104:小さなお願い
かつて世界には一匹の巨大な蜘蛛が居た。その身体は大陸を覆いつくす程大きく、何十本もの脚が大地に突き刺さり、大陸から生き物が逃げ出さないように取り囲んでいた。だがその大陸に住んでいた人々は大蜘蛛の呪縛から解放される為に力を一つにし、大蜘蛛へと抗った。人々は大地に突き刺さっている大蜘蛛の脚を一本ずつ斬り落としていき、最後は大蜘蛛の顔に何本もの剣を突き刺し、その命を奪った。
こうして大陸に住んでいた人々、生き物は大蜘蛛の呪縛から解き放たれた。人々は狭い大陸から外の大陸へと足を踏み出し、真の自由を手に入れたのだ。だが、大蜘蛛の呪縛はそれで完全に消え去った訳ではなかった。何本もの剣を突き刺され穴だらけになっていた大蜘蛛の顔はそこから無数の目玉が現れ、とある〈呪い〉を発動した。
気が付けば自由を手に入れていたはずの生き物達はその姿が自分達の忌み嫌っていたはずの蜘蛛へと変貌していた。やがて意識すらも大蜘蛛の支配下に置かれ、生き物達は魂すらも呪縛されてしまうのであった。
「それが、〈大蜘蛛の呪い〉」
カチン、と鞘に剣を戻しながらアレンは今しがた自分が説明していた事を纏める。先程と変わらず彼の表情は浮かなく、いつもの温厚な雰囲気が殆ど消えかかっていた。同様に、アレンの説明を聞いていたファルシアもむしろその話を聞いてますます顔を暗くしていた。
「もちろんこれはただの伝説だし、おとぎ話とかに過ぎない……でもそういう過去があったとしても不思議ではない程、嫌な呪いだろう?」
アレンが今説明した事はあくまでも人から聞いた話に過ぎず、過去に実際に起こった事ではない。伝説級の呪いは聖剣や魔剣と同じく様々な伝承が残されており、過去に何かしらのキッカケで生まれた呪いが大袈裟に伝わって現在に語り継がれているに過ぎない。だが大蜘蛛の場合は、そのような伝説があったとしても遜色ない程強大過ぎる効果であった。
「要するに、呪いの中でも特に曰く付きの呪いが発生してるって事でしょ……ふん、笑える」
伝説の事は大して気にも留めていないファルシアは笑えると言いつつも全く笑わず、不機嫌そうに鼻を鳴らして両腕を組んだ。苛立っているのか時折軽く地面を蹴っており、落ち着かない様子である。
「……呪いを解く方法はあるの?聖水とか、解呪師を使えば……」
少し顔を俯かせた後ファルシアはそう尋ねた。魔術の事に関しては研究で知り尽くしている彼女だが、呪いの事は専門外だ。するとアレンは数秒悩んで頬を掻き、冷静に考えてから口を開く。
「専門じゃないから何とも言えんが……多分伝説級の呪いだから聖水とかじゃ無理だろうな。解呪師だってこれだけの蜘蛛達の呪いをいちいち解いてたら倒れちまう」
苛立っているファルシアと違ってアレンは表情は暗いものの動揺はしておらず、この問題にいかに対応すれば良いかをしっかりと考えていた。故に対処が難しいという事実を隠す事なく伝える。
アレンの場合は様々な場所に赴き、その目で呪いの効果を見て来た。時には自分自身が呪いを受ける事もあった。そうやって多くの呪いを体験してきたからこそ、今回の事件も冷静に受け止める事が出来た。故にファルシアより幾分かアレンは落ち着いているが、それでもその表情は普段の彼らしくない切羽詰まった顔つきになっている。
「ッ……だったらどうするのよ?」
「…………」
ならばどうすれば蜘蛛に姿を変えさせられてしまった人々の呪いを解く事が出来るのか?どうすればこの問題を解決出来るのか?そうファルシアは叫ぶ。いとも簡単に生き物を蜘蛛に変えてしまう現象に、ちっぽけな人間はどう抗う事が出来るのかと、訴える。
アレンもすぐには答えない。流石に彼も悩むように目を細め、口元に拳を当てる。自身の僅かな人生の内で得た情報を必死に思い返し、その中から解決策はないかと模索する。
ふと、アレンは俯かせていた顔を勢いよく上げる。何かが思い付いたようにその瞳には先程までなかった光が灯り、おもむろに口を開いた。
「もしもこの呪いを、起こした人物が居たとすれば……蜘蛛を生み出し、村や街を襲わせている者が居るとすれば……?」
「……は?」
呪いには様々な種類がある。ダンジョン内に仕掛けられている物の多くは何かしらの怨念などが原因となっており、それが呪いとして仕掛けられている。他には魔物の中にも呪いを使えるものがおり、攻撃として呪いを浴びせられる事も出来る。それならば今回の呪いも、何者かが発動した可能性もある。アレンはそう予測を述べた。
「誰かが発動した呪いなら、大元を絶てば呪いは消える可能性がある。その人物が解呪の方法を知っている可能性だってある」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよっ……」
アレンの話を聞いてファルシアは急に手を伸ばしてそう制止の声を掛ける。焦っている様子で彼女の金色の前髪が乱れた。
「この現象を起こした人物が居るって言うの?何百人もの人々を蜘蛛にした犯人が……?」
ファルシアは大袈裟に手を横に振ってそう声を荒げる。
彼女はてっきりダンジョンが崩壊してそこから呪いが溢れ出て来たとか、強力なゴースト系の魔物が現れて発生した呪いだと考えていた。普通なら多くの人がそう考えるだろう。これ程の規模の呪い、人の手には余り過ぎる。もし戦争でこの呪いを発動してしまえば一瞬で決着が付いてしまうのだ。むしろ戦争にすらならない。
アレンは珍しく戸惑っているファルシアを見ながら静かに頷き、そして説明を始めた。
「村や街の襲い方が意図的だ。洞窟や禁止区でならともかく、こんな移動する呪いなんてあり得ない。それに蜘蛛達も明らかに人を狙って襲っている」
アレンはチラリと蜘蛛達の事を見る。水分を抜かれ動けなくなっている蜘蛛達はひっくり返りながらも幾つもの目玉を歪に動かし、二人の方に視線を向けている。動く力がなくとも未だに獲物を狩ろうとしているのだ。まるで誰かの指示に従っているかのように。
そもそもアレンの場合はファルシアと情報量に差がある。既にエレンケルとの接触の際に魔王候補の事を聞いている為、この騒動の原因はそのアラクネだと見当を付けているのだ。もちろん確証はないしあくまでも推測に過ぎない。だが大蜘蛛の呪いが発動している時点で十中八九犯人はそのアラクネで間違いないだろう。
するとファルシアはアレンの説明を聞いて何か嫌な予感を覚えたらしく、不安げに両腕を組んでそれを告白し始めた。
「だったら、不味いんじゃない?この村で住人が行方不明になったのは数日前……」
「ああ、まだ犯人が近くに居る可能性は高い……そして次の獲物を狙うだろう」
アレンもファルシアの言葉に同意するように頷き、厳しい現実を見据えるように目を細める。
状況から考えれば至極当然の事だ。敵は村を襲い、十分な勢力を確保した。付近には他に村はなく、人が集まっている場所は渓谷の街だけ。ならば後は言うまでもないだろう。アレンとファルシアは視線を合わせ、顔色を変えて深刻そうな目つきになる。
「急いで街に戻ろう」
アレンはそう言うと走り出し、ファルシアもすぐさまその後を追い掛けた。後ろでは転がっている蜘蛛達がギチギチと音を立てながら二人の事を見つめている。残念ながら彼らは置いて行くしかない。今この瞬間にも街に危険が迫っているのだ。そして何より一刻も早く呪いの犯人を見つけなくてはならない。アレンは歯を食いしばり、普段よりも脚に力を入れて走った。
◇
布団の中の温もりを感じながら、足のつま先だけ少し冷たさを感じてモジモジと動かす。意識は少しずつハッキリし始めているというのに、後少しだけ……と甘えてしまっている自分が居るのだ。早く起きた方が楽になると言うのに。だがルナは僅かに気怠さを感じていた。頭の上に仔犬でも乗っけられているかのような重み、空腹とは違うよく分からない飢餓感。結局それに苦しめられ、微睡の楽しさとお別れをしなければならなくなる。
「ん……ぅぅ」
布団を退かし、重たい身体を無理やり動かしてルナは起き上がる。気の抜けた表情をしながら数回瞬きをし、まだ完全に起きていない頭で周りを確認する。隣ではリーシャが眠っており、むにゃむにゃと可愛らしい寝息を立てている。隣のベッドの方を見てみると、そこにはアレンの姿がなかった。恐らくもう調査の為に宿を出て行ってしまったのだろう。ルナは一度欠伸をして腕を伸ばしてから床に足を付け、ベッドから降りた。
「……ふぅ」
床の冷たさを足裏で感じながらルナは数歩前に歩き、自身の体調を確認する。
今は前の時程倦怠感は抱かない。以前だったらもっと魔力の調子がおかしかったりしたのだが、今は大分落ち着いている。恐らくシェルが補助魔法で色々と調整してくれているからだろう。ルナは一度深呼吸し、心の中で改めてシェルに感謝した。
「あ、蜘蛛」
ふとルナはベッドの端と密接している壁に小さな蜘蛛が居る事に気が付いた。こんな豪華な宿でも蜘蛛は出るものなのだと呑気に考えながら近寄り、腰を下ろす。
以前森で蜘蛛型の魔物が出た時はかなり慌てたものだが、これくらい小さな蜘蛛なら問題ない。むしろ小さく毛もない蜘蛛なので可愛らしさもある。
「でも何でこんな所に居るんだろう……?」
ルナは巣を張っている訳でもなくただ隅に居るだけの蜘蛛を見て首を傾げる。
そんな事を考えている内に蜘蛛はカサカサと動いて何処かへと行ってしまった。ベッドの裏に隠れたのか、それとも何処かに小さな穴があってそれで外に出て行ってしまったのか。いずれにせよ必要以上に追い掛ける必要もない為、ルナは蜘蛛から意識を放す。すると丁度向かい側の部屋からシェルがやって来た。
「あ、ルナちゃんおはよう」
「おはよう、シェルさん」
シェルは普段通りの格好をしており、今まで何か仕事でもしていたのか少し髪が跳ねていた。もしくはシェル自身もちょっと前に起きたばかりなのかも知れない。
「朝ごはんあるよ。さっき宿の人が持ってきてくれたの」
「えー、すごーい。ご飯まで届けてくれるの?」
「そ。しかもお金は全部ファルシア先輩持ち」
シェルはニヤリと笑いながらウィンクをしてそう言う。それを見てルナは面白かったのかクスリと笑みを零した。
彼女がこう言った表情をするのは珍しい。ルナももう半年くらいシェルと過ごしているが、基本彼女は性格が良い。人を馬鹿にするような事もせず、誰にでも平等に接する。それは魔王である自分にも態度を変えない事からルナ自身が一番分かっていた。だからこそファルシアと会ってからのシェルの変貌ぶりは良い意味で新鮮さがあった。知らなかった事が知れた事に単純に嬉しさを感じたのだろう。
ルナは洗面所で顔を洗ったり準備をしてからリビングに移動し、席に座ってテーブルに並べられている朝食と向かい合った。クロワッサンにトマトのサラダ、オムレツにデザートの苺。美味しそうな物ばかりである。ルナはきちんと両手を合わし、「いただきます」と言ってから朝食を食べ始めた。
「ルナちゃんはご飯食べた後は何したい?」
「え……決まってないの?」
「そう。今日は先生と先輩も調査で居ないから、好きな事して良いんだよ」
食事の最中に向かい側の席に座り、シェルは急にそんな事を尋ねてくる。するとルナはクロワッサンを口にしながら困ったように首を傾げた。
既に渓谷の街に来てる時点でかなり我儘を言っているとルナは思っているのだ。ファルシアに正体が知られてしまう危険性がありながらアレンに無理を言って連れて来てもらい、おまけに街まで回る時間をもらってしまった。これだけで天国のような時間だったのだ。これ以上自由を与えられたら逆に困ってしまう。だがそれでもルナは一つだけ気になっている事があった。頬に指を当て、おずおずとした態度で口を開く。
「えっと……じゃぁ、〈図書塔〉に行ってみたい」
街の中心部にある巨大な塔。そこは貴重な本が幾つも保管され、中には珍しい魔法書等が揃えられている。そこでなら普通のお店では見られない物が発見できるのではないかとルナは期待してしまったのだ。
流石に人も多く警備もされているであろう場所には行けないかとルナは不安にシェルの顔を見上げるが、彼女は表情を和らげて優しく笑った。
「そっか、良いね。丁度私も行きたかったんだ」
「やった……!」
「じゃぁリーシャちゃんも起きてから行こっか。支度もしないとね」
そう言うとシェルは席から立ち、パタパタと忙しそうに準備を始める。その間ルナはオムレツを頬張りながらリーシャに対してちょっとだけ罪悪感を抱いていた。
きっと彼女の事だから図書塔は少し退屈な場所になってしまうだろう。本当ならリーシャの意見も聞いた上で行く場所を決めるべきなのだが、今回は早起きした自分へのご褒美、とルナは勝手にそう考える事にした。
(図書塔……楽しみ)
脚をブラブラと動かし、楽しみな素振りを隠せずにルナは心の中で声を弾ませる。
一体図書塔にはどんな本があるのか?どんな構造をしているのか?知りたい事はたくさんある。街に来てからはそう言った新しい発見ばかりが続いている。やっぱり無理にでも付いて来て良かったとルナは思わず頬を綻ばせる。
「……あ」
その時、向かい側の壁に蜘蛛が張り付いているのに気が付いた。先程の蜘蛛と同じかは分からないが、小さな蜘蛛だ。蜘蛛は何故か壁を右へ左へと移動しており、まるで目的地でも見失っているかのようである。やがて蜘蛛はまた隅っこまで移動すると物陰に隠れて居なくなってしまった。変な習性だなぁと思いながらルナは大して重く考えず、意識を食事の方へと集中させる。すると丁度後ろからはリーシャの眠たげな声が聞こえて来た。