108:魔王候補アラクネ
大魔術師のシェルにとっても巨大生物との戦闘経験はそれ程多い訳ではない。そもそも巨大生物は滅多な事では人間の土地に現れないし、凶暴でなければ戦闘を行う必要もない。基本は遭遇する事のない生物である。
シェルが経験したのも冒険者時代に街に侵攻して来た巨大生物との撃退戦等で、戦闘の際にも多くの冒険者が参加していた。いずれの戦闘も多くの負傷者が発生し、楽な戦闘とは言えないものばかりだった。シェル自身もその頃はまだ大魔術師程の実力を持っていなかった為、後方で回復魔法を使って支援に周り、走り回っていた記憶がある。あの頃は苦労してばかりだった。
遠方に見える巨大蜘蛛を見上げながらシェルはそんな昔の事を思い出す。こんな状況にも関わらず思わず笑みが零れるのは、未だに冒険者気質が残っているからだろうか。そんな疑問を抱く。すると目の前から大量の蜘蛛達が襲い掛かって来たが、シェルは焦る事なく杖を振るい、氷の息吹でその蜘蛛達を吹き飛ばす。
「さてと……じゃあまずは、どうやってアレに近づこうかな」
迫り来る蜘蛛達を氷の壁で足止めしながらシェルは巨大蜘蛛を見上げ、これからの計画を考える。
当然だが巨大蜘蛛の動きは鈍足で、少しずつ街の中を移動しているだけで大きな破壊活動を行おうとはしない。それでも塔のように大きな八本の脚を動かしているだけで十分街の地面や建物は壊されているが。
すると杖を振りながら考えているシェルの元に氷の壁を乗り越えて来た蜘蛛達が飛び掛かって来た。だがシェルは慌てない。なにも彼女は一人で戦っている訳ではないのだから。
突如黄金と氷の衝撃波が放たれ、蜘蛛達が吹き飛ばされていった。それと同時にシェルの隣にリーシャとルナが並び立つ。
「ちっちゃい蜘蛛達が邪魔で全然近づけないよ! シェルさん」
「他の冒険者の人達も戦ってくれてるけど、小さい蜘蛛が多すぎてこっちには手が回らないみたい……」
俊敏なのを活かして戦況を確認しに行ったリーシャはシェルにそう伝える。同じくルナも他の冒険者達の様子を確認して来た為、彼らの状況を報告する
やはり状況は人間側の方がかなり押されているらしく、巨大蜘蛛に分けられる戦力もないらしい。深刻な状況なのは変わらず、シェルはそれを知ってふむと口元に手を当てた。
「そうなると、やっぱり私達三人で攻めるしかないね」
加勢は望めず、撤退する事も出来ない。シェルは表情を厳しくしながらも必死に頭を回転させ、作戦を練った。師匠であるアレンならどうするか、こんな絶望的な状況でもどうやって打開策を導き出すか、そう想像しながら思考する。そんな彼女にリーシャが元気づけるように声を掛ける。
「どうやって戦う?私が突っ込んでこけさせようか!」
「いや……それは流石に危ないからやめておこう」
「リーシャは勇気あるけど無謀すぎるよ……」
リーシャは良い案が浮かんだかのように満面の笑みを浮かべているが、シェルとルナは呆れた視線を彼女向けた。
実際リーシャの聖剣の力を使えばそれも可能かも知れないが、もしも本当に巨大蜘蛛が倒れれば街が半壊し、大きなクレーターが出来てしまうだろう。あくまでもこの作戦は計画が尽きた時の最後の手段である。出来る事なら実行しないで済む事をシェルは願った。
「あれだけ巨大じゃ氷に閉じ込めるのも難しいし、皮膚も硬そう……うう~ん」
シェルは悩み、思わず顔をくしゃくしゃにする。子供のような仕草だがそれだけ巨大生物を倒すのは難しいという事だ。
いつもなら大勢の人々が協力し、対巨大生物用の武器を使って拘束するのだが、生憎今は手元にそんな武器はない。人員も武器も何もかもが足りない。その状態で巨大生物を倒せるとしたら……。
そんな風にシェルが考えている間にも蜘蛛の軍勢は再び集まり始め、奇声を上げて襲い掛かって来る。最早敵は彼女達に考える時間すら与えてくれない。
「よし、分かった!」
これ以上悩んでいられないと悟ったシェルはタンと杖で地面を叩き、足元から出現させた氷で蜘蛛達を飲み込み、障壁を作り上げる。
「作戦は決まったの?シェルさん」
「うん。二人にも協力してもらうから、よく聞いておいて」
シェルは一旦蜘蛛達から距離を取り、リーシャとルナを引き寄せる。そして二人の肩に手を回しながら視線を合わせ、聞き漏らさないように大きめの声で話し始めた。
「あそこに川が見えるでしょ?今から私はあれを利用して魔法の準備をするから、二人には巨大蜘蛛をそっちに誘導して欲しいの」
此処から少し離れた場所には渓谷の街の観光名所でもある川がある。丁度橋が掛かっており、シェルはそこを指差した。巨大蜘蛛の脚が入り切るくらい大きな川の為、シェルはその川の水を利用するつもりのようだ。だが肝心の巨大蜘蛛は水を嫌っているのかその方向には進んでいない。そこでリーシャとルナの出番であった。
「分かった。それくらい余裕だよ!」
「誘導くらいなら、私達にも出来る」
二人は自分達の役割を知ると頷きながらそう返事をして見せる。リーシャはやる気満々で恐怖など微塵も感じていないように笑顔で、ルナも自分を奮い立たせるように両手の拳を握り絞めている。それを見てシェルは小さく笑みを零し、そっと二人を抱き寄せた。
「良い?絶対に無理しちゃ駄目だからね。二人は巨大蜘蛛の気を引くだけで良いの。危なくなったら絶対に逃げて……お願い」
リーシャとルナの頭を撫で、シェルは祈るようにそう注意をした。
本当は彼女も二人にこんな事はさせたくない。いくら勇者と魔王と言えまだ子供だ。実力は十分あると言え危険な事はさせたくない。だが今はそんな事を言っていられる状況ではなかった。これ以上蜘蛛達を野放しにすれば犠牲者が増え続ける。シェルは謝罪するように二人をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だよシェルさん。私毎日父さんに鍛えられてるんだから、これくらいどうって事ないって!」
「私も……この状況で見てるだけなんて出来ない。シェルさんの役に立ちたい」
リーシャとルナは抱かれたままそう言う。それを聞いてシェルも顔を上げて二人の事を見た。彼女達の瞳は黄金と漆黒で正反対の色をしながらも同じように光が灯っており、強い覚悟が込められていた。思わず目頭が熱くなり、シェルは俯く。
「有難う……二人共」
最早彼女はお礼を言う事しか出来なかった。謝っても、注意しても、結局戦わせるのだ。ならば素直にお礼を言おう。シェルは二人を放し、目元を擦ってから杖を握り直して起き上がった。
巨大蜘蛛は相変わらず何かする訳でもなく街の中を突き進んでいる。だが一歩脚を動かすだけで幾つもの建物が吹き飛ばされ、地面に深い穴が出来上がる。その周りで小さな蜘蛛達も徘徊し、至る所に巣を張っている。これ以上、蜘蛛達に街を侵略される訳にはいかない。
シェルは背筋を伸ばし、気を引き締め直して一歩前へ踏み出した。リーシャとルナも同じように横に並び、巨大蜘蛛を見据える。
「それじゃぁ、行くよ!」
「「うん!」」
シェルが飛び出し、続けてリーシャとルナも移動を開始する。二人は出来るだけ蜘蛛との戦闘を避ける為にルナが氷魔法を駆使して壁を作り出し、一気に巨大蜘蛛へと向かって行った。それを見届けてシェルも蜘蛛達を氷で吹き飛ばし、氷の山を作り出してそれに乗って川の方へと向かった。
「よっと……やっぱり数が多いな」
杖を回して空中に氷の道を作りながらそこを走り、シェルはふと真下に群がっている蜘蛛を見下ろしながらそう呟く。
こうして見るとやはり気味が悪い。人間の子供くらいの大きさの蜘蛛達が大量に蠢いているのは一種の狂気の様だ。だがそんな蜘蛛達は頭が回るのか、氷の山に滑って登れないと分かると腹部をシェルの方に向けると糸を飛ばして来た。幸い当たりはしないがそれでもシェルは恐怖を覚える。
「ッ……やっぱりこの蜘蛛達、普通の魔物じゃない」
魔物の中には頭の良い魔物も居るが、それでもこの蜘蛛の軍勢は色々と異常過ぎる。突然出現し、街を侵略する際の連携行動。あまりにも出来過ぎている。シェルはそんな違和感を覚えたが、突如足元の氷に亀裂が入った。
「なッ……!?」
見ると蜘蛛達は他の蜘蛛に糸を付けて振り回し、シェルに向かって投げ飛ばしていたのだ。当然氷には張り付けないが、勢いよく飛ばされた蜘蛛は氷の道に激突し、氷に亀裂を入れていた。
「ギギギギギィィィァァアアアア!!!」
「恐ろし過ぎるでしょ……貴方達!」
仲間を使って遠距離攻撃を仕掛けて来るのはまだ良い。だが投げ飛ばされた蜘蛛は氷に激突した際に当然ぺしゃんこなり、地面に落下して潰れていた。それを見ても他の蜘蛛達は何も感じていないらしく、ただ奇声を上げてシェルが落ちて来る事を望んでいるようであった。
更に何匹かの蜘蛛が氷の道に着地し、滑りながらもシェルへと飛び掛かって来た。すぐさまシェルは杖で足元を叩き、氷の道を崩壊させる。そのまま滑り落ちるようにシェルは川の橋まで移動した。後ろに蜘蛛達は崩壊する氷に飲み込まれていく。
「ふぅッ……ひとまず、第一関門は突破ね」
シェルは橋の上で一呼吸置き、乱れた息遣いを整える。既に上級魔法を何度も使用し、無詠唱で幾つもの氷魔法を使用した。魔力も体力も大分消費している。シェル自身も気づいてはいるが、身体の限界が大分近かった。だがそれでもこの作戦を中止する訳にはいかない。シェルは深呼吸をすると川を見下ろし、杖を向けた。
「じゃぁ始めよっか……流れよ、流れよ、何ものにも染まらぬ水よ……満たせ、満たせ、我が願いを」
意識を集中させ、詠唱を始める。するとシェルの周りが水色に輝く魔力に満ち溢れ、同時に川も輝き始める。だが突如、それを邪魔するように追い付いて来ていた蜘蛛達が橋へと侵入してきた。目を瞑りながらもシェルはそれに気が付き、詠唱を続けながら片方の手を振るう。
「ッ……地は浸食され、緑は暗黒に埋め尽くされり。彼の者、弄ばせれば破壊の限りを尽くさん……」
小さな氷の衝撃波が飛び、蜘蛛達を足止めする。その間に少しでも意識が削がれないようシェルは集中力を高めた。額から汗が流れ、指先が震え始める。だが蜘蛛達の猛攻は止まらず、足止めされている蜘蛛を飛び越えてシェルへと襲い掛かった。
「我が願いは救済。この地に蔓延る闇を浄化せん為ならば、我が力を捧げよう!!」
ダンと橋を蹴り、足元から出現させた氷で自分の周りを覆う。蜘蛛達は氷に激突し、そのまま滑って落下していった。それと同時に川も強く輝き始め、心臓が脈打つような力強い音が響き渡る。するとシェルは疲れ切ったような表情を浮かべ、小さく息を吐き出した。その間も杖はしっかりと前に向けたまま、集中力を切らさず魔力を込め続けている。
(後は頼んだよ……二人共)
ここまで来たら後は魔力を切らさず、蜘蛛達の猛攻に耐え続けるだけである。未だに蜘蛛達は諦めず氷の壁を破壊しようとしているが、シェルもすぐさま追加の氷魔法を発動し、周りに蜘蛛達を氷漬けにしていく。シェルはただただ二人の無事を祈りながら作戦が成功する事を願った。
◇
「それで……どうやって巨大蜘蛛の注意をこっちに向ける?あの大きさだし、多分私達の事見えてないよ?」
「そんなの簡単だよ! 脚をバコーンって攻撃して、こっちに気付かせるの!」
街の中を氷の壁を構築しながら進み続けるリーシャとルナは巨大蜘蛛の注意をどうやってこちらに向けるかで話し合っていた。
冷静なルナはあれだけ巨大な生き物では自分達と目線が違い過ぎると思い、どうするべきかと悩んでいたのだが、リーシャは全く悩んでいないらしい。自分の作戦に息込んで聖剣をブンブンと振り回している。
「い、いくら何でもそう簡単には……」
「良いから、物は試しだよ。何でもやってみないと分からないでしょ?ほら、行くよー!!」
「え、ええ~……」
躊躇しているルナを奮い立たせるように背中を叩き、リーシャは更に走る速度を上げて巨大蜘蛛へと接近する。これだけ近くになると巨大蜘蛛の影すら大きく、周りが闇に包まれたかのように光を遮断される。だがリーシャはしっかりと巨大蜘蛛に視線を向け、近くの屋根へと飛び移る。そしてしっかりと足場を固定してから聖剣を振り上げた。
「お願い……ガラクタの聖剣!!」
リーシャが声を張り上げると同時に聖剣の真っ白な刃の部分が黄金の光に包まれる。そのまま彼女は思い切り聖剣を振り下ろすと、刃に籠っていた黄金の光が斬撃となって放たれた。今まで一番大きい黄金の斬撃は真っすぐ巨大蜘蛛へと飛んでいき、見事脚の一本へと命中する。その瞬間、まるで爆発でも起こったかのような轟音が響き渡った。見ると斬撃が当たった巨大蜘蛛の脚に切れ込みが出来上がっており、同時に巨大蜘蛛から重々しい歪な声が響き渡る。その声は辺りに振動し、散らばっている瓦礫が揺れる程であった。
「ほらー! 上手くいった!」
「え、ぁ……いや、凄いけど……」
リーシャは自分の作戦が上手く行った事に喜び、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら巨大蜘蛛の脚を指差す。だが当の巨大蜘蛛は明らかに怒っており、頭部に見られる歪で無数に付いている巨大な目玉もリーシャの方に向けると、方向をそちらに向けて脚を動かし始めた。
「でも……早く逃げた方が良いと思う!」
「そうだね!!」
ルナはすぐさまリーシャに声を掛け、予定の位置である川の方へと走り出す。リーシャも屋根から飛び降り、ルナの後を追い掛けた。後ろからは空を覆いつくす程巨大な蜘蛛が咆哮を上げて追いかけて来る。距離は離れているものの、頭部に付いている無数の目玉が二人の事を捉えているのか、正確に追い掛け続けている。
「ゴォァァァアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「うっわ、わっ! やっばい、こんな鬼ごっこ誰もした事ないんじゃない?!」
「したくもないと思うよ……!」
巨大蜘蛛が一歩前に踏み出す度に地震のように大地が揺れ、リーシャとルナの小さな身体から平衡感覚を奪う。真っすぐ進む事は難しく、道中には蜘蛛の軍勢も襲い掛かって来る。ルナは氷の壁を作り続けながら進み、リーシャもルナに蜘蛛が近づかないように聖剣で応戦した。すると少し進んだ先に蜘蛛達がまるで行き先を阻むかのように一塊になっていた。それを見てリーシャはすかさず聖剣を振り抜く。
「どっけぇぇぇぇええええ!!」
聖剣から黄金の斬撃が放たれ、爆風と共に蜘蛛達の壁も吹き飛ばされる。リーシャとルナは速度を緩める事なく蜘蛛の障害を突破した。ルナも迫って来る蜘蛛達を氷の障壁で防ぐが、途中で転んでしまう事故が起こった。元々ルナは身体能力が高い方ではなく、体力もリーシャ程ない。全速力で走った為疲労が溜まっているのだろう。
「ルナ! 大丈夫?」
「へ、平気……それよりももっと急ごう」
すぐにリーシャが駆け寄って起き上がらせようと手を伸ばすが、その前にルナは自力で立ち上がる。脚がちょっと擦りむいていたが、ルナはそんな事気にせず先を急ぐ事を重要視していた。リーシャも頷き、二人は再び蜘蛛の渦の中を掻い潜りながら前へと進む。
そのまま二人は必死に走り続け、何とか巨大蜘蛛に追い付かれる前に川へ到着する事は出来た。後はシェルが居る橋の所まで巨大蜘蛛を誘導するだけである。
「あ、シェルさん居た! シェルさーん!!」
視界の端でシェルの姿を確認し、リーシャは聖剣を振って合図を送る。シェルも二人の存在に気が付き、周りに群がっていた蜘蛛達を氷の衝撃波で吹き飛ばすと手を振った。
リーシャとルナは橋を渡ってシェルの元へと辿り着く。後ろでは川まで侵入して来た巨大蜘蛛が相変わらず不気味な咆哮を上げていた。
「二人共、下がってて!」
二人が近寄るとシェルは下がるように指示を出し、前に突き出していた杖を引き抜くような動作を取る。すると輝いていた川が波打ち、まるで生き物のように騒めき始めた。同時に川に侵入して来た巨大蜘蛛もようやく立ち止まったリーシャ達を潰そうと脚を動かし、橋ごと踏みつぶそうとした。
「ゴォォォォォォオオアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「凍れ……命の灯を奪う死の吹雪よ。その冷たさで全ての時を凍てつかせよ……」
辺りが巨大な影に埋め尽くされる。しかしシェルは慌てる事なく詠唱を続け、杖を振るった。すると川の流れが変わり、巨大な蛇のように形を変えると巨大蜘蛛の脚へと絡みついた。更に火花のような音が響き渡り、辺りに冷気が漂う。次の瞬間、シェルは自身の全魔力を解放した。
「〈氷雪の牢獄・交鎖〉……ッ!!!」
巨大蜘蛛の脚に絡みついていた水が一気に凍り付き、そのまま巨大蜘蛛の頭部に向かって氷が浸食していく。鈍足な巨大蜘蛛はろくに抵抗する事も出来ず、驚異的な速度で浸食していく氷に包まれ、やがてそこには巨大蜘蛛を覆った氷の山が出来上がった。
辺りは静寂に包まれていた。先程まで騒めいていた蜘蛛の軍勢も流石に巨大蜘蛛が一瞬で凍り付いてしまったのを見て怖気づいたのか、橋の方に近づかず、建物に隠れるように影に潜んでいる。皮肉にも醜い巨大蜘蛛を覆っている氷はとても美しく、太陽の光を反射して煌びやかに輝いていた。
「はぁ……はぁ……なんとか、上手くいった……」
糸が切れたようにその場に膝を付き、杖を支えにしながらシェルが大きく項垂れる。
流石に今の魔法はかなりの魔力を消費した。何せ川の水を利用して通常以上の威力を引き出すという無理やりな魔法を行使したのだ。気力体力共に使い切った為、最早脚一本動かす事さえ出来ない。
「うっわきれーい! 氷のお城みたいー!」
「すごい……ここまで複雑で大規模な魔法だなんて……流石シェルさん」
氷に閉じ込められている巨大蜘蛛を見つめてリーシャとルナもそれぞれ驚きの声を上げる。リーシャは単純に巨大な氷に驚き、ルナはそれを構築した魔法の威力に驚く。シェルはそんな二人を見てフラフラと立ち上がった。何にせよこれで一番の脅威を拘束する事が出来た。まだ蜘蛛の軍勢は残っているが、勢いは収まっているのだ。後はアレンとファルシアが合流してくれれば何とかなる。そうシェルは希望を抱いた。だがその時、冷え切った空間のその場にギチリと嫌な音が響いた。
「はー……だから嫌なんだ……大きな街だとあんたみたいな厄介な魔術師が居るからさぁ」
それは子供の声であった。リーシャやルナよりも大分高い声で、小さな女の子の声。だが籠っている感情は不気味で、口調も子供らしからぬものであった。シェルが思わず振り返ると、丁度橋の塀の部分に真っ赤な衣服を着た女の子が座っていた。黒に近い紅い髪を肩まで伸ばし、まん丸の瞳に色白な肌をしている。ルナはその少女の事を知っていた。先程まで図書塔で一緒に居たアンナだ。
「アンナ……ちゃん?」
ルナはそのアンナの姿を見て何か違和感を覚える。口調や雰囲気も変だが、最初に会った時よりも肌が白く、身体に蜘蛛の巣の形をした入れ墨のようなものが浮かび上がっているのだ。更に最初の頃は感じなかった不気味な魔力すらも放っている。
アンナもルナの方に視線を向け、ニコリと微笑む。その笑顔は優しいが、まるで死人が笑っているかのように暖かみがなかった。
「待っててって言ったのに、約束破ったね。ルナちゃん」
「……ッ、シェルさんその子から離れ……!!」
何か嫌な予感を覚えルナはシェルに注意しようとする。しかしその言葉が言い終わる前に突如アンナの身体から骨が軋むような耳障りな音が響き渡り、街を襲っていた蜘蛛達と同じ形の蜘蛛の脚が背中から生えて来た。その脚が刃のように鋭く伸び、一瞬でシェルの背中を貫く。
「……か、は……ッ!?」
「シェルさん……!!」
シェルの白いフードに鮮血が飛び散り、グラリと身体が揺れる。そのままアンナは乱暴にシェルの身体から脚を引き抜いた。既に弱り切っていたシェルは糸が切れた人形のようにパタリと地面に倒れ、動かなくなる。
それを見て瞬時に動いたのはリーシャであった。普段は見せない怒りに染まった表情でアンナの目の前へと接近し、相手が子供の姿をしていても躊躇なく聖剣を振り上げた。だがアンナは、ただ笑っているだけ。
「お前はよく分からんから、消えてて」
「----ッ!!」
アンナが指をパチンと鳴らした瞬間橋の下から蜘蛛達が溢れ出し、リーシャへと襲い掛かる。すぐにリーシャは剣を振るってその大軍を振り払うが、蜘蛛達は波のように押し寄せ、そのままリーシャを飲み込むと建物の方まで流れて行った。
残されたルナはシェルに駆け寄る訳でもなく、ただ恐怖と混乱で頭が回らなくなって立ち尽くす。それを見ながらアンナは橋の塀から降り、蜘蛛の脚を戻すとコキコキと首を鳴らした。
「あー、疲れたぁ。子供の口調って難しいよねぇ。話も人間に合わせないといけないし、特に食事の話題が出た時は面倒。アタシ等は人間と味覚が違うからさ」
べぇっと舌を出しながらアンナはそう言い、手足を回して身体をほぐすように動かす。その態度はとても最初の頃のアンナと同一人物には見えず、ルナは言葉を失う。同時に彼女が伝わって来る魔力の性質にある最悪の予測が頭の中に浮かんでいた。
「貴女……だれ?」
「はぁー?そんな事もう分かってるだろう?お前と同じ、〈魔族〉だよ」
そう言うとアンナは再び指を鳴らす。すると彼女の身体から軋むような音が漏れ、同時に真っ赤な衣服がボロボロのフリルが付いた赤い袖なしのドレスに変わり、身体の至る部分に蜘蛛の巣の模様が現れ、彼女の顔の右側にもその模様が現れた。更には背中から蜘蛛の脚が四本生え、完全に人間とは別の生き物へと姿を変える。
「アタシは魔王候補の一人〈アラクネ〉。んで……お前は何者だ?」
正体を現したアンナことアラクネは最初に会った時のような優しい笑みを浮かべてそう尋ねる。その質問に対してルナは、ただ呆然と見つめている事しか出来なかった。