113:もう一人のルナ
ピチャン、ピチャン、とどこからか水が垂れる音が聞こえて来る。ルナの暗闇に落ちていた意識はその音に刺激され、ゆっくりと目を覚ました。
「ぅ……」
まず目に入るのは床。どこかの建物の中なのか、少し薄暗く足場が見え辛い。視界も揺れており、何か妙だと思えば床に脚が付いていない事にルナは気が付く。身体も縛られているかのように動かせず、何かに宙づりにされているようだ。
「ッ……ぁ……」
上手く声が出ない上に頭が痛い。まだ意識が覚醒し切っていない為、頭が回らないのだ。
ルナはまず深呼吸し、落ち着いて自分の状況を分析する事にする。どうやら自分の身体を縛っているのは蜘蛛の糸らしい。しかも通常の糸ではなく、魔物の蜘蛛が生成した粘着力と耐久力が強い糸。この糸が壁側にもくっ付いている為、まるで蜘蛛の巣のような空間が作られている。これでは蜘蛛の巣に捕まった蝶である。
ルナは悔しそうに唇を噛んだ。四肢が拘束されている以上、それくらいしか抵抗らしい抵抗が出来ないから。
「おっはようー、ルナちゃん」
その時、ルナにとっては聞きたくもない忌々しい声が上の方から聞こえて来た。どこか楽し気で、玩具で遊んでいる時の子供のような上機嫌な声。それが酷く不快で、ルナは思わず目を細めながら声の方向を向く。すると視線の先には天井に蜘蛛の巣を張り、糸の一部を椅子代わりにしてくつろいでいる少女の姿があった。
「……アラクネ」
「いやー、目を覚ましてくれて良かったよ。中々起きないからさぁ、心配したぜ?」
ギラギラとした歯を見せながらアラクネは笑い、ルナを気遣うような台詞を言う。その言葉使いの一つ一つが気に障るが、ルナはいちいちそれを口にしなかった。こちらが反応すればアラクネはただそれを楽しむだけだ。それが分かっているからこそ、何も言わない。
ルナが何の反応もしないのを見てアラクネはつまらなそうにため息を吐く。だがすぐに顔を上げると身体を起こし、糸の上をヨタヨタと歩き始めた。その間にルナはふと周りに視線を向ける。どうやら自分が囚われている場所はどこかの部屋のようで、結構広い造りになっている。辺りには糸が張り巡らされ、所々に配下の蜘蛛達も控えている。壁や糸に張り付き、監視するようにルナに無数の目玉を向けていた。本当に蜘蛛の巣窟のようだ。
「この場所が気になるか?さっきまでアタシ等が居た図書塔だよ」
「…………」
そんなルナの視線に気づいたアラクネは親切にも場所を教えてくれる。隠す必要がないと思ったのか、それとも単なる余裕か。いずれにせよルナは昼まで自分達が居た図書塔とは思えない程の部屋の変貌ぶりに思えた。確かに壁や床は塔と同じ材質の物だが、蜘蛛の巣のせいで雰囲気はさながら魔物のダンジョンと化している。
「……随分と、模様替えしたんだね」
「あははは、良いだろう?こういうのがアタシは好きなんだ」
「……趣味が悪いよ」
「あっはっはっは!」
ルナの挑発的な態度にアラクネはむしろ歓迎するように大声で笑った。何が面白いのか、わざわざ腹を抱えてまで笑っている。そんな拒絶的な態度を取っても面白がるアラクネにルナは益々苛立ちを覚える。どうしたら目の前の女は嫌がってくれるのか、苦しんでくれるのか、そんな事ばかり考えている。
「良いねぇ、良いよぉ。お前のそういう所が気に入ったんだ。小娘のくせに度胸がある」
アラクネは囚われているルナの近くまで来ると、顔を近づけてそう言って来る。アラクネ自身も見た目は幼い少女の為、彼女が小娘というのは何とも妙な気分になる。
ふとルナはアラクネの姿を見てある事に気が付く。気絶する前の戦闘でボロボロになっていたはずの彼女の服が直っており、元の真っ赤なドレスのような衣装に戻っているのだ。相変わらず肌に刻まれている蜘蛛の巣の様なものは不気味で、背中から生えている蜘蛛の脚はギチギチと動いている。その脚の内の一本はルナが潰した為、修復中のようだ。目覚める時に水が垂れる音がしたのは、傷口から垂れる血の音だったらしい。
「私を捕まえてどうするつもり?」
「んー?」
状況を理解した後、ルナはこれからアラクネがどうするつもりなのかを探ろうとする。
まだ自分が魔王である事には気付かれていないはずだ。シェルの補助魔法も消えずに機能しているし、魔力の暴走も気づかれていないはずである。ならばアラクネが自分を攫う理由はない。それならば魔王関連とは別の目的があるという事である。そう考えてルナは慎重に答えを探ろうと思ったのか、意外にもアラクネは軽い口調で答えて来た。
「いや別にー、深い理由はないんだけどさ。ルナちゃんは本来予定外の存在だからさぁ、ちょっと気になったっていうか、人間の大陸で同族に遭うなんて滅多にないから、アタシもつい嬉しくてさ」
自身の赤黒い髪をクルクルと指で巻きながらアラクネはそう言う。
本来彼女の目的は渓谷の街の侵略であり、それ以外に目的はない。ただ自分が楽しみたいだけなのだ。だがそんな中同族のルナが現れ、子供ながらも凄まじい戦闘力を見せつけて来た。そんな存在はアラクネの目には最高の玩具にしか見えず、端的に言うとルナに夢中になったのだ。
「ルナちゃんは見込みがあるよ。その年齢でそこまでの実力なら将来は化け物になる。こんなひ弱な人間の大陸じゃなくて、暗黒大陸に戻れば更に魔力の純度も上がるよ」
「…………」
言いたい事が分からない。アラクネは大袈裟に手を振ってどこか嬉しそうに話すが、ルナはただ怯えていた。これ以上この女と一緒に居たらおかしくなる。そんな気さえした。
「……何が、言いたいの?」
せめて理解出来る言葉を喋って欲しい。そんな懇願するような思いからルナは声を絞り出し、そう尋ねる。その問いにアラクネはニヒッと口元を引き攣らせ、近づけていた顔を一度離すと姿勢を正し、小さく会釈をした。
「アタシと一緒に来い。ルナちゃんを本当の魔族にしてやるよ」
手を差し伸べ、ダンスの相手を申し込むかのような大袈裟な動作でアラクネはそう言う。その言葉を聞いた瞬間、ルナの胸がドクンと脈打った。ルナの意思とは別の何かが反応するかのような、妙な感覚。ルナも何故今自分の胸は高鳴ったのかと疑問に思った。何か、嫌な汗が出てくる。
「こんな所で腐らせておくのはもったいないぜぇ?その力はもっともっと強くなる。数年もすれば魔王候補にだってなれるかも知れねぇ」
伸ばしていた腕を戻し、両手を広げて演説でもするような態度をアラクネは取る。糸の上を器用に歩き、ルナの横の糸まで移動すると今度は腰を下ろし、耳元で話し掛ける。
「親が一緒じゃないと不安ってなら親父さんとお姉ちゃんも一緒に連れてってやるよ。アタシはこう見えてもまぁまぁ権力があるんだ。人間二人くらい特別待遇出来るぜ?」
「…………ッ」
また、ルナの胸が高鳴る。だがルナ自身は何故自分がそんな気持ちになっているのか分からない。恐ろしくて、逃げ出したくて、アラクネが憎くて仕方がないはずなのに、別の感情を抱いている自分が居る。ルナはそのもう一人の自分の気持ちに薄々と気付き始めた。
(私が、お父さん達と一緒に、暗黒大陸に……?)
今まで魔王である自分が暗黒大陸に行く事は想像した事はあったが、家族全員で暗黒大陸に行く事は考えた事もなかった。そもそも人間にとって魔族の大陸は危険だし、自分から敵しか居ない大陸に行こうなど思いもしない。だがもしもアラクネの言う通り特別待遇してくれるというのなら、身の安全を確保してくれるなら、それも可能なのだろうか?全員で暗黒大陸に渡る事も出来るのだろうか?そんな可能性の事をルナは考え始めていた。
(魔族の国なら、私の力の抑え方も分かるかも知れない……)
ふとルナは顔を俯かせてそう心の中で呟く。
今もなお自分の身体の中で疼いている魔力。何かを求めるように、静かに燃え続けている炎のようにそれは身体の奥底に宿っている。ルナにとってそれはとても苦しくて、もどかしくて、耐え難いものであった。唯一魔力が暴走した時だけ、その苦しみから解放される。その代わり更なる渇きに悩まされ、結果闇に落ちる事となってしまうが。ひょっとしたらこの力を抑える方法が暗黒大陸なら見つかるかも知れない。同じ魔族ならこの症状に詳しい人が居るかも知れない。そう考え出したらルナの胸は更に高鳴った。期待してしまっているのだ。救いがあるかも知れないと。
「行っちゃおうよ。暗黒大陸に。そもそもそこが私の故郷なんだし」
「----ッ!?」
その時、頭の中に響くように声がした。思わずルナが顔を上げると、そこには自分と全く同じ姿をした少女が立っていた。だがアラクネはその存在に気が付いていない。と言うより見えているのはルナだけのようである。
「これ以上人間の大陸で我慢し続けるつもり?自分の力を抑え込んで、正体も隠して、ずっと嘘を吐き続けるの?」
もう一人のルナは顔を傾けながらそうルナに尋ねてくる。ルナを罰するように、咎めるかのように、その口調は冷たい。同じ姿をしていてもその印象は大きく違った。
「少なくとも、私一人でも暗黒大陸には行くべきだと思うけどな……これ以上、皆に迷惑掛けたくないでしょ?」
「わっ、私はそんな事……ッ」
ルナは私はそんな事していないと言いたかった。だがその言葉は途中で止まってしまい、後は掠れた声しか出せなかった。彼女はまた顔を俯いてしまう。これ以上もう一人の自分を診たくなかったからだ。このまま話を聞いていれば、自分のいけない感情が出てしまうような気がした。
急に叫んだかと思ったらまた俯いてしまったルナを見てアラクネは面白がるようにふぅんと呟き、身体を起こす。面白いものが見れたかのように彼女は上機嫌に髪を払った。
「……ま、考えておいてよ。私の方はちょーっと忙しくなりそうだからさ」
「…………」
アラクネはそれだけ言うと手を振って糸から飛び降り、その部屋を後にした。残されたのは囚われているルナと、それを監視している蜘蛛達。ルナはただ、真っ黒な目で床を見続ける事しか出来なかった。
◇
アラクネは少し速足で図書塔の廊下を歩く。そして階段を上ると自分の巣窟と化した部屋に入り、そこの窓から街の様子を確認した。既に街の大半は崩壊している。人の気配もなく、多くは避難所に逃れたのだろう。だがそんな中、アラクネには気になる事があった。
(街の方に配置しておいた蜘蛛共と目の共有が途切れやがった……なんでだ?)
アラクネは目を瞑り集中力を高める。
彼女の目は配下の蜘蛛達の目と繋がっており、蜘蛛達の見ている景色を同じように見る事が出来る。この力によってアラクネは街の住人達を観察し、様々な情報を集めていた。唯一欠点と言えば集中力が必要なだけで、この上なく便利な力である。今ですら図書塔の周りに蜘蛛達を配置し、襲撃して来る冒険者が居ないかどうかを確認しておいたのだ。だがそんな蜘蛛達の視界の一部が突然途切れた。その不可解な現象にアラクネは不機嫌そうに眉を顰める。
「ちっ……しょうがない。別の奴らに確認にいかせるか」
アラクネは目を開けると再び意識を集中させ、蜘蛛達に命令を送る。そしてまた目を瞑ると、その蜘蛛達と視界を共有し、視界が途切れた蜘蛛達に何が起こったのか確認しようとした。だが突然視界は真っ暗になり、再び共有が途切れてしまう。思わずアラクネは叫んだ。
「はぁ!? また途切れやがった! 何が起こってやがるんだよ!」
アラクネは好き勝手な人物だが、それでいて自分にとって予想外の事が起こると不機嫌になる。ダンと床を蹴って子供の姿らしく怒りをぶつけるが、その床には脚がめり込み、穴が出来上がっていた。
(生き残りの冒険者共か?だが腕が立ちそうな奴は殆ど潰したはずだぞ。それに姿も見せずアタシの蜘蛛を倒せるなんて、並みの奴じゃねぇ……!)
既にアラクネは自分の脅威となりそうな冒険者は蜘蛛で襲わせて戦闘不能にしている。シェルやファルシアのような例外もあるが、それでも不測の事態にはならないように計画は進めたはずだ。それなのに何故こんな事が起こる?アラクネは歯ぎしりし、もう一度床を蹴った。
「……!」
その時アラクネは別の視界に異常が映った事に気が付いた。すぐにその蜘蛛の視界と共有し、確認を取る。するとそこには自分が面倒だと思っていた青いローブを纏った魔術師と、村の調査をしていた男の冒険者、そしてルナの姉であるリーシャが映っていた。どうやら三人はこの図書塔に向かって来ているらしい。
「こいつ等……何でアタシの場所が分かったんだ?! くそっ、さっさと呪いの準備しときゃ良かった」
苛立つようにアラクネはわしゃわしゃと自分の髪を掻き、不満を零す。
ルナの事を優先したせいで本来の目的を後回しにしてしまっていた。既に避難した街の住人達は分かり易く避難所に集まっていて、後はそこにこちらが一手打つだけだというのに。アラクネは惜しむようにため息を吐く。
「……まぁ良いさ、今からでも遅くはねぇ。むしろ面倒な奴らをまとめて蜘蛛に出来るんだ。運が良いと考えよう」
何とか気持ちを落ち着かせるとアラクネはそう前向きに考える。
ルナの父親と姉を蜘蛛にすれば拘束したのも同然。どうせ元に戻す事だって出来るのだし、手間が省ける。アラクネはそう考えると、また子供の姿には似合わない不気味な笑みを浮かべて歩き出す。
「かつて世界には一匹の、巨大な蜘蛛が居た」
歩きながらアラクネはふと子供の声で喋り始める。その場には自身の配下の蜘蛛しか居ないのに、まるで誰かに語り掛けるかのように言葉を続けた。
「その身体は大陸を覆いつくす程大きく、何十本もの脚が大地に突き刺さり、大陸から生き物が逃げ出さないように取り囲んでいた」
ビキリとアラクネの身体から歪な音が走る。彼女の背中から生えている蜘蛛の脚も不気味に動き、まるで何かから這い出ようとするかのような人間だったら拒絶感を覚える動かし方であった。
「だがその大蜘蛛は欲深い人間共に殺され、嘆き、悲しみ、とある呪いを放った」
アラクネの身体に刻まれている蜘蛛の巣の模様も伸び始めた。本当に糸が張られているかのように身体中に線が走り、幾つもの蜘蛛の巣の模様が出来上がっていく。そして彼女の身体が完全に蜘蛛の巣で覆われると、アラクネは紅い瞳を輝かせてニッコリと笑った。
「それが〈大蜘蛛の呪い〉……さぁご先祖様、人間共に罰を与えよう」
そのままアラクネは暗い廊下の中に姿を消し、部屋から去った。暗闇からは何か巨大な生き物が蠢く音が聞こえて来る。その足音は蜘蛛が歩く音と同じものだった。