166:リーシャの傷
村から少し離れた森の中、そこではルナが私服のまま歩いており、その後ろでは緑色のスライムが付いてきていた。
「……本当に言う通りにすれば、村から手を引いてくれるの?」
「モチロンデス、ワレラガオウヨ。スデニワタシノブンレツタイハ、サゲサセテイマス」
ルナが警戒しながら尋ねると、最低の魔王候補は礼儀正しく答える。その答えを聞いてルナは安心したように頬を緩めるも、自分は魔王候補の監視下にあるという状況の為、複雑な表情を浮かべていた。
「アナタノカゾクノブジモ、ホショウシマス。マオウコウホタチニモ、デンレイヲオクッタノデ、イズレアツマルデショウ」
あれからルナは脅され、村人と家族の命が惜しければ言う通りに行動するよう命じられていた。アレン達なら何とか窮地を乗り越えてくれるかも知れないが、無関係な村人を見捨てる訳にはいかない。故にルナは悩んだ末、抵抗を諦めてリーゼの命令に従うことにしたのだ。
「ゲンニサキホド、オソイカカッテキタ、ダークウルフモ、キズツケズムリョクカ、シマシタデショウ?」
「……クロ」
実は村を出る際、突如現れたクロがルナを守ろうとリーゼに襲い掛かったのだ。だがいくらダークウルフとして成長したクロでも魔王候補のリーゼには叶わず、あっけなく無力化されてしまった。今頃村の中で気絶して倒れていることだろう。
(マァ、テンテキデアル〈ユウシャ〉ハシマツサセテモラウガ……)
しかしリーゼはルナとの約束を守るつもりはなかった。正確には一人だけ、勇者であるリーシャだけは必ず始末するつもりで居たのだ。自身の分裂体を散らばせて、リーシャの存在に気がついた時から、彼女をマークして始末するつもりであった。だからこそ最も確実に目標を始末してくれるであろう、〈最速の魔王候補〉であるクロガラスを送り込んだのである。
(クロガラスノハヤサハ、〈サイキョウノマオウコウホ〉レウィアデスラ、オイツケヌホド。マダオサナイユウシャデハ、トウテイトラエラレヌ……)
リーゼは自身の作戦に浮かぶことの出来ない笑みを心の中で零す。
突然変異の魔物として知能が発達したリーゼは様々な策略を巡らせる。そして自身を分裂させる事が出来る特性から、あらゆる情報を収集し、戦況を操る。それがリーゼのやり方であった。
「ところで、私達はどこに向かってるの?」
「ヒトマズハ、アンゼンナトコロマデ。ワレラモリスクハ、オイタクナイノデ」
ルナのふとした疑問にリーゼは詳細は教えず、一応の目標だけを伝える。その声には僅かに焦りが見え、ルナを早く歩かせようとしていた。
(スデニセイキシドモニ、ホソクサレテイルウエ、〈ダイマジュツシ〉マデイルトハ、ゴサンダッタ)
実はリーゼも多少は危機感を覚えていた。聖騎士団に大魔術士。こちらが魔王候補三人とは言え、常に全員で行動している訳ではない。何らかの手段で孤立させられ、全員から襲われれば敗北はしないものの、苦戦は強いられるであろう。故にリーゼは少しでもリスクを下げる為、無駄な戦いを避けて追撃を減らそうと考えていたのだ。
(イクラワレラマオウコウホトイエ、テキニハレウィアガイル……ユダンハデキナイ)
何よりもリーゼが心配しているのは〈最強の魔王候補〉であるレウィア。彼女は魔王候補でありながら魔王という座に執着せず、ルナを守ろうとしている。彼女は障害となる存在ならば容赦なく抹殺し、その人形のように美しく儚い姿は鬼神の如き怪物へと変わる。実際今揃っている魔王候補達全員で相手をしても、抑え込めるかどうかは微妙なところだった。
そんな不確定要素があるからこそ、リーゼは最優先目標を達成したのならば深追いせず、すぐに前線から離脱したかったのだ。
(ヨテイドオリ、タノムゾ……クロガラス、マギラ)
リーゼはこれより合流予定である同類の魔王候補達の無事を祈る。だが当然それは彼らの身を案じているのではなく、自身の完璧な作戦に乱れが生じないことを祈ってであった。
ルナとリーゼはすっかり夜の闇に染まった森の中を進み続ける。ふと冷たい風が吹き、まるで泣いているような悲しい音が森の中で鳴った。
◇
「が……は……ッ!」
地面へと叩きつけられ、リーシャはうめき声を漏らす。その上からはクロガラスが鋭い爪が伸びた脚で彼女の小さな身体を踏みつけており、逃げられないように肉に爪を食い込ませていた。
「無駄だ。貴様の速さでは私の速度には追いつけない。ここが貴様の限界だ」
「ッ……勝手に、決めるな……!」
リーシャは身体に走る激痛を必死に耐えながら聖剣を投げ、足で蹴り飛ばした。聖剣は回転しながらクロガラスの鋼鉄の羽に直撃し、その隙にリーシャは拘束から脱出して宙を舞っていた聖剣をキャッチする。
「私は、諦めない……ルナを、父さんを……皆を守る!」
「殊勝なことだな。だが叶わん」
そのままクロガラスへと斬り掛かるが、そこにはもうクロガラスの姿はなく、直後にリーシャは吹き飛ばされる。見れば背後にクロガラスが移動しており、突進されてしまったのだ。
リーシャは木へと激突し、痛みでその場に倒れこんでしまう。
「ッ……くう!」
だがすぐに起き上がり、後ろから迫って来ていたクロガラスに聖剣を突き出す。刃と嘴が交差し、そのままクロガラスは横切るが、宙には漆黒の羽が舞っていた。するとクロガラスは上空で停止すると、思い切り翼を広げ、突風を巻き起こした。その風圧で漆黒の羽が飲み込まれ、リーシャへと襲い掛かる。
「あぐぁ……!!」
鋼鉄のように硬く、鋭い羽に切り裂かれ、リーシャは悲鳴を上げる。更にそこからクロガラスが滑空し、リーシャの身体を脚で掴むとそのまま放り投げ、地面に叩き付けた。
「……ッ!」
背中に強烈な痛みが走り、リーシャの視界が一瞬揺らぐ。かなり負傷してしまった為、身体はボロボロになり、せっかくのお気に入りの服が切り刻まれてしまっていた。だがそんな状態でもリーシャはフラフラになりながら立ち上がり、聖剣を構える。
「はぁ……はぁ……ぜんっぜん効かないね。最速の魔王候補も大したことないじゃんっ」
「無駄な足掻きを……ならば引導を渡してやる」
まだまだ戦えることを主張するようにリーシャは無理して笑ってみせ、それを見たクロガラスは静かに翼を広げた。その身体が揺らめき、影となって姿を消す。
「〈闇喰らう刺突〉!」
クロガラスはリーシャの背後に現れると凄まじい速度で飛び出す。それに気づいてリーシャは反射的に聖剣を振るい、黄金の斬撃を背後に放った。だがクロガラスの姿は影となって消えてしまい、次の瞬間リーシャは影によって貫かれる。
「う……あッ!!?」
ギリギリ聖剣で直撃は防いだものの、衝撃は凄まじく、リーシャは地面に激突して倒れこんでしまう。そのすぐ隣に聖剣を落とし、彼女はあまりの痛みですぐに起き上がることが出来なかった。
その上空にクロガラスが現れ、翼をゆっくりと動かしながら浮遊する。
「終わりだ。勇者……人族の希望の光は今日消え、我ら魔の王が世界に君臨する。これは決定した事実だ」
悠々と空を舞いながらクロガラスはそう言う。丁度空は夕焼けで、段々と暗い青に染まり始めていた。それを見上げ、リーシャは悔しそうに歯を食いしばる。
「くっ……ま、だ……」
ーーもう立つな。これ以上戦えば次は命を落とすぞ。
リーシャの頭の中に声が響く。それは聖剣王殺しの声であった。見れば地面に突き刺さっている聖剣がリーシャのことを心配するように弱く輝いており、心なしか声にも焦りが見えた。
ーー今の其方では奴には勝てん。逃げることだけを考えろ。
「……でも……あいつを倒さないと、ルナが……」
ーー死んでは意味がなかろう。其方の妹もそれは望んでいないはずだ。
王殺しに諭され、リーシャは表情を歪める。
確かにこのまま戦い続けても勝率は低い。傷を負わされる度に実力差を思い知らされるし、自分の経験不足を痛感する。アラクネやフレシアラの時は皆の協力、そして力が覚醒すると言った不確定要素があったから勝てたが、今回は違う。まるで巨大な壁にぶつかっているような、超えることの出来ない絶望感がひしひしと伝わってくるのだ。リーシャは力の入らない自身のひ弱な身体を嘆き、思わず目頭が熱くなった。
「ギ……クロガラス」
「ん? リーゼ、何用だ?」
ふと、クロガラスが飛んでいる近くの木にスライムが現れる。そのスライムから何かを聞き、クロガラスは満足げに頷いた。
「そうか。承知した。こちらも終わったらすぐに向かう」
そう言うとスライムはその場から姿を消し、クロガラスもリーシャの近くへと降り立つ。風が舞い、リーシャの綺麗な黄金の髪が乱れた。
「喜べ。我らは魔王様を手中に収めた。後は貴様を始末するだけだ」
「な……に?」
倒れているリーシャにクロガラスは更なる絶望を与える。
リーシャはルナが奪われてしまったという事実を聞き、目を見開くとすぐに起き上がろうとした。だが激痛が走り、また倒れこんでしまう。
「貴様が死ねば多少は魔王様を心を痛めるだろうな。人族の地に長く居すぎた……だが心配するな。その悲しみも乗り越え、あの方は立派な魔王となってくれよう」
クロガラスは愉快そうに笑い、翼を広げる。そして静かに飛び立つとリーシャの真上を浮遊し、暗い影を落とした。
「貴様はその為の礎となれ。哀れで未熟な勇者よ」
空が闇に包まれる。そこに月の姿はなく、森は影に覆われた。そんな中、リーシャは震える手を伸ばして聖剣を掴む。
「……させ、ない……」
フラフラになりながらも聖剣を杖代わりにしてリーシャは立ち上がる。その細い腕はたくさんの切り傷があり、指先は震えていて満足に剣を持つことも出来なくなっていた。だがその瞳は、まだ死んでいない。禍々しい光を放ちながら、リーシャは聖剣を構える。するとそんな彼女の身体から赤黒いオーラが溢れ出した。
ーーよせ、その力を解放したら其方の身体が……!
「最初から、こうすれば良かったんだ……遠慮なんてする必要はない。最初から最後まで、殺すつもりでやれば……!」
そのオーラは稲妻のように走り、赤黒い火花が散る。するとリーシャの振るえも止まり、彼女は傷なんてなかったかのように軽く聖剣を振るった。その刃も赤黒い光で覆われ、禍々しい雰囲気を放っている。
王殺しの剣に死の力を纏った光が纏わされる。その光が凝縮され、赤黒い刃となってリーシャの手に収められた。リーシャは火花を散らしながらその刃を、片手で軽く振るった。
「ぬぐっ……!?」
次の瞬間、クロガラスの羽の一部が斬り裂かれる。バランスを崩したクロガラスは一度地面へと着地し、リーシャの方に視線を向けた。
(な、何だ……? こいつ、今何をした……?)
何が起こったのか分析しようとするが、そんな暇を与えないようにリーシャは再び聖剣を片手で振るう。するとまたクロガラスの羽の一部が斬り飛ばされた。
「ぐ、ぅ……! 貴様、何なんだその力は……ッ!?」
「…………」
クロガラスが叫んでもリーシャは先程のように言葉を返すことなく、静かに顔を俯かせていた。そして普段の彼女らしくない乱暴な手つきで聖剣を払い、肩へとのせる。
「〈王殺し・燐〉……」
リーシャは赤黒いオーラに包まれながら静かにそう呟く。それに呼応するように赤黒い聖剣も光を強め、彼女の瞳から禍々しい光が漏れた。
勇者は再び覚醒する。大切な人を守る為に、最愛の家族を取り戻す為に、更なる力を求める。だが彼女が選んだ道は、身を滅ぼす茨の道。
〈見えない傷〉は今綻びを見せ、押しとどめていた強大な欲望を解放する。