51:廃れた屋敷
アレンの家の庭である二人の少女が走っていた。例の如くリーシャとルナだ。リーシャは子供ながらも風を切る勢いで黄金の髪を揺らしながら芝生の上を駆け、普段は激しい運動などしないルナも遅れながらリーシャの後を追っていた。息を切らし、彼女の白い肌からはたくさんの汗が流れている。それでも何とか顔を赤くしてルナはリーシャに追い付こうと走っていた。
「ぬおーー! 待てーー!」
「リ、リーシャ、待って……そんなに、速く……っ」
何故リーシャ達がそんな鬼気迫る勢いで走っているのか?それは彼女達の視線の先にある物が理由であった。リーシャ達の視線の先で走っているのは小さな白い猫。後ろから凄まじい勢いで追って来るリーシャとルナを見ても気にも留めず、伸びてくる手を悠然と躱し、また遠くへと走り去ってしまう。リーシャとルナはこの白い猫を捕まえようとしているのだ。
「ナ~」
「ぬぐぐっ……あの白猫、絶対私達の事馬鹿にしてる……!」
「はぁ……はぁ……さっきから、わざと立ち止まって私達が捕まえようとした所を、颯爽と躱したりしてるもんね……」
捕まえようとリーシャが伸ばした手を華麗に避け、クルクルと宙で回転して芝生の上に音もなく降り立つと、その白猫は再び別方向へと走って距離を広げてしまう。白猫に避けられたせいで思い切り地面に顔を打つ事になったリーシャはそれでもへこたれず、悔しそうに歯ぎしりをしながら白猫の事を睨んだ。その後ろでようやく追いついたルナも膝に手を付けながら肩で息を切らし、白猫の方に顔を向ける。白猫は十分距離を取ると切り株の上に飛び乗り、欠伸をして自分の背中の毛をペロペロと舐めていた。余裕の態度。その様子を見てリーシャは益々悔しそうに拳を握った。
「こうなったらどんな手を使ってでも捕まえてやる! 行くよ、ルナ!」
「え、ええ~? ま、待ってよリーシャ……!」
こうなったら意地でも捕まえてやると決意を固めたリーシャは拳を突き上げながらそう宣言し、再び猫を捕まえる為に走り出す。ルナはもう殆ど疲れ果てていたが、それでも一人突っ走るリーシャが不安の為、ヘロヘロになりながらも彼女の後を追い掛けた。その様子をアレンは家の窓から眉を曲げながら眺めていた。
「……リーシャ達は何をしてるんだ?」
「何でも猫を捕まえようとしているらしいですよ。村人が飼ってたのが逃げちゃったとかで、それを捕まえて欲しいって頼まれたんですって」
「ふ~ん……」
思わずアレンがそう疑問を口にすると、近くで籠一杯に入った洗濯物を運んでいたシェルがそう説明した。彼女は干していた洗濯物を取り出している時に走り回っているリーシャと会い、話を聞いていたそうだ。
どうやら村人の一人が飼っていた猫が逃げてしまい、困っていた所を偶然リーシャが通り掛かったらしい。当然優しいリーシャは自分が捕まえてあげるよと約束し、こうして今に至るという訳だ。
「だからって勇者と魔王が二人掛かりか……」
「フフ、それを逃げ続ける白猫はかなり凄い猫かも知れませんね」
窓のふちに肘を付きながらアレンが呆れたようにそう呟く。シェルもそれに同調するように頷きながら小さく笑みを零し、そんな冗談を言った。
実際の所猫を捕まえるのに勇者やら魔王やらの称号は関係ないと思うし、ましてやまだ子供のリーシャやルナの小さな身体ではすばしっこく動き回る猫を捕まえるのは至難の業であろう。それでもあんなに夢中になって追いかけまわすリーシャ達の姿を見るとアレンはついつい面白がってしまうのだった。
「先生も手伝ってあげたらどうですか?王都に居た頃は犬探しとかの依頼もやってたじゃないですか」
「アレは知り合いに頼まれたからやっただけだ。というか、この歳であんなすばしっこいの捕まえようとしたら腰に来る」
「ええー、先生はまだお若いですよ」
アレンが王都に居た頃はギルドでも迷子の犬探しや猫探しと言った依頼もあった。最もそれは大した報酬がある訳でもなく、本当にただのお願い事と言った感じの依頼なのだが、アレンも知り合いにそういう依頼を頼まれる事が多々あった。故にシェルに言われた通りリーシャ達を手伝ってあげても良いのだが、あんな小さな動物を捕まえようとすれば腰に悪いのではないかと不安に思ってしまい、腰をトントンと零しながらそう弱音を吐いた。するとシェルはそんな事はないと首を振り、お世辞なのかは分からないが励ましの言葉を投げ掛ける。アレンは弱々しく笑う。その間にもリーシャ達は白猫を追い掛け道の方へと飛び出して行った。
「待てーー! 猫待てー!」
「はぁっ……はぁっ……待って……リーシャ」
白猫は木箱や柵を利用してひょいひょいと狭い道を通り過ぎて行き、リーシャとルナはその障害物に引っ掛かりながら猫の事を追い掛け続ける。ルナは既に体力切れなのか大きく息を乱し、リーシャの大分後ろの方を走っていた。
「う~、すばしっこい奴め……ルナ! 何か良い案ない?」
「えっと……あっちの方向だと建物が密集して行き止まりの箇所があるから、そこに追い込もう」
「ん、分かった!」
このまま走っているだけでは捕まえられないと判断したリーシャは遅れてやって来たルナにそう問いかける。ルナは額から汗を垂らして疲れ切った表情をしながらも顎に手を当てて考え、一応の作戦を提案した。リーシャはその案に満足げに頷き、二人で誘導するように白猫を追い掛ける事にした。
ルナが若干遅れているものの作戦通り二人で追い込んでいる為、白猫はリーシャ達の思惑通りの道を進んで行く。やがて白猫は木箱が密集した地帯に入り込んだ。周りは建物もある為行き止まり。完璧に包囲されている状況だった。リーシャは勝利を確信したように笑みを浮かべる。
「ナ~」
「よーし……もう逃げられないわよ」
白猫は包囲されている状況を分かっているのか分かっていないのか、お上品な態度でしゃなりしゃなりと歩き、木箱の上に飛び乗る。そしてそのつぶらな瞳をリーシャの方へ向けた。リーシャはそれが余裕の態度なのだと悟り、警戒しながらゆっくりと白猫に近づく。そして手を広げると。
「捕まえた!」
一気に距離を詰めて飛び掛かるように白猫を捕まえようとする。しかし白猫は木箱の上で跳躍すると華麗にリーシャの手を避け、彼女の頭をポンと蹴るとそのまま反動を利用して壁を蹴りながら建物の屋根の上へと飛び移って行った。当然目標を見失ったリーシャは辺りに密集している木箱に突っ込む事となり、彼女は声にならない悲鳴を上げた。
「ひぇっ……!?」
「リーシャ!?」
後ろからようやく追いついて来たルナは思わずリーシャの名を叫ぶが、当然それで止められるはずもなく、リーシャは綺麗に無数の木箱へと突っ込んだ。盛大な音を鳴らしながら辺りに木箱が転がり、ルナはそのあまりの痛々しさに思わず目を瞑ってしまう。そして音がやんでゆっくりと目を開くと、目の前ではリーシャが木箱の間に顔を突っ込ませ、動けない状況になっていた。
「ううぅ……あの白猫め……こうなったら本気出してやる。ルナも魔法使って」
「えぇ……猫相手にそこまでしちゃう?」
「絶対に捕まえる為なの!」
木箱から顔を引っこ抜くとリーシャは拳を握り絞めながらそう宣言した。どうやっても捕まえられない猫を遂には魔法まで使って捕まえようと言うのだ。ルナはその大人げなさ過ぎるリーシャの態度に呆れたようにため息を吐くが、確かにこのままでは捕まえられないのも事実ではある為、簡単な魔法で猫を追い詰めようと考える。
「ふぅ……猫はどっちの方向行った?」
「屋根に飛び移っちゃったから正確には分からないけど、方角が正しいなら多分あっち」
ルナの手を借りながらリーシャは立ち上がり、白猫が逃げて行った方向を確認する。そしてリーシャは木箱の近くに置いてあった縄を手にすると、再びルナと共に猫探しを始めた。
幸い白猫は隠れるような事はせず、すぐ見つける事が出来た。日向ぼっこをしたり、虫を追い掛けたりと相変わらず余裕の態度を取っている。そしてリーシャ達の姿を見ると白猫も再び逃げ出し、村の木々が生い茂っている奥の方へと走り去っていった。リーシャとルナもその後を追う。
「村の奥の方行っちゃったね……あそこは木々が密集しているだけで放置された場所って皆は言ってるから行った事ないけど……」
「あそこかぁ……私も入った事ないんだよねー」
「子供達もお化けが出るって近づかないくらいだしね……本当に行くの?リーシャ」
「もちろん! じゃないと猫が捕まえられない」
丁度木々が生え始めている所で二人は立ち止まり、ルナがそう声を掛ける。リーシャもそれに賛同するように頷きながら、木々が集まって先が暗闇になっている所を見て僅かに目を細めた。
別に行く事を禁止されている訳ではないが、子供達からすれば村には他に遊び場所はたくさんある為、好んでこんな薄暗い場所を訪れようとはしない。だが白猫が入って行ってしまった以上、リーシャとルナはこの不気味な森の中に入らなければならなかった。リーシャは勇気を絞り出し、一歩前に踏み出す。
そこは予想通り木々が密集し、葉が集まった事で日差しを通さない暗い空間だった。隙間から零れている僅かな日差しが唯一の明かりで、昼間にも関わらずそこは真夜中のようであった。リーシャとルナは慎重に進んで行く。時折吹く風の音は誰かの弱々しい悲鳴のようで不気味であった。
「猫はどこだろ?」
「あっ、あそこ!」
大分奥の方まで進んだが中々猫が見当たる、リーシャの後ろで怯えるように辺りをキョロキョロと見ていたルナがそう呟く。すると同じように猫を探していたリーシャがある一点を見つめて指を差した。そこには確かにあの白猫が歩いており、リーシャ達が追い掛けて来た事に気が付くとサッと走り出し木々の根の隙間を抜けながら更に奥へと逃げて行った。
「追いかけるよ!」
「う、うん」
リーシャもすぐさま走り出して木の根っこを飛び越える。ルナも遅れて後を追い、更に暗い森の中へと入って行った。
やがて白猫は木々が少し少なくなった空間へと辿り着く。リーシャ達も草を掻き分けてそこまで追い付き、思わず足を止めた。
「え……」
「これって……」
ルナが呆気に取られたような声を漏らし、リーシャも顔を上げて信じられない物でも見たかのように声を震わせる。
その木々が開けた場所にあったのは屋敷だった。ボロボロで苔もこびり付いており、植物の蔓が無数に絡まった廃墟と言っても過言ではない程汚い屋敷。人が住んでる様子など全くなく、何十年も手入れをしていないようであった。まるで幽霊でも出てきそうな雰囲気にルナは自然と唾を飲み込んだ。
「レドお婆ちゃんと父さんが住んでた屋敷……だよね?」
「うん……多分」
恐らくこの屋敷がレド・ホルダーが住んでいた家なのだろうとリーシャは判断し、確認を取るようにルナにそう話し掛ける。彼女はまだ呆然とした様子だったが弱々しく頷き、それを肯定した。
アレンの家にレドの遺品が全くない事と村長の話を聞いた事でリーシャとルナは自分達が今住んでいる家は昔アレンとレドが住んでいた家ではないのだろうと予測していた。それが単なる気まぐれな引っ越しなのか、何か思い理由があってかつての家を離れたのかは分からないが。
「まさかこんな森の中にあるなんて……」
「大分蔓も伸び切ってるし、長い間手入れしてないみたいだね」
「て事は誰も来てないって事か……なんかここだけ村とは別の所みたい」
村の端にあり、木々によって隔離されたこの場所は不思議な雰囲気を醸し出していた。元々吸血鬼のレド・ホルダーが居た事によって魔物も近づかないからか、ここには何か不思議な力が宿っているかも知れない。現に魔王のルナはこの場所に居ると何となく気持ちが楽になる感じがした。それはレドがこの場所に住んでいたからなのか、それとも元々この土地にそういう力があるのかは分からないが。
少しの間リーシャとルナは様子を見るように屋敷の周りをうろついた。やはり誰もここに来た形跡はない。植物が生い茂っているせいで扉に近づく事も困難で、しばらく様子を見た後リーシャとルナはまた最初の所で合流した。
「どうする?……入る?」
「……んー、それはまだ早いかな……」
ルナはリーシャの様子を伺うように顔を傾けながらそう尋ねる。するとリーシャは悩むように頬に指を当てながらそう答えた。その瞳は少しだけ寂しそうに揺れていた。
「出来れば、この屋敷に入る時は父さんと一緒が良い」
「うん……そうだね。私も……その方が良い」
アレンにとってこの屋敷は特別な場所のはずだ。自分が育った家であり、大切な家族と共に過ごした場所。そこにアレンが近づいていないというのはきっと何か大きな理由があるからだ。アレンは隠していた訳ではないがリーシャ達が調べるまでずっとレドの存在を口にして来なかった。きっと無意識の内に抑え込んでいたのだろう。だからリーシャとルナはもう勝手に調べるような事は止めた。アレンが今言わないのならそれで良い。いつか教えてくれるまで待つ事にしたのだ。
「あ、でも猫はどうするの?」
「ああっ、そうだった! 猫どこいった?屋敷に入ったりしてないよね?」
ルナは猫をまだ捕まえていない事を思い出し、リーシャもルナの言葉を聞いて思い出したように頭を抱えた。そして慌てた様子で辺りを見渡して猫がどこに居るかを探す。せっかくこの屋敷に入る時はアレンと一緒が良いと言ったのに、猫が屋敷に入っていたらその決意が台無しになってしまう。そんな不安に駆られていると、二人の近くにあった草むらがガサガサと揺れ動き、そこから白猫を咥えたクロが姿を現した。
「クロ!」
「ワフワフ」
「猫ちゃんを捕まえてくれたの?ありがとう」
どうやらクロはルナ達の意思を汲み取って先回りしていたらしく、見事白猫を捕まえていた。咥えられている白猫も流石に魔物のクロには抵抗する意思がないのか、ぐったりとした様子でリーシャ達の事を睨んでいた。触ろうとすれば引っ掻くような目だ。だがルナがそっと猫の頭を撫でると、急に猫は大人しくなり、されるがままにルナに抱かれた。
「それじゃ戻ろっか。猫の飼い主も心配してるだろうし」
「うん、そうだね。帰ろう」
リーシャはこれで一件落着と小さく息を吐いてそう言い、ルナもそれに同意して顔を頷かせる。そのまま二人は猫を届けに森を出て飼い主の所へと向かった。
後ろでは蔓に覆われた屋敷が静かに暗闇に包まれている。村から隔たれたその空間はまるで時間の流れが違うように異質な雰囲気を放ち、再び二人が来る事を望むように木々の葉の間から一筋の光を落とした。




