177:緑の大魔術師
「ええー、記憶喪失〜?」
夕食の時間、本来なら家族四人が並ぶそのテーブルでは、いつもとは違う人物が一人加わっていた。リーシャ達が連れて来た謎の女性。その人物に視線を向けながら、リーシャは思わず残念そうな声を漏らしてしまう。
「ああ。自分の事に関して殆どの記憶を忘れてしまっているらしい」
「じゃあ森で倒れていた理由も分からないってこと?」
「ああ。全く」
一般的な常識や知識はあるが、自分の名前や経歴、直前までどのような事をしていたのかがすっぽりと抜け落ちているらしい。嘘を吐いている様子もない為、何とも不運なことだ。
「ごめんなさい……せっかく助けてくれたのに、全然思い出せなくて……」
「別に君が謝る事じゃないさ。災難だったな」
当の本人は申し訳なさそうに暗い表情を浮かべ、ただでさえ華奢な身体を縮こまらせた。こうして見るとやはり少女のようにも見える。彼女が一体何歳なのか、アレンは気になった。だが記憶喪失ならばそれを尋ねるのは野暮だと考え、開いていた口を閉じた。
「それじゃあ名前も分からないんですか? 何か呼び方があった方が……」
ふとシェルが手を挙げてそう質問をする。
確かに何らかの呼び方は必要だ。既に村長の許可は取り、彼女はアレンの家で面倒を見る事になっている。流石にこんな状態ですぐに旅立たせる訳にも行かない為、しばらく様子を見る予定なのだ。
すると、彼女は少し悩むように顔を左右に傾けた後、おずおずと口を開いた。
「シャーリー……そう呼んでくれれば良い。多分本名じゃないけど……この名前がしっくり来る」
どうやら何となくそう呼ばれていた気がするらしく、自身も違和感がない為、彼女はそれを記憶が戻るまでの仮の名前とする事にした。
「シャーリー……良い名前だね!」
「……そうかな?」
リーシャもその名前が気に入ったらしく、満面の笑みを浮かべてその名を褒める。だが当の本人はその感覚がよく分からないのか、キョトンとした表情で首を傾げた。
「私はリーシャ! で、こっちが妹のルナ。そしてお母さんのシェルさん!」
「うっ」
「母親なのにさん付け……?」
またも子供達からの母親呼びにシェルはダメージを受け、その様子を見てシャーリーは疑問そうな表情を浮かべる。
「俺はさっき言ったが、アレン・ホルダーだ。よろしく」
「そう……よろしく。随分、変わった家庭だね……?」
「ハハハ、まぁ色々訳ありなんだ」
改めて自己紹介を済ませ、アレン達は食事を再開する。シャーリーは少し戸惑いながらもスープに口を付けた。すると味がお気に召したのか、少し頬を緩ませながら食事を進めた。
そして食事が終わった後、子供達は寝支度の為に部屋へ戻り、シェルもシャーリーの寝床を用意しに行った。台所ではアレンは皿洗いをしており、隣のリビングではシャーリーがソファに座ったまま、自身が装備していた剣を持ってぼーっと眺めていた。
「……アレン、さんは、料理が上手なんだね」
「そうか? 口に合ったのなら何よりだよ」
ふとシャーリーは料理の感想を零す。黙々と食べ続けていた為反応が分かり辛かったのだが、やはり美味しいと思ってくれていたようだ。
「なんか……力が湧いて来るっていうか、ガツンって来る感じ」
「ハハ、元々冒険者だったからな。体力がつく料理ばかり作ってたから、その癖が抜けないんだ」
「……なるほど、元、冒険者」
アレンが口にした冒険者という情報にシャーリーは反応し、視線だけ台所の方に向ける。するとアレンも皿を洗っていた手を思わず止めた。
「ねぇアレンさんは、私が目覚めた時、覚えてるか? って聞いたよね……」
シャーリーの探るような声が聞こえて来る。背中を向けているが、アレンは今彼女がこちらの事をじっと見つめているのが嫌でも分かった。
「つまり、私とアレンさんは会った事がある……」
「…………」
シャーリーはすぐに答えへと辿り着いた。目覚めたばかりの時で混乱していた為、てっきりあの時の発言は覚えていないとアレンは踏んでいたのだが、どうやらしっかりと記憶していたようだ。
「アレンさんは、私の正体を知っているの?」
いよいよ後ろからの視線に耐えられなくなり、アレンは手を拭いて振り返る。そこには助けを求めるような瞳をしたシャーリーが居た。彼女は欲しているのだ。自分の正体を知る手掛かりを。そしてそれが目の前にあるかも知れないとなれば、誰だって問いただそうとするだろう。
アレンは慎重に、どう説明するかを考える。そしてゆっくりと口を開き、言葉を選びながら話し始めた。
「いや……最初に言っておくと、俺は君の正体も、名前も知らない。ただ君が当時、周りに何て呼ばれていたかを知っていて、一度だけ会った事があるだけだ」
「なら、それだけでも良いから教えて……私はどんな人だったの?」
まずシャーリーが望むような答えは持っていない事を予め伝えておく。彼女はそれでも構わないと言うが、アレンはまだ渋るような素振りを取った。
「……正直これを言って良いのか分からないし、悩んでいる」
「何で? 実は私が凄い極悪人だとか?」
「そんな事はない。ただ君は……」
アレンが知っているシャーリーの情報はごく僅かなものしかない。恐らくそれは彼女の人生のほんの一部だろうし、なおかつ謎を含ませたものとなっている。答えの分かっていない謎を教えたところで、それは彼女の希望となってくれるのだろうか、とアレンは悩んでしまった。だが結局教えなければシャーリーは何度も尋ねて来るだろう。そう考え、彼は覚悟を決めた。
「君は当時、〈黄金の剣使い〉と呼ばれていた。どこからともなく現れ、冒険者達を助けてくれる謎の人物。あの頃冒険者の間ではこの噂でもちきりだった」
アレンは棚に皿を戻した後、リビングに移動しながらかつての黄金の剣使いの事を説明し始めた。そしてソファに座り、シャーリーが手にしている剣をふと見つめる。
「俺が君と出会ったのは……まだ現役だった頃、ある依頼で竜と遭遇した時だ。正直死ぬかと思ったよ……だがその時君が現れ、一瞬で竜を倒し、俺を助けてくれた」
「……それが、私?」
シャーリーはアレンの話を信じられなさそうに聞いていた。
当然だ。竜と言えば伝説の生き物。世界の常識は覚えている為、彼女も竜の恐ろしさは重々承知している。はっきり言って自分がそれを倒すイメージなど全く出来なかった。
思わずシャーリーは自分の手にしている剣を見下ろす。細い手に支えられたその剣は、冷たくその重さを腕に伝えて来た。
「そうだ……ただこれは、十年以上前の話……その時の君と、今の君は全く同じ姿をしている。俺の記憶の中に居る姿のままなんだ」
「……え?」
再びシャーリーは衝撃を受け、顔を上げる。
最初は彼女もアレンが何かの冗談を言っていると思った。だが彼の顔は真剣そのもので、とても嘘をついているようには見えなかった。故に、混乱する。
「つまり……歳を取っていないってこと……?」
「ああ」
「見間違いとか、勘違いじゃなくて……?」
「ああ。俺の目に狂いがなければ」
十年以上時が経ったというのならば、容姿にそれなりの変化は出ているはずだ。特にシャーリーくらいの見た目の年齢なら。だが彼女からはその変化が一切感じられない。
ふと、シャーリーは自分の腕が震えている事に気が付いた。すぐにその動揺を止めようと、手にしていた剣の鞘を握りしめる。だが簡単にその震えはおさまらなかった。
「こんな事を言っても君を混乱させるだけだと思って黙っていた。すまない……」
「……ううん。話してくれて有難う……」
それからアレンは自分が覚えている限りの〈黄金の剣使い〉の情報をシャーリーに教えた。だがその情報はいずれも冒険者側の勝手な憶測や噂に過ぎず、彼女の内面を知るものは一切なかった。結局シャーリーが記憶を思い出す手掛かりにはならず、その話はおしまいとなった。
アレンが部屋を去った後、残されたシャーリーはソファに座ったまま窓の外に見える月を見上げた。丸く輝く美しい月。今の彼女にとってその月は少し眩しく思えた。
「私は……〈黄金の剣使い〉……竜を倒し、歳を取らない……」
手に入った情報をシャーリーは頭の中で整理し、飲み込む。これが本当の自分なのだと、理解しようとする。だがどうやっても今の自分からは想像出来ない程かけ離れた人物像で、シャーリーは益々自分が何者なのか分からなくなった。
「私は一体、誰なの……?」
目覚めた時、自分に関しての記憶がばっさりと無くなっていた。名前も、経歴も、何一つ思い出せず、自分が空っぽのように思えた。だからこそ自分の正体を知っているかも知れないアレンに答えを求めたが、手に入ったのは更に謎を呼ぶ自分の断片だった。
今は少し、記憶を取り戻すのが怖い。
シャーリーは手にしていた剣を壁に立て掛け、部屋を後にした。
◇
「やぁファルシア。久しぶり」
「うわっ……メルフィスさん」
メルフィスがアレンの村を離れた翌日、彼は王都へと訪れていた。そして王宮でとある人物と出会う。それは同じ大魔術師であるファルシアであった。すると、彼女は同胞であるメルフィスの姿を見ると何故か頬を引きつらせ、歓迎していない態度を取った。
「うわって、露骨だなぁ。頼りになる先輩が来たとかで喜んでくれるとかないの? おじさん悲しいよ」
「ご老体のくせに大魔術師の中で一番強い貴方をそんな風には見れませんよ。正直苦手です」
「ええー、辛辣〜」
ファルシアのそっけない態度にメルフィスが老人ながら泣き真似をしてみせたりなど、ユーモアのある行動を取ってみせる。だがファルシアはそれを冷たい目で眺めており、彼女の心には響かなかったようだ。
「でもそんな苦手でも、僕の力が必要なんだろう?」
「む……そうです。残念ながら」
ファルシアは小さくため息を吐き、手に持っていた資料をメルフィスに手渡した。メルフィスはその資料にさっと目を通し、ほぅと声を漏らす。
「選定勇者君を襲撃した犯人の特定か……これはどっちの依頼? 国王様? それとも魔術師教会から?」
「両方です。我々はこの犯人を脅威と認識しています。もしもあの攻撃が数センチずれていれば、間違いなく選定勇者はやられていました」
「あらら、怖い怖い」
今回の襲撃は謎な部分が多い。最初犯人は魔王候補の可能性が高いと考えられていたが、今までの魔王候補の動向と比べてみるとあまりにも襲撃の仕方が静かすぎるのだ。奴らの傾向ならばもっと派手に襲撃をし、周囲の人間も巻き添えにするはず。それに今回の襲撃は結局選定勇者を倒す事は失敗している。犯人の目的が何だったのか分からないが、結果的に被害は最小で済んだ。それらを踏まえて、ファルシアは犯人は魔王候補以外の別勢力と考えていた。メルフィスにはそれを調査して欲しいのだ。
「全く、人使いが荒いよね。せっかくの休暇で旧友と会っていたのにさ」
「アレンさんですか……あの人、元気でしたか?」
「ああ。家族に囲まれて幸せそうだったよ」
メルフィスが休暇を理由にしてアレンの元へ行く事は知っていた為、ファルシアは彼の様子を聞いて少し頬を緩ませる。
「シェルリアの方は?」
「うん。あまり話していないけど、頑張ってるみたいだったよ。今度会いに行ったら?」
「冗談はやめてください」
「あははは、冷たいねぇ」
アレンの時と違って冷たい態度を取り、彼女はふんと鼻を鳴らす。その様子を見てメルフィスは相変わらずだと愉快そうに笑った。
「とにかく。依頼の方よろしくお願いします。今回も判断は貴方の方に任せますので」
「りょーかい。どうぞこの〈緑の大魔術師〉にお任せを」
依頼を承諾し、メルフィスは薄緑色のローブを翻して王宮の廊下を戻り始める。そして窓の近くまで行くと、手にしていた木製の杖をトンと地面に突いた。
「それじゃ、行ってくるよ」
その瞬間彼の身体は薄緑色の光に包まれ、窓の外へと勢いよく飛び出す。そのまま彼の姿は一瞬で見えなくなり、呆然と窓を眺めていたファルシアは頭を抑えてため息を吐いた。
「ほんと……いくつになっても元気な人」
ファルシアも自分の仕事に戻る為、その場に背を向けて去り始める。出来る事なら互いの仕事が無事に終わる事を祈りながら。