117:魔王の目覚め
「……ッ」
ようやく意識が完全に覚醒したルナは自分の状態に気が付き、ファルシアに紋章を見られてしまった事を悟る。すると彼女は慌てて手の甲を抑え、隠すようにファルシアに背を向けた。
「ち、違うんです……! これはッ……」
何とか言い訳しようとするが、それ以上言葉が出て来ない。頭の良い彼女はここまで見られたからにはもう何を言った所で無駄だと分かっているのだ。
魔王である事が知られた。もう自分は終わりだ。ルナはそう思い、頭の中が真っ白になる。どうすればこの状況を解決する事が出来るのか全く分からず、彼女の弱々しかった瞳は更に黒く染まった。
ファルシアの方も同じく困惑し、言葉が出ずにいる。
予測はしていたが、いざ現実を目の当たりにすると受け入れる事が出来ず、どう対処すれば良いのか分からないのだ。何をするのが正しくて、自分がどうしたいのかも分からない。そんな彼女はしばらく固まっていた後、息を小さく吐き出すとようやく口を開き始めた。
「やっぱり……あんたは、魔王なの?」
直球な質問。尋ねられたルナは怯えるようにビクンと肩を震わせ、ファルシア自身もいきなり核心に突くような質問をした自分に驚いている。
ルナは怒られて泣きそうになっている子供のように瞳を揺らしながら、ゆっくりとファルシアの事を見上げた。
「……そう、です」
か細い声でルナは頷き、肯定する。指先は震え、顔に出来ている亀裂がより広くなる。まるでルナの不安定な心を表すかのように。
「で、でもお父さんは悪くないんです! お父さんは私が魔族で、魔王だって知っても本当の娘のように育ててくれて……ただ平和に、皆で仲良く暮らしてただけなんです!」
次にルナはアレンが罰せられてしまうと思い、すぐに弁護の言葉を述べる。信じてもらえるかどうかは分からないが、アレンはただ父親として接してくれただけだと証明しようとする。だがすぐに魔王である自分の言葉に何の意味も持たない事を悟り、口を閉じて落ち込むように視線を下に向ける。
そんな弱々しいルナを見てファルシアは本当にアレンが彼女を本当の娘のように育てたのだと悟る。あくまでも自分の視点から見てだが、この家族が嘘を吐いているようには見えない。だが、だからと言ってそんな自分の考えだけで見逃す訳にはいかない。これは大袈裟でも何でもなく世界の命運が掛かっている問題なのだから。
ファルシアは落としていた杖を拾うと、蜘蛛の巣の上で立ち上がって気持ちを切り替える。
「色々聞きたい事はあるけど……それは後にするわ。今はそんな状況じゃないの。何とかしてあの魔族を倒さないと」
そう言うとファルシアはルナを立たせて今がどういう状況なのかを教える。
蜘蛛の巣の下ではアレンが大量の蜘蛛達を足止めし、その近くではアラクネとリーシャが壮絶な戦いを繰り広げていた。それを見てルナは焦るように唾を飲み込む。
「アラクネ……!」
思わずルナは彼女の名を呟く。
アラクネは狂ったように笑いながらも蜘蛛の脚を巧みに操り、竜巻のように攻撃を仕掛け続けている。リーシャはそれを難なく受け流しているが、決め手に欠けているようだ。このままではアラクネがまた何か仕掛けて来るかも知れない。
「あいつは呪いを使った後だから疲弊している。勇者のおチビちゃんが頑張ってくれてるけど、後一手足りないわ」
「……ッ」
ファルシアの説明を聞いている時、彼女の口から勇者という単語が出て来た。反射的にルナは振り向いてファルシアの事を見ると、彼女は意識をアラクネの方に向けているらしく、ルナの視線に気づいていない。
どうやらリーシャが勇者である事も分かっているらしい。ルナは複雑な心境ながらも、何とか気持ちを切り替え、小さな拳を握り絞める。
「手を貸してもらえる?貴女の力なら、おチビちゃんと協力してあいつを倒せるでしょう?」
ファルシアはルナに視線を向けると、どこか申し訳なさそうな顔をしながらそう懇願した。ルナはそんな彼女の姿を見てある事に気が付く。
(ファルシアさん、身体から魔力が感じられない……もう限界なんだ)
腕利きの魔術師ならば魔力を隠す事は出来るが、今のファルシアからはその気配すら感じられない。彼女はもう殆ど魔力が空っぽで、戦う事すら出来ない状態だったのだ。魔術師にとって魔力切れは死を意味するというのに、それでも彼女は逃げずにこの場で戦い続けていたという事である。そんなファルシアに対して、ルナは気まずそうに手の甲を抑えた。
「で、でも、駄目なんです。この状態になると、私魔法が上手く使えなくて……」
ルナは自分の頬に出来ている亀裂を触りながらそう告白する。
胸の奥で騒めいている魔力。まるで生き物のように自分の思いとは違う動きをするソレをルナは操る事が出来ない。最早シェルが掛けてくれた補助魔法も効果はない。もしもここで魔法を使えば、またピクシーの時と同じように暴走してしまうだろう。それはルナ自身が一番理解している。故に彼女は戦う事が出来ない。
「ああ、魔力の暴走ね」
「ッ……知ってたんですか?」
「まぁ、なんとなくは。アレンさんから妙な本の解読もお願いされてたし」
自分の症状を言い当てたファルシアにルナは驚く。
ファルシアがアレンから解読を頼まれた本は魔力の操作についての本だった。そして既にシェルから補助魔法の詳細について聞いている。そこまで情報が揃っていればある程度推測を立てるのは容易であった。
ファルシアはおもむろに懐から本を取り出す。表紙は真っ黒で、かなり古い本だ。
「……この本にはね、魔力の操り方が書かれてたわ。まだ完璧に解読出来た訳じゃないけど、どうやらある吸血鬼がこの本を作ったらしいの」
「……!」
突然ファルシアは本の説明を始めた。パラパラと数ページめくり、苦労したと言わんばかりにため息を吐いて表紙を手で叩く。
内容を聞いたルナは魔力の操り方と聞いて顔を上げ、僅かながら希望を抱く。おまけに本の著者が吸血鬼だと言うのなら、それはある人物の可能性がある。俄然興味が湧いた。だが、ファルシアの口から語られたのはルナの望んでいた答えではなかった。
「ただ、魔力の暴走の抑え方については書かれてなかった。あくまでも暴走は成長の途中みたいなもの。抑えるものじゃない、ってさ」
簡単に希望を掻き消され、ルナの瞳は再び黒く染まる。それに反応するように顔の亀裂も広がる。ガラスが割れるような痛々しい音が鳴ったが、ルナ自身は痛みを感じない。それどころか力が漲って来て、抑えなければならない程魔力が乱れ始める。
「そう、ですか……」
紋章が輝いている手を抑えながらルナは何とか声を絞り出す。
自分が不安に思うと連動して魔力も乱れ始めるのだ。心を強く持たなくてはならない。それを身体自体に言い聞かせるように跡が出来るくらい強く手を握り絞める。
その時、突如ファルシアの背後から一匹の蜘蛛が襲い掛かって来た。ルナはそれにいち早く気が付いたが、魔法を使って撃退する事は出来ない。寸での所でファルシアも気が付き、杖を思い切り振って蜘蛛を弾き飛ばした。
どうやらファルシアを追いかけていた蜘蛛達が壁を伝って登って来たらしく、周りに蜘蛛達がうじゃうじゃと集まり始めていた。ファルシアはそれを見て小さく舌打ちをする。
「……あんたに、ちょっとだけお話してあげる」
「……え?」
ふと彼女がそんな事を言い始める。周りに蜘蛛達が集まっているというのに、既に魔力も尽き掛けているのに、大魔術師の余裕なのか、大した焦りも見せずに彼女は杖をクルリと回転させる。そして飛び掛かって来た蜘蛛を叩き落とした。彼女の金色の髪が大きく乱れ、前髪が目に掛かる。それをうっとうしそうに掻き分けながらファルシアは口を開いた。
「私も昔はね、魔力の暴走に悩んでたの……って言うか、魔力の多い子は大抵そういう時期があるんだけどね。まぁ私の場合はちょっと素質が良かったから、規模が大きかったのよね」
ファルシアは飛び掛かって来る蜘蛛達を杖で弾き飛ばし、僅かながらに残っている魔力を節約して魔法を行使しながら話を続ける。その内容を聞いてルナは目を見開いて驚いた。ファルシアのような優秀な人でも自分と同じような経験がある事が意外だったのだ。
「それはもう苦労したわ。ちょっと水魔法を使おうとしたら大洪水が起こったり、雨が止まなくなったり……正直このまま自分の魔力に食い殺されちゃうんじゃないか、って思う程だった」
思い出して恥ずかしがるように頬を掻きながらファルシアは話を続ける。出来るだけ弱っているルナに蜘蛛が近づかないよう、水魔法を使って蜘蛛を撃退しながら。
ファルシアの口にする苦難はルナと似ていた。自分の魔力に食い殺される。確かにルナもそんな思いをしたのだ。本来なら自分の力の源であるはずの魔力が、身体を突き破るように激しくざわめく。恐らくファルシアもあの感覚を味わったのだろうとルナは想像する。それはとてつもない恐怖だっただろう。だが意外にもファルシアの表情は柔らかかった。
「だけどある時ね、もう良いやって思うようになったの。どれだけ頑張っても操れないなら、そのままで良い。抑えようとせず、受け入れようってね」
不意にファルシアは優しく拳を握り絞めながらそう言った。その答えはルナにとってかなり意外で、思わずファルシアの事を凝視する。するとその時彼女と目が合い、気のせいか彼女が笑っているように見えた。
「そしたら魔力は暴走しなくなった。私は強大な魔法を扱えるようになり、魔力も更に増えた」
「えっ……」
そんな簡単に?とついルナは疑ってしまった。
こんなに苦しくどうしようもない悩みを、ただ気持ちの切り替えだけで克服出来るなんて拍子抜け過ぎる。もっと色々と苦難があり、壁を乗り越えて克服したと思っていたのに。自分の予測と違った事にルナは口をぽかんと開けてしまった。
巣に飛び乗って来た蜘蛛達に向けてファルシアは滝のように水をぶつける。残りの魔力はもう少ないはずなのに、彼女は未だに強力な魔法を使い続けていた。否、正確には彼女は初歩中の初歩である基本的な魔法しか使っていない。単純な話、彼女の魔力の純度が高い為、少量の魔力でも簡単な魔法で威力の高い攻撃を出せているのだ。
そしてあらかたの蜘蛛達を蹴散らすと、ファルシアは長い金髪を払いながら振り返り、ルナの方に顔を向けた。
「要するに受け入れろって事。良い所、悪い所、全部含めてその魔力はあんた自身の力なんだから、しゃんとしてなさい。でないと魔力に嫌われるわよ」
ビシリと指を突き付け、まるで教師のような態度でファルシアはそうルナに助言をする。
アレンとは違って訴えるかのような強い口調の教え方だが、その言葉は確かにルナの事を思っての言葉であった。
「そ、そんなの無理ですよ……こんな危ない力を、受け入れろだなんて……」
「まぁ確かに、あんたの場合は魔族だし、あろう事か魔王だからね。私の意見も主観に過ぎないから、それで上手くいくかは分からないわ」
ルナは抓るように手を握り絞め、俯きながらそう答える。
自分には出来ない。万が一失敗した時の事を考えると行動に移れない。実際ルナが暴走した時森の一部が闇に飲み込まれた。人間であるファルシアとは勝手が違うかも知れないし、本当に危険な力かも知れないのだ。気持ちの切り替えだけで解決出来る問題ではないかも知れない。それはファルシアにも分かっていた。
彼女はチラリと下の方を見る。そこでは雄たけびを上げて蜘蛛の脚を振り回しているアラクネの姿があった。攻撃の勢いが増している。このまま放置していたら不味いだろう。
視線を戻してファルシアはルナの方を向いた。そしてゆっくりと近づき、彼女の事を間近で見下ろす。
「でももう時間がないのよ。覚悟を決めなさいルナ・ホルダー。貴女はどうしたいの?」
急に名前を呼ばれてルナは顔を上げる。視線の先ではファルシアが真面目な顔でこちらを見て来ていた。
目で訴えているのだ。このまま暴走している魔力に飲まれ、魔法を使えないままで良いのかと。そんな無言の問いかけに対してルナは言葉に詰まる。
「わ、私は……っ」
戦いたい。家族を守りたい。でもその結果魔力が暴走して、皆が危険な目に遭うような事にはなって欲しくない。でもこのままにしていればは今度はアラクネを放置してしまう事になり、家族が危険な目に遭う。どちらにせよ地獄だ。
選ばなくてはならない。ルナは一度深呼吸をした。だが突如、その空間が大きく揺れ動いた。見れば巣の下の方でアラクネが笑い声を上げている。
「ルーナーちゃーん!! 何で起きてるのおおぉぉ?! 寝てなきゃ駄目じゃぁぁぁああん!!」
「……ッ! 気付かれた。ていうかあいつ、本気でおかしくなってるじゃない!」
身体中が蜘蛛の巣模様で覆われているアラクネは目を血走らせ、背中から生えている蜘蛛の脚を伸ばしてファルシア達の立っている巣の糸を切り始めた。プツンプツンと支えとなっていた糸が切れていき、足場が不安定となっていく。
「まっず……!」
「わ、わ……ッ」
糸が全て切断されたら当然足場となっていた巣は落ち、ファルシア達も落下する。慌ててファルシアは杖を振るい、クッションのように水の塊を出現させた。半分まで巣が傾いたところでファルシアはルナを片手で抱え、その水の塊に飛び乗って床へと着地する。だが魔力がもう残り少ない為か、すぐに水の塊は弾け飛んで消失し、ファルシアはドサリと床に倒れ込んだ。
「たー……腰打った」
「ファ、ファルシアさん、大丈夫……!?」
「平気よ……魔力が完全に空っぽになったって事以外はね……」
抱えられていたルナは慌てて離れてファルシアの容態を確認する。幸い水の塊から落ちただけなので大した怪我はなかったが、今度こそファルシアは魔力切れになってしまったらしい。確かに今の彼女からは微塵も魔力が感じられない。これはかなり不味い状況である。
「アハハハハ!! 遊ぼうよぉぉお! ルナちゃぁぁあん!!」
そんな状況を狙ったようにアラクネが笑い声を上げながら迫って来る。蜘蛛の脚を駆使して壁を飛び移り、凄まじい速度で向かって来る。すぐさまルナは魔法を使って立ち向かおうとするが、少し魔力を使おうとしただけで力が溢れ、操作が効かなくなる。このまま発動すれば塔自体が壊れてしまう程の魔法が発動してしまうだろう。彼女は呻き声を上げて詠唱を中止した。
「ルナ、下がってなさい!!」
「……ぬぐぁ!?」
突如、ルナの真上で炎の球が横切り、アラクネに命中する。予想外の攻撃にアラクネは脚を滑らせ、地面を転がった。
ルナが炎の球が飛んで来た方向を見れば、そこにはアレンの姿があった。少し身体や服に切り傷があるが、どうやら無事のようだ。魔力もまだ残っている。
「お父さん!」
「邪魔してんじゃねえよ! 人間がぁぁあ!!」
アレンが来てくれた事にルナは喜びの声を上げる。だがすぐ後ろからは子供の声とは到底思えないドス黒い叫び声を上げ、アラクネが蜘蛛の脚を鋭く伸ばしながら飛び掛かって来ていた。だがその直後、宙からリーシャが舞い降りる。
「邪魔してるのは、そっちでしょう!!」
「あぐぁぁぁぁぁああッ!?」
聖剣を振るうとリーシャはアラクネの蜘蛛の脚を斬り飛ばす。そして黄金の斬撃を放つと、彼女をルナ達が居る所からは遠くへと吹き飛ばした。
「リーシャ!」
「ルナ、無事?! 怪我は?! あいつに変な事されてない?!」
「お、落ち着いて。私は大丈夫だから」
クルリと方向を変えてリーシャはルナの傍へと駆け寄って来る。そして力強く抱き着くとルナの身体を下から上まで見まわし、何も問題ないか確認した。幸いルナは捕まっていただけなので怪我を負うような事はしていない。顔に痛々しい亀裂が入っている事を除けば、問題ないと言えるだろう。
「ルナ、無事で良かった……」
「お父さん……」
そんなルナの元にアレンが歩み寄って来る。リーシャが離れるとアレンもルナの事を抱き寄せ、そっと彼女の頭を撫でた。その手が僅かに震えている事に、ルナだけが気が付く。アレンも不安だったのだ。この様子からしてかなり余裕がなかったのだろう。
そしてルナを離すと、アレンは隣で膝を付いているファルシアの方を見る。
「平気か?ファルシア」
「まぁ、魔力がすっからかんなのと、ぎっくり腰みたいに身体が痛い事を除けば……概ね問題なしね」
「そうか。なら大丈夫そうだな」
「ふっ、そうね」
アレンが手を差し出すと、ファルシアもその手を取って身体を起こす。そして痛そうに腰を摩りながら髪を払った。もう戦う力はないというのに相変わらず余裕そうな態度である。アレンもそんな彼女の性格を分かっているからか、心配なさそうに笑みを零す。
「で、どうするの?無事お嬢ちゃんを助ける事は出来たけど。あの魔族を倒すのはかなり面倒そうよ」
「俺もそろそろ魔力が厳しいが……アラクネを放っておく訳にはいかない」
「じゃぁ戦う?幸いこっちには勇者と魔王が居るけれど」
「…………」
アレンとファルシアはこれからどうするべきかを考える。
正直大人組はもう体力と魔力が限界だ。これまで連戦続きだった上に、相手は魔王候補の魔族である。戦うには少々準備が足りない。だがだからと言って逃げる訳にもいかない。街の住人を救うにはアラクネを倒さなければならないのだ。この機会を失えばアラクネは姿を消してしまうかも知れない。
ファルシアは横目でリーシャとルナの事を見た。改めて見るとこんな子供達が勇者と魔王とは思えない。だがその実力が子供離れしているのは事実だ。この子達が上手くやってくれればアラクネを倒せるかも知れない。そう彼女は考える。するとその心を読み取ったかのようにリーシャがピシリと手を上げた。
「私やるよ! 蜘蛛になった人達を助けたいし、何よりあいつはルナを虐めたんだもん! ボコボコにしてやらないと気が済まない!」
アラクネは呪いを使って多くの人達を束縛している。そしてリーシャの最愛の妹であるルナを攫った。この時点でリーシャにとってアラクネは排除しなくてはならない敵であり、自分達の平穏を乱す外敵と判断していた。故に今の彼女なら躊躇なく聖剣を突き付ける事が出来る。それだけの覚悟はもう出来ていた。
だが一方でルナはまだ覚悟が出来ていない。アラクネが憎いのは事実だが、人を傷つける事を怖がる彼女はどうしても戦う気になれなかった。何より今の魔力が不安定な状態では最初から戦う事なんて出来ない。彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「分かった……だがあまり無理はしないでくれよ。ルナはファルシアと一緒に下がっててくれ。俺達でアラクネを何とかする」
「お父さん……でも、私……!」
アレンの指示に対してルナは自分も戦えると言いたかった。家族が頑張っているのに、自分だけ何もしないなんて耐えられない。だが、続きの言葉は喉で詰り、ルナは何も言えなかった。今の自分はとても戦える状態ではない。むしろ皆に迷惑を掛けてしまう。
「だぁぁぁぁあああ!! お前ら全員食い殺してやる!!」
そんな事をしている内にアラクネが復活し、雄たけびを上げながらこちらに飛んで向かって来る。すぐさまアレンとリーシャは左右に避け、炎の球と黄金の斬撃でアラクネを吹き飛ばす。だがアラクネはそれを喰らってもピンピンしており、宙で一回転すると辺りに蜘蛛の糸をまき散らした。
「うおっと……!」
「うわっ、何これ?! 動きづらい!」
壁や床に糸が張り付き、アレンとリーシャはその糸に囲まれる。服が少し触れただけでもくっ付き、離れない。身動きの取れない状態に二人は焦る。そんな彼らを見下ろしながら、アラクネは天井に張り付き、笑い声を上げた。
「はぁ……はぁ……手間取らせるんじゃねぇぞ人間。所詮お前らはアタシの餌に過ぎねぇ!」
少しは冷静さを取り戻したのか、アラクネはしっかりとアレン達の事を捉えながらそう言い放つ。すると彼女は歪な声を鳴らし、手を縦に振るった。直後部屋が揺れ始め、暗闇から無数の蜘蛛達が溢れ出て来た。
「「「ギギギギギギギギギギッ!!!」」」
「一人残らず殺せぇぇえええ!!」
アラクネは蜘蛛の大軍に指示を出す。自分ではなく蜘蛛達でとどめを刺すつもりだ。実際アレン達は蜘蛛達を殺せない為、そのやり方が一番効く。おまけに今は激しく動く事が出来ない状況だ。アレンとリーシャは最小限の動きで周りの糸を切り、何とか自分の動ける場所を確保して蜘蛛達を迎え撃つ。
糸に囲まれていないファルシアとルナはその光景を焦った様子で眺めている。ルナは何とかしたいと拳を握るが、紋章が鈍く輝くと共に魔力が揺れ動いた。
「まだあんなに蜘蛛が……!」
「一体何匹居るって言うのよ。あの数じゃ流石にアレンさん達も不味いわよ!」
アレンとリーシャは必死に蜘蛛達を追い払っているが、無力化する事が出来ないので数を減らす事が出来ない。おまけに糸の包囲網のせいで回避する事も出来ず、蜘蛛の爪が当たって少しずつ負傷していった。
(私も、戦わないと……!)
ルナは脚に力を入れて一歩前へ踏み出す。だがすぐに脚は重く動かなくなってしまった。
出来ない。怖い。もしもまた暴走したら今度は取り返しのつかない事態になってしまうかも知れない。そう思うとどうしても動き出す事が出来なかった。
(私は……私は……!!)
ルナの頬にある亀裂が更に広がっていく。アラクネの蜘蛛の巣模様と同じように顔全体に亀裂が入り、まるで怪物のような見た目と化していく。そんな時、ふとファルシアと視線があった。彼女は亀裂だらけの顔になったルナを見ても驚いた素振りを見せず、ただ見つめている。まるで優しく見守っているようだった。そして彼女はそっと口を開く。
「別に、気にしなくて良いわよ……あんたのしたいようにしなさい」
どうせこのまま何もしなくても蜘蛛の軍勢はアレンとリーシャを襲い続ける。状況が不利である事には変わりないのだ。そうなればルナは結局後悔するだろう。何も出来なかった自分に。何もしようとしなかった自分に。どちらにせよ後悔するのだ。ならば選択し、やり切って後悔しろ。そうファルシアは助言を与えた。
その言葉は意外にもルナの重かった気持ちをずっと軽くしてくれた。
彼女の脚が、一歩前に出る。
「本当に良いの?」
突然誰かの声が頭の中に響く。よく聞くルナ自身の声だ。ふと横を見れば、隣には自分と同じ姿をしたルナが立っていた。だがアラクネに捕まっていた時と違い、どこかその表情は浮かない。
「もしも力を受け入れれば、私達は本当に魔王になっちゃうかも知れないんだよ?そしたら二度と村で暮らせなくなっちゃうかも……それでも良いの?」
まるで何かに怯えるように彼女は片腕を握り絞めながらルナに問いかける。そんな彼女を見てルナ自身も弱々しく笑った。
「……もちろんそれは嫌だよ。私も怖い。この力を受け入れれば、私は私じゃなくなっちゃうかも知れないんだから……」
ルナは胸元に手を当てながらそう告白する。
彼女自身だって本当は怖い。これが正解だなんて分からないし、もっと良い方法があるのかも知れない。選択する時はいつもそうだ。答えなんて分からず、ただ後悔しない為の言い訳として選択する。だから彼女は前へと進む。
「でももう、私は〈あなた〉の事を怖がりたくない。逃げたくないの……私も精一杯努力するから……お願い、一緒に戦って」
「……!」
ルナがそう言うともう一人のルナが驚いた表情を浮かべる。彼女にとってその答えは意外だったようで、後ずさって困惑するように瞳を揺らした。
そんな彼女にルナは手を差し伸べる。しばらく呆然とその手を見つめていたもう一人のルナは諦めたように笑みを零すと、ゆっくりとその手を掴んだ。その瞬間、ルナの魔力が身体中に巡る。
「お帰り、〈私〉」
ルナの顔に出来ていた亀裂が消えていき、その瞳に光が戻る。そしてルナは手を掲げると魔力を集中させた。彼女の身体から影が溢れ出し、付き従うかのように周りに浮遊する。
「ルナちゃあああん! 何してるのぉ?! 一緒に遊ぼうよぉぉおお!!!」
「「「ギヂヂィィィァアァアアアアアアアアアッ!!!」」」
そんなルナの存在に気が付き、アラクネは天井に張り付きながら腕を大きく振るった。すると蜘蛛の大軍の一部がルナの方へと向かって来た。だがルナは臆する事なく、今度は一歩前へと踏み出して腕を振るい、飛び掛かって来る蜘蛛達を影で飲み込む。だが影が通り抜けても蜘蛛達は傷一つ負っていない。ただ動きを止めただけであった。
「あぁ?! 何が起こりやがった!?」
突然指示通りの事をしなくなった蜘蛛達を見てアラクネは苛立った声を上げる。見ればアレンとリーシャに襲い掛かっていた蜘蛛達も影に飲み込まれ、動かなくなっている。
「ルナ!?」
目の前で動かなくなった蜘蛛を見てリーシャは状況からしてルナが何かしたのだと察し、ルナの方に振り返る。アレンも揺らめく影を見てまた暴走したのかと不安に思うが、どうも様子が違う。ルナはとても落ち着いており、身体に何の異変も起こっていなかった。
「私はもう逃げない……この力で、私の力で戦う」
ルナはゆっくりと歩き出し、蜘蛛の間を通る。すると蜘蛛達はルナに道を開けるように横に広がった。更に忠誠を誓う騎士達のように頭を垂れる。そしてルナは拳を握り絞め、手を開くとアラクネに向けた。
「我が名は〈魔王ルナ〉。私に従え!!」
彼女がそう叫んだ瞬間、蜘蛛の軍勢は方向を変えて一斉にアラクネに向かい始める。アラクネは何が起こったのか分からず混乱し、蜘蛛達は喜びの声を上げるように不気味な音を甲高く鳴らした。