157:レウィアの夢
レウィアは夢を見ていた。
それはまだ彼女が幼い頃、今のように〈最強の魔王候補〉の称号を得る前のこと。その時の彼女はまだ力も弱く、他の魔族から注目される程実力も高くなかった。それでも力が絶対とされる魔族の中で数少ない権力を持つ貴族の一つ、ウル家の娘であった為、彼女は城の出入りも許され、ある程度の地位を与えられていた。だがまだ幼いレウィアにとって、その城はあまりにも広大で、冷たく気味の悪い建物という印象しかなかった。
「おい見ろ。あれが噂のウル家の娘だ」
「ほぉ、新しい奴か。だが〈紋章〉は出なかったんだろう? なら失敗作じゃないか」
城の通路を歩いていると、通り過ぎた魔族達からそんな声が聞こえてきた。相手のことなど考慮しない、遠慮のない噂話。レウィアにとってそれは耳につき、煩わしいものであった。何故知らない相手から自分のことを知ったような口ぶりで言われなくてはならないのか、一体自分の何を知っているのか。出来ることなら、今すぐにでも自分の噂をしている魔族達を斬り捨てたかった。
「…………」
通り過ぎていく魔族からヒソヒソと話し声が聞こえて来る。その中にはウル家と同じ、権力を持つ貴族達も交っていた。皆が〈紋章〉を望み、他の貴族が〈紋章〉を手にすることを失敗するよう望んでいる。そんな薄汚れた欲望ばかりが渦巻く城内にレウィアは散々な思いだった。
彼女は静かに拳を握り締め、さっさとその場を通り過ぎようとする。だがその時、レウィアに声を掛ける魔族が居た。
「レーウィア!」
「…………!」
聞き覚えのある声にレウィアは立ち止まり、先程まで無表情だった顔を笑顔にし、振り返った。するとそこには、案の定レウィアに思い描いていた魔族が立っていた。
「セレーネ母さん」
肩まで伸ばした美しい黒髪に、漆黒の丸い瞳、色白の肌をしており、全身を真っ黒なドレスで包んだ女性。大人びた印象を受けるが、子供のような笑顔を浮かべており、何とも不思議な雰囲気を纏っている。
彼女の名はセレーネ・アルティ・ルーラー。レウィアのウル家と同じく、数少ない権力を持つ貴族の一つ、アルティ家の女性。そしてレウィアにとっては、異母に当たる。
「レウィアったらまた怖い顔してたよー。駄目じゃない。せっかく綺麗なお顔してるんだから、笑顔じゃないと美人が台無しだよー?」
「むぅ……」
セレーネはレウィアの元まで駆け寄ると、彼女のほっぺを抓りながらそう言う。レウィアはその行為に困りながらも、嫌がるような素振りはみせなかった。むしろ先程までピリピリしていた彼女の気配が緩まり、表情も柔らかくなっていた。
「やめへふはい。せへーねかあさん」
「あははー、レウィア変な顔ー」
「もぅ……大人なんだから子供みたいなことしないでください」
レウィアの柔らかいほっぺが癖になったのか、セレーネはむにゅむにゅと何度も彼女のほっぺを弄る。流石にレウィアもずっと触られているのは恥ずかしい為、セレーネの手を払って逃げるように身体を離した。
「というか、用があって話しかけたんでしょ? 何の用です?」
自分の頬を摩りながらレウィアは用を尋ねる。わざわざ話しかけてきたということは、何か用事があったということだ。逆に、そうでなくては困る。
数居る母親の中でセレーネは特に変わり者の女性として知られている。アルティ家の娘、セレーネ・アルティ。彼女は数十年前、人族の大陸に一人で渡ったという噂がある。それだけ破天荒な女性なのだ。
つまり彼女の場合、本当にただレウィアのほっぺを弄る為だけに話しかけてきた可能性もあるのだ。出来ればそうでないことを、レウィアの心の中で強く願った。
「ああそうだった。えっとねー……ここじゃアレだし、私の部屋行こ!」
「はぁ……分かりました。行きましょう」
レウィアに言われてポンと手を叩き、セレーネは今思い出したかのような反応を取る。彼女の場合、本当に忘れていたのかもしれない。それくらい自由な女性なのだ。
セレーネの態度を見てレウィアは呆れたように肩を落とす。だが彼女との会話は楽しく、そんなふざけた態度もむしろ見ていて面白かった。それから二人は廊下を進んで行き、セレーネの部屋へと辿り着く。その部屋は広く、バルコニーも付いていた。テーブルの上には商人でも訪れたのか、高級そうな生地が幾つも置かれており、壁際にはセレーネの好みの剣が何本か置かれている。アルティ家の令嬢にしては随分とアンバランスな、不思議な雰囲気の部屋であった。
「いやぁそれにしても、レウィアも大きくなったよねー。ちょっと前まではこーんな小さかったのにさ」
「まだ私は子供ですからそんなに身長伸びてませんよ……ていうかそんな石ころみたいに小さい時期はありませんでした」
部屋に付いてもセレーネの態度は変わらず、クルリクルリと回りながら親指と人差し指で昔のレウィアの身長を表現しようとする。だが当然そんな小さかった時期はない為、レウィアは真面目な顔で指摘した。
「最近シーラちゃんとの調子はどう? 仲良いみたいだけど」
「まぁ、同年代の魔族の女子はシーラくらいしか居ないから……色々話は合いますよ」
「ん、良かった。友達は大事にしないといけないからねー」
それからもセレーネはレウィアから色々と近辺情報を聞き出した。しっかりご飯は食べているか、嫌な目に遭ってはいないか、何かして欲しいことはないか、と。まるで本当の母親にように心配して来る。レウィアにとって、その暖かさが有難かった。
「それで今日はさー、ちょっとレウィアに上げたいものがあるんだよね」
「あげたいもの……?」
ふとセレーネはそう言うと場所を移動して剣が飾ってある壁に寄る。そこに置かれているのはどれも名剣と称される一品で、中にはセレーネが人族の大陸に行っていた時に入手した剣も置かれていた。
「うん、ほら、私ももうすぐ子供が生まれるでしょ? だからさぁ、色々身辺整理しないといけないんだよね」
そう言いながらセレーネは人差し指を自分の身体の下の方に向ける。するとその先には、彼女の膨らんだお腹があった。それを見てレウィアはああ、と頷いて納得する。
「レウィアもいよいよお姉ちゃんになるんだよー。楽しみ?」
「っ……まぁ、嬉しくないと言えば、嘘にはなりますけど……」
「フフフ、本当レウィアは良い子だねー。きっと優しいお姉ちゃんになれるよ」
レウィアの可愛らしい反応を見てセレーネも嬉しそうに笑みを浮かべる。
母親は違えど、これから生まれて来る子はレウィアとも家族になるのだ。アルティ家の子として、優しく素直に育って欲しい。その為にはレウィアのように面倒見の良い姉が居てくれればとても助かるだろう。そんな未来を想像してセレーネは楽しむ。だが、その空想が現実のものになることはない。
「……でもごめんね。この子には逢わせられないの」
不意にセレーネはレウィアに背を向け、そう残酷な告白をした。その言葉は何よりも冷たく、セレーネ自身も寂しそうに漆黒の瞳を揺らした。
「……えっ?」
何より驚いたのはレウィアだ。その言葉の意図が読めず、困惑したように指先を震わせる。その間もセレーネは、レウィアに背を向けたままだった。
「占い師の婆やが言ってたんだ。この子は〈紋章〉を持って生まれ、選ばれし者としていずれは魔族を束ねるだろうって……」
「ッ……それって、まさか魔王……!」
魔族の間で紋章と言えば、それが何を意味するかは分かっている。〈魔王の紋章〉だ。古より伝わる、黒き翼の紋章。それはその者が魔王であることを証明する象徴であり、魔族の王となる資格を持っていることを意味する。
その出現を、これまで何人もの魔族が望んでいた。数十年前に魔王が消失してから、新たなる王を皆が望んだ。挙句の果てには紋章がなくとも王になろうと魔族同士が争い、〈魔王候補〉などという肩書きも生まれた。だが遂に、真の王が生まれたのだ。
「私も最近妙に魔力の巡りが良いんだよねー。むしろ身体の調子が良すぎて怖いくらい。多分、お腹の子の魔力なんだと思う」
そう言ってセレーネは自分のお腹を摩りながら自身の魔力の調子を確認する。
通常、妊娠中は母体の魔力が不安定になる。お腹の子が独自に魔力回路を構築する為、その影響を受けて母体の魔力回路が安定しなくなるのだ。おまけに体調の変化もある為、魔族の母親はかなり弱体化することとなる。だがセレーネからはその様子が全く感じ取られなかった。むしろ徐々に力が増していき、魔力が増幅していっていた。その様子は近くに居たレウィアも気づており、妙だとは感じていた。
「だ、だったら……好都合じゃないですか。魔王を誕生させるのがアルティ家の悲願……いや、私のウル家のように全ての貴族が願ってた……それが遂に叶う。ようやく本物の王が誕生する! そうすれば魔族同士の争いもなくなるじゃないですか……!」
レウィアは手を広げ、喜びを露わにする。
紋章の出現はすなわちそれだけで魔王の誕生を決定づけるものとなる。ならばもう魔王候補の存在する理由はなくなるし、争う原因もなくなる。そうなれば今まで王の不在で未来へ進めなかった魔族の国も指針が出来、平和な道へと進むことが出来るのだ。
「それがさー、そう簡単にはいかないと思うんだよね。もう」
だがしかし、セレーネは振り返りながらレウィアの考えを真っ向から否定した。その手には禍々しい形をした漆黒の剣が握られており、妖しく刀身を輝かせている。
「っ……どういう、意味です?」
「これが魔王候補の制度が出来たばかりの時なら良かったんだけどさー、もう大分民にも浸透しちゃったじゃん? 多分今更あの称号を消すことは出来ないし、本人達も納得しないと思うんだよね」
レウィアが恐る恐る尋ねると、セレーネはクルリと漆黒の剣を回転させながら説明し始めた。
要するに魔王候補という制度が魔族の間に定着し過ぎたのだ。中には魔王候補を志す魔族も居る為、今更その存在を魔王が現れたから撤廃する、などと出来ない。したところで反発が生まれるのは明白だ。
「あの魔族達ももう魔王候補として己を自覚し、確立してしまっている。そんな時に本物の魔王なんて現れれば、あの魔族達はどうすると思う?」
セレーネはレウィアの方に視線を向けながらそう尋ねた。その問いかけに、レウィアはもう答えが出ているのにすぐに答えることが出来なかった。
「……魔王を亡き者にして、その功績を理由に魔王の座に就こうとする……」
「そういうこと。特にアラクネなんかは暴れん坊だし、魔王のことなんか知ったらすぐ駆け付けて来るだろうね。あと既にどこかで噂を聞きつけたのか、私に刺客を送って来る奴も居るんだよ」
既に魔王候補という制度が存在している時点で、本物魔王などただの邪魔者でしかない。むしろ玉座に就く口実作りにはうってつけだ。紋章を持つ子が生まれたなど知れば、瞬く間に魔王候補達はその子を付け狙うようになるだろう。事実、まだ確定してもいない噂話でもしっかり魔王候補達は確認し、不安の芽を摘もうと刺客を送っている者も居る。
「ね、狙われたんですか……!?」
「まーそれくらいは昔からあったし、別に問題はないのよ。ただこのままじゃ、この子は不自由なまま生まれて来ることになっちゃう。私は、それが嫌なの」
今の魔族の国では魔王そのものが厄災を引き起こしてしまう。生まれてしまえば多くの者が魔王の力を望むだろうし、奪おうとするだろう。セレーネは我が子にそんな黒く穢れた欲望の世界を見せたくはなかった。
「宰相……あの人の思い通りにはさせない。だから私はこの子を、人族の大陸に送る」
更にセレーネの口から驚くべき言葉が告げられる。レウィアにとってその考えはおよそ最良とは言えない、普通なら思いつかない考えであった。
「なっ……正気ですか!? 人族の大陸に魔王だなんてっ……魔物の群れに赤子を放り投げるのと一緒ですよ!」
「大丈夫。安全な場所に送るから」
レウィアが異見を述べると、セレーネは人差し指を口に当てながらぱちりと片目を瞑った。どうやら彼女なりに考えがあるらしい。
「安全な場所?」
「昔、友達から教えてもらったんだ。亜種族が集まる村があるってね。魔族はちょっと難しいかもしれないけど……それでもこの国よりはきっとマシだろうから」
何でも自身が人族の大陸に滞在していた頃、そこで知り合ったある人族にその村の存在を教えてもらったらしい。何とも夢物語のような話だが、その人族もその村で育ったと言っているので、実在するのかも知れない。確かにその場所なら、少なくとも魔族の国で過ごすよりは安全だろう。
「そ、そんなの確証はないんでしょう……ッ? 危険過ぎます!」
「でもやるしかないんだよ。そうしなくちゃこの国は混沌に飲み込まれる。また罪のない血が流れる。そんなのレウィアだって嫌でしょ?」
「…………!」
レウィアは異議を唱えたが、もうセレーネの中では覚悟が決まっているようだった。ならばもう何を言っても無駄だ。彼女は一度言ったことは絶対に曲げない。だからこそ、たった一人で人族の大陸に行くなんていう滅茶苦茶なこともやってのけたのだ。
レウィアは静かに項垂れ、己の無力さとまだ幼い自身の身体を呪った。あともう少し大きければ、彼女を助けることも出来ただろうに。そんな悲しみを抱いているレウィアに対して、セレーネは優しく声を掛けた。
「この国を、この世界を守る為なんだよ」
レウィアが顔を上げると、そこにはセレーネのいつもの笑顔があった。優しく、子供のように無邪気な笑顔。それを見ていると、嫌な気持ちも全部忘れられる。でも何故か、この時だけはレウィアの気持ちは晴れてくれなかった。
「あとは……はいこれ。さっき言ってたレウィアにあげたいもの」
「……えっ、これって……」
それからセレーネは手にしていた剣を回転させ、柄の方を差し出して来た。レウィアはそれを受け取れという意味だと察し、素直に漆黒の剣を手に取る。まだ子供の身体である彼女には少し大きい、重たい剣。だが不思議と、その剣はレウィアの手によく馴染んだ。
「〈煉獄の剣〉……! アルティ家に伝わる魔剣じゃないですか! 何でこれを私にっ?」
セレーネが渡して来たのはアルティ家の秘宝であり、彼女が愛剣として使っていた煉獄の剣であった。
煉獄の剣、別名〈魔喰らい〉としても知られるその剣は魔力が豊富な魔族を斬る為に作られたとされ、かつては魔族同士でこの剣を巡って壮絶な争いが繰り広げられたという。そして最終的に勝ち得たのが、今のアルティ家。以降アルティ家ではもっとも剣術に長けた者がこの剣を受け継ぐようになっていた。
「レウィアもそろそろ本格的な鍛錬をするだろうからさ、餞別。私は別で色々忙しくなっちゃうだろうから、その剣をレウィアに使って欲しいの」
「で、でも、私はウル家の魔族だし……」
「大丈夫だってー、ウチの爺と婆もレウィアのことなら信頼してるし、剣の所有権はとっくに私に移ってるんだから、それをどうしようが私の勝手でしょ? だから貰ってよ」
「えぇ……ぁ、ぅ……」
レウィアは困ったように視線を泳がせながら手元にある煉獄の剣を見下ろす。闇夜のように真っ黒な刀身に、炎の揺らめきのように禍々しい形をした異形の剣。その剣は今のレウィアにとって、あまりにも重いものであった。だが、慕っているセレーネが受け取れというのなら、それを無下に扱うわけにはいかない。
「分かり……ました。セレーネ母さんがそう言うなら、大切に使います」
「フフフー、そんなかたっ苦しく使わなくて良いよ。剣は剣なんだからさ、ばしばし振っちゃって」
レウィアが承諾すると、セレーネは嬉しそうに笑った。よほど自身の愛剣であった煉獄の剣を託したかったようである。彼女にとって使っていた愛剣は倉庫にしまって埃を被るよりも、誰かに使ってもらう方が嬉しいようだ。
「はいじゃぁ面倒くさい話はこれで終わりー! クッキー食べよ。今朝頑張って作ったんだー」
「ええっ、駄目じゃないですか。あんまり動いたりしたら」
「ちょっとくらいなら大丈夫だってー。ほら、レウィアもこっち来て」
それからセレーネは話題を変え、戸棚からクッキーを取り出した。魔族の国では中々ありつけない食べ物。どうやら早起きして自力で作ったらしい。そんな所も相変わらずだと思いながら、レウィアはセレーネと共に椅子に座り、優雅な一時のお茶会を過ごした。
それが、楽しかった最後の記憶。夢。描かれていた幸せな光景には亀裂が入っていき、やがてバラバラに砕け散る。そして悲鳴と共に、レウィアを現実へと引き戻す。
「-----……母さんッ!!」
飛び起きると、そこは先程の光景とは全く違う、木造の家の中。棚には大量の本が置かれ、床には布切れが散らばり、窓からはカーテンの隙間から日差しが入り込んでいる。そんな生活感溢れる部屋の中で、どうやら自分は誰かのベッドの上で眠っていたらしい。レウィアはそれを理解してから、改めて自分の状況を確認しようとする。すると目の前に、二人の人物が居ることに気が付いた。
「おお……気付いたか。レウィア」
一人はレウィアもよく知る人族の男性。アレン・ホルダー。彼は椅子に座り、看病をしていたのか手には布が握られている。そしてその隣には、レウィアが絶対に忘れることの出来ない少女が居た。
「お、おはよう……レウィアさん」
「……ルナ」
自分が慕う異母の面影を残した少女、ルナ。彼女は隠れるようにアレンの傍に寄りながら、顔だけ出しておずおずとレウィアの様子を伺っていた。