異形
それは闇を泥に溶かして練り上げたような暗黒だった。
人の形をしてはいるが、それが人であるはずがない。あれが人だというならば、ゴブリンだって人間に違いない。
見るだけで怖気を引き起こす異形のそれは紛う事なき怪物であり、全ての者の恐れを受ける悪魔だった。
「……やべぇ。何がやばいのか分かんねぇけど、アレはやべぇ」
ギュンターも目の前の異形の危険性を本能で察したのか、勇敢に剣を構えながらもじりじりと後退していた。
すると顔の無い闇はこちらを向くと、両の腕をかき抱き天へ向けて咆哮をあげた。
「――!!」
「い、いやあぁ!?」
「フェイ!?」
それに怯えたようにフェイが悲鳴を漏らす。
いや、それは怯えたからでは無かった。フェイの、妖精の体が陽炎のように揺らぎ、霞のように霧散していく。
「フェイ! フェイ!?」
「やだ……やだようテオ……」
そしてフェイは淡い光を残して消えていった。
全てが幻だったかのように、何も残らなかった手の中を呆然と見つめ、そして知らず握りしめて祈るように顔に叩き付けた。
「……フェイ」
何故という言葉が頭を行き交う。
人の道理など知らず、いつも楽しそうに笑いながら話しかけてきた彼女。
何故消えなければならない。
何故助けることができない。
何故自分は何もできない。
何故自分はこんなにも弱い。
「……立てテオドール。気持ちは分からんでもないが、俺たちもヤバい。あいつが叫んだ瞬間、体から何か抜ける感覚がしたぞ」
「マナ……いや、あいつは多分魔力を吸収してるんだと思う」
ギュンターの言葉に応え、僕は強引に脳を切り替えると、努めて冷静に憎き敵を見た。
周囲のマナの枯渇。そして妖精たちを消し去る力。
恐らく奴は大気のマナのみならず、周囲の生物の内在魔力すら吸い取っているのだろう。
そんなことをされたら、人間はともかく幻想に近い妖精は形が保てない。フェイが言っていた「食べられた」というのはそういうことだろう。
「なるほど。正体は置いとくとして、アレは斬ったら死んでくれると思うか?」
「魔法よりは可能性が高いと思う。妖精を消すほどの吸収力なら、魔法まで吸い込まれかねない」
「吸い込まれない可能性もあるわけか……試してみるか。テオドール! 援護頼むぞ!」
「え? ちょっとギュンター!?」
剣を下向きに構え疾走するギュンター。それを止めることもできず、僕は慌てて魔法を使うために意識を集中する。
「……え?」
しかしその先が無かった。
魔力を汲み上げ、魔方陣を描こうとする。しかしいくら念じても、なけなしの魔力が無様に漏れ出るだけで、魔方陣どころかその場に魔力を留め置くことすらできない。
「そうか、マナが!」
クライン式魔法は大気のマナを下敷きに魔方陣を描く。従来の魔術ならば言霊にのせて完成させる術を、図形と術式で補っているのだ。
しかしこの場にマナなどない。根こそぎあの異形に吸い取られてしまった。
旧来の魔術を使う魔術師ならまだしも、クライン式魔法しか使えない僕では奇跡は起こせない。
「くそッ!?」
「ギュンター!?」
そして僕が狼狽えている間にも戦いは動く。
異形が無造作に放った一撃。ただ邪魔なものを退けるように振りぬかれた腕。
それをギュンターは咄嗟に剣で防ごうとしたけれど、異形の腕は剣をまるで飴細工みたいにへし折り、その勢いのままにギュンターの顔面を殴り付けた。
「ガッ!?」
岩でも殴ったみたいな鈍い音が響いた。
顔を殴られたギュンターは坂を転げ落ちるチーズみたいに回転し、落ち葉を巻き込み撒き散らしながら地面を転がっていく。
「……ギュンター!?」
「い……てぇ。何だこれ、痛すぎて……どこが痛いか分かんねぇ」
慌ててギュンターに駆け寄る。すると何とか意識は保っていたのか、ギュンターは左手で顔を押さえながら上体を起こす。
「うわっ血塗れじゃねえか。テオドール。俺の顔どうなってる?」
「鼻血で色男が台無し」
「ああ、そりゃ大変だ。いくら向う傷が男の勲章でも限度がある」
ぺきっと折れた鼻を治しながらギュンターは立ち上がる。
しかしやはりダメージは大きいのか、すぐに態勢を崩すとそのまま膝を付いてしまった。
「うっわ、やべぇ。意識はしっかりしてんのに体が動かねぇ。おいテオドール。俺の頭ちゃんと胴体に引っ付いてるか?」
「付いて無かったら死んでるよ」
いつも通りのギュンターに少し安心したけれど、状況はまったく救いが無い。
剣をへし折るような奴に接近戦なんて馬鹿げてる。だけど僕は魔法を使えなくて、ギュンターはそもそも最初から使えない。
かくなる上は逃げるしかないのだけれど、逃げるには少しばかり問題がある。
「……テオドール。俺は良いから逃げろ」
悩む僕を見かねたように、ギュンターが言った。
そう。逃げようにも今のギュンターは満身創痍で動けない。そうでなくても、目の前のそれが逃げるこちらを見逃してくれるはずがない。
だからギュンターが囮になる。それは最上で最善の選択なのだろう。
だけど……。
「……ねえギュンター。立場が逆なら君は僕を置いていくの?」
「立場が逆ならおまえを担いで逃げてるな」
「そういうことじゃなくて!?」
抗議の声をあげる僕に、ギュンターは苦しそうに顔を歪めながら笑った。
「分かってるよ。見捨てて良いとか言われてもな……無理だろ。しんどいだろ、きついだろ」
笑いながら、ギュンターは立ち上がる。
「だけどな、こういう時こそ冷静に……だ。こんなヤバいのが王都のそばに居るって伝えなきゃならない。そうしなきゃ、きっと被害がでかくなっちまう。おまえが逃げなきゃ人が死ぬんだ」
笑いながら、ギュンターは僕の体を押す。
「……ギュンター」
「しんどいだろ。でもな、見ず知らずの人間の命を背負って命張る。それが騎士ってもんだろう? おまえが騎士になりたいなら、俺の命を重荷にしてでも逃げろ」
苦しそうにギュンターは笑う。
それがまるで自らの死に場所を見つけた咎人のようで――。
「――ばっかじゃないの!?」
――だけどその覚悟を罵り、否定するように彼女が現れた。
「え、エリー!?」
「人が慌てて追いかけて来てみれば、何この男の友情ごっこは!? もう、男なんてカッコつけて突っ走って、残される人の気持ちなんて考えないんだから。この馬鹿共!?」
何故かご立腹らしいお姫様は、まるで飛んできたみたいに落ち葉を蹴散らしながら眼前に降り立った。
わざわざ着替えてきたのか、背には白い外套を羽織り、右手には魔術補助用と思われる青い宝石の付いた杖が一振り。
今まで騎士学校では見られなかった「魔術師」としての正装だった。
「――!?」
突然現れたエリーを敵と認めたのか、異形が形容しがたい咆哮をあげる。
そして再び体から何かが抜け出る感覚。どうやらまた周囲の魔力を吸い上げ始めたらしい。
「エリー、あいつは魔力を吸収する。魔術師の君じゃあ……」
「だから何? 周囲のマナを吸い上げる事くらい私だって出来るわよ。例え魔力を吸収できたとしても、現象となった魔術を防げる道理は無いわ」
忠告する僕に、しかしエリーは獰猛な笑みを浮かべて言った。
その間にも異形はこちらへと近づいてくる。ならばせめて盾になろうとエリーの前に立つが、そんな気遣いなど彼女には不要だった。
『――強禦。爍金の炎は臥して繋ぎとめよ!』
響き渡ったのはエリーの声。
しかしそれはただの声ではなく、世界を変革する命令だった。
「――!?」
この場を支配する声。それに従うように、異形が悲鳴をあげて崩れ落ち這いつくばる。
「……拘束結界?」
よく見てみれば、異形を中心とした地面が奇妙にひしゃげていた。
巨人の手に押さえつけられたみたいに、その場にある全てが地面へと縫いとめられている。
「見てなさいテオ。これが魔術というものよ! ――火の聖霊よ。古の契約に従い我が声に応えよ!」
初めて目にした魔術という技法。それに見惚れ呆然とする僕を叱咤するように、エリーは杖を振りかざし詠唱を始める。
「――!!」
「おいおい、大丈夫かコレ!?」
その間にも、異形はじりじりと地面を這いずりこちらへと近付いてくる。
あと少しで結界の範囲から抜け出てしまう。しかし焦る僕とギュンターを嘲笑うように、エリーは憎らしい程ゆっくりと呪文の詠唱を終えた。
「――其は死地へと赴く盲目の羊、汝を誘うは聯翩の大火と知れ!」
異形が結界から抜け出し駆け出そうとした刹那、エリーの詠唱が終わる。
そして彼女の頭上に出現したのは、馬も飲み込むのではないかという大きさの火球。それが十以上も兵士のように整列し、走り出そうとしていた異形目がけて次々と襲いかかる。
「――火の精霊よ。古の契約に従い、我が声に応えよ!」
そして火球たちの突進が終わる前に、エリーは次の詠唱を始めていた。
「――灼爛たる大地を覆うものは彼岸に集い蠢動する」
火球が着弾する度に異形の周囲が焼き焦げ、吹き飛ばされていく。
どうやらエリーの言う通り魔術までは吸収できないらしく、火球を受ける度に異形の行進が止まる。
「――蝗旱は流れを呑み尽くし」
しかしそれにも限度がある。
十を越える火球は己の役割を果たし消滅し、表面を焼かれてもなお健在な異形を阻むものが無くなる。
だが迎え撃つは若くして一流の称号を得た魔術師。
地を蹴る異形。されどその進撃を許すはずは無く、人造の奇跡が顕現する。
「――大火は恵みを屠り蹂躙する!」
瞬間。視界が赤く染まった。
エリーの詠唱が完結するなり現れたのは、巨大な炎の壁だった。地面から突如湧き立ったその光景は噴火と呼ぶに相応しい。
轟々と猛り狂う炎は異形を飲み込みなお衰える兆しを見せず、眼前の空間を焼き尽くした。