109:橋の上での衝突
空気が凍り付く程冷たく感じ、心臓の鼓動が大砲の音のようにやかましい。ルナは今すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちを必死に抑え、無理やり頭を冷静にさせた。
まず確認しなければならないのは目の前のアラクネと名乗る魔族が自分の正体に気付いているかどうかである。恐らくはまだ魔王だと見抜いてはいないのだろう。でなければ挨拶抜きで行動に出るはずである。それにルナは自分の身体にまだ補助魔法が掛かっている事に気付いていた。という事は倒れているシェルもまだ意識があるという事である。ならば今自分がしなければならないのは、正体を気付かれないようにし、敵を排除する事である。
ルナは胸に当てている手をぎゅっと握り絞め、覚悟を決める。
「貴女は……アンナちゃんじゃないの?」
その場からは動かず恐る恐るルナは気になっている事を尋ねた。
見た目は変わったがアラクネの姿は最初の頃に見せた少女の姿であり、アンナの面影を残している。もう殆どは怪物のような姿になってしまっているが。
「はー?だから言ってるだろう?アタシはアラクネさ。アンナなんて名前は適当に考えた名前。こっち側で上手くやる為にな」
ルナの質問にアラクネは吹き出し、傑作とでも言いたげに手を叩いた。そしておもむろに歩き出し、背中から生えている蜘蛛の脚を動かしながら話し始める。
「いやびっくりしたぜ。まさかこの大陸で同胞に会えるなんてよ。まぁ見た目はそんな違いないから溶け込むのは簡単だろうが……人間みたいな匂いしてるのには驚いたわ」
クルリと顔をルナの方に向け、笑いながらアラクネはそう語る。その姿は出会った時のような少女の笑い方で、恐ろしい事をしたというのに本人は全くその自覚がないような不気味さを感じさせた。ルナは思わず唾を飲み込み、一歩後ろに引きさがりたい衝動に駆られた。だが何とか思いとどまり、更に踏み込んだ質問をする。
「あのお母さんも……魔族なの?」
「あ?違ぇよ。アレはただの人形。糸使って動かしてただけさ」
アラクネはそう答えると手をぱっと開き、指を動かし始めた。すると辺りに散らばっていた氷の破片が集まり、小さな蜘蛛へと姿を変えた。氷の蜘蛛は本物のように動き、ルナの前を俊敏に動く。やがてアラクネが飽きたように手を払うと、氷の蜘蛛もバラバラの破片へと戻ってしまった。
あの母親もこの要領で動かしていたのだろう。何とも器用な事だ。操られていた母親が死体なのか生きた人間なのかは分からないが。
「……あ~、痒い」
急に声のトーンが落ち、疲れたようにため息を吐いてアラクネは髪を掻く。そして背中から生えている脚の一本に触れ、優しく撫で始めた。
「……?」
「この前竜に脚一本食い千切られてさ~、最近再生したばっかなんだよ。ったく、あのボケナス竜め……今度会ったら絶対喰ってやる」
そう言われてルナがもう一度その脚をよく見てみると、僅かに線のようなものが見えた。恐らくその部分が食い千切られたのだろう。あのエレンケルに。やはり目の前の魔族はこの大陸に侵入してきた魔王候補なのだとルナは改めて実感する。
(やっぱり、この人が……)
忠告されていた名前も一致し、エレンケルと戦闘した事も一致している。ならばもう間違いはない。ルナは高鳴る鼓動を落ち着かせ、必死に考える。どうすれば目の前の敵を排除し、シェルを安全な場所に連れて行けるか。どうすれば自分の平穏を脅かす外敵を消す事が出来るかを。
リーシャは遠くへ飛ばされてしまったが恐らく無事だろう。彼女の実力なら小さな蜘蛛達なら問題ない。ただこちらに戻って来れるからどうかは分からない。シェルも魔法がまだ発動している事から意識は失っていないが、早く応急処置をしなければ危険である。だがきっとアラクネはそれを許さないだろう。ルナはもう一度彼女の方へと視線を向ける。
「んで、そろそろ答えてくれよ。お前は何者なんだ?」
「----……」
ギョロリ、とアラクネの二つの目玉が気味悪い音を立てながらルナの方に向けられる。その目は大きく見開かれ、最初の時のぱっちりとした可愛らしいお眼目とは大分印象が変わっていた。まるで蜘蛛達の頭部にこびりついている無数の目玉。それと同じ雰囲気を纏っているのである。
ルナはアラクネの問いかけにすぐに答える事が出来なかった。言葉が出て来ず、口からは情けない息が漏れるだけ。頭は真っ白になり、どう答えれば良いのかすら考えられなくなる。
「魔族である事は分かる……だけどなんだぁこの魔力は?抑え込んでるのか?モヤモヤしてて気持ち悪い」
急にアラクネは不機嫌な顔になって宙で手を払い、そうルナの事を指差す。どうやら補助魔法の事に気付いているらしく、ルナの抑え込まれている魔力を僅かに感じ取っているらしい。彼女はそれが曖昧で嫌なようだ。
「わ、私は……」
「…………」
ルナは何とか答えようと無理やり言葉を絞り出す。その後に続く言葉など思い付かないが、何か言わなければ駄目だという危機感に襲われ、必死に口を動かした。その様子をアラクネは腕を組んで眺めていた。
ふとルナは助けを乞うようにチラリとシェルの事を見た。普段から頼りにしているシェルならきっと何か良い方法を考えてくれると考え、無意識に視線を向けてしまったのだ。だがそれがいけなかった。アラクネもその視線を追い、ある事に気が付いてしまう。
「ああ……そこの魔術師が何か掛けてやがるんだな?」
ルナの曖昧な魔力が補助魔法で抑え込まれてると予測したのか、アラクネはシェルが何かしているのだと見抜く。すると彼女は背中の脚を鋭く伸ばし、狙いすました。
「だったら、今度こそ息の根を止めないと」
「----ッ!!」
アラクネが脚を槍のように突き出した瞬間、同時にルナも飛び出した。その動きは自分でも驚くくらい素早く、一瞬だけならリーシャよりも速さが出ているくらいの勢いだった。
そのままほぼ反射的にルナはシェルの前に立ち、魔法を無詠唱で発動する。すると彼女の前にシェルが使う魔法と同じ氷の壁が出来上がり、アラクネの脚を弾き返した。
「……おいおい、なんのつもりだ?」
弾き返された脚を戻し、アラクネは信じられないとでも言いたげに首を曲げてルナの事を睨みつける。
「これ以上……シェルさんを傷つける事は許さない……!」
ルナは負けじと大声でそう宣言する。先程まで何故自分が悩んでいたのか分からないくらい、今の彼女は自分のやるべき事がはっきりと分かっていた。そんなルナを見てアラクネは歪んだ笑みを浮かべる。喜んでいるのか、怒っているのか、よく分からない表情だ。
「冗談だろ。お前、まさか人間の味方するつもりかぁ?魔族なのに?クク……ハハハ!」
何か面白い玩具でも見つけたようにケタケタ笑い、手を叩く。仕草だけなら子供のようだが、背中から生えている蜘蛛の脚はギラギラと輝き、彼女の身体に刻まれている蜘蛛の模様は不気味な雰囲気を漂わせている。その姿は一言で言えば異形。人間の大陸ならまず見ない光景のはずである。
やがてアラクネは笑い疲れたように声を沈ませ、乱れた前髪の隙間からルナの方を見た。その瞳は真っ赤に濁っている。
「んじゃお前も死ねや」
先程のふざけたような声色とは一転、子供らしからぬ低い声でアラクネはそう言う。その瞬間彼女の背中に生えている四本の脚が長く伸び出し、ルナへと襲い掛かった。
恐らく狙いはルナだけではなくシェルもだ。それに勘付いたルナは全ての攻撃を防ぐ為に手を前に出し、先程よりも巨大な氷の壁を出現させた。
「……くっ!」
轟音と共に四本の脚が氷の壁に激突する。今度は先程のように弾き返す事は出来ず、少しだけ貫通してしまった。だが動きを止める事は出来たはずである。ルナはほっと安堵の息を吐く。
「気ぃ抜いてるんじゃねぇぞ」
「……えっ」
しかしアラクネの攻撃はそれだけでは終わらなかった。そのまま四本の脚を支えにして浮かぶと氷の壁へと突撃し、子供の身体では想像出来ない怪力でそのまま氷を破壊してしまった。
「この程度で止められると思ったかよ?!」
「……ッ、ぁ!」
目の前へと降り立ったアラクネの足蹴りをもろに喰らってしまい、ルナは横へと吹き飛ばされる。地面を石ころのようにゴロゴロと勢いよく転がり、膝や腕を擦りむく。今まで感じた事ない強烈な痛みが腹部を襲い、思わずルナは咳き込んだ。
「けほっ……こほっ……」
「軟な身体だなぁ。人間の暮らしでなまっちまったのか?スライムでももう少し耐えるぜ?」
ケタケタと笑いながらアラクネは煽るようにそう言う。すぐに追撃してこない所を見るとどうやら遊んでいるようだ。
ルナはお腹を抑えながら何とか立ち上がり、自分の脚が震えている事に気が付く。たった一撃。しかも魔法での攻撃ではなく普通の蹴り。それだけでこれ程の痛みだ。子供のルナにとってはあまりにも恐ろし過ぎた。
「はぁ……はぁ……くっ!」
だからと言ってルナも簡単に諦める事は出来ない。アラクネのすぐ傍にはシェルが倒れているのだ。彼女が何かする前にルナは攻撃へと出た。手を前に突き出し、今度は強力な一撃を放つ為に詠唱を行う。
「荒々しく舞え……〈氷雪の息吹〉!!」
「……おっ」
ルナが魔法を発動すると同時に氷の突風が巻き起こり、アラクネを襲う。しかし彼女は面白がるように自らその突風の中心に立った。飛んでくる氷の刃を受けても気にした素振りを見せず、切り傷の跡も見られない。殆ど傷らしい傷を受けず、彼女は立ち続けた。
「はっは! 面白い技使うじゃねぇか!」
ルナは焦りを覚える。この魔法はシェルも使う攻撃魔法だ。威力、範囲共に絶大で、突風の中に相手を閉じ込めれば抜け出す事は出来ず、常に攻撃を浴びせる事が出来る。普通ならひとたまりもないはずである。だが自分よりも小柄な少女、アラクネは余裕の表情のまま突風の中に立ち続けている。その光景はあまりにもルナに絶望感を与えた。
やがてアラクネ自身も首をコキコキと鳴らし、飽きたように肩を落とした。
「まぁこの程度じゃアタシには効かねぇがな」
ダンと地面を蹴ると彼女の身体から赤黒い波動が放たれる。恐らく攻撃魔法。しかもかなり単純で難しくない初歩的な魔法。だがその赤黒い波動にルナが起こした氷の突風は簡単に打ち消されてしまった。
「……な……ぁ……」
「やーっぱお前の魔力ボンヤリしてるなぁ……補助魔法……か?それ自分で破る事出来ないのかよ?」
「……何を……言ってるの?」
不意にアラクネが妙な事を言って来た為、脱力感から抜け出せずに居たルナは重苦しい声色で聞き返す。
「アタシはよー、モヤモヤしてんのは嫌いなんだ。何事もはっきりさせないと気になっちまう性分でね」
パンパンと手を叩きながらアラクネはそう言う。
真面目な性格なのか、ただの彼女の気まぐれなのか分からないが、どうやらルナの本当の実力が気になるらしい。それは完全に強者の余裕の態度の表れで、ルナの実力が遠く及ばないからこそアラクネはそんな事を気にしている余裕があるという事である。その事にルナは悔しそうに歯を食いしばり、肩を震わせる。
「貴女の指図は、受けない……っ」
「はっは! 別に良いけどよ……でもお前、アタシを止められないと……」
ルナが拒絶の態度を取るとアラクネは楽しむ様に鼻を鳴らし、腕を組む。だが急にまた目玉を動かし、自分の足元に転がっているものに目を向ける。そこには当然シェルが倒れており、ルナははっと息を飲む。
「この魔術師の女が死ぬぜ?」
歯を剥き出しにしてアラクネはいやらしく笑いながらそう言う。その瞬間ルナは手を前に突き出し、自身の倍はある巨大な氷の塊をアラクネに向けて放った。
アラクネもすぐにそれに反応し、四本の蜘蛛の脚でそれを受け止める。しかし氷の勢いはそれで収まらず、更には塊がバラバラになると無数の棘へと形を変え、アラクネへと襲い掛かった。
「おおっ?!」
不機嫌そうな声を上げてアラクネは跳躍し、向かい側の橋の塀に飛び移る。防いだと思った魔法の攻撃が別の魔法へと姿を変えたのだ。どういう事だと思ってルナの方に視線を向ければ、彼女は必死な形相で手を突き出し、詠唱を続けていた。
(魔法の威力が上がりやがった……! しかも随分と面倒な技使うじゃねぇか!)
何てことはない。ルナはただ魔法を唱え続け、攻撃の手を緩めないだけである。しかも状況に応じて攻撃の種類を変えられるようにしている。アラクネは感心したように笑い、氷の棘を避け続ける。だが徐々に棘は包囲網を作り、アラクネを追い詰めていった。
「はっ! うっとおしい!」
それでもアラクネは笑みを絶やさず、四本の脚をピンと伸ばし、身体を捩じって回転攻撃を仕掛ける。包囲を作っていた氷の棘はその攻撃で一気に破壊されていまい、バラバラの氷の結晶となって散って行った。だがそれすらもルナの想定の内だった。
ふとアラクネは自分の周りが暗い事に気が付く。妙だと思って上を向いてみると、橋の上には先程よりももっと巨大な氷の塊が浮いていた。
「消えてッ……!」
「おいおい……マジかよ?」
アラクネは思わず自分の目を疑う。これ程巨大で複雑な魔法をこんな子供が行っているのかと。
確かに自分も見た目は子供だ。だが既に半世紀以上この世界で生きている。魔族は魔力によって老化が遅い者が居る。自分もその内の一人である。だが目の前のルナは違うはずだ。言動も雰囲気も子供のまま。恐らく本当に子供なのだ。そんなか弱い少女が、自分のお気に入りの巨大蜘蛛を凍らせた魔術師の女と同じくらいの強大魔法を使っているというのが信じられなかった。
ほんの僅かな合間にアラクネは逃げるか防御を取るかを考える。これ程の攻撃を防ぐのは難しいかも知れない。だからと言って先程の分裂させて氷の棘を飛ばして来たのを考えると、回避も得策とは言えないかも知れない。
一秒の思考の末、アラクネは受け止める事を選択する。そのまま落下してきた巨大な氷を四本の脚で受け止め、全力で押し返そうとする。だがその抵抗も空しく、橋の半分が崩壊するとアラクネはそのまま瓦礫と共に川へ落下していった。