184:抜け殻と影
「クロ、取っておいで」
「ワウ!」
ルナは森の中でクロと遊んでいた。
木の枝を投げて取ってくるという簡単な遊びだが、クロは小さい頃からこの遊びが大好きだった。
剣のように鋭く伸びた尻尾を勢いよく振りながら、クロは枝を咥え、主の元へと戻って来る。ルナはそんなクロの頭を両手で撫でながら褒めた。
「偉い偉い。クロは良い子だね」
「ワフワフ」
「でもこんなに大きいんだから、そろそろこの遊びは卒業したら?」
「ワウ~」
ルナが枝を受け取りながら尋ねてみると、クロは悲しそうに尻尾を下げた。どうやらまだまだ遊びたいようだ。一応クロはダークウルフという立派な魔物なのだが、小さい頃からルナと一緒だった為か、大分温厚な性格へと成長した。
「フフ、冗談だよ。クロが好きって言うなら、いつまでも付き合ってあげる」
「ワフ!」
クロの首を撫でながらルナは抱き着く。するとクロも嬉しそうに尻尾を振り、ルナへとじゃれついた。そして再び遊びを再開しようとした時、ふとクロが耳を上げ、ルナが枝を投げようとしていた方向とは別の方向に視線を向けた。
「……?」
「クロ、どうしたの?」
「ウルル……」
その様子にルナは疑問に思い、尋ねてみる。だがクロは何かを警戒するように姿勢を低くし、唸り声を上げるだけだった。どうやらクロ自身も何に反応したのか分かっていないらしい。
「よしよし、良い子。落ち着いて。大丈夫だよ」
「ルルル」
「今日はもう終わりにしよっか。帰ろう。クロ」
そう言うとクロも大人しくなり、渋々森の中へと走り去っていく。ルナはその姿を見届けた後、ふと上を見上げた。鬱蒼と生い茂った緑の隙間から見える空はどこか色が悪い。
「……なんか、嫌な天気だな」
大雨が降る前のような灰色の空。そんな不穏な空をルナは気怠く見つめ、視線を外す。そして自身も村へと戻る為に森の中を歩き始めた。
しばらく進み続けると、村を囲っている柵が見えて来る。ルナがそこを飛び越えて原っぱに着地すると、丁度そこにはリーシャとシャーリーの姿があった。
「あ、ルナ」
「リーシャ、シャーリーさん」
「ルナちゃん、森に入ってたの?」
「うん。ちょっとクロと会ってて」
シャーリーには予め魔物のクロの事は説明してある為、クロが危険な魔物ではない事を理解している。彼女はそっか、と言って納得したように頷いた。
「リーシャはまた、修行?」
「うん、さっきまで凄い頑張ってたよ」
「もぅ、相変わらずなんだから」
ルナが若干目を細めながら尋ねると、リーシャは瞬時に目を逸らす。すると代わりにシャーリーが答え、ルナは呆れたようにため息を零した。
「良いじゃん別に。趣味みたいなものなんだから」
「だからって毎日ずっとでしょ。今朝も陽が昇る前から鍛錬してたし……やり過ぎは身体に毒だよ」
「む〜」
ルナが注意してもリーシャは不満な表情をするだけで、それを改善しようとは考えない。
「頑張るのは良い事だけど。たまには休んだら?」
「でも……強くならないと……」
リーシャが無理をするのは昔からだが、ここ最近は特に鍛錬に時間を費やしている。ルナはその小さな身体が壊れてしまわないかと不安なのだ。リーシャもその心配は理解している為、強く反論する事も出来ない。だがそれと同じくらい強くならないと、という焦燥感があった。
「シャーリーさんもそう思うでしょ?」
「えっ、私?」
ふとルナは援護を求めようとシャーリーに話を振る。急に尋ねられたシャーリーは目を見開いて露骨に慌てた態度を取り、子供のようにあたふたと視線を動かした。
「え、えっとぉ……確かに努力するのは褒められる事だけど、自分を追い込み過ぎると怪我とかしそうだから、気をつけないといけない……よね」
「むむ〜」
自身の髪を弄りながら、躊躇うような仕草をしながらもシャーリーは自分の考えを伝える。それを聞いてリーシャは二人とも反対か、と少し残念そうな表情をして顔を伏した。
「でも、リーシャちゃんにはきっとリーシャちゃんの考えがあって、その上で追い込んでるんだと思うから……私は、それを応援したいかな」
「……!」
思わぬ弁護にリーシャは顔を上げてシャーリーの方を見る。シャーリーは戸惑ったように瞳を揺らしながらも、しっかりとした口調で己の考えを言葉にした。そして今度はルナの方に顔を向けて話を続ける。
「ルナちゃんも、そう思ってるんでしょう? お姉ちゃんの事が心配だからこそ、注意してるだけで」
「う、うん」
ルナはまさかそこまで言い切られるとは思っていなかった為、不意打ちを喰らったように若干返事が遅れてしまう。だが言っている事は確信を突いていた為、少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
するとリーシャはルナの前に立ち、唇を尖らせながら謝罪した。
「ごめん、気を付けるよ」
「ん、怪我だけはしないでね」
すぐに変わる事は出来ないだろうが、それでも注意だけはするようにしようとリーシャは決意する。ルナも今はそれで納得しておく事にした。
「さ、じゃぁそろそろ家に戻ろ。お腹空いちゃった」
「そうだね。今はシェルさんも居ないし、私達もご飯作り手伝わないと」
気持ちを切り替えた二人はそう言って家へ戻る事にする。するとシャーリーもおずおずと手を上げて発言した。
「なら私も手伝い……」
「シャーリーさんは良いよ! 無理しないで」
「あぅ……」
一刀両断と言わんばかりにバッサリとリーシャに切り捨てられてしまい、シャーリーはショックを受ける。そんな彼女を見てリーシャとルナは笑い、シャーリーも困ったように笑みを零した。
「そういえば今日さー、父さんが……」
「えー、そんな事あったの?」
そうして三人は家に戻る道を歩き始める。世間話に花を咲かせ、楽しそうに並んでいる。だがふと、シャーリーが歩みを止めた。
「…………?」
自分自身でも何故立ち止まったのか分からず、シャーリーは困惑したように周囲を見渡す。そして後ろを振り返り、先程ルナが出てきた森の方に視線を向けた。
「あれ……なんか……」
シャーリーの金色の瞳が揺らめく。それは子供が微睡に耐える時のような、曖昧な境界線にいる時の瞳。シャーリーは力の入っていない腕をダランと下ろし、引っ張られるように森の方へ歩き出す。
「シャーリーさん?」
「どうしたの?」
リーシャとルナもシャーリーの事に気が付き、呼び止める。だがその声が聞こえていないのか、シャーリーはフラフラと不安げな足取りで歩き続けた。
「だれ、かが……呼んでる……?」
「シャーリーさん!? どこ行くの?」
「リーシャ、追いかけよう」
様子がおかしい事に二人も気が付き、慌てて方向を変えて走り出す。その間にシャーリーも柵を超えて森の中に入ってしまい、リーシャも速度を上げて追い掛けた。ルナもその後を少し遅れて続く。
空が薄暗くなり、灰色の雲からポツリポツリと小さな雨粒が溢れ始める。だがシャーリーはそれを気にする様子もなく、森の奥へと進み、山の上へと登って行った。
「……ねぇ、ルナ。なんかおかしくない?」
「うん……シャーリーさんはさっきからただ歩いているだけなのに、全然追い付けない」
リーシャは違和感を覚え、それをルナと共に確認する。
先程からどういう訳かシャーリーに全く追いつけないのだ。こちらは全力で走り、シャーリーはただ歩いているだけ。ただでさえ彼女は不器用で運動音痴のはずなのに、この差が埋まらないのは不自然。まるで今見えている空間が歪んでいるような感覚だった。
(一体どうしちゃったの? シャーリーさん)
何かがおかしい事は分かる。だが魔法が使われている様子もなく、ルナは疑問に思う。とにかく今はシャーリーに追いつかなければと、彼女達は更に走る速度を上げた。
「…………」
一方でシャーリーは何を考えているのか分からない朧げな瞳をし、静かに森の中を歩き続け、山を登っていく。
やがて木々が少なくなり、辺りの地形を見渡せるような開けた場所へ出た。ポツポツと小雨が顔に辺り、シャーリーはそこで僅かに意識が明瞭となる。
「あ……れ? 私、は……」
何故こんな場所に自分が来ているのか分からず、シャーリーは呆然とした表情を浮かべる。するとどこからか風が吹き、シャーリーの黄金の髪が靡いた。そして次に、何かを引きずるような嫌な音が響く。
「ようやく見つけた。時間が掛かったよ……はぁ……」
シャーリーの前に、ローブを纏った何者かが現れる。体格は細身の女性のように見え、顔はフードを被っている為よく見えない。その病人のような手にはボロボロの欠けた剣が握られており、明らかに普通の人間ではない雰囲気を漂わせていた。
「あ、貴方……だれ……?」
シャーリーは恐怖しながらも何とか問いかける。すると目の前の人物もゆっくりと顔を上げ、フードの闇の中にある瞳でシャーリーの事を見つめた。
「ああ、覚えてないんだっけ。そう、そうだったね……まぁ別に、関係ないけど」
次の瞬間、フードの人物はシャーリーの目の前へと移動しており、その手で彼女の顔に掴みかかろうとしていた。
「ッーーーー!」
シャーリーは何が起こったのか分からず、思わず目を瞑る。そして指が額に触れそうになったその時、突如二人の間にリーシャが現れ、フードの人物に足蹴りを放った。だがフードの人物は瞬時の手を引っ込めると身を低くしてリーシャの攻撃を回避し、後ろへと下がる。
「シャーリーさん、下がって!!」
「リーシャちゃん、ルナちゃん……!」
リーシャが守るようにシャーリーの前に立ち、ルナもその隣へと並ぶ。シャーリーは気が抜けたのか急に身体に力が入らなくなり、辿々しい足取りで後ろへと下がった。
「ん、ん? なんだ? お前達……だれだ?」
「そっちこそ誰!? いきなりシャーリーさんに何しようとしてんの!」
「……あー……シャーリー……?」
フードの人物は突如現れたリーシャ達に不快そうな声を漏らす。そして何やら不気味な動きで首を傾げると、フードの奥にある瞳でじっとリーシャ達の事を見つめた。
「お前、達……何だこの気配と、魔力? ……は、ぁ? あー、そうか……この場所」
何かに気が付いたのか、フードの人物は周りを見渡した後、納得したように肯く。そして唐突に剣を地面に叩きつけ、拳を握りしめた。
「ハハ、ハハハハハ……!! 偶然って怖いなぁ……それとも運命と言うべきかなぁ……? 本当、反吐が出る」
その異様な姿にリーシャは僅かに恐怖を覚える。何となくだがリーシャも目の前のフードの人物から嫌な気配を感じ取っているのだ。おまけにフードの人物は剣を雑に扱っているというのに、その剣からは強力なプレッシャーを感じ取っていた。
恐らくこのフードの人物は強敵だと、リーシャは本能的に察する。
「質問に答えろ!!」
「……」
出方を伺っている場合ではないと判断したリーシャを牽制のつもりで突撃する。当てはしないが、剣圧でプレッシャーを掛ければある程度怯ませる事が出来ると考えたのだ。だが全力で振るったその剣はフードの人物は軽く上げたボロボロの剣で、いとも簡単に受け止められてしまう。
「質問……質問? ああ、もちろん。答えてあげるよ……」
剣と剣が衝突し合った事で凄まじい衝撃波が巻き起こる。その剣圧によってフードが揺らめいた。
「〈竜殺し〉〈死狩り火〉(流浪人〉〈黄金の剣使い〉……人は皆私をそう呼ぶ……でもたまには本名を教えてあげる。そうしないと忘れちゃうからね……」
フードが脱げかけ、謎の人物の顔が明らかになる。その顔を見た瞬間、リーシャもルナも、シャーリーも、全員が目を見開き、己らの目を疑った。
「レオシャーリーン・サン・フィアレスハート……時代遅れのクソッタレな〈勇者〉だよ」
フードの中にあったのは、シャーリーと全く同じ容姿をした女性の顔であった。綺麗なブロンドの髪に、儚げな色をした黄金の瞳、病人のように細い手足に、真っ白な肌。どこか生気を感じさせないその雰囲気は、最初にシャーリーを見つけた時と似ている。
「え……ぁ……シャーリー……さん?」
リーシャはその姿と女性が発した言葉に困惑し、文字通り固まってしまう。そんなリーシャに対して、女性は容赦なく剣を振るった。
山頂に白銀の雷が落ちる。
◇
「シャーリーが……勇者だと……? 有り得ない。伝説の勇者が実在していたのは百年以上前の話だぞ」
グレアから語られた真実を、アレンは到底受け入れられなかった。
そもそも伝説の勇者すらもおとぎ話のような存在なのだ。リーシャが居る以上勇者が存在していた事は事実なのだろうが、それが間近に居たという話は簡単には信じられない。
アレンは動揺からか指先が震え、暑くもないのに額に嫌な汗が浮かんだ。
「ところがどっこい、彼女は生きていたのさ。不老の存在……〈再生者〉となって。シーラちゃん」
グレアがパチンと指を鳴らすと、後ろに控えていたシーラが丁寧に一礼してから前に進んで口を開く。
「先代魔王様にはとある特殊な力がありました。それは一定の年齢になると老いなくなり、若く力に溢れた姿で君臨し続けられる不老の力。傷すらも一瞬で治癒する〈再生者〉だったのです」
魔法とは違う特異な能力。その力は魔王と称するにふさわしい程強力な力であって。老いる事なく常に万全な力を出し続けられるなど、そんなふざけた話はない。ましてやそれが魔王となれば、当時は余程恐れられていた事だろう。だがもちろん、いかなる力も全能という訳ではない。
「ですが〈不老〉ではあっても〈不死〉ではない。〈大陸戦争〉によって先代魔王様は勇者に打ち倒されました。その時に大量の血を浴び、力を吸収する性質によって勇者は〈再生者〉の力を得てしまったのです」
シーラはそう言って口を閉じ、感情を出さない物静かな表情のまま下がった。一方で説明を聞いていたアレンは自分の許容範囲を超えたその話に目を回していた。
「そん、な……」
シャーリーが伝説の勇者だった事にも驚きな上、それが不老の存在という。そんなもの理解する方が難しい。それにアレンにはもう一つ引っ掛かる点があった。
(シャーリーが、伝説の勇者? ……だったら、リーシャとの繋がりは……?)
本当に伝説の勇者がシャーリーだと言うのならば、今代の勇者であるリーシャとはどういう関係なのか? 勇者は血統によって紋章が現れるという話が本当だとすれば、血の繋がりがある可能性は高い。もっとも勇者の一族に関しては記述が曖昧な為、確かな事は分からないが。
「おまけにだ。兄弟。厄介な話はこれだけじゃない。彼女は今、記憶がないんだろう?」
「あ、ああ……」
アレンが考えている途中でグレアが話題を切り替え。シャーリーの事を問いかける。アレンは一度思考を打ち切ってグレアの方に視線を戻し、その質問に答えた。
「実のところ、今の彼女は正確には勇者ではない……分かりやすく言うと抜け殻、かな?」
「……どういう意味だ?」
グレアの曖昧な言い方にアレンは疑問を抱く。するとグレアは手を前に出すと指を広げ、何かを持つような動作を取った。
「強大な力や魔力を持ち、なおかつ精神状態が不安定な者には心に〈影〉が生まれるようになる。トラウマだとかコンプレックスだとか、そういう負の塊が出来上がるんだ」
指を折って拳を握り締め、グレアはどこか楽しんでいるような客観的な言い方で説明をする。そしてまた指を広げて手をヒラヒラと動かすと、腕を下ろして少し悲しそうな表情をした。
「まぁ俺は魔力がゴミカスだから縁のない話なんだが……あー、なんだっけ……シーラちゃーん」
「〈影〉はやがて意思を持ち、本体を惑わして来ます。心を更に不安定にさせ、堕落させようとするのです」
途中まで話していてグレアは説明をするのが面倒になったのか、頭を掻きながら再びシーラへと説明を任せる。彼女は特に気にした様子も見せず、相変わらず淡々と説明を続けた。
「そして特殊な事例ですが、稀に〈影〉が実体化する事があります。もう一人の自分として、力や記憶だけ奪って一人歩きし始めるのです」
そこまで聞いてアレンも察し、まさかと目を見開く。グレアもその様子を見て口元を引きつらせ、まるでゲームを楽しんでいるかのように瞳をギラつかせた。
「な……それって……」
「そう、今兄弟達の所に居る勇者は、力の一部と記憶を失った〈抜け殻〉。そして〈影〉は身体を求め、闇からゆぅっくりと歩み寄ってくる」
かつてルナももう一人の自分に誘惑されたように。影は光である本体を闇に引きずりこもうとする。そしてその欲望が強くなり過ぎた結果、己が本体に成り代わろうとする。
アレンは急に恐怖を覚え、焦燥に駆られる。その時、家の外からとてつもない轟音が響き渡った。慌てて窓の方を見ると、いつの間に降り出していたのか、雨が滝のように空から落ちてきていた。そして村の近くにある山の頂上から、まるで竜巻のような衝撃波が起こり、森林を吹き飛ばしていた。
「……!!」
「ああ、ちょっと長話し過ぎたかな。急いだ方が良いぜ兄弟。残り時間は……あとちょっとだ」
アレンはリーシャ達がまだ戻っていない事を思い出し、すぐさまこの異常事態を調べる為に飛び出した。その姿を手を振って見送りながらグレアは愉快そうに笑みを零す。
「さぁて、物語は動き出したぞ。盤面はどっちに傾くと思う? シーラちゃん。旧世代か、新世代か、はたまた王になろうとする強欲な者達か」
駒は揃った。後はどの駒が最後まで盤面に残り続けるか。グレアはその予想をシーラへと尋ねる。すると彼女は表情を崩さないまま視線を僅かにグレアの方に向けた。
「私如きには到底想像出来ません。それよりグレア様には分かっているのではありませんか? この物語の結末が」
「ハハハハハ、どうかなぁ。でもまぁ、運命ってのは案外ありそうだし、そうなりそうだなぁ」
グレアはソファにもたれ掛かって天井を見上げながら手を伸ばす。何を掴もうと思ったのかは分からない。その虚無に伸ばした手を何を掴む事もなく、ただ指を広げて天を見続ける。
「でもそれでも、俺は面白おかしくこれを観させてもらうさ。俺の目的の為にもね」
拳が握り締められた。
グレアの笑みが深まり、まるで獣の牙のようにギラリと歯を見せる。