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僕らの教室は一号棟と呼ばれる校舎の四階で、四階は一年生、三階は二年生、二階は一年生、一階は職員室等ってな感じに区分けされている。一号棟を出るとなだらかな坂になっているスロープがあって、そこを上がれば体育館や購買、食堂があり、更には二号棟と呼ばれる特別教室の詰め込まれた校舎がある。
昼休みには、それらどこにでも人がいるというのは認識済みだ。
まさか人の目があるところでぼっこぼこにされることはないだろう、大丈夫大丈夫、と言い聞かせて引っ張られながら歩いて辿り着いた先は一号棟の裏側だった。一号棟を出てスロープを上らずに人一人が通れるくらいの隙間を抜けた一号棟の裏側、一度たりとも訪れたことのない場所は見事に人の気配がなかった。
ああ、全然大丈夫じゃなかった、これはだいぶまずい。
部活動に励んでいないので知る由もないが、どうやら一号棟の裏側は何からの部室なのか、はたまた着替え用なのか、プレハブみたいなものが建っている。扉が四つ並んでいるプレハブがあるだけ、他は雑草が生い茂る地面が猫の額ほどあるばかりだ。
生徒の声など聞こえてこない寒々しい場所へと連れ込まれてしまった。
ここでぼっこぼこに……いやいや、まさかそんな……ありえなくもない。
ようやく胸倉を離されて自由になれば、出てくるのは謝罪しかない。
「いや、あの、ごめんね。わざとじゃなくて、その、急に背中を押されて、うわって体勢を崩しちゃって、このままだと姫百合さんに覆いかぶさっちゃうぞって思って、それは避けようって手を出したんだよ、結果的には手をぎゅむって潰しちゃったけど、全然悪気があったわけじゃなくて、むしろ状況を悪化させないよう最善を試みたつもりなんだけど、そこはかとなく失敗したっていうか、そんな感じで……」
おたおたと両手を振り乱しての弁解、まじ弁解、勘弁してください。
っていうつもりだったんだけど、何かがおかしい。
僕は両腕を振り乱して謝罪の念を伝えようとしている。真ん前で向き合っている姫百合さんは苦虫を噛み潰したかのような厳しい表情で男らしい仁王立ちをしている。
おかしいのは、振り乱している僕の手だ。
僕の右腕はだらりと垂れていて、ちっとも振り乱されていない。振り乱されているのは僕の左手と、姫百合さんの右手だ。
ええっと? 僕の右手はだらりとしていて、姫百合さんの右手があたふたしている。
ん?
「ったく、ぴーちくぱーちくうるせー奴だな。一回黙れ」
「あ、はい。ん、黙ります」
口を閉ざして両腕を下ろせば、僕の左手が下りて、白子ちゃんの左手が下りる。
んーっと……あれ、何かおかしい? さっきから妙な感じがぷんぷんする。それを言葉として口に出したいが、黙れと言われているので口を開けない。
無難に現状をやり過ごすってのが第一目標だ。
今までさっぱり知らなかったが、二言三言交わした感じ、姫百合さんはおっかない。口調は乱暴だし胸倉は掴まれるし引っ張られるし、下手に逆らわず従う素振りを見せつつ穏便にやり過ごすっていうのが正解な気がする。
「で、だ。トイチン」
あ、ちゃんとトイチンって呼ぶんだね。
「あたしとトイチンの間で一つの不可解な現象が発生した」
不可解な現象? 何となく気付いてはいる。まるで動こうとしない僕の右手と、僕の右手のようにあたふたと動き回っていた姫百合さんの右手だ。
「まずは不可解な現象ってのは何かってのを思い知らせてやる」
ん、大まかには気付いてるけどね。黙れって言われてるから言わないけどね。
ぐっと口を閉ざす僕の右手が不意に動き出す。いや、違う。僕は右手を動かそうとはしていない、僕の右手が勝手に動いている。
僕と姫百合さんの視線を、僕の右手が塞いだ。
真っ白な手は甲をこちらに、手のひらを姫百合さんに向けている。小さな手は指までも細やかで、開かれている五指には産毛さえ生えていない。短く切り揃えられている爪先は滑らかな曲線を描いており、日の光を浴びてほんの微か、透明に輝いている。
僕の右腕のはずなのに、僕の右手のはずなのに、僕の右腕でも僕の右手でもない。
目の前にあるのは、姫百合さんの右手だ。
「分かったか? あたしの右腕とトイチンの右腕が入れ替わったんだ」
「……………………」
ええっと、もう喋ってもいいのかな? あ、まだだな、目の前の右手が僕の意思になど関与せず動き、僕の頬をつまむ。つままれた僕の頬は引っ張られ、ちょっと伸びる。
「信じられねーとは思うが、これでどうだ? 今、トイチンは右手を動かそうって気にはなってねーはずだ。それなのにトイチンの右手は勝手に動き、いや、あたしの意思に沿って動き、トイチンのほっぺを引っ張っている」
喋ることが許可されないのなら首肯しかあるまい。
こくこくと頷けば、姫百合さんはにやりと、もう邪悪さをふんだんにちりばめて口だけを笑みの形に持っていく。
あー、これは怖い、大幅に怖い、無難にやり過ごしたい。
「よーし、じゃあ次だ」
あ、まだ続きがあるんだね、そしてまだ喋っちゃ駄目っぽいね。
「どうしてこうなったかは知らねーから置いておくとして、あたしは宇宙人だ」
「……………………」
えっと……あ、突っ込み待ちかな?
「あはは、いやいや姫百合さん、宇宙人ってそんな」
「黙れ」
「あ、はい、すみません」
あー失敗だった、大失敗だった、まだ喋っちゃいけなかったみたいだ、ちっとも突っ込み待ちじゃなかったみたいだ。
姫百合さんは口元に笑みを携えたまま、厳しい目を向けている。
「とはいえ、だ。あたしが宇宙人なのは揺るぎない事実ではあるんだが、あたしは地球で生まれたし、地球で育った。宇宙のどこにあたしと同じ生命体の暮らす場所があるかは知らねーし、知りたいとも思わねー」
地球で生まれて地球で育ったんなら人間だよねって言いたいけど言ったら絶対怒られそうなのでとてもじゃないが口に出せない。
「こうなった原因……あたしの右腕とトイチンの右腕が入れ替わったのは、あたしが宇宙人だからだろう。そうじゃなけりゃ、こんな馬鹿げた現象が起こるはずもねー。だが、確証を得るには確認が必要になってくる。一つ確認するが、トイチンは誰かと右手を触れ合わせると右腕を入れ替わらせる特技を持ってるのか?」
じっと見据えられ、もちろん首を横に振る。
いやはや右腕を入れ替わらせるって特技なのかなっていう疑問はさておき、そのような特技を持っているはずがない。今まで誰かと右手を触れ合わせた経験など思い出せはしないが、山ほど触れ合っているはずだ。
「そうか、そうなると……これは、あたしが原因なんだな」
僕の右手……いや、僕の右手の位置にある姫百合さんの右手がひねられ、引っ張られていたほっぺたがぎゅむりとつねられる。
痛い、割かし痛い、半開きになった口から痛みが飛び出しそうなくらい痛い。
「これはさっき、右手を潰されたお返しだな。ま、触れ合った瞬間に入れ替わったらしく、あたしはちっとも痛くなかったがな」
そういえば姫百合さんの右手を潰した時に痛みを感じたような気がする。てっきり体を支えようと咄嗟に伸ばした右手が衝撃を受けた痛みだと思ってたけど、触れ合った瞬間にお互いの右手は入れ替わり、姫百合さんの手で僕の手が押し潰されていたのか?
姫百合さんは一つ舌を打ち、ほっぺたから手を放す。
「いつまで黙ってんだ? 何か言うことはねーのか?」
あー、逆切れってやつかな? いや、喋る許可を与えられたんだ、ならば喋ろう。
「あっと、ん、僕の右手と姫百合さんの右手が入れ替わっちゃったっていうのは、まあ……納得っていうか、もう信じざるを得ない状況だし、理解したよ」
僕が右手をぐーぱーすれば、姫百合さんのだらりと垂れた右手がぐーぱーする。僕が右手を上げてみれば、見た目的には姫百合さんの右手が上がる。
お互いの右手が入れ替わっちゃってるのは目視にて確認できる。
「で、原因っていうか……その、姫百合さんが宇宙人? っていうのが、僕にはいささか理解できないんだけど……」
「ああ?」
「いや、あの、どっからどう見ても姫百合さんは人間? 普通の女の子っぽいし、宇宙人っていう証拠みたいなのってあるの?」
問い掛けつつ、僕の頭には無難にやり過ごす算段が組み立てられ始めている。
いついかなる時だろうと無難に乗り切る、それは僕の信条だ。波風は立てない、立てたとしてもやり過ごす、しれっと逃げて遠ざかるってのは非常に大切なことだ。
では、現状をどのようにしてやり過ごそう。
僕の右手と姫百合さんの右手が入れ替わった。これをやり過ごす算段は……あ、ないな。普通にないな。どう考えたって逃げられないぞ? 例え今、この場をしれっとやり過ごして逃げたとしても、僕の右手ってどうなっちゃうの? 姫百合さんの右手ってどうなっちゃうの? っていう問題がどこまでもつきまとってくる。
どのようにして、こうなったのか?
原因の追究は必要ない、それは大した問題じゃないが、やり過ごすのに絶対に必要なことがたった一つある。
お互いの右手を元に戻さないといけない。元に戻ってしまえば、不可解な現象さえ改善されてしまえば、後はしれっと逃げてやり過ごせる。
やり過ごすために、右手を元の状態にしないと。
コンマ一秒くらいで展開された算段、まあ正確には二分くらい、じーっと姫百合さんが立ち尽くしているのでひたすら考えて得られたのは、そんな結論だった。
「……ふうむ、あたしが宇宙人であることを証明しろ、か」
何やら呟いた姫百合さんの右手、つまりは僕の体にくっついている右手が浮き上がり、僕の後頭部を乱雑にかき乱す。
「あの、姫百合さん」
「あん? 何だ?」
「いや、右手、僕の頭を掻いてるんだけど……」
ぴたりと右手の動きが止まり、姫百合さんは自身の右手と僕の右手を見比べ、くっ、と小さく笑った。
「わりーわりー、考え事をする時の癖なんだよ。そっかそっか、あたしの右手はトイチンの体にくっついてるんだから、いつもみたく頭を掻こうとすりゃ、そりゃトイチンの頭を掻くことになっちまうな」
ほんの微か、邪悪さが薄れて楽しげに笑った姫百合さんは右手を下ろす。
「しかしだな、あたしが宇宙人ってのは証明できねーぞ。あたしも母親に聞かされてるからそうなんだろうってだけで、自分が宇宙人……トイチンとどこが違うのかなんて、ちっともさっぱり浮かばねーよ」
「あ、じゃあ、人間なんじゃないかな?」
「は? あたしの母親が嘘を言ってるってのか?」
「ごめんなさい、言ってません」
いやいや、いきなり喧嘩腰になるのやめてください。ほんとにおっかない。
「えっと、じゃあ……あ、じゃあ、宇宙人かどうかはさておき、とりあえず僕らの右手を元の状態にする方法を考えてみようよ」
「……あー、それはそうだな、考える余地があるな」
僕の右手が勝手に動き、僕の後頭部をがっしがしと掻き毟る。ああ、姫百合さんの爪が滑らかでほんとに良かった。
「えと、お互いの右手が触れたのが入れ替わりの原因? なんだとしたら……僕は今まで誰かと右手を触れ合わせる機会はあったと思うんだけど、姫百合さんはどう?」
「あたしは生まれてこの方、誰とも触れ合った経験はねーな」
あ、じゃあもう、根本原因は姫百合さんで決まりだね。とか言ったら怒られるかな。
「えーっと、それじゃあ……あ、もっかい、お互いの右手を触れ合わせてみる?」
「もっかい?」
頭に浮かぶのは人体入れ替わりをテーマにしたマンガだ。
二人が頭を打ち合わせてお互いの心が入れ替わってしまった、これは大変だわ、というのはマンガで読んだことがある。そうして右往左往、大変だわーっていう展開があれこれ楽しげに続くのだけど、そういった場合の解決方法は往々にして原点に戻ることだ。
もう一度同じことをすれば、状況は意外と改善されたりするかもしれない。
「物は試し、やってみるか」
そう言うと姫百合さんは右手を突き出した。僕の右手が姫百合さんに伸ばされたのを確認し、僕はその手に触れるよう、姫百合さんの体にある僕の右手を伸ばす。
お互いの指先が触れ、手のひらが合わされ、何も起こらない。
精々、姫百合さんの手って冷たいなあ、とか、僕から伸びる姫百合さんの右手に姫百合さんから伸びる僕の右手を触れ合わせるって頭が混乱しちゃいそうだよ、っていうこんがらがったものが生まれるくらいだ。
「なーんも起こらねーな」
「ですね」
「なーんも起こらねーな」
「……………………」
おやおや、もしかして責められているのかな?
「まあ、ほら、物は試しだしね。ちょっと思いついたことをやってみようっていう実験みたいなものなんだし、何も起こらないっていうのが分かったのは進展だよね」
あ、返事がないね。
姫百合さんは今にも舌打ちしそうな気配を漂わせ、不機嫌そうにしている。
えーっと、考えろ考えろ、この場はともかくとして今この瞬間を無難にやり過ごす方法……それは新たな提案だ。
「じゃあ、左手を合わせてみよっか。ほら、お互いに左手は自由に動かせるわけだし、触れ合わせることで何か変化が生じるかもしれないよ」
試しに左手をぶんぶか振ってみれば、それはもちろん僕の左手として、僕の体から伸びる左手として自由に動き回らせることができる。
「左手、か」
姫百合さんは自身の左手を眼前に持って行き、じーっと見つめる。
「右手が触れ合って右手が入れ替わったんだろ? これで左手を合わせて左手まで入れ替わっちまったら、とんだお笑い種だぞ」
「…………あー」
一理ある。
いや、お笑い種には程遠いが、右手と同じようなことが起きてしまっては大問題だ。何しろ現状でさえ、僕から伸びる右手は白子ちゃんの意思に従って動き、僕の後頭部をがっしがしと掻いているのだ。
左手まで入れ替わってしまうと日常生活さえ危うくなる。
「ま、とはいえ試せることは全部やっとくか? 何でこうなったかってのは興味の欠片もねーが、元に戻ってもらわねーと困るしな。あたしは右利きだしな」
「あ、僕も右利きだよ」
「は? 聞いてねーよ」
「うん、そうだね」
混乱する現状をどうにかしようっていうやり過ごし精神からのお茶目な相槌は失敗に終わった。っていうか姫百合さん、見た目と相反してものすごく怖いっていうか、反骨精神の塊みたいな感じなんですけど、力を合わせて解決していこうぜっていう少年マンガ的な展開は嫌いなんだろうか。
「よし、とりあえず左手を試すか」
「え、あー……えーっと……」
右手を触れ合わせたところ右手が入れ替わった。
では左手を触れ合わせたら左手も入れ替わってしまうのではないか? 僕が提案したこととはいえ、姫百合さんの意見によってそのような可能性が生じた以上、しかも一理あるって思っちゃった以上、安易に試すべきではない気がする。
もう少し慎重に現状を理解し、打開案を提案した方が良いように思える。
「おい、何だよ、トイチンが言い出したことだろ。さっさと試せよ」
ううん。まあ、試す、か。
そもそも触れ合っただけで右手が入れ替わったというのも甚だ疑問なんだし、左手を触れ合わせることで状況が進展するのは確かだ。
何も起こらなかったにしろ何か起こったにしろ、状況は進展する。物は試し、むっちゃ睨んでくる姫百合さんが滅相怖いし、やってみよう。
「じゃあ、試しに」
僕は自由に動く左手を持ち上げ、姫百合さんの突き出している左手に触れる。平手を包むように左手で覆えば、次の瞬間、変化は起こった。
「……………………」
右手同様、左手も入れ替わった。
僕の体から伸びる姫百合さんの左手が、姫百合さんの体から伸びる僕の左手に覆われている。
えっと……うんっと……試しに万歳をしてみる。すると姫百合さんが万歳の格好になる。これはつまり、姫百合さんの両腕の位置にあるのは僕の両腕ってことに他ならない。
僕の両腕が姫百合さんの体に移動し、姫百合さんの両腕が僕の体に移動した。
あー、これは考えるに最悪の展開となりましたね。
「おい」
「あ、はい」
「トイチンが言ったんだよな、左手を合わせてみようって」
「まあ、提案をしたのは僕……ですかね。いや、あんまり乗り気じゃなかったっていうか、とりあえず提案して場をやり過ごそうかなって思ったくらいで、実際姫百合さんの意見で提案は取り下げるべき、試すべきじゃないのかなって思ってはいたんですけど……」
「トイチンが言ったんだよな、左手を合わせてみようって」
「はい。ごめんなさい」
僕の右手が勝手に動き、僕の胸倉を掴む。傍から見れば自分で自分の胸倉を掴むという摩訶不思議なことをしている僕には謝罪の意しかない。
「ご、ごめん、いやでも、ほら、進展はあるんじゃないかな? えっと、右手を触れ合わせたら右手が入れ替わって、入れ替わった右手同士を触れ合わせても何も起こらなくて、左手を触れ合わせたら左手が入れ替わったっていうのは分かったよね」
「で? 両腕が自由に動かせなくなった今、あたしはどうやって授業を受け、どうやって体育に臨み、どうやってトイレに行き、どうやって風呂に入り、どうやって歯を磨き、どうやってご飯を食べ、どうやって日常生活を過ごすんだ?」
あー……どうやってでしょうね? と、にっこり笑顔で言ったらぶっ飛ばされるのは目に見えているので絶対に言うことはできない。
待て待て、冷静に考えるんだ、この場をやり過ごす方法を考えろ。
お互いの両腕が入れ替わってしまった。僕の両腕はもはや姫百合さんの体から伸びる両腕となり、逆もまた然りだ。
今しがた姫百合さんの申し立てた日常生活を送るのは非常に困難となった。
では、どのようにしてやり過ごす?
どうにか日常生活を送るためには、その方法とは――
「ぼ、僕が姫百合さんの両腕になるよ」
「もうなってるだろ」
「物理的な問題じゃなく、えと、これから先、問題が解決するまではずっと、僕が姫百合さんの側にいるよ」
そう、やり過ごす方法はそれしかない。
「ああ? どういうことだ?」
「えと、お互いの両腕は入れ替わっちゃったけど、目の届く範囲、こうして近くに寄ってれば、僕の手で僕に、姫百合さんの手で姫百合さんに触れることはできるでしょ? 側にいれば、大体の問題は解決できると思うんだ。もちろん両腕が入れ替わってるってばれちゃったら大変なことになるから、誰にもばれずに密やかに協力し合う必要があるけど、頑張れば大丈夫だよ」
ええっと、姫百合さんは何を挙げたっけ?
「例えば……授業は適当に両手を動かしてればやり過ごせるよね。ノートは取れないし、教科書も満足にめくれないかもしれないけど、空いた時間で一緒に勉強しようよ。側にいればお互いに両手を目で追いながら動かせるし、自習の時間を増やせば、授業はやり過ごせる。体育は休みがちになるしか……あ、でも、お互いの姿がちゃんと目で追えれば、どうやって両腕を動かせばいいのかは分かるし、協力し合うことでやり過ごせるよ。トイレは……まあ、うん……お風呂は……えと、まあ……歯を磨くのは……そこは、その……ご飯は……あ、昼ご飯なら一緒に……日常生活は……そんな感じで…………」
あ、これは無理だね、両腕が入れ替わっちゃったら生活できないや。
咄嗟の思いつきを並び立てていくうちに、この世界には絶対に無理なことがあるんだなっていう認識だけが積み重ねられていく。両腕が入れ替わっちゃったらどうしたってまともな生活は送れないよなっていう納得ばかりが積み重なっていく。
それなのに、姫百合さんは僕の胸倉を放し、唇の両端を上げた。邪悪な? 少なくとも僕はそう感じる笑みを浮かべ、一つ頷いてみせる。
「お互いに不自由な両腕を抱えて、しかもばれねーように日常生活を送ろうってことか」
俄然無理難題を面白がるように、姫百合さん改め白子ちゃんは笑った。
「おもしれー、やってみようぜ」
昼休みの終了を告げるチャイムが鳴れば教室に戻らざるを得ない。
僕と白子ちゃんは並んで教室に戻り、教室に入るなり白子ちゃんは不機嫌そうな表情をそのままに自分の席に座った。
あ、ここはあれだ、あれが必要だ。
僕は右腕を動かし、机に肘を立てる。
白子ちゃんは口元に笑みを浮かべ、僕の右手を使って頬杖をついた。拳に白子ちゃんのひんやりとしたほっぺが触れて心地いい。
「おー、トイチン、大丈夫だったか? 殴られたのか?」
よしよしと経過を観察しながら僕も自席に座り、笑いながら首を横に振る。両腕はジェスチャーをしてくれない代わりに、広げられている弁当箱を片付けてくれている。
ん、ほぼ開封されている状態で風呂敷を被せ、机の中に押し込んじゃったね。
「ええっと、いや、大丈夫だったよ。話せば分かってもらえたから」
「そっか、良かったあ。ほっとしたあ」
胸を撫で下ろしている永久ちゃんがちょっとばかり憎らしく思えてしまうのは僕の心がささくれ立っているからかもしれない。
永久ちゃんが背中を押さなければ、こんなことにはならなかったのに。というのはもう完全な逆恨み、抱く僕が愚かしいってのは自明の理だ。こんなことになるなんて誰が想像できるだろう、そもそも白子ちゃんの席に出向いたのは僕の意思なんだし、体勢を崩したのも僕が悪い。
「しっかし、姫百合はこえーなー。いきなり胸倉掴んで引っ張っていくなんて、まじ初めて目の当たりにしたよ」
「僕が悪いんだしね、仕方がないよ」
「うう、トイチン、ごめんねえ。後で姫百合さんに謝っとくから」
「あー、うん、気にしないで」
騒々しさは時間とともに静まり、先生が姿を見せたことで完全なる静けさが訪れる。
昼休み明けの五時限目は国語の時間、玉響先生の授業だ。
真っ黒のスーツにスカート、ただし足元はスニーカー。眼鏡を掛け、恐らく三十路ぴったしくらいと思われる玉響先生はいつだって冷静で、観察眼に優れている。教壇に立った玉響先生はお決まりの起立と礼の後、ぐるりと教室を見回し、白子ちゃんに目を留める。
「姫百合さん、教科書はどうしました?」
ここは協力プレイだ。
黙っている白子ちゃんの両腕を動かし、机の中に手を入れる。遠隔操作とはいえ、手の感触で教科書類の判別はつく。試しに抜き取ると、白子ちゃんは僅かに首を横に振る。これじゃない、では次と別の教科書と思しき手触りのものを抜けば、白子ちゃんが頷く。
それを引っ掴んで机に置き、適当にページを開けば、玉響先生は一つ頷いて視線をさ迷わせた。
視線はぴたりと僕に固定される。
「今市形君、教科書はどうしました?」
ここは協力プレイだ。
僕の右手が勝手に動き、がさごそと机の中を漁り、英語の教科書を取り出す。違う違う、それは違うよ言語からして違うよって首を振るが、右手は頓着することもなく英語の教科書を机に広げる。
「今市形君、国語の授業ですよ? すりつぶすぞ」
玉響先生は口調こそ穏やかなものの、心中を発することにいささかの躊躇もない。
すりつぶされちゃったら困る、困るけど僕の右手は満足気に英語の教科書を開き、適当なページを開いている。
ああ、白子ちゃんってば協力プレイをするつもりが一切合切ないね? こうなれば仕方がない、やり過ごすしかない。
「ええっと……あ、すみません、忘れました」
てへ、ってな具合に右手が拳を作り、僕のこめかみに添えられる。あー、その協力プレイはいらないなあ、有難迷惑千万だなーとは思いつつ、口には出せない。
玉響先生が呆れたように一つ息を吐く。
「可愛く言うんじゃありません。三間坂さん、見せてあげてください」
「あ、はあい」
隣の席の永久ちゃんが僕の机に引っ付いてきて、何とかやり過ごせた。
やり過ごせた……のか?
あれ、一抹の不安ってこんなに大きなものだっけ、という感慨を抱きつつ、僕と白子ちゃんの協力生活が始まった。




