115:勇者の覚醒
アレン、リーシャ、ファルシアは階段を上り、呪いの犯人が居るであろう最上階を一心不乱に目指す。意外にもその道中では蜘蛛達が襲って来る事はなかった。流石に数が尽きたのか、それとも何か企んでいるのか、いずれにせよアレン達には慎重に進むしか選択肢はない。
三人は最上階へと辿り着き、大量の蜘蛛の巣は張り巡らされてダンジョンのように化した部屋を目にする。どこからか蜘蛛達の騒めくような声が聞こえ、アレンは自然と剣を引き抜いた。後ろでは同じようにファルシアとリーシャが各々の得物を構える。
「ふぅ……ようやく最上階ね。流石に脚が疲れたわ」
「ルナはどこ!?」
ファルシアは膝を摩りながらそう言葉を零し、隣ではリーシャが慌てた様子でルナの姿を探す。
部屋は本棚が倒れ、更にそこに蜘蛛の巣が張られているせいで足場が悪い。所々にも本が散らばっており、まるでここで巨大な怪物が暴れ回ったかのような状態だった。現に壁には切り傷のようなものがある。アレンは何となく悪寒を感じた。
ふとアレンは視線を部屋の奥の方へと向ける。するとそこには壁や柱に張られた糸によって宙に拘束されたルナが居り、力なさげに俯いていた。
「ルナ!」
「待て、リーシャ!」
同じようにリーシャもルナの姿を捉え、思わず駆け出す。しかし部屋のどこからか妙な気配を感じ取っていたアレンはすぐさまリーシャの腕を掴み、制止した。次の瞬間、天井から長く鋭い蜘蛛の脚が現れ、リーシャの目の前に突き刺さった。
「あっちゃ~……惜しい」
天井から声が聞こえて来る。リーシャとアレンが下がりながら見上げると、そこには壁に張り付いて不気味な笑みを浮かべている少女の姿があった。真っ赤なドレスを身に纏い、赤黒い髪に肌に蜘蛛の巣のような奇妙な文様が刻まれている少女。
「……あいつ!」
その姿を見た瞬間リーシャは憎たらしそうに拳を握り絞める。それを見てアレンはこの少女こそが今回の呪いの犯人、魔王候補アラクネだという事を察した。
アラクネは床に突き刺さった脚を戻し、自身の背中へと戻す。あろう事か少女の見た目をしたアラクネの背中からは巨大な蜘蛛の脚が生えているのだ。まさしく異形。様々な魔物を見て来たアレンでも驚く程だった。
彼女はアレンの事を見るとニコニコと笑みを浮かべ、わざとらしく手を振る。
「いらっしゃいリーシャちゃん、それにルナちゃんのお父さん。アタシは二人のお友達のアラクネ。よろしく」
クルリと回転して蜘蛛の巣の上に乗り、アレン達を見下ろしながらアラクネはそう自己紹介をする。礼儀正しい態度だが、逆にその姿は三人の目に不気味に映った。そんなアラクネの姿にリーシャは怒りの声を上げる。
「あんたなんか友達じゃない!」
リーシャは聖剣をブンと振るい、アラクネの言葉を否定する。
彼女からすればアラクネはルナを攫いシェルを傷つけた極悪人。そんな相手を友達と呼べるはずもない。だがそんな態度を取るリーシャを見てもアラクネはお腹を抱えて笑い声を上げるだけだった。
「あっはっはっは! ルナちゃんと同じ事言われちゃった。傷つくわぁ」
笑っているアラクネを横目にアレンは退路を確認する。生憎部屋は蜘蛛の巣で覆われているせいで後ろにある階段以外逃げ道はない。壁を破壊しても塔の最上階から落下するだけなので、危険は高いし、目の前のアラクネがそう易々と逃がしてくれるとは思えない。さてどうしたものか、とアレンは思考を巡らせる。
「君の望みはなんだ?何故ルナを攫った?」
「あっは、さっすがルナちゃんのお父さん。話が早くて助かるよ」
アレンはまず対話でアラクネの目的が何なのかを聞き出す事にする。幸いにも向こうはいきなり攻撃して来たものの、すぐに二撃目を仕掛けようとはしてこない。ある程度は話し合いの余地があるという事だ。その話し合いで上手くいけばルナを助け出す隙が生まれるかも知れない。
アレンがそう考えていると、アラクネは横目でルナの事を見る。そして不気味な笑みを浮かべるといきなり本題を切り出して来た。
「ルナちゃんが魔族だって事が分かってる。何で人間のあんたが同胞を育ててるのかは知らんが、まぁそこはどうでも良い」
アラクネの言葉を聞いてアレンはドキリと心臓が跳ね上がり、思わず視線だけファルシアの方に向ける。
彼女にはルナの正体を隠している。魔王である事は誰にも知られていない為問題なかったが、魔族である事はアラクネも見抜いているのだった。それを口にされる可能性を慌てていた為考えていなかった。
しまったと冷や汗を掻いているアレンの視線にファルシアは気が付くと、ふんと鼻を鳴らして髪を払った。
「何?気付かれていないと思ってたの?あんな本の解読お願いしておいて」
「……え」
「私だって鈍い女じゃないわよ。あの子が普通じゃない事は分かってたわ」
ファルシアは既にルナが人間ではない事には気付いていた。魔族だという確証は持てなかったが、それでも解読依頼して来た本である程度の予想は出来る。それでも詮索して来なかった事にアレンは驚いた。てっきり国王に報告されて罰せられると思っていたのだが。
確かにファルシアの立場からすればこの事は報告すべきある。子供とは言え敵国である魔族がこの国に紛れ込んでいるのは由々しき事態。反逆罪として罰を与えられる事も十分あり得る。だが彼女は出来なかった。確証を持つ事を恐れ、私情からアレンを見逃してしまった。彼女はバツが悪そうに視線を逸らす。
「アタシは結構ルナちゃんの事買っててさぁ、あの歳でアタシの脚一本潰したんだ。将来はかなりのバケモンになるぜ?」
糸の上を移動しながらアラクネは話を続ける。
よく見てみると彼女の背中から生えてる脚の内の一本は短く、抉れたような跡が残っている。それがルナとの戦闘で負傷した脚なのだろう。
「魔族の国では力こそが絶対だ。実力があればそれ相応の権利と地位を与えられる。で、だ。アタシはルナちゃんを暗黒大陸に連れて行きたい」
クルリと方向を変え、身体の向きはルナの方に、そして顔だけアレン達の方へと向けるとアラクネはそう自身の目的を明かす。彼女の顔半分に刻まれている蜘蛛の巣の文様は血走るかのように濃さが増しており、彼女の赤い瞳もまた淡く輝いているように見えた。
「……ッ」
「……!」
アラクネの言葉を聞き、アレンとリーシャはそれぞれ表情に動揺の色を見せる。
暗黒大陸。すなわち魔族の大陸。恐らくはルナの故郷であろう土地。今までアレンは考えないようにしていたが、本来ルナは暗黒大陸で生まれた。彼女にとっては暗黒大陸は故郷で、自身の出生を知れる場所の可能性があるのだ。ひょっとしたらルナは暗黒大陸に行きたいのではないか?人間の大陸はやはり生きづらく、自分の本来居るべき場所に戻りたいのではないか?そんな隠していた不安が心の奥底から溢れて来る。今の生活が一番の幸せだが、ひょっとしたらルナの為を考えたら暗黒大陸に行くのは正解なのではと考えていたのだ。
リーシャも同じく不安が隠せず、聖剣を握っている指先が僅かに震えていた。
彼女の場合はルナとの約束がある為、特にルナの力の事を心配している。もしも暴走の原因が人間の大陸に長く居るせいだとすれば、暗黒大陸に行けば状態が良くなるのかも知れない。少なくとも暗黒大陸なら同じ魔族としてルナも無理せず交流する事が出来るし、大切な人を傷つけるような心配はなくなるだろう。ひょっとしたら彼女も心の中でそれを望んでいるかも知れない。そう考えると、自分は今までルナを傷つけていたのではないかと想像し、怖くなってしまった。
「ただルナちゃんはやっぱり一人じゃ心細いようだからさぁ、二人も一緒に付いて行ってあげて欲しいんだよね。どう?安全は保障するからさ」
パンと手を叩くとアラクネはそう二人に問いかけて来る。するとアレンとリーシャは困ってしまい、たじろいだ。ルナの事を考えてしまうと、一概にそれが間違った選択とは言えない。むしろそれが正解なのかも知れないと思い始めていた。だがそんな中カンと杖を床に突き、ファルシアが邪魔をするように一歩前に踏み出した。
「馬鹿らしいわね」
冷たい口調でファルシアはアラクネにそう言い放つ。するとアラクネはちょっと驚いたように口を開き、ファルシアの事を見下ろす。僅かにその瞳には殺気が混じっていた。だがファルシアは依然余裕の態度のまま、物怖じせず言葉を述べる。
「あんたはこの街を半壊させた張本人。で、呪いの元凶。この時点で交渉の余地なんてない。アレンさんも弱気になってるんじゃないわよ。らしくもない」
トンと肩に杖を乗せながらファルシアは強気にそう言う。アラクネの事など全く怖がっていないように、むしろ彼女の事を挑発するような態度を取った。
そもそもアラクネは現在人間の大陸を侵略している諸悪の根源である。国を脅かす最大の敵であり、倒さねばならない悪。アレン達はルナの事を心配してつい言葉に惑わされてしまっていたが、アラクネが恐ろしい魔族である事には変わりない。
「こんな気軽に街を破壊する奴が約束なんてしてくれると思う?所詮こいつは楽しんでいるだけ。貴方の子供の力を利用しようとしているのよ」
アラクネの事を指差し、ファルシアはそうアレンに言葉を掛ける。その言葉でアレンも目が覚めた。自分達が今目の前にしているのはルナを攫った張本人。そんな相手の言葉を信用するなどそもそも間違っている。
「……そうだな。ああ、俺が間違っていた。お前とは交渉する気はない。アラクネ。娘を返してもらう」
「そうだ! ルナを返せ!」
リーシャも自分が今迷っている時ではないと思い直し、アレンと共に前へと踏み出す。何が正解かは今は分からない。だが少なくとも街を襲い、ルナを攫ったアラクネが間違っている事は絶対。ならばそんな相手から一刻も早く家族を取り返そうとする行為は間違っていないはずである。
「……クク、ハハ……」
するとアラクネは顔を俯かせ、顔に手を当てながら肩を振るわせ始めた。悲しんでいる様子ではない。むしろ面白がるような、そんな笑みの声が零れて来る。
「交渉決裂かぁ……じゃぁしょうがない。嫌がってる相手に無理強いしても時間の無駄だもんなぁ」
意外にもアラクネは手を広げて首を振り、ため息をついて諦めたような言葉を漏らす。最初からあまり期待していなかったのか、残念がっている節もない。すると彼女は俯かせていた顔をゆっくりと上げた。その瞳は深紅に、輝いていた。
「じゃぁ消えてくれ」
次の瞬間アラクネの身体から黒い霧のようなものが溢れ出して来た。それを見た瞬間アレンとファルシアの背筋は凍り付いた。何とも不気味な魔力。禍々しく、この世の負の感情全てを混ぜ合わせたかのような嫌な気配。それがあの黒い霧から感じられるのだ。
「ちょっ……まさかこれって……」
「呪い……!?」
すぐさまアレン達は下がり、距離を取ろうとする。その間にも黒い霧は辺りをグルグルと周りながら部屋の中に広がっていく。
「アハハハハ! アタシがただペラペラとお喋りしてるだけだと思ったか?呪いの準備をしてたんだよ!」
黒い霧はすぐに部屋の隅々にまで行き届き、そこから雪崩のようにアレン達へと向かって来る。更に先回りして階段を塞いでいる霧もある為、早々に逃げ場を失ってしまった。
「わわわ! や、やばくないコレ?」
「皆離れず固まれ!」
逃げ場がないとなれば立ち向かうしかない。まず分断をされないようにアレンは指示を出し、リーシャとファルシアを近くに控えさせた。そして魔力を込めると手の平から炎の球を発射する。炎の球は見事黒い霧に命中し、ある程度勢いを弱めた。それを見てファルシアもすかさず水魔法を発動し、洪水のように大量の水流を起こし、周りの霧にぶつけた。だが霧は勢いが弱まるだけで、一向に消える気配がない。アラクネが呪いを発動している以上、無限に霧は増え続けてしまうのかも知れない。
「……ッ! これじゃ消耗戦ね」
「とにかく霧に触れないようにしろ! 払い続けるんだ!」
ファルシアは杖を振るい、周りに水の壁を作り出して黒い霧が入って来ないようにする。しかし霧の勢いも凄まじく、ファルシアも魔力を消耗しているせいでずっと発動し続けている訳にはいかない為、表情に疲れが見え始めていた。
「安心しなぁ、蜘蛛になってもリーシャちゃんとお父さんは特別扱いしてやるよ! 姿は変わっても家族が傍に居ればルナちゃんも安心だろうからなぁ。アッハッハッハ!」
黒い霧の発生源であるアラクネの所からは笑い声が聞こえて来る。この状況を楽しんでいるようだが、霧を発生しているだけで何かして来る様子はない。やはり呪いを発動している時は無防備になっているらしく、彼女は両腕をブランと降ろし、無防備な状態になっていた。リーシャはそれを見て悔しそうに腕に力を込める。
(何とかしてあそこまで行ければ……でも霧のせいで動けない!)
最大の目標はルナの奪還。倒すまでとはいかなくても一瞬で良いからアラクネを無力化出来ればルナは助けられる。今の無防備なアラクネなら聖剣を一撃叩き込むだけで無力化する事が出来るだろう。だがそこまでに辿り着くには黒い霧に触れないように立ち回らなくてはならない。流石のリーシャでもそれは難しく、彼女の額には汗が浮かんでいた。
「おチビちゃん危ないわよ!」
「----ッ!」
その時、水の壁の隙間から黒い霧が入り込み、勢いよくリーシャへと向かって来た。ファルシアの言葉でリーシャは気が付き、剣を振るう。しかし霧はそれだけで飛散する事はなく、残りの霧がすぐさまリーシャに襲い掛かった。
リーシャはしまった、と思いながら反射的に目を瞑る。しかし横に居たファルシアがすかさずリーシャの腕を掴み、自分の後ろに下がらせると代わりに霧を浴びた。
「くっ……!」
瞬時に杖を振るって水流を起こし、霧を吹き飛ばす。しかし少量とは言え霧を浴びた以上、それは呪いの発動条件を満たした事になる。ファルシアは苦しそうにその場に倒れ込んだ。
「ファ、ファルシアさん……!」
「ファルシア!」
杖を持っていられない程手に力が入らなくなり、蒼色の杖が床に落ちる。見れば霧が触れた部分の彼女の腕にはアラクネと同じような蜘蛛の巣の模様が浮かび上がっていた。それが徐々に広がって行き、ファルシアの腕全体を黒く変色させていく。
「ッ……ぁぁあ! くっ……やば、これ凄い痛いんだけど……」
「ファルシアさん! そんな……私のせいで……!」
「子供が一丁前に責任感じてるんじゃないわよ。私が手を出したんだから、私の責任よ……うっ」
リーシャは倒れているファルシアの元に近寄り、申し訳なさそうな顔をする。その間にもファルシアが発動していた水の壁が消えてしまい、霧の浸食が始まっていた。今度はアレンが火魔法を発動して霧を払うが、彼の魔力では限界は近い。数秒の時間稼ぎしか出来ないだろう。
「アッハッハー! まずは一人目!」
アラクネは一人目の犠牲者が出た事に喜びの声を上げた。無防備状態なので飛び跳ねたりしないが、口調でどれだけ嬉しがっているかよく分かる。アレンは今すぐにでも炎の球をぶつけてやりたかったが、その余裕がない程霧の勢いは強まっていた。
「ファルシア、大丈夫か!?」
「悪いわね、アレンさん……段々、意識が消えかかって来た……」
アレンは炎で霧を払い続けながらファルシアの様子を確認する。すると先程まで彼女の腕だけに浮かび上がっていた蜘蛛の巣の模様は顔や足にまで広がり始めていた。恐らく身体全体に広がる仕組みなのだろう。そうして真っ黒になった時、どうなるかは分かり切っている。
「蜘蛛になる前に殺して……とは言わないけど、脚を折るくらいはして頂戴。ぐっ……じゃないと、貴方達に襲い掛かっちゃう……」
「ッ……」
「そ、そんなの駄目だよ……!」
ファルシアはこのまま意識が消える前に無力化して欲しいと頼むが、リーシャがそれを拒絶する。剣を放すと彼女の手を掴み、目に涙を浮かべながら語り掛けた。
「私を守ってくれたのに……ファルシアさんを傷つけるなんて……! 絶対、絶対私が助けるから……!」
リーシャのような純粋な子供からすれば恩人を傷つけるような事は出来る訳もなく、辛そうな表情を浮かべながらそう訴えた。手を握る力は強く、そのおかげか消えかかっていたファルシアの意識も少しだけ戻り始める。
「……あんたは、うっとうしいくらい……優しい子ね。流石はアレンさんの子供なだけはあるわ」
「ッ……ファルシアさん」
ファルシアは真っ黒に染まってしまった方の手でそっとリーシャの頬を撫で、珍しく優しい笑みを浮かべる。恐らく今回の旅で初めて見せる表情だろう。だがすぐにその手は力なく落ち、再び彼女の顔は苦悶の表情へと変わってしまう。
(どうしよう、私のせいで……私のせいでファルシアさんが……! 助けないと! ……でも、どうやって……!?)
リーシャは額に手を当ててどうすればファルシアを助けられるか必死に考える。真っ先に浮かぶ答えはアラクネを倒す事。だがそれは至極難しい。この黒い霧の中を掻い潜り、アラクネの所まで辿り着くのは至難の業だ。もしも失敗すれば自分まで蜘蛛になってしまう。そうなったらファルシアも、ルナも助ける事が出来ない。誰も救う事が出来なくなる。
「アッハッハッハァ! 無駄さぁ! 霧に触れたら最後、大蜘蛛の呪いから逃れる事は出来ない!」
そんな困っているリーシャを嘲笑うかのように天井からはアラクネの声が響いて来る。リーシャはそんなアラクネを睨みつけるが、実際彼女の言う通り対抗手段がない為、悔しそうに顔を俯かせる。地面に拳を突き付け、彼女は自分の無力さを呪った。
「リーシャ! 一瞬だけだが霧を払うから、その間に撤退しろ!」
「と、父さん……」
アレンはこのままでは勝ち目はないと判断し、まずはリーシャの避難を優先させる事にする。彼の魔法は強大ではないが、一瞬だけなら霧の一部を消し去る事は出来る。階段部分の霧を一瞬でも払えればリーシャの脚力なら十分逃げられるだろう。それが今の最善の策だと考えたのだ。だがリーシャはそれを受け入れられるはずもなく、苦しそうな表情を浮かべる。
(このままじゃ誰も助けられない! ……ファルシアさんも、ルナも……! そんなの……ッ)
リーシャは血が出そうなくらい歯を食いしばり、泣き出しそうになる。
勇者は、人々の希望だ。誰がそう決めたのかは知らないが、古来より勇者は救世主として語り継がれている。どんな敵が相手でも諦めず戦い続け、どんな巨悪な存在が現れたとしても恐れず剣を振るう。どの文書でも、どの絵本でも勇者とはそういう存在として描かれている。故にリーシャは自分もそんな人物になりたいと思っていた。例え表舞台に出られなくても、勇者の紋章を持っているからには大切な人達だけでも守れるようになりたい。そう願ったのだ。だからリーシャは再び願う。目の前の敵、アラクネを討てるだけの力を。
(そんなの……嫌だ!!)
リーシャが心の中で叫んだ瞬間、彼女の包帯で隠してある勇者の紋章が強く輝き出した。包帯が取れ、手の甲に刻まれている紋章が露わとなる。その光に包まれた瞬間、先程までファルシアの身体を浸食していた蜘蛛の巣の模様が消え去り、彼女の虚ろだった瞳に光が戻り始めた。
更に勇者の紋章は輝きを増し、その光は部屋中に広がる。すると部屋に充満していた黒い霧が消え去り、アラクネも光に触れた瞬間怯むような動作を取った。
「……えっ?」
「……リーシャ?!」
ファルシアは突然自分の体調が元に戻った事に困惑の声を上げ、魔力を消費して疲れ切ったアレンはその場に膝を付きながらリーシャの方に顔を向けた。彼女は静かにその場に立ち、自分の手の甲を見つめている。どうやらリーシャ自身も何が起こったのか分かっていないらしい。
「ぁぁああ?! 何だ?何で呪いが消えて……!?」
糸の上でアラクネはふらつき、一瞬落下しそうになる。だが蜘蛛の脚で姿勢を立て直し、憎たらしそうにリーシャの事を睨みつけた。突然呪いが無効化されて苛立っているようだ。それ所か彼女の顔色はどこか悪そうで、呼吸も落ち着かない。やはり呪いを使用した直後はかなり疲労してしまうらしい。
一方でリーシャは呆然と自身の手の甲を見つめている。相変わらずそこにある勇者の紋章は淡く輝いている。何となく自分の身体の奥底から力が沸き上がって来るのを感じていた。
「何……これ?」
彼女もまた困惑の声を上げる。感情のままに心の中で叫んだら、何故か手の甲が熱くなるのを感じた。そして次の瞬間視界が眩い光で染まり、気付いたら黒い霧が消え去っていた。リーシャからすれば全てが一瞬の事で、彼女自身もこれが自分の行った事なのか分からないくらい理解が追い付いていないのだ。するとそんなリーシャに呼応するかのよう、横に落ちていたガラクタの聖剣が輝き始めた。
ーーようやく目覚めたか。選ばれし者よ。
「……!」
突然リーシャの頭の中に声が響いた。老人のような低い声で、人間味を感じさせない声。だがその声はかつてリーシャも聞いた事のある声だった。
「あなた……まさか……」
ーー我を真に使う日がようやく来たな。実に長かった……だが其方は我に宣言した通り自分の道を貫き、そして遂に力を覚醒させた。
リーシャは声を震わせ、聖剣へと語り掛ける。するとまた頭の中で声が聞こえて来た。
間違いない。初めて出会った時、その剣を手に取った瞬間聞こえて来たあの声……ガラクタの聖剣の声だ。すると聖剣も喜ぶかのように刃を淡く輝かせた。
ーー今こそ名乗ろう。我が名は〈王殺しの剣〉。数多の王を討ち滅ぼし、力を得て来た古の聖剣である。