が争っている間だけ国を滅ぼさない為に国を纏める、という中立的な立場を取っている。この事には他の魔王候補達ですら不気味と感じる程であった。
魔王城に着いたレウィアはその薄暗く、人気のない通路を部下と共に歩き続ける。普通の城なら従者や兵士、他にも様々な人物が忙しそうに歩き回っているはずだ。だがこの城にはそう言った活気は微塵もない。空が暗雲に包まれているせいで光もろくに入って来ない。それでも明かりを付けないのは経費削減の為と聞いたが、宰相がそんな事をいちいち気にするとはレウィアには到底思えなかった。彼女は若干不機嫌そうな表情で通路を歩く。すると彼女の部屋の前に誰かが立っていた。
「こんにちは、レウィア様。本日も相変わらず空は暗雲に包まれていますね」
「シーラ・ドール……」
その女性は真珠のように白く輝く瞳に、美しいベージュ色のさらさらとした髪を肩まで伸ばして整え、引き締まった顎に長いまつ毛と全体のパーツが綺麗に並んだ容姿をしていた。同性のレウィアから見ても心から美人と言える。服装は黒のリボンの付いたヘアバンドに、真っ黒なメイド服に身を包み、黒の手袋をしている。レウィアとは対照的に明るい笑顔が似合い、現に今その真珠の瞳を輝かせながらレウィアに笑い掛けている。
「お前は下がってろ」
「はっ……」
レウィアは後ろに控えていた部下を手であしらい、下がらせる。そしてその場から部下が居なくなり、レウィアとシーラの二人だけになると彼女は小さくため息を吐き、耳の部分に掛かっている自身の真っ黒な長い髪を掻き分けた。
「それで、宰相秘書が何か用?シーラ」
「はい。少々お耳にして欲しい案件がありまして……」
「分かった。とりあえず入って」
レウィアが尋ねるとシーラは口元に手を当てて内緒ですよと言わんばりのポーズを取る。むしろそんなポーズを取った方が怪しさ満点なのだが、レウィアは別に言及せず、彼女を自分の部屋に招き入れた。
レウィアの部屋は至極簡素である。他の魔王候補達は自分用の塔や城、中には洞窟に住んでいる者も居たりするが、レウィアはウル家の者の為、この城に部屋が用意されている。だがその部屋はただ広いだけで必要最低限の家具しかなく、とても寂しい風景であった。そこはシーラもよく訪れた所である為、別に驚きもせず部屋の奥に入って行く。
「レウィアの部屋は相変わらず殺風景ですね。今度ぬいぐるみでも持って来ましょうか?」
「勘弁……私がそういうの興味ない事は昔から知っているでしょう?」
「まぁ、幼馴染ですからね」
改めてシーラ・ドールは宰相秘書である。そしてレウィアの唯一気の許せる女友達であり、幼馴染である。
彼女は宰相がどこから連れて来た子供で、優秀な魔族であった。その為幼い頃から宰相のお手伝いとして働かされていたのだが、その途中でまだ子供だったレウィアと出会い、二人は仲良くなったのだ。それ以来二人は宰相秘書と魔王候補という立場に関係なくこうしてくだけた会話をする間柄だった。
「嫌なものね。幼馴染の貴女とも、皆の前では宰相秘書と魔王候補って関係で話さなくちゃならない……」
「仕方ありませんよ。私は中立的な立場ですから、魔王候補の方々全員に平等でなくてはならないんです。レウィアと表立って親しくしてたら贔屓だと言われてしまいますからね」
宰相や宰相秘書の立場はあくまでも国を動かす臨時の仕事であり、魔王候補達にもそれぞれ伝達を行ったりする。特に宰相秘書は中間管理職に近い立場にあり、その役であるシーラは他の魔王候補達に指示や報告を言いに行く仕事がある。そんな中魔王候補の一人のレウィアと特別仲良くしていれば、宰相がレウィアを贔屓していると言われ、途端に均衡が崩れてしまうだろう。そうならない為にレウィアとシーラは出来るだけ外では仕事上の関係を貫いているのだ。
「宰相様の調子はどうなの?どうせあの人の事だから、適当な仕事ばかりしてるんでしょう?」
レウィアは手慣れた手つきでカップとポットを用意し、お茶を淹れ始める。一応シーラは魔王候補達のサポートをする役目も与えられている為、その仕事は自分がやると言ったが、レウィアは今は友達として接していると言い、その申し出を蹴った。お茶が淹れ終わるとレウィアはカップをシーラに手渡し、ベッドの上に座る。シーラもその隣にポスンと座った。
「フフ、そうですね。確かに少し抜けているところはありますよ」
「シーラも大変だね……そんなのの秘書をやらされて」
「いえいえ、楽しいですよ」
熱いお茶を啜り、シーラも一口お茶を口に含む。その飲み方はメイドをしているだけあって上品で、作法もしっかりとしていた。
シーラは優秀だ。仕事も完璧にこなし、何より実力もある。そんな彼女もまた宰相と同じく欲がなく、誰かのサポートをするだけに留まっている。その点だけは長い付き合いのレウィアも多少疑問に思っていた。レウィアの場合は犠牲を出したくないから王を目指さないだけだが、シーラは何故宰相秘書という立場で居続けているのか?レウィアは静かにお茶を啜る。
「それで、話って何?」
お茶を半分まで飲み終えたところでレウィアは最初のシーラの用事の事を思い出し、そう尋ねる。シーラーもカップから口を離し、レウィアの方に顔を向ける。
「ああ、そうでした……少々言いたくない事ではあるんですけどね……」
「……?どういう意味?」
「厄介事……と、言う事ですよ」
急にシーラは眉を曲げ、複雑そうな表情を浮かべて口元を手で隠す。その妙な動作にレウィアは首を傾げた。一体どんな事だと言うのだろうか?あのシーラがここまで微妙そうな顔をするのだから余程の事なのだろう。
シーラーはお皿の上にカップを置き、一度咳払いしてから改めて口を開く。そしてレウィアは、聞かなければ良かったと後悔した。
「魔王候補の一人、アラクネ様が人間の大陸に侵入しました。これは索敵のガーゴイルで調べたので、確かな情報です」
魔王候補は基本勝手に他の大陸に侵入する事は禁じられている。もちろんそれに素直に従う魔族など居る訳がないが、それでも表立って堂々と侵入するような馬鹿はいない。現に前回レウィアが人間の大陸に入ったのもシーラには伝えていないし、誰にも気づかれないように最低限の人数で向かった。全ては妹のルナを見つける為に……。そのルナが居る人間の大陸に、魔王候補の一人であるアラクネが向かった。それを聞いてレウィアが冷静でいられる訳がなかった。彼女は手に持っていたカップを落とし、床から虚しい音が鳴り響いた。




