110:まだ届かない
「はぁっ……はぁっ……」
アラクネが落下していったのを見てルナは疲れ切ったように息を荒げる。そして弱々しくその場に膝を付き、震えている腕をもう片方の手でそっと抑える。何故ならば彼女の左手の甲からは、包帯越しでも分かるくらい強く魔王の紋章が輝いていたからだ。
「うぐっ……ぁ、く……!」
妖しく漏れだす紫色の光。同時にとてつもない飢餓感を覚え、ルナは口の中に唾液が溢れ出して来る事に気付いた。とは言ってもお腹が空いた訳ではない。身体の中がからっぽになってしまった妙な感覚と、体内の魔力が暴走し始めているのだ。
ルナはすぐさま身体を丸め、腕を必死に抑えながら制御を試みる。それに反応するように紋章から漏れだす光が脈打った。
(収まって収まって収まって収まって収まって……!)
言い聞かせて、抑える。だが紋章はまるで意思でも持っているのか、それに反抗するように光が強くなった。同時に更に飢餓感が襲って来る。
恐らくシェルに掛けてもらった補助魔法が消えかけているのだろう。シェル自身が負傷しているのと、自分が強力な魔法を使ってしまった為、安定していた魔力が乱れてしまったのだ。
このままではまたピクシーの時のようになってしまう。そう不安に思ったルナは自分の腕をバンと叩き、無理やり魔力を抑え込み始めた。
「……ッ……ふぅ」
眩しかった紫色の光は収まり、魔力も少しだけ安定し始める。額から垂れていた嫌な汗も引き、ようやく立ち上がるだけの気力が戻った。そのまま頼りない足取りでルナは半壊している橋の上を移動し、シェルの元へと向かう。治療をする為だ。かなり血が流れている為、急がないと手遅れになってしまうかも知れない。
「シェルさん……」
シェルの元まで歩み寄ると、ルナは膝を付いて容態を確認する。外傷は貫かれた肩だけで、そこさえ処置すれば問題ない。ただ魔力を大分消費してしまった為、そのせいでかなり身体が重くなっているはずだ。本当なら立っている事すらやっとだったはずである。それでも巨大蜘蛛を凍らせてみせたシェルにルナは改めて敬意を抱いた。
「ぅ……ルナ、ちゃん……」
「大丈夫、シェルさん。私が、何とかするから……」
僅かに顔を傾け、シェルはか細い声でルナの名を呼んだ。やはりギリギリ意識を保っているらしく、霞んだ瞳でルナの事を心配そうに見つめて来る。そんな彼女の手を握り絞め、ルナは治癒魔法を詠唱し始める。
「癒せ、この者の命を救いたまえ……!」
魔力が暴走しないように慎重に魔法を発動し、ゆっくりと肩に手を向ける。するとそこから淡い光が漏れ、傷口が閉じて行った。流れていた血も止まり、シェルの顔色も僅かに元に戻る。ひとまずはこれで問題ないだろう。後は安全な場所に連れて行って本格的な治療はすれば良い。
「ルナちゃん……私を置いて、早く逃げて……あの魔族が戻って来る前に……」
「ッ……そんな事、出来ないよ……!」
少しだけ元気が戻ったシェルはまだ辛そうな表情をしながらもそう自分の意思を伝えた。その言葉を聞き、ルナは反射的に首を横に振る。
シェルは考えていた。またアラクネが戻ってきたら今度こそ向こうは本気で自分達を殺しに来るだろう。そうなった時動けない自分は足手まといだ。であるならばルナだけで逃げるのが最善の策。そう彼女は結論を出していた。だがそれをルナが受け入れる訳もなく、真っ黒な瞳を悲しそうに揺らしていた。
「私がおぶってでもシェルさんを安全な所に連れてく……リーシャと合流出来れば、何とかなるって……!」
力の入らないシェルの手をぎゅっと握り絞めながらルナはそう言う。
確かに今の不安定な状態では再びアラクネと戦闘になれば負けてしまうかも知れない。だがこちらには勇者のリーシャも居るのだ。頼りになる姉と合流出来れば状況を打開出来る。ルナはそう信じていた。だが、そんな希望を嘲笑うかのように背後から足音が聞こえて来た。
「あー、痛ってぇ……せっかく再生した脚がまた潰れちまったよ。ちくしょ~」
ズルリ、と何かが落ちるような音と共に声の主は悔しそうにそう漏らす。その声に恐怖を感じながらルナが振り返ると、そこには案の定アラクネの姿があった。ただし真っ赤なドレスはボロボロになり、身体に擦り傷があるなど、無事だったとは言えないらしい。何よりルナが驚いたのはアラクネの背中から生えている四本の蜘蛛の脚の内の一本が潰れて、千切れ落ちている事であった。アラクネは痛そうに背中に手を回し、歯ぎしりをする。
「……ッ」
「酷いじゃん、ルナちゃん。友達にこんな事するなんて……私、痛くて痛くて死にそうだよ」
シェルの前に立って守るようにルナが手を横に広げると、アラクネは出会った時のような人間の女の子の笑顔を浮かべ、そう語り掛けて来る。しかし顔の半分に浮かび上がっている蜘蛛の巣の模様が相変わらず不気味な雰囲気を出しており、ルナにはとてもその言葉を信じる事が出来なかった。少なくとも死にそうにない事だけは分かる。
「演技はやめて……私はもう、貴女と友達になる気はない」
「あっはっはー! フラれちゃったかぁ。こりゃ残念……アタシ友達少ないからさー、出来れば友達になりたかったんだがなぁ」
心にもない言葉、とルナは嫌悪感の籠った瞳でアラクネの事を睨みつける。その偽りの姿も、偽りの言葉も、何もかもが嫌いだ。普段は露骨に嫌いな態度を取らないルナでも、アラクネという最悪の魔王候補は天敵とも思える程拒絶感を覚えた。
「まぁ良いさ。お前がアタシを嫌おうが、憎もうが、アタシは結構お前の事が気に入ってる。お前はもう、アタシの獲物だ」
カクンと顔を俯かせ、ゆっくりと上げながらアラクネはそう言う。その瞳は赤黒く濁り、獣のようにギラついていた。そして彼女の背中の脚が動き、深紅の魔力が溢れ始める。
「脚一本奪った褒美だ。アタシの魔法を見せてやるよ」
そう言うとアラクネは指を端から一本ずつ折っていき、握り拳を作ると力を込めて集中する。すると彼女の身体から溢れている深紅の魔力が更に輝きを増し、身体を覆うように溜まり始めた。そして最後にアラクネはそっと笑みを浮かべる。それはとても邪悪で、歯は牙のように尖っていた。
次の瞬間、アラクネがその場から姿を消す。ほんの一瞬瞬きをしただけで敵の姿を見失ったルナは慌てて辺りを見渡す。すると上空から飛来するアラクネの姿が僅かに見えた。
「----ッ!」
すぐさまルナはシェルの周りを氷で覆い、簡易の防御壁を作り上げる。そして自分は横へと転がり、回避を試みた。だがアラクネが脚を突き出して地面に衝突すると、轟音と共にクレーターが出来上がり、辺りに瓦礫が飛び散った。ルナはその衝撃の被害に遭い、ゴロゴロと転がる。
「……くっ!」
「そら、まだ終わらねぇぞ」
すぐに起きあがってルナは反撃に出ようとする。しかしすぐ背後からアラクネの声が聞こえて来た。
有り得ない。アラクネが居た場所からは大分離れていたのだ。とても子供の脚では一瞬で移動出来ない距離である。そんな事実を嘲笑うようにルナの背中に激痛が走る。蹴られたのだ。自分よりも小柄な少女の脚で。だがその痛みは形容し難い程凄まじく、ルナは思わず言葉を失って吹き飛ばされた。塀に激突し、ズルズルと倒れ込む。
「けほっ……う、ぁ……」
額が痛い。塀にぶつけた時にたんこぶが出来たのかも知れない。ルナは頭の中に火花でも散っているような痛みを覚え、額を抑えながら何とか起き上がる。すると疾風音と共に再びあの声が聞こえて来た。
「あっはははぁ! ほら頑張ってよぉ?気張らないと死んじゃうよぉ?!」
「くっ……ぅ!」
見ればアラクネが凄まじい速度で迫って来ている。ルナは塀に背中を預けながら手を突き出し、氷魔法を発動した。無数の氷の棘が大砲のように発射され、アラクネへと向かって行く。しかし彼女は右へ左へと移動し、全ての氷の棘を避けて見せた。
「そらぁ!!」
タンと跳躍して身体を回転させ、アラクネは回し蹴りを放つ。すぐにルナは塀に魔力の塊をぶつけ、その反動で回避した。アラクネの細く小さな脚は塀へとめり込み、爆発でもしたかのように粉砕する。それを見てルナはある事に気が付く。
(これは、ひょっとして……強化魔法?)
いくら魔族で蜘蛛の怪物とは言え、子供の姿であそこまでの怪力を誇るのはおかしい。そう感じたルナはアラクネの身体を覆っている深紅の魔力自体が魔法だと見抜き、彼女が強化魔法を使用しているのだと判断した。
〈強化魔法〉。その名の通り強化を行う魔法。身体を直接強化する物や、感覚だけを強化して性能を上げるなどの様々な使用法がある。単純な魔法ではあるがその効果は凄まじく、高難度な強化魔法ならば建物を拳だけで破壊する力を得る事も出来る。
アラクネが使用している魔法はルナの予想通りその強化魔法。ただし彼女の魔法は人間達が使う強化魔法よりも更に上、最上級の強化魔法だが。
「アタシの魔法が分かったか?そ。強化魔法。アタシの力を何倍にも増幅させてくれる素敵な力だ」
塀の上に飛び移り、アラクネはニヤリと笑いながら落ちている瓦礫を拾う。そして力を込めて握り絞めると、簡単に粉砕してしまった。
「アタシに捕まったら終わりだぜー、ルナちゃん。お前みたいな細い子の腕なんて、簡単に折れちまうんだから」
「…………ッ」
ケタケタと、子供のように純粋に笑いながらアラクネはそう言う。挑発なのか、脅しているのか、その真意は分からない。だがルナには彼女が本気で楽しんでいるように思えた。
「貴女は……最悪の魔族だね」
「あっは! あたりー。そう、アタシは〈最悪の魔王候補〉。まぁ、覚えておいてよ」
歯を見せながらアラクネは笑みを浮かべる。本当に楽しそうだ。ルナはそれを冷めた目で見つめる。すると次の瞬間アラクネが凄まじい速度でルナの前を横切った。まさかと思って視線で追うと、アラクネは氷で守られているシェルの元へと向かっていた。
狙いはそっちか。それに気付いた瞬間ルナは地面に手を付ける。すると氷が伝わってアラクネの脚を凍らせた。動きが鈍った瞬間ルナは更に手を突き出し、攻撃用の氷魔法を詠唱しようとする。だがふと周りが影に覆われている事に気が付いた。上を見上げれば、そこには触手のように一塊になって迫って来る大量の姿があった。
ああ、本命はこっちか。気付いた時には遅く、小さなルナの身体はおびただしい量の闇によって埋め尽くされた。
「……ふぅ、手間取らせやがって」
アラクネは小さく息を吐き出し、氷で地面にくっ付いていた脚を引き剥がして氷を払う。そして眉間にしわを寄せながら自身の額を抑えた。
「命令を飛ばしながら戦うのは面倒なんだよ……目の情報だってあるし、ただでさえ頭使うんだから」
何やらブツブツと言いながらアラクネはルナを覆っている蜘蛛達の方へと移動する。すると彼女が近づくと蜘蛛達は女王でも現れたかのように横に控え始めた。中心で倒れているルナは意識を失っており、眠っているように静かである。
「さてと、住人共も避難所に集まったか……よしよし、概ね良好……ん?」
片目を瞑り頷きながらアラクネは独り言を続ける。すると何かを気付いたようにある方向を向く。そこには崩壊している建物しかないが、アラクネの視線はその向こう側を見ているようだった。
「村の方に行ってた冒険者みたいな奴ともう一人の厄介な魔術師が戻って来たか……ちっ、全然足止め出来なかったな。さっさと巣を張るか」
しばし考えるように唸るとアラクネはそう結論を出す。そして指を鳴らすと、控えていた蜘蛛達は一斉にその場から移動を開始した。アラクネはそれを見送った後倒れているルナの事を見下ろし、次に振り返って氷で守られているシェルの事を見た。そして小さく笑みを零す。
「とどめは刺さないでおいてやる。どうせ魔力切れですぐに復帰する事は出来ないだろ。精々ルナちゃんの頑張りに感謝するこったな」
ここでもたもたしていたらまた邪魔な奴らがやって来るかも知れない。リーシャの事もあるし、さっさと一時撤退した方が良いだろう。そう判断したアラクネはシェルにとどめを刺さず、倒れているルナの事を持ち上げると、そのまま彼女を抱き上げて橋を後にした。