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 リビングを出て玄関前まで戻って階段を上がって正面の部屋が白子ちゃんの部屋らしく、殺風景というよりほとんど何も置かれていない部屋に招かれて腰を下ろす。ベッドと机と箪笥しかない部屋、初めて女の子の部屋に入ったが、今時の女の子の部屋はこのように薄ら寂しいものなのか。

 てっきりぬいぐるみは一つ必ずあるものだと思っていたが、幻想だったらしい。

「聞くことは聞いたが、結局元に戻す手掛かりらしーもんは得られなかったな」

 ベッドに胡坐を掻いた白子ちゃんはふわわと欠伸する。

「あ、そうなの? いや、何ていうか……もう途中から白子ちゃんのお母さんが何を言ってるのかも分からなかったよ」

「ああ? あー、あの人は多少早口だからな」

「……………………」

 むう。むむう。

「あ? 何だ?」

「え、あー……ううん、何でもない」

 首を横に振るが、厳しい表情の白子ちゃんに無言で睨まれてしまっては仕方がない。

「いや、お母さんをあの人って言うんだなー、っていうのが気になって」

 無難を志す僕は他人の内情やらに踏み込むのをよしとしていない。人付き合いっていうのはゆるーく、深追いし過ぎないってのが信条だ。

 そんな僕の口を半ば強引に割らせた張本人は、つまらなそうに肩を竦めている。

「あんまり仲良くねーんだよ。ってか、一方的に苦手なんだよ、あの人」

「えっと、どこら辺が?」

「目的最優先ってとこが」

 んん、事情を知らないので当然ながら、さっぱり意味が分からない。

 白子ちゃんは仰向けに倒れ込み、聞こえてくるほど大っぴらにため息を吐く。

「とある目的があって地球にやって来たって言ってたろ?」

「あー……うん、正直、ほとんど聞き取れなかったんだけど……」

「言ってたんだよ。んで、とにもかくにも目的が最優先ってなとこがあって、あたしにもそれを押し付けてくるっつーか、そういうとこが苦手なんだよ」

 勉強第一みたいなことだろうか。僕のとこは結構な放任主義というのか、自分のことは自分でやりなさいよタイプなので何かこれをやれと徹底された覚えはない。今日、こうして白子ちゃんの家に泊まるってなっても、連絡一つ入れれば、あーそうなの、の一言で済むだろう。

 なので今一つ苦手とする理由は分からないが、その辺は人それぞれか。僕が口を挟むものでもない。

 そうすると話が終わって気まずい沈黙が訪れる。

 改めて考えれば、今日初めて言葉を交わして擬似的にとはいえ付き合うことになって尚且つお泊まりすることになって白子ちゃんの部屋にいるのか。

 おー、これは何というか、時間が重たく圧し掛かってくる。

 静けさが妙に気まずい。

 何か喋ろう。

「とりあえずは、あれだね。元に戻る方法はすぐには見つからないかなって感じだよね」

「あー、そうだなー。あたしの空想現実化が原因みてーに言ってたけど、ぴんとこねーし。元に戻す方法ってのはちっとも分かんねーなー」

 寝転がったら即座に眠くなるタイプなのか、白子ちゃんの声は妙に間延びしている。

「じゃあ、現状を無難にやり過ごす手を考える必要があると思うんだ」

「ああ? あー、ばれないようにってやつか」

「そうそう、白子ちゃんのお母さんは宇宙人? だからすんなり受け入れてもらえたけど、僕の母親とか、学校の皆とか、一般的にはすんなり受け入れてはくれないだろうし」

「まー、あたしもめんどくさくなんのは嫌いだし、そこは協力するぜ」

「あ、ほんとに? 良かったあ」

 がばりと、両腕を用いず腹筋の力により上体を起こした白子ちゃんが僕を見やる。

「んで? その無難にやり過ごす手ってのは、何なんだ?」

 それはいくつか考えている。ただ、それらの中でもっとも重要で、もっとも必要なのは一つに絞られる。

「それは、慣れだよ」

 白子ちゃんの右手ががっしがしと僕の後頭部を掻き毟る。えっと、将来はげないかな?

「慣れってのはつまり、この両腕か」

「そうだね、一つ目は両腕。少なくともお互いが目に入ってる時に、お互いのことを察知して両腕を動かせるくらいには慣れないと、ばれちゃうと思うんだ」

「ま、だろうな」

 白子ちゃんは両腕を前に伸ばし、ぐーぱーしてみせる。あたかも僕の両腕のように動いてはいるが、実際のところはそうじゃない。この辺りの齟齬を調整し、慣れていないと、日常生活でぼろがでてしまい、ばれることに繋がる。

 ばれました、病院に送られました、研究対象になりました、ってのは絶対に避けたい。

「で? 二つ目もあんのか?」

「ん、二つ目は触れ合わないことだよ」

 白子ちゃんは自身の体を見下ろし、あー、と唸る。

「右手を触れ合わせたら右腕が、左手を触れ合わせたら左腕が入れ替わっちゃったんだし、順当に考えれば他の箇所が触れ合ったら、また入れ替わっちゃうと思うんだよね」

「さすがにこれ以上入れ替わっちまったら協力どころじゃねーな。両腕に慣れつつ、触れ合わないってのにも慣れねーといけねーのか」

 その通り、そして二つに慣れるのが非常に難しいってのは自明の理だ。側で協力し合いながらも触れ合わないように生活する、それに慣れる。

 おおう、そこはかとなく無理っぽい。

「ま、一緒に生活すれば嫌でも慣れるんじゃねーの?」

「…………うん。うん? え、それって今日一日ってことじゃなくて?」

「ああ? ったりめーだろ、今日一日で慣れるわけねーだろ」

 言っていることは正しいが思い切りが良すぎて驚天動地の気分だ。

「え、それって、その……え、僕、しばらく白子ちゃんの家に泊まるってこと?」

「トイチンの両親にばれないよう生活できるってーんなら、あたしがトイチンの家に転がり込んでもいーぜ?」

 それは無理だ、ばれない自信がない。むしろばれる自信しかない。それ以前に女の子を泊めるとなった際、いかに放任主義の両親でも、あーそうなの? の一言で済ませてくれるのかはかなりの大冒険だ。

「いや、僕の家は無理……かな。うん、無理だと思う」

「んじゃ、あたしの家に泊まれよ」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げれば、一先ず今後の方針が決まる。

 ばれないようにを目的に、現状に慣れる。

 無論のこと最終目的は元に戻すことだが、その道が霧に覆われて見通せないのであれば、今、できることをやるしかない。白子ちゃんの言葉ではないが、確かに一緒に過ごせば慣れるのは早そうだし、お互いに頑張っていこうって姿勢ならば困難な道じゃなさそうだ。

「あ」

 不思議と楽しくなってきたところで、白子ちゃんがぽかんと口を開けた。

「ん? どうしたの?」

「あー……」

 白子ちゃんは僕を見下ろし、うんうんと二度頷く。

「共同作業をこなして慣れていくしかないよな」

「え? ああ、うん、そうだね。頑張っていこう」

「よし、じゃあ行くか」

「ん? え、どこに?」

「トイレ」

 あ、全然困難な道だねこれ、入り口から断崖絶壁みたいになってるね。

「安心しろよ、手を貸してもらおーとは思ってねーから。ただ、あたしが手を使うためには一緒にトイレに入ってもらう必要があるけど、そこは協力していくしかないよな」

「まあ……そうだね」

 僕は断崖絶壁を登る決意を表明するように頷くしかなかった。


 幸いだったのは白子ちゃんの開けっぴろげな性格だろう。

 むしろ僕の方が恥ずかしいってどういうことなんだって理不尽を覚えるほど、白子ちゃんは照れや恥ずかしさを覚らせない。僕は大体のことをしれっとこなせるように心掛けてはいるが、やはりというか隠し切れない部分があるのか、慌てたり感情の起伏によってはしれっと通せないことが多いので、その辺は非常に助かった。

 例えばトイレだ。

 両腕が入れ替わっている際に適した排泄とはどのようなやり方か?

「はー、あれやこれやで頭使っちまったから疲れちまったぜー」

 フローラルな香り漂うトイレの個室内で白子ちゃんは便座に腰掛けている。僕は閉じられている扉を背にやや前屈み、もちろん両目はしっかりと閉じている。

 何も見えない暗闇で音が聞こえてくる。

 しまった、せっかく前屈みになっているのだから自分の両手を使って僕の耳を塞げば良かった。

「しっかし、トイレはこの方法でいいとして、風呂はどうすっかなー。二人して入れるほど広くもねーし、一人は浴槽、一人は浴槽の外って感じかー」

 果たして、この方法は正解なのだろうか。

 むう、何やら心臓の音がうるさくて思考に集中できない。これ、逆の場合はどうなるんだろう? 僕はトイレの小に関しては立ったままするが、そうなると白子ちゃんは僕の背後にぴったり立つって感じになるのだろうか。こうなったら僕も座って済ませるという方法に転換するしかないか。

「おい、何か顔赤いぞ? 大丈夫か?」

「あ、うん。平気、ものすごく大丈夫」

「そうか?」

 からからとトイレットペーパーの回る音が聞こえてくる。

 あー、嘘だな、全然大丈夫じゃない、何だこれめっちゃ恥ずかしい。人生で経験したことのない恥ずかしさで顔が真っ赤になっているのを実感できる、熱くなりすぎた肌から汗が噴き出しているのを体感できる。

 じゃじゃー、と水が流れる音を聞いてトイレは終了、ようやく一安心だ。

「終わったぜ」

「あ、はい、了解です」

「ついでだし、トイチンもやってくか?」

「……………………」

 まずは落ち着こう、慌てるのは早い。

 共同生活をして慣れていこうと決めたばかりじゃないか。いくら出だしが断崖絶壁だったとしても、僕は既に絶壁を登り始めている。今更下りるってのは困難だし、下りてしまえば慣れていこうって決意すら打ち消さなければならない。

 やると決めた以上、やりきる男でありたい。

「あ、じゃあ、ついでなので……やっていこうかと……」

「んじゃ、交代だな」

 絶壁であろうと、僕は逃げない。

 よし、と意気込んで前屈みから背筋を伸ばし、目を開ける。白子ちゃんは立ち上がるなり端に寄り、便座への道を譲ってくれた。

「そーいや、男子ってのは立ってやるんだっけか? あたしはどこに立てばいーんだ? ってか、しっこか? それともおっきい方か?」

 しれっとそんなことを聞ける人になりたいものです。ああ、何だか白子ちゃんは僕の目指す頂点に立っている風情すらある。

「ええっと、小さい方で。座ってやりますので、僕と同じ格好を取ってもらえれば」

「あー、そっか」

 とにもかくにも便座に腰を落ち着ける。そうして心も落ち着ける。

 僕の向かいに立ち、前屈みになった白子ちゃんはしげしげと僕を見つめている。うん、目は閉じようか。そのくらいは譲歩しようか。

「ちょっと目を閉じててもらえると、非常に助かるわけですが……」

「あ? あー、そうか? 協力だもんな、そんじゃ閉じるか」

 目を閉じた白子ちゃんを前に、僕は両手を動かす。

 白子ちゃんが前屈みになってくれているので、両手を伸ばせば自分の手でズボンを下ろし、パンツを下ろすことができる。下ろす際にやや腰を上げるのがコツだ。後は座って穏やかな気分に浸れば作戦の大部分は終了となる。

 逆の手順でパンツとズボンを上げ、限界ぎりぎりまで右手を伸ばしてトイレを流せば作戦は見事に大成功、ほっと一息つける。

「あの、終わりました」

 ああ、作戦成功を宣言するのがこんなにも恥ずかしいだなんて知らなかった。もっとこう、誇らしい気持ちで宣言できるのかと思ってたけど全然違った。

「おお、そっか」

 目を開いた白子ちゃんはまじまじと僕の股間の辺りを見ている。

「どういう構造をしてんのか気になるとこだが、まー風呂に入ったら分かるか」

「……………………」

 絶壁の八分くらいまで上った気分だったけど、まだ二分くらいだね。


 共同生活に必要なのは協力に他ならない。

 両腕が入れ替わっている以上、お互いが両手を使う際には必ずしも協力が必要になってくる。トイレに然りお風呂に然り食事に然り歯磨きに然り、いかなることも協力していかなければならない。

 トイレを済ませてからの時間は明日への準備に使われた。

 一旦僕の家に行き、生活必需品やら着替えやら教材やらをまとめ、母にしばらく友人宅で泊まることを告げた。

 こんな感じに。

「えっと、しばらくこちらの白子ちゃんの家に泊まることにしたから」

「あー、そうなの? 迷惑を掛けないようにね」

 いやー、放任主義ってのは分かっていたつもりだけど、女の子の家に泊まるよって告げても平然と対応するお母さんにびっくりだよ。

 帰り道、見た目的には僕のバッグを手にしている白子ちゃんが口元を歪めて笑う。

「トイチンのお母さん、面白いな。あたしのとこだと、そりゃーもう長々と事情を問い質されてうぜーことこの上ないぞ」

「ううん、そのくらい問い質される方が良い気もするよ」

 正直なところ、ここまで放任されていると思い知ってしまっては、放任というより放置に近いのではないかと残念ささえ浮かんでしまう。

「そうか? 口うるさいよりよっぽどましだと思うけどな」

 はてさて、そうだろうか?

 夕日によって赤く照らされている道を白子ちゃんと並んで歩き、肌寒さを感じながら率直な感想を述べてみる。

「口うるさいのは、心配されてるってことじゃないの?」

 その感想から導き出される答えは、逆である母は僕のことを心配していない。

 前々から何となくそんな気がしないでもなかったが、白子ちゃんの家に泊まる、しかも期間さえ述べなかったというのにさらりと流されたとあっては、俄然信憑性が出てくる。

「は? 心配の必要もないくらいに信頼されてるんじゃねーの?」

「へ?」

 真っ白な肌を朱色に染めている白子ちゃんは学校での不機嫌そうな表情を消し、無表情というのかあっけらかんというのか、しれっとした顔をしている。

「口うるさく言わないくらいに信頼してるから、あー、そうなの? で済んだんじゃねーのか?」

 はて。

 さらりと不思議そうに言ってのけた白子ちゃんの言葉がどのような効果をもたらしたのか、何故だか重たいバッグが軽くなった気がする。

「そういう可能性もあるのかな?」

 白子ちゃんはやはり、しれっと答えた。

「いや、知らねーけど」

 何はともあれ準備は整った。

 後はもう、最終目的である元に戻るまで、共同生活をして慣れていくしかない。

 変な直感ながら、白子ちゃんとならやっていけそうな気がする。そうは思ったものの、言葉にするのは気恥ずかしいので黙っていた。


「あのさあ、トイチン」

 僅かな休み時間に次の授業の準備をしていたら隣の永久ちゃんに声を掛けられた。

 机の中から国語の教科書とノートを引っ張り出し、しっかりと机に置き、あまつさえ筆箱からシャーペンと消しゴムを取り出して広げたノートに置いてしまう。

 完璧、完璧すぎる。

「え、なに?」

 永久ちゃんはじーっと不思議そうに僕を見ていて、後ろの席の為我井君が何やら身を乗り出している。

「トイチン、いつまで長袖なの?」

「……………………」

 なるほど、ついに来てしまったということか。

 そう、四月の始まりであれば長袖であることに不思議はなかった。外に出ればやや肌寒さを感じさせる風が漂っていたし、エアコンなんてない教室では寒暖の調節は難しいことから長袖を着用している生徒も多々いた。

 しかしながら今や六月も半ばである。

 そろそろ夏を迎えようって時期、もはや梅雨を迎えている時期に長袖というのは些か不思議に思われる日が来るのではないかと思っていた。

「そーいやそーだな、暑いだろ」

 心なしか強引に会話へと入ってきた為我井君も怪訝さを醸している。。

 はてさて、僕が長袖を着用しているのには決定的な理由がある。そう、それは白子ちゃんの両腕だ。手の先が露になっているだけでは気付かれないにくいだろうが、夏服となり半袖になってしまえば、肌の白さや腕の長さが明確化されてしまう。

 あれ、お前の両腕、真っ白じゃね? ってか短くね?

 そう思われてしまえば、僕と白子ちゃんの秘密が明かされてしまう。

 いつかは聞かれる日が来ると予測していた、対策はばっちり立てている。

「いやあ、冷え性っていうのかな? 寒がりなんだよね。ほら、暑い時は服をめくるなり脱げばいいんだけど、寒いってなると着込むしかないからさ。寒さ対策で年中長袖派なんだよ」

 にっこりと笑えば、右手がピースサインを作ってほっぺの横に持ってこられる。

 うん、これはいらないね。その協力は必要ないね。

 すっかり夏服が当たり前となり半袖にモデルチェンジしてしまった永久ちゃんと為我井君は、ふーん、と気のない返事で流してくれた。

 作戦成功、ミッションコンプリートだ。

 よし、と拳を握り締めてガッツポーズを取っている白子ちゃんがいつの間にやら僕の席の前に立っている。

「あ、姫百合さんだあ。トイチンとお喋りしに来たの?」

「しっこに行ってくる」

 白子ちゃんは相も変わらず、僕以外の誰かの言葉を華麗にスルーする。

 すたすたと教室を抜け出していった白子ちゃんが与えたのは新たな作戦に他ならない。

「ありゃりゃー、無視されちゃった」

「き、き、気にすることないっすよ、姫百合のやろーがまともに喋るのはトイチンくらいのもんですよ」

「あはは、だよねー」

 笑って流す永久ちゃんはほんわかしている。穏やかに流せる姿は見習いたいものだ。

「俺も行っとこっかな。トイチン、一緒に行くか?」

「え? あー、僕はいいや」

「そっか」

 立ち上がって教室を抜けていった為我井君の誘いは、断らずを得ない。何しろ僕にはやらなければいけないことがあるのだ。

 遠距離でのトイレについては研究の末、一つの方法が確立された。

 まず、トイレに行くことを相手に伝えておく。そうしてトイレに着いて便座に腰を下ろす直前、右手に刺激を与える。この場合の刺激というのは簡単なもので、トイレの壁に右手の甲をぶつけるといったものだ。

 右手に刺激の感触が伝われば、見えないながらも両腕を動かす。

 触感は伝わるのだから、手触りでスカートやパンツを下ろすことは難しくない。

 用を足している間、左手の甲を白子ちゃんの唇に当てておく。唇が動けば用を足し終えた合図、手探りでトイレットペーパーを探り、拭く。尋常ならざる羞恥心も二ヶ月の鍛錬によって乗り越えた。もはや断崖絶壁は制覇したといっても過言ではない。

 拭きが足りない? そうであれば、二の腕を噛めばいい。トイレを流さなければいけない? それは足によって自己解決できる。手を洗う必要がある? ならば両手を手洗い場にぶつければいい。両腕は自分の意思によってしか動かないとしても、慣性の法則により、体を振ることで他意に動かすことができる。

 完璧、完璧すぎる。

 僕と白子ちゃんの協力生活には微塵の隙すらない。

「あのさあ、トイチン」

「えっ? あ、えと、なに?」

 ただし酷く集中力を要するため、このように話し掛けられればうろたえてしまう。まだまだ修行が足りないといったところか。

 声を掛けてきた永久ちゃんは体を乗り出し、僕に身を寄せてくる。

 んん? 何だろう?

「昼休みさ、ちょっと相談があるんだけど、いいかなあ?」

 少なからず声が潜められている辺り、内緒話の様相を呈している。

「相談? うん、大丈夫だよ」

「ほんと? んー、じゃあ、どこか人目のないところで話したいんだけどー……」

 はて、何やら思い悩んでいる様子の永久ちゃんは視線をあちらこちらにさ迷わせている。

 人目のないところ……あ、思い当たる節がある。

「一号棟の裏は? あそこ、昼休みの間は誰もいないっぽいよ」

 白子ちゃんに引っ張られて連れて行かれた場所だ。案の定、永久ちゃんは首を傾げる。

「え? 裏って、どうやって行くの?」

 プレハブを使用している生徒にしか知られていない場所なのだろう。僕が知らなかったように、永久ちゃんも知らないらしい。

「昼休み、一緒に行こっか。そこなら人目もないと思うから」

「そっかあ。じゃあ昼休み、よろしくー」

 えへへと笑った永久ちゃんに余裕の笑みで応じる。

 両腕が自由に動かせない学校生活にもすっかり慣れた。相談事くらいなら両腕が使えなくとも応じられるだろう。

 いやあ、この二ヶ月で鍛えられたものだ。

 これも全て白子ちゃんとの協力生活のお陰かな、と満足感に満ち溢れていたら、いきなりびっくり突然に、白子ちゃんの机が吹っ飛んだ。

 ええっと、いきなりびっくり突然に白子ちゃんの机が前方へとすっ飛んだ。

 どんがらがっしゃんという擬音が大げさでもなく教室に響き、静けさが舞い降りる。突発的な轟音というのは沈黙を生む力がある。

 ん? 何が起こった?

 しらーっと静まり返った教室はともかくとして、何が起こったのかは明白だ。永久ちゃんの机が前方に吹っ飛んだ。それがけたたましい騒音を生み、沈黙を生み出した。幸い、永久ちゃんの席は最前列なので前には誰の席もない。たまたま誰かが通り掛かってもいなかったので、投げ出された机は教室の壁にぶつかるだけで済んだ。教卓に提出したノートをまとめ、さてと教室を出ようとしていた玉響先生にも被害はなかった。

 それならば疑問に思うべきは、何で机が吹っ飛んだのか、だ。

 にへらっとした笑みを浮かべて固まっていた永久ちゃんの瞳が動き、無残に壁へと打ち付けられて倒れている机を映す。

「あはは、ごめーん、手が滑っちゃったあ」

 白々しいほど静けさの舞い降りた教室に、白々しいほど明るい永久ちゃんの声が響いた。

 あー、なるほど手が滑っちゃったのかあ、それは仕方がないよねえ、そうなっちゃったら机が前方に吹っ飛んで壁にぶつかっちゃうよねえ、まさか穏やかで朗らかな永久ちゃんがいきなり机を突き飛ばしたりはしないもんねえ、みたいな安堵感が教室に広まる。

 広まるも、僕の中には疑念しか浮かばない。

 白子ちゃんのトイレに集中していたとはいえ、永久ちゃんが机を突き飛ばすような動きをしていなかったのは明白だ。

 教壇に立つ玉響先生が、冷えた視線を机に落としている。

「あ、先生、ごめんなさーい、手が滑っちゃいました」

「随分と豪快ですね。学校の資産なのですから、大事に取り扱ってください」

「あはは、すみません」

 はてさて何が永久ちゃんの机を吹っ飛ばしたんだろう?

 両腕を自由に動かせない身としては、机を起こしている永久ちゃんを手伝うこともできない。せっせと机を元の位置に戻している永久ちゃんをぼへーっと眺めながら、机が吹っ飛んだ要因に思いを馳せた。


「宇宙人ってさ、念力って使えるのかな?」

 昼休みの教室は不躾に言ってしまうと臭い。

 熱量に負けてほとんどの窓を開け放してはいるが、机のあちらこちらで広げられた弁当やら何やらの匂いが渾然一体となり拡散されている。

 そのような教室の真ん中ら付近にて、僕と白子ちゃんは向き合って昼食を摂る。

 僕の昼ご飯は通学途中にコンビニで購入しておいた菓子パン、白子ちゃんの昼ご飯は板状のチョコレート一枚、ここ二ヶ月近くお互いに同じものしか食べていない。理由は一つ、食べ方の手順が変わると慣れるのが大変だからだ。

 お互いにお互いの手元を凝視し、僕の両手は板状のチョコレートの袋を開封し、白子ちゃんの両手は菓子パンの袋を開封する。

 しっかりとお互いを観察しながら、適したタイミングでチョコレートと菓子パンを口元に持っていくことで、昼食は何ら不自然さを見せずに進めることができる。

 一度、現状の慣れに到達する前に食べやすさを追及し、僕の両手が持ったものは僕の口へ、白子ちゃんの両手が持ったものは白子ちゃんの口へという、傍から見れば食べさせっこをしている食事スタイルも試してはみたのだが、きゃーきゃーとざわめく教室の空気に比例して白子ちゃんの表情が不機嫌に変わっていったのを切っ掛けに妥協を諦め、慣れを最優先に練習し、今の状態まで高めることができた。

 むむ、白子ちゃんの口がもごもごしている。次はまだだ、まだ口元へ持っていくのは早い、と逡巡していたら白子ちゃんが口を開ける。

 次か? 違う、これは僕の問いに対する返答だ、と両手を踏み止まらせる。

「使いたいって願えば使えるんじゃねーの?」

「願えば……何だっけ、空想現実化だっけ」

「おー、それそれ」

 口元にパンがやって来たので頬張り、むぐむぐと租借する。うん、まだ早いね、めっちゃ租借してるから、せめて飲み込むまで待とうか、と首を横に振りながら念じれば口元に押し付けられていたパンが下げられる。

「白子ちゃんだったらさ、念力を使いたいなーとか願ったりする?」

「は? 願わねーよ、そんなもん使えたって何の役にも立たないだろ」

「まあ、だよね。使い道はないよね」

 空想現実化はともあれ宇宙人とやらが実在するのはもはや自明の理、宇宙人ならば念力くらいは使えて机を吹っ飛ばせたりするんじゃないかなと思ったのだが、見当違いも甚だしいか。そもそも机が吹っ飛んだ際、白子ちゃんは教室にいなかったのだし、そものそもとして白子ちゃんが永久ちゃんの机を吹っ飛ばすはずがない。

 たまたま見えなかっただけで、永久ちゃんがうっかり突き飛ばしちゃったのかな。

 ん、気にしないでおこう。両腕が入れ替わるというミラクルマジックが起こったせいで、妙なことをしれっとやり過ごせなくなっているだけだ。

「あ、じゃあさ、白子ちゃんだったら何を願う?」

「空想現実化か」

「そうそう。白子ちゃんにも伝わってて、それがこれを引き起こしているかもってのが有力な説なんだよね?」

「ま、らしいな」

「それなら白子ちゃんが何を願うかっていうのは、手掛かりになるかもしれないよね」

 白子ちゃんは上目遣いの視線で僕を睨みつけ、かぱりと口を開く。ミルクチョコレートの色に染まった舌が手招きするように動いている。

「おい、チョコ」

「え、あ、はいはい」

 両手を口元に持っていくと、白子ちゃんはチョコレートに噛り付き、ぺっきりと軽妙な音を鳴らす。

 うん、完全に答える気がないね。分かりやすいほどスルーされてしまった。

 いやはや白子ちゃんも僕と同じ最終目的、両腕を元に戻すって同じ方向を目指して歩んでいるはずなのに、このこととなるとはぐらかされてしまう。かれこれ二ヶ月、さり気ないタイミングを見計らってするりと喉元過ぎる冷茶のごとく聞いているのに、厚かましいほどしれっと流されてしまう。

 はっきりと聞くなと言われない以上、嫌がられてるってわけでもなさそうだけど、答えるつもりはないってことなのかな。

 人の心とはさぞや難しい問題だ。

 と悩む僕の口元にぎゅうぎゅうパンが押し付けられている。ああ、二ヶ月もばれずに協力生活ができているはずなのに、時折り挿入されるお茶目っぽさは悪戯なのだろうか。

「おい、トイチン」

 大口を開いてパンを全て口内に押し込み、むぐむぐしながら首をひねる。白子ちゃんの瞳は僅かばかり僕から逸れ、後方を映している。

「トイチンの隣の席の女がこっちを見てるぞ」

 永久ちゃん?

「もしかして怪しまれてんじゃねーか?」

 もぐもぐしている口に空っぽの袋をぐいぐい押し付けている姿はさぞかし怪しさ満点かもしれないが、永久ちゃんの位置からだと僕の姿は背中しか見えないはずだ。

 ごっくんと飲み下して肩を竦める。

「昼休み、永久ちゃんとお喋りの予定があるんだよ。それで見てるんだと思う」

 白子ちゃんはチョコレートを飲み下し、ふむと一つ頷く。

「お喋りってのは予定を組むものなのか」

「……………………」

 あ、突っ込み待ちかな?

「あはは、そんなわけないよ」

「ああ? 騙したのか? ふざけてんのか?」

 えー、違った、全然突っ込み待ちじゃなかった、ものすごい怒った顔してる。

「いえ、すみません。騙したわけでもなくふざけたわけでもなく、ちょっと相談があるとのことなので昼休みにあらかじめ予定を組んでただけで、お喋りと予定は別問題です」

 ぐいぐいと押し付けられる袋の責め苦を甘んじて享受する。

「ああ、そうか。そういうことか」

 納得したのか、白子ちゃんはようやく手を下ろしてくれた。

 最後のチョコレートを口に含み、もぐもぐしている姿をぼんやりと眺める。

 あれ。突っ込み待ちじゃなかったってことは、本気で聞いてきたってことかな? 白子ちゃんは未だに僕以外の誰とも言葉を交わさない。相変わらず誰に声を掛けられようが無視を徹底している。

 高校入学からじゃなく、今までずっと無視を続けてきたから、人とのお喋りの仕方さえも知らない?

 ううん、そんなことってあるのだろうか。

「食べ終わったし、ちらちらと見られてすげーうっとうしい。さっさと予定とやらを片付けてこい」

「あ、うん。了解」

 後で聞いてみようかな。幸い、お喋りをする時間は山のようにある。

 机の上のゴミを一まとめにすると、タイミングを合わせて白子ちゃんが立ち上がり、教室の後ろに置かれているゴミ箱へと向かう。僕はそちらを向いて座っているので、目で追えば白子ちゃんがゴミ箱前に到着したのを確認できる。

 狙いを外さないようにゴミを捨て、白子ちゃんが戻ってきたら入れ替わりで立ち上がる。

 完璧、完璧すぎる。

 言葉を交わさずとも、目で合図しなくとも、双方向の協力によって自然な立ち居振る舞いを装えている。

「じゃ、行ってくるね。あ、場所は一号棟の裏だから」

「ああ、両手におかしな感触があれば駆けつける」

 振り返って歩み寄れば、永久ちゃんは既にお昼を食べ終えていたようで、にこりと笑顔で迎えてくれた。

「じゃあ、行こっか」

「ん。ごめんねえ、邪魔しちゃって」

 いえいえ、こうして目が届かない範囲で行動するのも慣れるための練習なのです。

 とは言えず、僕と永久ちゃんは教室を抜け、一号棟の裏へと向かった。


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