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 小学校の頃の記憶は曖昧ながら中学校では確かにあった。

 初日の自己紹介ってやつだ。

 さーて自己紹介によって今後の学生ライフが決まるかもしれないっていう一大イベントだけど、無難が大好きな僕はしれっと済ませたのを覚えている。

 名前に趣味なんかを添えて、しれっと。

 高校生になったからといって何が変わるわけでもないので、高校生になって初めての授業、時間割では国語に割り当てられている時間を用いて行われた生徒全員の自己紹介を、僕はまたもしれっと済ませることにした。

今市形十一いましがたといちです、これといって趣味はありません。よろしくお願いしまーす」

 中学時代の趣味は読書だったのだけどマンガは読書のうちに入らないのを後々の会話で思い知った経験もあり、無趣味で通した。

 いやいや、無趣味って。

 なんて感想を好意的に持ってもらえたらいいなっていう期待はまあ、教室の和やかな空気から成功したということにして、問題はその後だ。

 次々と行われる自己紹介、ざっと見積もって三十人分。

 その中で異彩を放ったのは以下の二人だ。

三間坂永久みまさかとわです、動物好きです。今まで動物って飼ったことないんですけど動物に寄せる愛情は誰にも負けません。動物を飼っていられる方がいましたら、すぐにでも家に遊びに行きますので声を掛けてください。よろしくお願いしまーす」

 三間坂さん改め永久ちゃんの言葉に男子はでれでれ、女子はかわいーと声を上げた。

 そうして、もう一人。

 席の右端、前から順に行われているので次が誰の番かってのは見ただけで分かる。前の席の男子が自己紹介を終えて座ると、入れ替わりに小柄な女子が立ち上がる。

「……………………」

 ぺこりと十五度ほど、首だけを使って会釈をするなり女子は座った。

「……………………」

 えっ、無言? 自己紹介の場だってのは誰しも分かっていて誰も彼も何を言うか反駁しているであろうに無言の会釈で自己紹介終了ですか?

 呆然とする生徒をよそに、座った女子は不機嫌そうに肘をついた。

 終わり、らしい。

 いやいや、終わっちゃ駄目でしょ。むしろ始まってないよ。

 真っ黒の髪を時代錯誤というのは失礼なのかおかっぱにしている女子は、やり切ったという満足さなど微塵もなく、ぶすっとしかめっ面、つまらなそうでいて不機嫌そうな表情を隠しもしない。やや垂れ下がった目尻にぺしゃんとしている鼻、幼い顔は身長と比例しているのか背丈もちっこい。一目見た限りでは小学生、ぎりぎり中学生ってとこかなっていう女子は肘をついてため息を吐いている。

 これでは後ろの席の男子が立ち上がれないのも分かる。

 えーっと? これってオッケーなんでしょうか? っていう視線が彼女から外され、パイプ椅子に座る担任教師へと注がれる。

 玉響先生は人差し指で鼻を掻き、眼鏡の奥にある鋭い目を細めて女子を睨みつける。

姫百合白子ひめゆりしろこさん、自己紹介をしてください。折り畳むぞ」

 え、折り畳んじゃうの? はっきりとした声立ちが何やら恐ろしさを感じさせる。

 女子は肘つきをやめると再び立ち上がり、先ほどより少しばかり深めに頭を下げて呆気なく座ってしまう。

 もちろん座れば肘をつく。

 おーっと、いきなり学級崩壊を匂わせているのかな? 皆して仲良くやっていきましょうねって出発点である自己紹介を不遜に終えて反発かな?

 教室に広がっていく不安めいたざわざわは玉響先生の両手を合わせる音で拡散する。

「喋るのが苦手なのかもしれませんね。無理強いはしません、彼女は姫百合白子さんです。では次の人、続けてください」

 果たして玉響先生が大人だから流したのか、担当する先生によっては初っ端から戦々恐々とした展開を迎えるところだったのかは図りかねるが、次を指示されたことによって続きの自己紹介はつつがなく終わった。

 最後に玉響先生が立ち上がり、黒板に名前を記す。

「これで皆さんの自己紹介は終わりですね。先ほど名前だけは伝えましたが、改めて。私は玉響嘉瀬たまゆらかせ、国語を担当する先生になります。これから一年間、よろしくお願いします」

 玉響先生が深々と頭を下げることにより、自己紹介は終わった。


 自己紹介をした日から数日は手探り状態のコミュニケーションが続いた。

 初対面が得意ってほど得意でもない僕のコミュニケーションは隣近所から。とはいえ廊下に面した窓際の一番前が僕の席なので右隣には窓があるばかり、後ろは幸いにして男子だったので、為我井君とはすぐにフレンドリーな関係を築くことができた。気軽に尚且つ気楽に話せる人ってのは学校生活で大切な存在、なのでとても嬉しい。

 隣近所ということで、左隣の永久ちゃんとも話をすることができた。

 女子にしては長身、っていうか恐らく教室で一番背が高い永久ちゃんは、すらりと鉛筆みたいな体型をしている。何というのか、細長い。真っ黒の髪もこれまた細長く、背中まで届いている。唯一丸っこいのは目で、そこが親しみやすさに繋がっているのかは知らぬ存ぜぬながら、気楽に話をすることができる。

 昼休みの今もまた、お気楽なお喋りに興じる。

「動物占いしてあげよっかあ?」

 後ろを向いて為我井君とお昼を食べていたら、ドーナツを片手に永久ちゃんが声を掛けてきた。

「と、と、永久さんの占いっすか。是非ともお願いしまっす」

 おおう、為我井君は相変わらず露骨だ。喜び勇み、焼きそばパンを握り潰している。果たして好きっていうか好意っていうのか、そういったものを抱いているのかは聞いていないが、為我井君は永久ちゃんに対してのみ、どことなく前のめりになる。

 僕は特段にそういったあれやこれやを抱えていないので普段通り。女子とのお喋りはちょーっとばかり慣れない上に気恥ずかしいな、っていう感じで声を返す。

「動物占いって、どうやってやるの?」

「んっんー、独学だから一般認識のものとは違うかな? 私の動物占いはねえ、見た目。第一印象でそれっぽい動物を導き出して、その動物っぽい性格でしょって決め付けるの」

 ん、占いって要素は一個もないね。そもそも動物も関係ないっていうか、ほぼ一方的に永久ちゃんの決め付けで行われるんだね。

「す、すっげー、まじっすか。そ、それって永久さんには人が動物に見え、しかも動物と関連するであろう性格まで読み取れるってことじゃないっすか」

 随分肯定的な見方だけど信頼性をそこはかとなくしか感じられないのは僕だけかな。

「ああ、それじゃあ……占ってもらおうかな」

「も、も、もち、俺もっすよ。お、お願いしまっす」

 永久ちゃんはドーナツを一齧り、にんまりと楽しげに笑う。

「おっけー、まずは分かりやすい為我井君ね。為我井君はねえ、鷹だよ」

「え、えー、い、イーグスっすか、めっちゃかっこいいじゃないっすか」

「そだねー、ものすっごいかっこいい感じ。ほら、目の辺りとか、鷹っぽいよね。あと、前のめりになって両手を突き出してる感じとか、もうほとんど鷹だもん」

「や、やべー、生まれて初めてっすよ、そんなこと言われたの。え、せ、性格はどうなんすか、鷹ってどういう奴なんすか」

「鷹はねー、すっごい一直線な奴だねえ。狙った獲物からは目を離さず、誰かに奪われるより早く獲物をかっさらおうとするの。強くて早いからちょーっとばかりずるい感じなんだけど、絶対に諦めないっていう心根があったりするから、皆に尊敬されてるの」

「ま、まじやべー、た、鷹ってそんな奴だったんすか。そ、それが俺って、もう俺、光栄の極みっすよ」

「えっへへー、そうでしょー。私の動物占いは当たるからねえ」

 ドーナツを齧って得意げな永久ちゃんと焼きそばパンを握り潰して焼きそばとパンに分離させた為我井君の会話は、突っ込みどころが多い。

 え、何で永久ちゃんはえっへんみたいな空気を出してるの? 鷹ってそういう動物なんだよっていうのも一方的な決め付けだよね? そして何で為我井君はテンションマックスみたいに浮かれてるの? 信じる要素って欠片もないよね?

 突っ込みたいが突っ込まない。

 何時だって、へーそうなんだー、って笑って流せる、そんな人に僕はなりたい。

 だって僕、無難が大好きなんだもの。面白さを求める突っ込みならともかく、いちいち妙なところに突っ込みを入れていたら、せっかく築けた今の関係が瓦解してしまいそう。

 だから無難に応じる。

「あ、じゃあ、僕は?」

「十一君? 十一君はねえ、ドラゴンだよ」

 ん、いきなり動物じゃなくなったね。想像上の生物もオッケーなんだね。

「ドラゴンって……えと、どんなのだっけ」

「あれだろ? でっかくて火を吹く恐竜みたいなやつ」

 そろそろ慣れたとはいえ為我井君の変わり身の早さにはびっくりする。相手が永久ちゃんじゃなくなっただけで平然とした態度だ。右手にパン、左手に焼きそばを持ち、あんぐりと開けた口に焼きそばを詰め込んでいる。

「んっふっふー、十一君のドラゴンは外見じゃないんだよねえ」

 外見がドラゴンだよって形容されたら僕、割と本気でショックを受けるからね。良かった、外見じゃなくてほんとに良かった。

「じゃあ、内面ってこと?」

「そうだねえ、どことなくドラゴンっぽい雰囲気を醸してるよね」

「ええっと……そう?」

「んん、外見はほら、普通? 取り分けて背が高いわけでもないし地響きがすごそうなほど太ってもないでしょ? いわゆる平均的って感じ。顔も毒気がないっていうか、ふっつーな感じでしょー?」

 口いっぱいに焼きそばを頬張った為我井君が頻りに頷いているが、さっぱり分からない。

「でもねえ、内面っていうのかなあ、雰囲気? が、すごいドラゴンっぽいよね」

「そう、かな? えと、じゃあ、ドラゴンってどんな奴なの?」

 為我井君は焼きそばを飲み込めないらしく、むぐむぐと口を動かしている。その間隙を突いた永久ちゃんが口角を上げ、にまーって感じで笑う。

「ドラゴンはねえ、すっごいおとなしいんだよ。争いなんて大嫌ーいって感じ、しかも孤高の精神を持ってるから、だーれにも懐こうとしないの。でもね、唯一人、ドラゴンはお姫様だけには忠誠を誓ってるから、たった一人のお姫様にだけ従うって感じかなあ」

 自信たっぷりな決め付けながら、なんとなーく当たってなくもない部分があるような気がしなくもない。争いが大嫌いっていうのはその通りだし、誰にも懐かないっていうのは、一概にハズレって一蹴できないような気もする。

 そうなると……ううん、意外と正鵠を射ている占いなのかな?

 だがしかし、従うべきお姫様とは無縁というより思い当たる節さえもないけど。

「十一がドラゴンかあ」

 ようやく全てを飲み干した為我井君がほーと感心の声を上げる。

「じゃあ、今日から十一のあだ名はトイチンってことだな」

 明らかに適当な語呂合わせだね? いや、まあ、あだ名なんてのは適当なのが妥当だろうから何だっていいんだけど。

「あっはは、トイチンかあ。ちょっと可愛いかも。トイチンって呼んでもいい?」

 まさかの乗り気な永久ちゃんにはどんなあだ名を提案しようか。ともあれ僕のあだ名がトイチンってことはほぼほぼ決定したらしい。

「まあ、好きに呼んでもらえれば。トイチン、トイチンね」

 名前が十一なんだから一文字増えて呼びづらくない? っていうのは、あははと笑っている二人には言わない方が良さそうだ。

 さくさくと行われた動物占い、しかしてまだ対象は尽きていない。

「えっと、それじゃあ、永久ちゃんは何なの?」

 為我井君が鷹で僕がドラゴンなら、永久ちゃんは何になるのだろう。

 永久ちゃんはぺったんこな胸を張って応じる。

「私はねえ、カンガルーだよ」

「か、か、カンガルーっすか、ぴょんぴょん跳ねる奴っすよね」

「そうだよお、二足歩行だよ。お腹の袋を守ってがんがん戦うカンガルー。あ、でもね、強いわけじゃなくて打たれ弱いから、守ってくれる人を募集してるんだあ」

「や、やっべ、それ鷹が打ってつけじゃないっすか、俺、超強いっすよ」

「えー、為我井君って強いんだあ?」

「あ、す、すんません、めっちゃ嘘つきました、鷹は強いけど俺は弱いっすね、喧嘩とか超苦手っす、手も足も出ないっす」

「あっはは、私も喧嘩とか絶対無理、手も足も出ないよー」

 ん、二人とも鷹でもカンガルーでもないってことだね。

 いやはや突然の動物占いは繰り返される昼休みの山なし落ちなし意味なしをこれでもかって体現したかのようだ。

 無為なる会話、気楽な会話、とっても心地いい。

 母親作の弁当を突っつきながらつられて笑い、ふと視線が流れ、左斜め後ろに向けられる。いくつかの机を超えた教室の真ん中より一つ後ろくらいに、白子ちゃんが座っている。

 もはや規定路線みたいに一人でお菓子を食べている白子ちゃん。未だ一言の声すら聞いたことのない白子ちゃんは、ぶすーっとした顔で黙々とチョコレートを齧っている。

 せっかくの動物占い、永久ちゃんは白子ちゃんをどのように占うのだろう?

 誰とも話をせず、たった一人で静かに不機嫌そうに過ごす白子ちゃん。僕から見れば孤独が大好きなのかなーって感じだけど、永久ちゃんならどうだろう。

「あのさ、姫百合さんは? 動物占いだと、何になるの?」

「え? 姫百合さん?」

 一切の言葉を発しないながら名前だけは有名になった白子ちゃんを振り返り、永久ちゃんはうーんと唸り声を発する。

「何だよ、トイチン、姫百合が好きなのか?」

「気にならない? 動物占いだと何なのかなあって」

「そっか?」

 何しろ白子ちゃんは一言も喋らないのだ。

 自己紹介を終えて数日、教室のあちらこちらで交友関係の広がりを目指そうとコミュニケーションが図られているのに、白子ちゃんは分かりやすいほど誰も彼もを完全に無視している。

 これじゃあ、気にならない人の方が少ないだろう。

 こちらに向き直った永久ちゃんは表情にひょうきんさを醸して肩を竦めた。

「駄目だねえ、姫百合さんは分かんないや」

 あらら、一方的に適当に決め付けてるっぽい動物占いでも分からないってあるのか。

「い、いや、仕方ねえっすよ、あんな仏頂地蔵、動物に見えなくても当然ですよ」

「えー、その言い方はひどいよお、姫百合さんってすっごく可愛いのにー」

「た、確かにその通りっす、ひどかったっす、反省しまっす」

 驚くべき自省の速度、ほんとに為我井君は永久ちゃんに関しては前のめりに過ぎる。

「あはは、クラスメイトだもんねえ。仲良くいこー」

「ま、任せてくださいっす、完膚なきまでに仲良くしてみせますっ」

 永久ちゃんの優しげな言葉にそう答えるや、為我井君はおもむろに立ち上がった。

 はて? 今の会話のどこに唐突な立ち上がりを奮起させるものがあったのか、為我井君は鼻息も荒いままに歩き出す。

 向かっている先は背中を見ていれば分かる、白子ちゃんだ。

「ありゃあ? 仲良くなりに行っちゃった?」

 首をひねった永久ちゃんに追うつもりはないらしい。まあ、まだ手にドーナツを持っている状態なので、それは正しい姿なのかもしれない。

 さて、では僕はどうしよう。

 手に箸こそ持っているものの、弁当箱の中身はまだ半分ほど残っているものの、箸さえ置けば立ち上がることは簡単だ。食べながら移動することにもならないし、立ち食いとやらにも抵触しない。

 ならば答えは簡単、為我井君を追うのにいささかの障害もない。

「僕も行ってくるね」

「んー、仲良くねえ」

 半分になったドーナツをひらひら振られて見送られ、為我井君の後ろに立つ。

 為我井君は白子ちゃんの隣に立ち、じーっと白子ちゃんを見下ろしていた。無論なのか当然なのか、白子ちゃんは僕や為我井君になど視線さえ向けない。

「えっと……為我井君?」

 振り返った為我井君は既に真顔に切り替わっている。

「おー、トイチン。いや、つい永久さんにいいところを見せようとしたのはいいんだが、側に立っているというのに完全無反応の姫百合に当惑してたところだ」

 んん、状況説明はいいんだけど白子ちゃんの頭の上ですべきではないよね。

「だったら、席に戻ろうよ。姫百合さんに迷惑だし」

「いやいや、迷惑って、見事な地蔵状態だぞ。丸きり無視されてるぞ」

 ちらりと白子ちゃんを見下ろす。

 為我井君の言葉の通り白子ちゃんは丸きり見事に僕らを無視している。肘をつき、不機嫌そうに板状のチョコレートを噛み砕き、ぱきっ、なんて軽妙な音を鳴らしている。

 距離的に高低差くらいしか見受けられない現状、聞こえていないはずはない。

「まあ、まだ話し掛けてないんだからさ、それを無視って言われても迷惑じゃない?」

「お、そうかそうか、当惑するばかりでうっかりしていた」

 為我井君は白子ちゃんの隣の席に腰を落ち着ける。

「姫百合、お喋りしようぜ」

 分かってはいたけど、白子ちゃんは一切の反応を示さない。

 聞こえていないと錯覚するほどの完全な無視、チョコレートをむぐむぐと噛み砕いている。高低差の所以か、ほんのりと甘い匂いが漂ってきて若干気持ち悪い。だって十数秒前まで梅干を食していたんだもの。

「見ろよ、トイチン。こうして声を掛けても地蔵化は解けないぞ」

「いや、地蔵化って、失礼だよ。食事中なんだし、邪魔しちゃ悪いよ」

 ああ、失敗してしまった。

 動物占いっていう矛先を向けたのは僕だ。迷惑を掛けるのは悪いかなって追ってきたはいいものの、沼地に足を踏み入れてしまった心地だ。

 こうなったら、多少強引にでも為我井君を連れ帰ることで事態の収拾を目指そう。

「なー、姫百合ってば。昼飯はチョコレート? 甘いもん好きなの? 自己紹介で会釈だけって斬新だよな、一発で名前覚えたよ。おーい、聞こえてる?」

 これはまずい、と為我井君の肩に手を置こうとした時、それは聞こえた。

「ちっ」

「……………………」

 あ、今明らかに舌打ちされちゃいましたね。おおう、話し掛けて無反応ってのを通り越した先の舌打ち、なんともはやおっかない。

 足を踏み入れた沼地が底なし沼に変貌したかのよう、そして同時に白子ちゃんの周囲に生徒の姿がない理由に思い至る。明らかに不自然なほどぽっかりと空いている白子ちゃんの周囲はつまり、同様にして話し掛けた生徒も舌打ちを発せられたってことなんだろう。

 無難が大好きな僕とは相容れない存在が白子ちゃんっぽい。

「あーっと、ほら、為我井君。食事中にずかずか質問するのは良くないよ、口の中に何かを入れている時は口を開かない、それはマナーだよ」

 呆然としている為我井君を連れ帰るには、やっぱり永久ちゃんを使うのが良さそうだ。

「ほらほら、永久ちゃんも言ってたよ、仲良くって。相手の嫌がることをしないよう、ここは退散しようよ」

「……むう、そうか」

 とりわけ納得しているようには見受けられないが、為我井君の念頭には分かりやすく永久ちゃんがいる。であれば永久ちゃんを引き合いに出してしまえば白子ちゃんには執着しないんじゃないかなっていう予測は間違っていなかった。

 席に戻ろうと立ち上がった為我井君が僕の方を向き、ぴたりと止まる。

 ん?

 為我井君の視線は僕を通り越した先に向けられている気がしないでもない。

「やっほー、姫百合さんとはどんな感じい?」

 全くの不意打ちは背中から訪れた。

 声で誰なのかは分かる、僕の後ろには永久ちゃんが立っているのだろう。それはいいとして、全然問題はないとして、僕の肩を軽く押したのは如何なものか。

 僕は為我井君と一緒に戻ろうと、為我井君が立ち上がったのに合わせて振り返ろうとしていた。片足を僅かに上げ、半回転しようとしていたのだ。そこを後ろから、軽くではあるといっても肩を押されれば、しかも予想しない不意打ちであったとすれば、僕の体は簡単に傾いてしまう。

 もやしっ子万歳ってこともないが、僕はしっかり頑丈にはできていない。

「おわっと」

 前のめりに倒れれば白子ちゃんに覆いかぶさることになる。それはいけない、衆目の中で女子に覆いかぶさるなんて破廉恥をやらかすわけにはいかない。

 ならば。

 ごめん、白子ちゃん。

 体の傾きを何とか抑えるため、右手を白子ちゃんの机に押し付ける。

 平手を机に押し付けて体の傾きを抑えるという最善の方法、しかして突発的な判断にはそれなりの代償を伴う。白子ちゃんに覆いかぶさるのは回避できたものの、僕の右手は白子ちゃんの右手と、右手に握られているチョコレートを無遠慮に押し潰した。

 衝立にしようとした手に、白子ちゃんの右手とチョコレートを巻き込んでしまった。

 するとどうなるのか。

 チョコレートがばきばきっと砕ける感触が伝わってくる。同時に白子ちゃんの冷たい手が僕の手と机に挟まれ、ぎゅむりってな具合に押し付けられる。

 倒れるのは回避した、けれど代償は大きかった。

「はわー、ごめん」

「おい、トイチン、大丈夫か?」

 永久ちゃんと為我井君の言葉は脇に置き、刹那の早さで謝罪する。

「ご、ごめん、姫百合さん。大丈夫?」

 両足を踏ん張って体を起こす。机には見るも無残なチョコレートが散らばっている。暗色の欠片は机に散らばり、白子ちゃんの右手にも……ん? 右手にも?

 あれ?

 白子ちゃんの右手、こんなだっけ? というのが率直な感想だ。

 覆いかぶさるという危機を忌避した際、白子ちゃんの右手を巻き添えにするしかない、という決意はしっかりと抱いていた。その際、白子ちゃんの真っ白な右手はまざまざと目に焼きつけていた。

 そう、白子ちゃんの右手は真っ白だったのだ。

 名前の通り、これでもかって白い手をしていたのに、今こうして見下ろす白子ちゃんの手はやや焼けているというか、肌色をしている。

 砕けたチョコレートが僕の体温により溶けて白子ちゃんの肌に染み込んだ? それはないだろう、僕の手はそのような熱量を発していない。

 っていうか、白子ちゃんの右手、おっきくなってない?

 ともすれば小学生みたいな白子ちゃんの手にしては不釣合いになってない? しかも五本の指にはうっすらと産毛らしきものが見て取れる。

 あれ? 何か……何か白子ちゃんの右手、僕の右手みたいじゃない?

 至った結論を認識すると同時にぎゅっと右手を閉じてしまう。さすれば摩訶不思議、僕の視線の先にある白子ちゃんの右手がぎゅっと閉じられる。

「おーい、トイチン、どうした?」

「二人とも、大丈夫だったあ? ごめーん、タイミングが激まずだったねえ」

 やけに遠くで聞こえる二人の声はさておき、右手の人差し指を一本立ててみる。

 白子ちゃんの右手の人差し指がぴょこんと立てられる。

 おやおや?

 困惑が頭の中でぐるぐると回り出すのに合わせて白子ちゃんが立ち上がる。

 乱雑に椅子を揺らして立ち上がる様は怒りを迸らせたものなのか、表情は厳しく、あたかも睨むように僕を見据えている。

 あー、いや、ようにじゃなくて、これは完全に睨まれてるね。

 僕より頭一つ分くらい小さいので強制的な上目遣い、尚且つその目が細められているので、びっくりするくらいおっかない。

 これはまずい、高校生活は始まったばかりだというのにスコールも追いつかない勢いで暗雲が立ち込め始めている。それを感じ取ったのか、永久ちゃんと為我井君も口をつぐんでしまった。

 漂う乱戦の気配、何が起こってもおかしくないぞ、って空気が確かに立ち込めている。

 白子ちゃんから舌打ちが発せられ、ゆっくりと口が開かれる。

「名前、何ていうんだ?」

 あー、これはもう完全に絡まれる直前の空気だね。名前を聞いてから罵詈雑言、あるいは手さえ出てきそうな空気をひしひしと感じる。

 無難に、どうにか無難に切り抜けたい。

「えっと、十一……あ、トイチンって呼ばれてるよ。あだ名ね、あだ名」

「ああ?」

 あ、駄目だね、見るからに不機嫌さが増したね。

「ふざけてんのか? 呼びにくくなってんじゃねーか、何を一文字増してんだよ、ンはどっから来たんだよ」

 素早く視線を左右に振れば、永久ちゃんと為我井君がそろそろと退散している。

 おーっと、誰よりも早い戦線離脱か。これは困った、ほんとに困った。せめて永久ちゃんは残ろうよ、女子同士なんだし明るい無邪気なテンションで場を和ませようと努力してみようよ。

「いや、あの、ンは、ドラゴンから……」

「ああ? 何でドラゴンが出てくんだよ、そのドラゴンはどっから出てきてんだよ、何でドラゴンのンをトイチにくっつけてんだよ」

 戦慄を覚えるほどの喧嘩腰だ。そういえば僕って無難をこよなく愛してきたから、真っ向から絡まれた経験は一度もない。

 ん、足が震えるね。これ以上の言葉は白子ちゃんの機嫌を更に損ねるばかりではなく、最悪の事態へと発展する可能性さえ秘めている。

 もしかして殴られちゃうんじゃないかな? って不安が現実味を帯びている。

「おい」

 白子ちゃん改め姫百合さんの左手が僕の胸倉を掴む。乱暴に握られたシャツが襟元を締めてほんの少し呼吸が苦しい。

「な、何でしょう?」

「顔貸せ」

「あ、はい、分かりました」

 逆らうっていう選択肢などなく、肯定という道しか存在しなかったのは言うまでもない。

 視界の端に両手を合わせて頭を下げている永久ちゃんと為我井君が映り込むも、僕はいかなる返答やアクションさえ返せず、姫百合さんに引っ張られて教室を後にした。

 ああ、お弁当、まだ半分しか食べてないのに。


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