102:いざ村へ
早朝、まだ陽も昇り切っておらず、街の中には薄っすらと霧が掛かっている時間帯。それでも相変わらず〈渓谷の街〉では道に人が出ている。散歩をする者や見回りをする者、目的は人それぞれ。人口が多いだけあってこの街に人気がなくなる時間帯はない。そんな中、街の中心から少し離れた街道で住人達が歩きながら世間話をしていた。
「なんだか今日は空が荒んでるなぁ。気分が暗くなるぜ」
「そうだな、最近は新種の魔物が街を襲ってるなんて事件もあるし。ひょっとしてそれと関係あるのかも」
「おいおい、怖い事言うなよ」
今日は空の様子が一雨降る前のように薄暗い。その事に関して住人達は不安そうに表情を曇らせた。
最近は気持ちが落ち込むような報せばかりが住人達の耳には入る。新種の魔物の出現と言い、村や街の住民の奇妙な行方不明事件。そんな話ばかり聴いていれば気分も当然暗くなるだろう。
「話によれば、村の住民が突然消えたってのもこの近くの村なんだろう?」
「ああ、偶然立ち寄った旅人から聞いた話らしい。早いとこ冒険者達に原因を解明してもらいたいな」
一人が思い出したかのように言い、もう一人も腕を組んで頷く。
実際に自分達が見た訳ではないので本当かは分からないが、既に噂になっている奇妙な事件。それも付近の村だけではなく、他の村や街でも同じような現象が起こっているらしい。
何分異質過ぎる現象の為それが事件なのかどうかすら分からない。それがなお住人達を不安にさせる。ただの魔物の襲撃の方が何が起こっているか明確な為、そっちの方がまだマシだ。未知は一番の恐怖。今各地で起こっている奇妙な現象はそういう意味で考えるならば住人達にとって最大の恐怖の対象と言えるだろう。
だからこそ早急な原因究明を願う。幸いこの街には冒険者ギルドもあるのだ。依頼が発注されればたくさんの冒険者達がこの現象についての調査を行ってくれるだろう。
「そう言えば今街にはあの〈青の大魔術師〉のファルシア様が来ているらしいぞ。事件の調査とかで」
「おお! そいつは有難い!」
以前噂で聞いた話を住人が持ち出し、釣られてもう一人も喜びの表情を浮かべる。それだけ彼らにとって大魔術師という存在の影響力は大きく、この事態を何とかしてくれるという信頼があるのだ。
「わざわざ国王に仕えているファルシア様が来てくれるとは。こりゃぁ心強い」
先程の空を見て落ち込んでいた表情とは打って変わって血色が良くなり、嬉しそうに胸の前まで拳を上げて握り絞める。
何より住人達にとって今回ファルシアが来ているという事が安心感を与えた。厳密には白の大魔術師であるシェルも来ているのだが、ファルシアは大魔術師の中でも少々特殊なのだ。
まず魔術師協会に所属していながら国王にも仕えている。この時点で人々からは特別な存在として見られる。側近としての地位を与えられている彼女は言わば国王の意思そのもの。彼女が動けばそれは国王の意思なのだと人々は考える。そして今回ファルシアが事件の調査に赴いたという事は、国王が早急な事件解決を望んでいるという事だ。
「王都の守護者でもあるファルシア様なら安心だ」
「ああ、これで事件も解決したようなもんだぜ」
まだこの街にファルシアが来ているかも知れないという情報だけなのに住人達は事件がもう解決した気になっていた。小躍りでもするかのように身体を揺らして笑い声をあげ、安心しきった表情をしている。
そんな浮かれた気分のまま彼らは建物が密集している道を歩く。街はずれで、すぐ横には壁が聳え立っていた。この壁こそ街を守っている盾であり、この壁があるからこそ人々は魔物の脅威を感じずに安心して暮らす事が出来る。
「……ん?」
ふと住人の一人が足を止め、何か気になったように眉を顰める。辺りを見渡し、何かを探るように視線を動かした。その様子を見てもう一人の住人も立ち止まる。
「どうかしたのか?」
「いや……今なんか変な声がしなかったか?」
おかしいな、とでも言いたげに頬を掻いて住人は辺りを再度確認する。だが目的のものは見つからず、疑問は深まる。
確かに何か聞こえたのだ。厳密には声ではなかったかも知れないし、何を言っていたのかも分からない。それがどのような声だったのかも分からない。だが近くに生き物が居る事を思わせるような、そんな声が聞こえた気がしたのだ。
「おいおい、怖い事言わないでくれよ」
「本当なんだって。確かに声みたいなのが……」
まだ薄暗い為怖い事を言って脅かそうとしているのだろうと思った片方は笑いながら手を振る。しかしもう片方はどうしても声が聞こえて来た方向を見つけ出したいらしく、真剣な表情で辺りを移動して確認し始めた。
突如、住人の足元で何かが移動した。その動きは素早く、鼠や猫の速さではない。姿を確認する事も出来ずにソレは住人の背後を取る。そして次の瞬間、気味の悪い声を上げながらソレは住人に襲い掛かった。
「うぐぁあぁッ……!!?」
ソレは蜘蛛であった。通常とは違い犬や猫くらいの大きさがあり、鋭い牙に無数の目玉がこびり付いた気味の悪い魔物。ソレが男の身体に飛び掛かり、牙を剥いた。
呆気に取られていた住人はそのまま首筋に噛みつかれ、凄まじい悲鳴をあげる。その場で転げ回り、急いで蜘蛛を引き離そうとする。
「うぉ、ぉお……?!」
「ああああぁああッ!? な、何だこいつは?! うぐっ……た、助けてくれ! こいつを引き剥がしてくれ!!」
「あ、ああ! 分かった!」
すぐさま友人を助けようともう一人の住人は近くの空き箱などと一緒に捨てられていた木の棒を手に取り、蜘蛛を吹き飛ばそうと勢いよく振るう。だが蜘蛛は中々離れようとせず、むしろ怒り狂ったように奇声を上げて更に牙を立て、住人に噛みついた。そして更に追い打ちを掛けるように辺りから別の蜘蛛達が姿を表した。ギチギチ奇妙な音を鳴らしながらその醜い怪物達は住人へと襲い掛かる。
「え……ぁ?」
「キシャァァァァァアアアアアア!!」
その無数の蜘蛛達を見て思わずもう一人の住人は友人が蜘蛛に襲われてる事を忘れ、恐怖で木の棒を落としてしまう。そして友人の叫び声を聞きながら弱々しく後ろに下がり始めた。
一匹なら抵抗は出来るが、これだけの数はどうにもならない。襲われていた友人も今では大量の蜘蛛達に覆われ、叫び声すら上げれなくなっている。
「な、何なんだよ……まさか、こいつ等が噂の新種の……?」
住人は現実が受け入れられないように首を横に振り、ガチガチと歯を鳴らす。身体が硬直してこの場から逃げ出す事すら出来ず、ただただ目の前で行われている残忍な行為を眺めている事しか出来なかった。
やがて暴れ回っていた友人も動かなくなり、蜘蛛達は無数の目の方向をもう一人の住人の方へ向ける。ここでようやく麻痺していた危機感が回復し、住人は絶望した表情を浮かべながらその場から一歩下がる。同時に蜘蛛達も住人に一歩近づく。
「やめろ……やめてくれ……やめっ……」
「「「ギギギィィチィァァアアアアァアアアアアアアッ!!!」」」
住人は背を向けてようやくその場から逃げ出した。しかし背後からは無数の蜘蛛達が恐ろしい奇声を上げながら追い掛け、住人はあっという間に黒い渦の中へと飲み込まれる。そのまま倒れ込み、無数の蜘蛛にへばりつかれながら声を上げる事すら出来ず悶え苦しんだ。
空は先程と変わらず荒んでいる。一雨振りそうで降らない、ただ人々を不安にさせるだけの空。
◇
早朝、アレンは準備を整えて宿屋の前に居た。腰には愛用の剣を携え、ベルトにも短剣を付けている。服装も普段村でするような格好とは違い、丈夫な革のブーツに鉄製の膝当て、胸当てを装備している。所謂冒険者がするような格好だ。アレンがこのような格好をするのは数年振りである。
その横にはファルシアも居る。どこか気怠そうに姿勢を崩して立っており、早朝だからか寒そうに腕を擦っていた。彼女の格好は前日と同じで服の上から青いローブを纏い、しっかりと顔が隠れるようにフードを被っている。手には水晶玉が付いた青い杖が握られており、時折それを指でなぞったりしていた。
「それじゃ、二人の事頼んだよ。シェル」
「はい、お任せください」
アレンは手を冷やさないよう、握ったり開いたりを繰り返しながら宿屋の前に居るシェルにそう声を掛ける。シェルもフードで顔を隠しながら胸に手を当て、アレンを安心させる為か自信ありげに応える。
「時間があったら街を回ってあげてくれ。まだあの子達は見てない物がたくさんあるから」
「分かってます。先生の方こそ気を付けてくださいよ」
アレンが言いたい事はシェルも全部分かっているらしく、笑みを浮かべて返事をする。その様子をファルシアは腕を組みながら眺めており、呆れたようにため息を吐くと二人の間に割って入り込んだ。
「はいはいもう良いかしら?寒くて敵わないから、早く出発したいのだけれど?」
「ああ、悪い悪い」
寒いのが苦手なファルシアは不機嫌そうにそう言い、早く出発するように促す。それを聞いたアレンは慌てて自分達が向かうべき門の方向へと身体を向ける。一応これは正式な仕事の為、依頼主を怒らすような事は出来ない。
ふとファルシアとシェルの視線が合う。どちらもフードを被っている為表情は暗く見えるが、何だか一段と陰湿に見えるようにアレンは感じた。
「……先輩の方もお気を付けて。先生の足を引っ張らないように」
「はっ……貴女の方こそ、子供に振り回されないよう精々気を付けなさい」
何故か仲悪げな会話を交わす二人にアレンは若干たじろぐ。変に触れない方が良いだろう。シェルは怒ると怖い所もあるし、とアレンは距離を取る。するとシェルから視線を外したファルシアがアレンの横へと並び立った。そうして二人は街の出入り口の門を目指して出発した。
今回馬車は使わない。目的の村は然程離れている訳でもなく、十分徒歩でも到着出来る距離だからだ。それに馬車を使うのには手間が掛かったりする場合もある為、アレンとしても徒歩で問題はなかった。後はファルシアは馬車は揺れるから嫌だと私情があったりもしたが……別にアレンがそれを指摘するような事はなかった。
壁と一緒に聳え立つ門を通り、アレン達は木々が生い茂っている緑の中へと足を踏み入れる。この辺りはまだ魔物除けが撒かれている為、外敵の心配はない。だが外の世界とはいつどこから危険が迫って来るかは分からない。ましてや今は新種の蜘蛛型魔物が徘徊しているのだ。警戒心はいつも以上に高めなくてはならない。アレンはいつでも剣を抜けるように柄に手を当てながら道を歩き、隣で颯爽と歩いているファルシアも気配を沈ませ、周りに注意を配っていた。
「そう言えば礼を言い忘れていたな。子供達の為に時間を作ってくれて有難う。ファルシア」
ふとアレンはリーシャとルナに街を見せる時間を作ってくれたお礼を言っていなかった事を思い出し、ファルシアの方を向いてそう感謝を述べる。すると先程まで目を細めて真剣な表情を浮かべていた彼女は急にぽかんとした表情を浮かべ、続けてジト目でアレンの事を見つめて来た。
「……相変わらず唐突な人ね。それ今言う事?」
「言い忘れるのが嫌だったからさ。ほら、俺ももう歳だし。忘れてそのまま思い出せないって事もあるんだよ」
トントンと自分の頭を軽く小突きながらアレンはそう言う。そんな自虐的とも取れる発言にファルシアは呆れたようにため息を零した。腕を組み、先程まで研ぎ澄ませていた集中力があっという間に消えてしまう。
「……別に、あの子達の為じゃないわよ。言ったでしょ?私にも色々準備があるって」
不機嫌そうに目を瞑ってそう言うとファルシアはスタスタとアレンの前を歩き出してしまう。その様子を見てアレンは相変わらずとでも思ったのか、どこか懐かし気に笑い、遅れて後を追い掛ける。
「ちなみに何でシェルと仲が悪いんだ?」
「さぁね。多分私歳下が嫌いなのよ」
「へぇー……それだと随分大勢の人の事を嫌いな事になるな」
ファルシアの斜め後ろを歩きながらアレンは世間話でもしようとそんな話題を投げ掛ける。シェルだと気遣ったりして聞けないが、ファルシアとの場合はそう言った遠慮をしない間柄の為、気軽に聞く事が出来る。それに詮索して欲しくない事だったら予め言う為、アレンも教えてもらえれば儲け程度に考えていた。
「問題はシェルリアの方が私の事を嫌ってる事の方なんじゃないの?理由とか分かってる?」
「え……?いやぁ、見当もつかん」
歩きながらファルシアは人差し指を立て、そう尋ね返す。アレンは腕を組んで考えるが、理由は思い付かなかった。そもそもシェルとファルシアがどんな関係なのかも詳しくないのだ。大魔術師としてファルシアが先輩で、シェルが後輩。その程度の事しか分からない。
悩んでいるアレンを見てファルシアは面白がるようにクスリと笑い、立てていた指をゆっくりと折る。
「どう考えても嫉妬でしょ。私からすれば良い迷惑だけどね」
「……?」
ファルシアの答えを聞いてアレンは益々疑問そうな表情を浮かべる。眉を潜ませ、まるで絶対に解けない問題でも出題されかのような形相だ。それを見て今度はファルシアは意外そうに口を開く。
「あらやだ。本当に分かってないの?」
「ああ、どういう事だ?」
「ハハ……シェルリアが聞いたらさぞガッカリするでしょうね」
アレンは相変わらず分からない、という表情を浮かべて首を傾げている。この様子だと本当に理由が思い浮かばないらしい。その滑稽な姿にファルシアは愉快そうに笑い、自身の髪を手で払う。
(まぁ歳の差もあるし、アレンさんからすればシェルリアをそういう風には絶対に見れない、って事かしら)
自分なりに考えを纏めてファルシアは納得するように顔を頷かせる。
アレンとシェルは言ってしまえば親子ほど歳が離れている。アレンからすればシェルは妹か娘のようなものにしか思えず、だからこそ向こうが好意を抱いているという発想自体が思い付かないのだろう。
(ふふん、あの子の苦労する姿が目に浮かぶわね。いい気味だわ)
この分ではシェルの戦いはかなり険しいものとなるだろう。それを想像するとファルシアは気分良さそうに鼻歌を歌い始めた。
急に上機嫌になり始めたファルシアを見てアレンは更に訳が分からないと手を振るう。その疑問について答えを教えてくれる者は誰も居なかった。
そんな世間話をしている内に足の速い彼らはあっという間に目的地の近くへと到着した。丁度丘の上になっている場所から二人は目的地である村を見下ろす。アレンの住んでいる村よりも少しだけ大きく、建物などの形状が少しだけ違った。だがおおむね普通の村の雰囲気をしていると言えるだろう……見た目だけなら。
「さてと、着いたわよ。覚悟は良い?アレンさん」
「……ああ、此処からでも分かる。村に人気が全くない。静かすぎる……明らかに普通じゃないな」
ファルシアは被っていたフードを脱ぎ、長い髪を靡かせながらそう確認する。アレンはコクリと小さく頷き、先程世間話をしていた時とは違って重々しい口調で言葉を述べた。それだけ遠くに見える村から感じられる雰囲気が異質過ぎたのだ。
アレンは拳を鳴らし、気を引き締め直す。久々に冒険者の顔に戻った今の彼には普段村で見せている温厚な様子がなくなっていた。
「じゃぁ、行くか」
瞳を獣のように光らせ、アレンはそう言って力強く足を一歩前に踏み出す。ファルシアもそれに続き、二人は件の村を目指して歩み始めた。