101:青と白の語らい
宿屋の部屋でファルシアは荷ほどきを終え、現在は椅子に座ってある本を眺めている。時折自身の髪を払い、ふぅんとため息交じりのような声を漏らしてページをめくった。何かを考え込むように机に本を置き、書かれている文章を目で追っていく。そしてまた一枚ページをめくると、どこか気に喰わなそうに眉を顰める。
「面倒ねこれ……ただでさえ使われてない文字なのにおまけに古い筆記だなんて。こんなのどこにあったのよ……」
ファルシアは愚痴を零すようにそう言い、その黒い本のページをまた一枚めくった。
今回の依頼の報酬としてアレンはお金ではなく、この本の解読をお願いして来た。何でも解読が難しい遠くの地方の書物らしい。ファルシアはそう言った研究もしている為その解読依頼を快く請け負ったのだが、意外にもこの黒い本に記されている文字は珍しいもので、苦戦していた。
彼女は自分に解けない書物が目の前にあるという事に苛立ち、トントンと机を指で叩く。
「そもそも〈吸血鬼〉の文字が使われてる本なんて……アレンさん、どこで手に入れたのかしら?」
最大の疑問点はそこだ。魔族の中でも特殊な一族である吸血鬼。表の世界に中々姿を現さないとされているその一族は独自の思想を持ち、主であるはずの魔王にすら忠誠を誓わないと言う。そんな気味の悪い一族の書物をどうやってアレンは入手したのか?そもそもこれが吸血鬼が書いた物だという事を理解しているのか?その事がファルシアは気になっていた。
「随分と苦戦しているみたいですね。本の解読」
「……部屋に入る時はノックしてもらえる?シェルリア」
突如背後から声が聞こえて来る。だがファルシアは驚く素振りを見せず、後ろを向かなくとも誰が立っているか予想出来た。声の人物、シェルは椅子に座っているファルシアの隣まで歩み寄り、ニコリと微笑む。
「ああ、ごめんなさい。鍵が掛かってなかったものですから」
「あっそ……貴女の方こそ荷ほどきは終わったの?」
「ええ。おかげさまで」
シェルの笑顔の返答を見て何がおかげさまなのか、とファルシアは小さく舌打ちをする。相変わらず気の合わない後輩である。ファルシアが厳しく規律を重んじるのに対して、シェルは優しく、事情があれば理解しようとする。元々性格が正反対な二人なのだ。気が合わなくて当然である。
「……で、何の用?わざわざ嫌味を言いに来た訳じゃないんでしょう?」
パタンと黒い本を閉じて椅子に座り直しながらファルシアはそう尋ねる。
シェルの性格からして彼女が人を嘲笑う為に行動をするような人物ではない事は分かっている。自分に対してだけは例外だが、それでもいちいち小言を言うような事はしない。それならばわざわざ苦手な先輩の部屋に来るだけの理由があるのだと、ファルシアは推測していた。
「別に、解読が順調なのかどうかを確認しに来ただけですよ……」
「ふぅん……そう」
ファルシアの質問に対してシェルは何てことのないように答えるが、僅かに視線が泳いだ。その違和感をファルシアは決して見逃さず、腕を組んで目を細める。
「へぇなるほど、この本は大魔術師のシェルリア様が気にするだけの価値があるんだ?」
「……っ」
本を手に取って見せつけるように掲げながらファルシアはそう言う。すると今度こそシェルから動揺の反応が見て取られた。やっぱり、とファルシアは口元をにやつかせる。
元々アレン個人が依頼した本の解読をシェルが気にする義理はない。例え気になったとしてもわざわざ嫌いな自分に尋ねる程の理由にはならないはず。それでも聞きに来たという事は、シェル自身が気になるだけの価値がこの黒い本にはあるという事である。そして少しだけ本の解読が進んでいたファルシアにはその心当たりがあった。
「大方あの黒髪の子……ルナちゃんだったかしら?あの子の魔力を制御する為の方法を探してるんでしょう?あの子の魔力、人間ぽくなかったしね」
ファルシアの言葉に今度のシェルの反応は過剰だった。まるで首でも絞められたかのように目を見開き、固まっている。だがファルシアは本の方に視線を向けていた為、その反応に気付いていなかった。
「……気づいてたんですか?」
元々シェルはルナに補助魔法を掛けている事、そしてルナ自身の魔力が膨大な事からそれを制御する魔法を掛けている事をファルシアには説明していた。だがそれだけだ。ルナの魔力が特殊である事、わざわざ古い書物を解読して制御する方法を探している事は言っていない。ましてやルナが人間ではない事を言うはずがない。
「なに、隠してたの?いくら補助魔法掛けてるからってそれくらい分かるわよ」
シェルの意外そうなあ表情を見てファルシアは何を驚いているのやら、とでも言いたげに笑い、また本を机の上に戻した。
シェルは焦りを覚える。これは不味い事になったかも知れない。まだルナが魔王である事には気付いていないが、気付かれてはいけない事に一つが気付かれてしまった。このままではリーシャとルナの正体まで辿り着いてしまうかも知れない。シェルは後ろで拳を握り絞め、額から冷や汗を流す。だがその時、そんな焦っているシェルの事に気が付き、またファルシアは小馬鹿にするように笑みを浮かべた。
「そんな焦った顔しなくても大丈夫よ。そこから先に踏み込む気はないし、私とアレンさんはあくまでも仕事仲間で、友達でも何でもないんだから」
「……え?」
急にシェルは身体に入っていた力が抜け、もう一度聞き返す。
てっきり詮索されるとばかり思っていたが、どうやらファルシア自身にはその気はないらしい。
「私はあの人の私情に突っ込む気はないし、あの人も私の価値観を否定しない。今までそうやって来たから上手くやってこれた。今更そんな居心地の良い関係を壊す気なんてないわ」
ファルシア曰く、アレンと自分の関係は完全に仕事仲間として平等な関係に成り立っているらしい。友達でもないし仲が良い訳でもない為、依頼の時以外は全く会わないし話もしない。けれど依頼の時は互いに利益がある為、きちんと仕事を行う。そういう関係だからこそファルシアは無茶な依頼だったとしてもアレンに頼めるし、アレンも報酬の為ならばとその依頼を受けれるのである。だからファルシアはアレンが冒険者を辞めるまで彼に依頼を頼み続けていた。今更その関係を壊すなんて、もったいなさ過ぎる。
「まぁそれに、アレンさんにも色々事情があるんでしょう。あの人は昔から訳ありの子の世話をしてたしね……ああ、貴女もその一人だったかしら?」
「そ、それは知りません……」
ファルシアの指摘に対してシェルはちょっとバツが悪そうに口ごもる。確かに昔の自分はまだまだ未熟で色々とアレンの世話になる事が多かった。アレンはいつもそうやって色んな人の手助けをしているのだ。
それにファルシアはアレンの人柄も十分理解している。何か良からぬ事を考えるような人ではないし、そんな事が出来ない人だという事も分かっている。過去には危険な魔物の子供を保護しようとした事もあった。周りからすれば問題と思うかも知れないが、少なくとも彼自身は純粋な優しさから行動しているのである。それならば今回のルナに関しての事も、全ては親心としての優しさなのだろうとファルシアは推測していた。
「とにかく私はあの家族の事情に関して追求するつもりはないわ……というか、そういうの苦手だし」
急にファルシアはそう言うと両腕を掴んで寒気を覚えるかのような動作を取る。いかんせんそう言った家庭の複雑な事情に関して彼女は免疫がないのだ。そもそもファルシアだってリーシャとルナの髪色がアレンと違う事に違和感を覚えていた。聞こうと思えば聞けたのだが、それで出て来た答えが複雑な過去だったりしたら困るのだ。だから彼女はそれを見て見ぬ振りをする事にしていた。
それを聞いてシェルはひとまず安堵する。ルナが人間ではない事には気付いているが、だからと言って何か対応に出るような事はせず、事実は詮索しないと言う。それはシェルにとって何よりも有難い対応だ。これで警戒しなくて済むのだから。
「……有難うございます」
「何で貴女がお礼を言うのよ。気持ち悪い」
「せっかく素直にお礼言ったんですから、受け取ってくださいよ」
珍しくシェルがお礼を言ったというのに、ファルシアは気味悪がるようにまた両腕を掴んだ。どうやら彼女にとってシェルからお礼を言われるのは複雑な家庭事情を聞かされるのと同じくらい嫌な事であったらしい。それを知ってシェルはちょっとだけ悲しくなった。
「ふん……何を安心しているのやら」
シェルの態度を見てファルシアは鼻を鳴らし、また机の方向に身体を向けると黒い本を開く。相変わらず書かれている文章は解読が難しいものばかりだったが、多少なら読む事は出来た。
(そもそも、この本との関連性を考えればルナちゃんの正体だって察しはつくのだけれどもね……)
通常の魔法制御ではなくわざわざ吸血鬼の書物の解読を依頼してまで制御方法を探る姿勢、アレンがすれば良いのに大魔術師のシェルがルナに補助魔法を掛けている点、何よりルナ自身から感じられる特殊な魔力。これらを考慮すればルナの正体はおおよそ分かる。だがファルシアはそれを分かろうとしない。分かりたくもない。もしもその答えが自分の想像通りだとすれば、自分は長年付き合いのある仕事仲間と敵対しなければならなくなる。もちろん王国や民に被害をもたらすのなら対処もやむを得ないが、幸いな事にファルシアはアレンがそんな事を企てるような人物ではない事は知っている。それならば問題が起きない限り自身は目を瞑ろう。彼女はそう考えていた。
(全く、冒険者を引退した後でも忙しい人ね。あの人は……)
小さくため息を吐きながらファルシアは呆れたように心の中でそう呟く。
思えばアレン・ホルダーという人間はいつも何かを抱えている男であった。新米の冒険者の育成中だったり、問題のある冒険者の世話をしたり、いつも誰かに使われている。恐らく自分もそうやって彼を使っている一人なのだろう、とファルシアは何となく思った。
「……ん?」
「ああ、どうやら帰って来たみたいですね」
ふとファルシアとシェルは廊下から賑やかな声が聞こえて来る事に気が付いた。聞き覚えのある声だ。間違いなくアレン達だろう。どうやら街の見学は終わったらしい。しばらくすると、部屋の扉からノック音が聞こえて来た。ファルシアがどうぞ、と答えると扉を開けてアレン達が顔を出す。
「おお、こっちに居たのか、シェル。部屋に居ないから探したよ。二人にもお土産買って来たぞ」
「有難うございます。先生」
「満喫してるわね……アレンさん」
街に出る前よりもにこやかな顔になっているアレンを見てシェルとファルシアは釣られて笑う。大方懐かしい景色を見たり、誰かと会ったりしたのだろう。こういった顔をするアレンは冒険者時代以来である。
「見て見てシェルさんー、父さんに買ってもらったの!」
「シェルさん、ここの魔法具屋さんすごかった。たくさん魔法書が置いてあるの!」
「そっか、二人共街が楽しめたみたいで良かった」
パタパタと足音を立てながらリーシャとルナがシェルの近くに寄り、リーシャは抱き着くように飛び跳ねながらアレンから買ってもらった花飾りを見せる。ルナも普段より興奮した様子で街の感想を伝え、シェルはそんな二人の楽し気な様子を見て自分の事のように嬉しそうな表情を浮かべた。
「ふん……本当に母親みたいね」
そんな子供達と楽しそうに会話をするシェルを見てファルシアはそんな事を思う。
ファルシアの記憶にあるシェルは大抵後輩の癖に生意気で、冒険者上がりで色々と自由な所があるという少々雑な印象ばかりであった。だが今こうして見てみると、シェルはしっかりとした女性のように思える。不思議なものだとファルシアは興味なさげに髪を掻き分けた。
「ほいファルシア、お土産」
「……ああ、どうも」
いつの間にか寄って来ていたアレンがそう言って白い箱を差し出す。ファルシアは一応それを受け取って中身を見てみると、そこには苺がのったケーキが入っていた。急にファルシアの目の色が変わる。
「好きだったろ?甘い物。仕事中の時もよくクッキーとか食べてたりしてたよな」
アレンは両腕を組みながら懐かしむようにそう言った。確かにファルシアは甘い物が好きだ。何分仕事で色々と忙しい身の為、脳が甘い物を欲するのである。故に彼女は仕事中でも隙あらば糖分を摂取していた。しかしそんな彼女は現在何故か焦ったような表情を浮かべている。気のせいか、口から涎が垂れているような気も……だがアレンがそれを確かめようとする前にファルシアはバッと顔を上げ、いつもの表情へと戻る。
「……この事、絶対シェルリアには言わないで頂戴よ」
「え、何でだ?」
「何ででもよ」
すぐに箱を閉じて隠すようにローブの中に入れると、ファルシアはそう忠告する。何故そんな事を言うのか分からないアレンはキョトンとした表情を浮かべていたが、ファルシアの眼力に負け、仕方なく頷いた。その後彼女は少しだけ顔を赤くしながらその箱を大切そうに棚の中へといそいそとしまうのであった。