ありふれた日常をえがく史劇。そして――
ぱらぱら ぱらぱら
雨が降る。
新米教師の肩の上に
そして彼が持つ傘の上に
ぱらぱら ぱらぱら
雨が降る。
先生はその意味をわかっているのかな?
ふふふ、きっとわかっちゃいないんだ。
彼はそういう人だから――
走るたびに跳ね上がる泥水は
うかれる僕の気持ちみたいで・・・
見つけた答えは呆れるくらい単純だった。
***
日曜日の駅構内はラッシュ時のそれに比べればずいぶんとましではあったが、雨が降っているということもあり、電車を利用する人や駅ビルに用がある者、または待ち合わせをしている人などで賑わっていた。そして藍那もまた、その中の1人として改札口の傍にある柱に体をあずけながら彰のことを待っていたのだ。というのも、全身びしょ濡れの状態で人様の家にお邪魔するわけにはいかないと、着替えをさせるために彼を家に帰したためだった。
『まったく、あんな大きな子どもを持ったつもりはないんだけどねぇ。』
彼女は別れ際男が見せた酷く不安げな表情を思い出して、苦笑いをもらす。まるで母親に助けを求める幼子のような無防備な表情をされては、ほうっておくことなどできず、結局彼と共に澤田篤の両親へ会いに行くこととなってしまったのだ。けれど、それを厭う気持ちなど藍那には微塵もなかった。
そんなものを持っていたのならばとっくにあの風変わりな男を雨の中おきざりにしてきているはずだ。それをしなかったのは彼女の中ですでに男が『特別』という言葉を与えられているからで、それが親愛の情からくるものなのか、友愛からくるものなのか、はたまた恋愛の感情からくるものなのかは藍那自身にもよく分からなかった。が、むしろそういった全ての感情をひっくるめた先にいるのが彰なのかもしれないと、藍那の顔にほんの少し朱がさす。
出会ったときにはここまで係わりを持つことになるなんて彼女も思っていなかっただろう。いや、それとも初対面の人間を助けた時点で少なからず彼女の中にそういった予感めいたものがあったのかもしれない。赤の他人を助けることはそれなりに勇気のいることだ。
「あいな、さん?」
ふいに横合いから聞き馴染んだ声が聞こえた気がして、彼女は反射的にその主を探した。けれど、キョロキョロと辺りに視線を走らせて見てもあの打ちひしがれた子犬のような男の姿は見て取れず、気のせいだったのかと首を傾げる。が、
「――ッ!!?」
ポンッと肩を叩かれて、藍那の体が強張った。パッと振り返ればニッコリと音がしそうな笑顔を浮かべた男がいて、
「よかった、やっぱり藍那さんだ。さっきと違ってラフな格好じゃないから別人かと思っちゃいました。その服も似合っていますね?普段から大人っぽいけれど、それが2割り増しって感じです。」
「えっとぉ・・・彰?」
「そうですけど?」
「・・・・・・」
「藍那さん?」
「あんたも歴とした社会人だったのねぇ・・・なんというか、意外だ。」
「は?」
パチパチと瞬きをする男の姿が数時間前に見たそれと重なって、藍那の体からほっと力が抜ける。それは彼女がよく知る山田太郎こと、藤波彰の姿だった。
『にしてもねぇ?服装と髪型を変えるだけここまで変わっちゃうもんかしら?』
藍那は改めて彰を上から下までまじまじと観察する。確かによくよく見れば全身ずぶ濡れで泥だらけだったころと顔の作りも骨格も何一つ変わってはいないのだが、この男は誰だろうと思わされるほど目の前に立つ人物はパッと見た印象が変っていた。
タイトなスーツに身を包み、整髪料で軽く整えられた頭髪は、きっちりときめられたものではなく、若干ラフな感じを残すものだった。が、それはどちらかといえば童顔の彼にはよく似合っていて、幼さの中に社会人としての落ち着きを見て取れるような雰囲気をかもし出していたのである。きっとこれならば生徒のお母様方にもよくもてはやされていたに違いない。そんな姿は藍那の記憶にある捨てられた子犬のような儚さと、迷子の子どものような心もとなさと、どこか草臥れた印象とを兼ね備えた彰の面影を微塵も感じさせないものだった。
「それはほめ言葉と捉えればいいのでしょうか?」
藍那は微かに首を傾げた男をチラリと見て
「まぁね、悪くはないわ。」
と言ってさっときびすをかえすと出口に向かって歩き出した。それに慌てた彰は遅れをとらないようにすぐさま彼女の背中を追いかけるのだが、顔に浮かぶはにかんだ笑みが彼の押さえ切れない喜びを表している。
「俺はあなたの隣に立っていられるような人ではないから、少しでも藍那さんと一緒にいて恥ずかしくない人物に見えるなら、とても嬉しいです。ありがとうございます。」
さらりと言われた言葉は純粋な好意に溢れていた。だから藍那は口元をキュッと引き締めて平静を装うことにする。自分の魅力をまったく分かっていない男の態度が腹立たしくて、悔しくて、不覚にも『うれしい』と思ってしまったことを絶対相手に悟らせてなるものかといった屈折した感情を抱いたのだ。
藍那はそういった意味で酷く不器用な女だった。
けれど、わかってしまえば単純で可愛らしい人でもあった。とは言っても彰が彼女の隣に並び立つころには藍那の動揺もすっかりなりを潜め、真っ直ぐと前を見つめる瞳はこれから先の未来を暗示するかのように真剣そのものだった。そんな藍那の表情を見て彰の顔からも笑みが消える。が、彼の中に怯えや不安と言った感情は見られない。それどころか、表情を消した彰からは喜怒哀楽のどの感情も読み取ることはできなかった。彼は酷く静かだった。
「雨・・・まだ降っているんですね。」
彰の言ったとおり駅構内から外に出てみればパラパラ、パラパパと二人を結びつけた雨はまだ降り続いていて、彼は一瞬足を止めて鉛色の空を見上げた。
「怖いの?」
藍那の言葉に男はふっと柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「いえ、自分でも驚くほど落ち着いています。きっといろいろな感情がごちゃ混ぜになりすぎて、そういったものが麻痺しちゃったんだと思うんです。ほら、いろんな色を混ぜると結局黒になるみたいに・・・さぁ、行きましょうか。」
彰は目線で彼女を促すと、自分はさっさと雨の降る世界へと踊りだした。それに慌てた藍那は
「ちょっ!?待ちなさいって!!」
と言って咄嗟に自身の持っていた傘をパッと開くと、それを彰に向かって突きだす。
「――ッ!?」
「の、バカ!!いつもの癖かもしれないけど、雨の中傘を差さないで飛び出したりしてまた濡れたらどうするつもり!!なんのために着替えさせたと思っているのよ!!」
と言って彼に無理やりそれを握らせた。そして
「あんたにしてみれば嫌かもしれないけど、しばらくは我慢しなさい。ほら、かして!!」
と、呆然とする男を無視して彰の持っていた傘をひったくるように奪い取ると、それをあっさりと開いてしまう。男が女物の傘を使っていることに違和感は拭えないが、それもこれも肝心なことを失念している彰が悪いのだと、藍那は彼の傘を拝借することにした。彼女にしても訪問先にたどり着く前に濡れるのはごめんだからだ。
「なによ・・・何か文句でもある?」
「いえ・・・文句とかではなくて――」
何か言いかけた言葉を彰は飲み込むと、花がほころぶような笑みをうかべた。そして次の瞬間
「ふっ・・・アハハッ!!」
と声を出して爽快に笑ったのだ。
その声は出入り口を通り過ぎていく人々が次々と振り返るほどよく響く笑い声で、大人の男が浮かべるような類のものではない。欲しくて欲しくて堪らなかったものが手に入ったときに見せる子どものような表情とでもいえばいいのだろうか。どこまでも自分の心に素直な感情をむき出しにした笑顔は人の心を一瞬だけ引き付ける力がある。おやっと意識を向けさせるだけの何かがあるものだ。だから藍那もまた彼の笑顔に一瞬だけ意識を奪われ、
「ふがっ!?なにふるんですか、あいなふぁん。」
次の瞬間には彰の鼻を思い切りつまむことで強制的にその笑いを止めさせていた。藍那の中に周囲の目を気にするだけの常識がないわけではないのだ。いきなり笑い出した男は他者から見れば奇異に移るに違いなく、その連れである自分も同様に思われることに耐えられない。
「何が可笑しかったのかしらないけど、普通に立っていれば見られる姿なんだからしゃんとしなさいよ。間違っても私を変人の仲間にするんじゃないわよ?ほら、いつまでも突っ立っていないの!!」
藍那は男の手を通り過ぎさまに掴むとそれを引っ張って歩き出した。
彰の浮かべるむき出しの感情が表れた表情は彼女の意識を奪うだけの力があるものだ。けれど、それはすぐにでも彼女のそこから抜け落ちていくだけのものでしかなくて。
だから、一緒にいたいと思うのだ。
心を奪われる一瞬は一瞬でしかないからこそ、見逃さないために、忘れてしまってももう一度思い出すために、傍にいたいと思う。
繋がれた手は藍那の気持ちそのものだった。
「藍那さん!!」
「――ッ!!!!?」
グイッと引き寄せられた体。
彰は彼女の肩口に顔をうずめると
「――ありがとう。」
と、一言呟いて背中に回した腕に力を込める。
抱き寄せられて彼女の手に持っていた傘がぽてっと地面に落ちた。
「ありがとう――藍那さん。」
もう一度耳元でかみしめるようにささやかれた言葉は優しい響きを持っていた。
だから藍那はその腕を振りほどくことができない。
男の腕の中は想像するよりずっと温かで、穏やかで、ほんの少し照れくさくて。
そうやって彼女はまた彼に意識を奪われるのだ。
一緒にいるとはそういうことである。
「おやおや、おあついことですねぇ。」
「「ッ!!?」」
唐突に背後からかけられた声に振り向けば意地の悪そうな笑みを浮かべた高木の隣で、渡辺がニコニコ笑いながらカメラをかまえて立っていた。
「ばっちりスクープ写真が撮れたッス!!」
「『イケメン教師、雨の中密会!!』ってタイトルでどうだ?なかなか収まりのいい言葉だと思うんだが・・・」
「そうッスね、先輩!!語呂は悪くないッスよ!!」
と言った言葉を交わしながら勝手に盛り上がる二人を藍那は横目でみながらそっと彰の胸に手を置き距離をとった。そして腰を屈めて落ちていた傘を拾うと何事もなかったかのように平然とした態度で彼らに話しかける。その顔からは人をバカにした雰囲気がにじみ出ていた。
「あんたたち頭大丈夫?芸能人でもなんでもないこの人のスクープ写真なんて載せて誰が喜ぶって言うのよ。しかも、教師っていうのも前に『元』って漢字がつくわけで、いうなればただの一般人がいちゃついているだけの写真じゃない。喜ぶどころか胸糞が悪くなるか、関心すら持ってもらえないかのどちらかだと思うんだけど?」
至極最もな藍那の意見を受けて、二人の顔から笑みが消えた。
「・・・・・・相変わらず手厳しい娘さんですねぇ。まっ、俺はそういうところが嫌いじゃありませんけど・・・もう少し女性らしさを持たないと、いい人の1人や二人できやしませんよ?」
そう言ってふんっと鼻で笑った高木の態度に横にいた渡辺がギョッと目を見開いた。
「なにいってるんッスか、先輩!!さっきから須藤さんのことなかなか胆の据わった美人だって言ってたじゃないッスか!!」
「なっ!?」
「それどころか先生にはもったいないから俺が、みたいなことも言っていたし?先輩こそ素直にならないと好きになってもらえないッスよぉ。」
「このバカッ!!?」
「イテッ!?」
「すみませんねぇ、思い込みが激しいヤツなもんで・・・こいつの言葉は気にしないでください。」
「むぅ~」
高木は心なしか顔を赤らめて引きつった笑みを浮かべながら渡辺の首を思い切り締め上げた。哀れ、素直な熊男は首を絞められて苦しそうだ。まぁ、こういうことを自業自得というのだろうが・・・
そんな二人のやり取りに自然と藍那の口から深いため息が落ちた。そして何か言おうと口を開きかけた藍那の腕を強くつかんだのは彰で、グイッとそれを引かれて後方に倒れそうになる藍那の体を彼が全身で受け止めた。その拍子に持っていた傘から滴り落ちる雫が彰の肩を濡らしたのだけれど、彼はまったくそれを気にする素振りも見せず、高木をにらみ付けて
「藍那さんはダメです。」
とキッパリいいきると、まるで相手に見せ付けるかのように後ろからギュッと藍那の体を抱きしめる。それに眉をひそめた高木も負けじと彰をにらみつけていて、藍那の口から再び先ほどよりも深いため息が零れ落ちた。だから
「ぐっ・・・」
藍那は思い切り肘鉄を彰の腹にきめるとさっさとその腕の中からぬけだして、彼にピシッと指を突きつける。
「足を踏みつけなかったのはせめてもの温情だと思いなさい。これから人様の家に行くのにせっかく磨いた靴が泥だらけになるのは可哀相でしょうし、ヒールのある靴で思い切り踏まれたら半端なく痛いと思ったから肘鉄で勘弁してあげるわよ。ほら、いつまでもこんなところにいないでさっさと行くわよ。」
くるりときびすを還して颯爽と二人の間を歩きぬける藍那は間抜けな顔をしている男よりも男らしかった。
「ほへぇ~、さすが須藤さん。メッチャカッコよかったッス!!」
渡辺はまるでアイドルを追いかける小娘のように目をキラキラさせながら彼女の隣に並んだ。
「まっ、当然ね。だいたいあの記者も彰もやっていることが小学生並みなのよ。子どもの喧嘩じゃあるまいし、ただ自分の言いたいことだけを言っていればいいってもんじゃないでしょう?自分の価値観を通そうとするのはあくまでも子どもだから許されることで、大人というレッテルを貼られている以上最低限他者との関わりや繋がりを無視することはできないの。どんなに腹が立とうが、筋が通っていないことだろうが、それを受け入れるだけの器量を持たなければならないのが大人ってもんだと思うけど?だってそうしなければ生活の基盤となっている社会がなりたたなくなってしまうもの。大人になるってことは社会の一部として生きていくってことで、社会の一部として生きていくってことは、他者との繋がりを保つってことに繋がるのよ。」
「なるほど・・・ですって、先輩たち。」
「「・・・・・・」」
渡辺がニッコリ笑って振り返れば、苦虫を噛み潰したような顔をした大人二人がいて、彼らは互い顔をチラリと横目でうかがうとふいっとそれをそらして元から開いていた距離をさらに広げた。その様子はまるで反発しあう磁石である。
「あーあ、ダメだこりゃ・・・ところで藍那さんはどうなんッスか?」
「どうって?」
「いや、だから先生のことどう思っているのかなぁって。聞くところによると、先生とは今日はじめて会ったんでしょう?それにしてはずいぶんとなじんでいるというか、なんというか・・・」
後ろで静かな攻防を繰り広げている二人を尻目に、渡辺は声を潜めて藍那に話かけた。それに動じることもなく彼女は手に握られたメモと周囲とを見比べながら迷うことなく歩を進めていた。
「次の角を右ね・・・じゃあ逆に聞くけどあなたからはどう見える?」
「俺ッスかぁ?そうッスねぇ、先生が須藤さんに好意を寄せていることは間違いないと思います。だって、あんなふうに先輩と睨み合うくらいだし・・・でも、須藤さんはよくわからないッス。先生のことを大切にしているように見えれば、結構ずけずけとものを言っているようにもみえるし・・・なんかこう、『好き好きぃ~』ってオーラがあんまり感じられないんッスよねぇ。」
首を傾げる男の言葉に彼女はクッと眉間に皺をよせた。
「はぁ?なにそれ。好きだなぁって思える瞬間じゃなければそんなものでるわけないじゃない。まっ、大抵そう思えるときっていうのは相手の行動に尊敬の念を抱けたとき、つまり凄いなって思えたときだと私は思うけど・・・彰の場合、もとがもとだからそんな瞬間は滅多にないわね。」
「ってことは先生の片思いッスか?じゃあまだ先輩にもチャンスが――」
「でも肝心なときに傍にいたいと思える人、かな。」
「へ?」
藍那はチラリと後方を伺うと渡辺に顔を寄せて
「四六時中一緒にいたいとは思わない。人っていうのは誰かと一緒にいるときどんなに意識してなくても気を使っているものでしょう?相手のことを考えて自分の意志を曲げたりすることなんて日常茶飯事だもの。でも本当に傍にいて欲しいとき、本当に傍にいて欲しいと望まれているとき、何を差し置いてもそうしたいと思える人が彰なのよ。」
と、まるで重大な秘密を打ち明けるかのようにそっと話した。
その顔に柔らかな笑みを浮かべながら――
「須藤さん、それって――」
「渡辺!!」
「藍那さん!!」
「「――ッ!?」」
二人の男が同時に各知人の名前を呼ぶと、渡辺に寄せられていた藍那の体が彰によってぐっと引き離される。先ほどまで話していた渡辺も同様に襟首を掴まれて彼女から引き離されていたところをみると、顔を寄せ合って話していた彼女たちの態度が彼らには気に入らなかったようだ。
「お前なに須藤さんに馴れ馴れしくしてんだよ!少しは空気よめ!!」
「イテッ。」
「藍那さんも藍那さんです!!そんな無防備に男に顔近づけないでください!!」
「うるさい・・・」
「ふぐっ・・・」
藍那が思い切り彰の鼻をつまむとキャンキャンと子犬のように吠え立てていた彼の言葉が強制的に終了させられる。呆れを通り越した彼女の顔は怒りのそれに似ていた。
「あんたたちふざけているのもいいけど、当初の目的忘れていないでしょうねぇ?ほら、あそこの角を曲がれば澤田さんのお宅はすぐ傍よ。」
「あっ・・・」
彼女が指差した交差点に見覚えがあったのか、彰の顔からすっと表情が抜け落ちる。先ほどまでの腑抜けた場の空気が緊張感をはらんでキュッと絞まったのが分かった。
「彰・・・」
「大丈夫です、藍那さん。傍に・・・いてくれるんでしょう?」
急に顔色を変えた彼を心配してその顔を覗き込んだ藍那の瞳に笑いかけながら、彰は彼女の肩に手を回して歩を進めることをそっと促した。「だから大丈夫――」
そう言った男の顔は緊張で強張っている。が、まとう雰囲気は穏やかなもので、自然と力の入っていた藍那の肩から余計なそれが抜け落ちた。
彼女は思う。
自分自身の中に安らぎを見つけ出せる人は少ない。それは人という生き物が不確かな未来に思いをはせ、勝手に不安を呼び込むようにできているからだ。これは人として産まれたい以上どうすることもできない性質なのだろ。けれど人は人のもたらすものに触れることでそれを塗り替えることができる。誰かが言った言葉に癒され、誰かが作った曲に慰められるのだ。
『それと、誰かと共にいることで前に進むことができる、ってね。』
藍那は男と肩を並べながら背筋をピンッと伸ばして澤田家の扉の前に立った。
ここから彼の一歩が始まるのだ。
ピンポーン
「・・・はい。」
インターホン越しに聞こえてきた声はどこか草臥れた感じのする女性のものだった。
「ご無沙汰しております。私、以前篤くんの担任をさせていただいていたものですけれども・・・」
「藤波先生ですか?」
「はい・・・今日は少しお話がしたくてお伺いさせていただきました。急な訪問で申し訳ありませんが・・・」
「いえ、お気になさらずに。今開けますから少々お待ちください。」
それからいくらも待たずに開かれた扉から顔をのぞかせた女性はインターホン越しに聞いた声の印象から受けたイメージよりもずっと若いもので、年のころは三十後半といったところだろうか。家庭的な雰囲気よりはどちらかといえばキャリアウーマン的な要素を持っているようにみえる。ゆるくウェーブのかかったブラウンのヘアーが細い肩にかかっていた。
「藤波先生、ご無沙汰しています。その節は大変お世話になりました。」
「いえ、こちらこそたいしたこともできませんで申し訳ありませんでした。本当はもっと私がしなければならなかったことは数多くあったのでしょう。それなのにやるべきこともやれず、悪戯に時間を浪費したのは私が盲目だったからですね。」
「そんなことは・・・」
うなだれて弱弱しく頭を左右に振る篤の母親の姿は覇気が感じられないもので、小さな体が余計小さなものに見えた。そんな彼女の姿を見て彰の瞳がふっと柔らかな光を帯びる。
「澤田さん・・・・・・私は篤君と話した最後の相手です。だからでしょうか?今まで彼が何を思って、何をしたかったのか知ることに躍起になっていました。それを知ることができれば死んだ彼に報いることができるのではないかと勝手に決め付けていたんです。けれどよくよく考えてみれば、それは私がただ自分の考えが正しかったのだと主張するための証拠を探しているようなもので、生きている人間が亡くなってしまった彼にたいしてしてあげられることはゼロに等しいほど少ないのだと気がつきました。そして私が今本当にしなければならないことが残されたご両親のために何ができるのかということなのだということも、時間はかかりましたが彼女のおかげでようやく気がつくことができたんです。」
「彼女?」
「ええ、こちらは須藤藍那さんと言って私の大切な友人です。そしてただ雨の中をさ迷うことしかできなかった私の道しるべとなってくださった女性です。」
体をずらしてすっと差し出された手が自分に向けられると同時に、藍那は深々と頭を下げた。
「はじめまして、須藤藍那と申します。このたびは突然の不法にさぞ心を痛めておいででしょう。お悔やみ申し上げます。よろしければ篤君の仏前にお線香を上げさせていただけませんか?」
「俺たちもお願いするッス!!」
彰の後ろに隠れていた渡辺がここぞとばかりに勢いよく挙手をすると、沈痛な顔を母親の顔に微かな驚きの表情が浮かぶ。
「の、バカ!!」
「イテッ!」
「物事には順序ってもんがあるだろ。いきなりしゃしゃりでて奥さん戸惑ってるじゃないか。もっと物事を考えてから行動しろ。」
「うぅ・・・すみません。」
よほど強い力で叩かれたのか、渡辺は痛む頭をさすりながら涙目で謝った。それを見た藍那の口からは深いため息が漏れ、彰の顔には苦い笑みが浮かんでいる。1人状況を飲み込めない篤の母親だけが困惑した表情を惜しげもなく覗かせていた。
「ご紹介が遅れて申し訳ありません。こちらはフリーのライターとカメラマンをしている高木と渡辺でございます。」
彰の紹介を経て高木がすっと名詞を差し出した。
「ご紹介にあがりました高木です。こちらの渡辺と共にフリーライターとして活躍しておりまして、先日も奥様にはごあいさつを申し上げたと思いますが覚えておいでではないでしょうか?」
「あぁ・・・あのときの――」
名詞に覚えがあったのか彼女の顔から戸惑いの表情が消えた。が、次の瞬間彼女のまとう空気が硬質なそれへと変化する。どうやら彼らにいい印象は持っていないようだ。まっ、彰を追いかけてきた二人の態度を思い返せば考えられなくもない話ではある。
高木は微妙なその空気の違いを感じ取ったのか慌てて母親に頭を下げた。
「先日はそちらの都合も考えず一方的にこちらの意見を押し付けてしまい申し訳ありませんでした!!私どもも須藤さんに一喝されて自分たちが一番初めにするべきことをしてきなかったのだと気がつかされました。今日は取材に来たわけではなく、ただあの時できなかったご子息の仏前に線香を上げさせてもらえないかと思い藤波先生に頼んで連れてきてもらったんです。差し出がましいことは承知でお願いいたします。仏前に手を合わさせてもらえないでしょうか?」
「お願いします!!」
深々と頭を下げ続ける二人に思うところがあったのか彼女の雰囲気がもとの柔らかいそれへと戻り、
「そうですか・・・みなさん雨の中こんなところまでわざわざそのためにお越しくださったんですね?あの子は友だちも少なく、殆ど仏前に手を合わせに来てくれるような人がいないんです。きっと、こんなに大勢の人が来たことを知ったらビックリしちゃいますね。こんなところで立ち話もなんですからぜひあがってください。」
と言って扉を大きく押し広げた。
沈痛な顔をしていた母親の顔には微かな笑みが戻っていた。
「お邪魔いたします。」
4人は口々にそう言うと母親の先導に従いながらフローリングの廊下を音もなく歩いていく。
外が雨だからだろうか?
澤田家の室内は日曜日の午後だというのに酷く静かなもので、外から聞こえる雨音以外に音らしい音はなに一つしなかった。部屋の中に漂う空気もどこかひんやりと冷たい。とはいっても、両親が共働きで一人っ子であった篤にしてみればこんな雰囲気が当たり前だったのだろう。一戸建ての家は子どもが1人で過ごすには広すぎるほど広い空間だ。どんなに音を立てたところでそれを聞いている人間は自分しかいないのだから。
藍那はリビングのソファにポツンと1人座っている少年の姿を思い浮かべた。
それは可哀相な光景ではなかったが、酷く心もとない風景に見えた。
「あなた、藤波先生が篤にお線香を上げにきてくださいましたよ?」
すっと開けられた扉の向こうでずんぐりとした体を持つ中年の男がふっとこちらを見て柔和な笑みを浮かべた。
「これは先生、ご無沙汰しております。その説は大変お世話になりました。」
「いえ・・・」
彰が頭を下げると同時に藍那たちも深々と頭を下げた。
「突然大勢でお伺いしてしまい申し訳ありません。こちらは私の友人たちで、みな一様に篤君にお線香を上げたいと言っていましたので連れてきました。仏前に手をあわせてもよろしいですか?」
「もちろんです。あの子は知り合いが少ないからきっと喜びますよ。」
篤の父親は仏前から離れると彰たちに場所を譲る。それを受けて彰たちは仏前の前に歩み寄ると1人ずつ位牌に向かって手を合わせた。
写真で見た澤田篤は彰の話に聞くような奇怪な行動をとるようなタイプには見えず、道ですれ違う学生となんら変らない容姿をしていた。口元に微かな笑みを浮かべ、和らいだ目じりは先ほど彼の父親の見せたそれとそっくりだ。繊細な顔立ちの母親に似たのか男らしい顔というよりは、どこか女性を思わせるような大人しい顔つきをしており、理知的な瞳が藍那を見返していた。
『綺麗な目をした子。』
ふと彼女はそんなことを思った。
初めて見た篤少年の瞳は子ども特有の無邪気なものとはどこか違い、まるで地平線のかなたを見ているようなそんな遠い目をしていた。いや、どこまでも真っ直ぐなのだ。きっと人の感情に聡い子だったのだろう。
彰は静かに眼を閉じ、誰よりも長く合わせていた手を解くと篤の両親へ向き直った。
「改めてこのたびはお悔やみ申し上げます。私が言えた義理ではないかもしれませんが・・・」
「いえ、そんなことはありません。あの子にとって藤波先生は“特別”みたいでしたから、きっとこうして手を合わせにきてくれて喜んでいると思います。」
「え?」
軽く目を見張る彰を見てご両親の目じりがふっと和らいだ。
「私たちは共働きでよく家を開けていることが多かったんですけれどね?それでも毎朝必ず家族そろって朝食をとることを心がけていました。篤とゆっくり話をする機会は余りありませんでしたが、それでもわずかな会話の中でたびたび話しに上ったのがあなたの名前だったんです。篤はよく誰かの話題を口に出すような子ではありませんでしたし、過去に担任となった先生たちも引き合いに出されることがなかったので、あの子にしては珍しいものだと思っていました。そういった意味でも先生は息子にとって私たちのような大人とは違い、特別な大人だったんでしょうね。」
そう言って伏せられた瞳は酷く寂しそうなもので、母親の肩を慰撫するように夫がポンっと叩いた。
「息子は藤波先生のことを子どもみたいな大人だとよく言っていました。曖昧なものを曖昧なままで受け止めるだけの柔軟さがある人だといっていたんです。きっとあの子にしてみれば大人は、様々なことに理由をつけなければ気がすまないものだったのでしょう。普通という枠に当てはまらないことに対してなんでもかんでも理由をつけたがるもの、それが息子の認識だったのだと思います。」
「そうですか・・・彼はそんなことを・・・」
彰の呟きは外から聞こえる雨音にかき消されてしまうほど小さなもので、口をつぐんだ人々の間になんともいえない重苦しい沈黙が流れる。
澤田篤とはいったいどんな人物だったのだろうか。
チラリと視線を向けた遺影の中で彼は微かに口元をほころばせて笑っていた。それはあどけないというにはおとなしく、はにかんでいるというには大人びている笑みではあったが、落ち着いた柔らかな雰囲気だけは痛いほど伝わってくるものだった。
「藤波先生は息子がいじめを苦に自殺したとお考えですか?」
「ッ!!」
沈黙を破った唐突な質問に彰の肩がビクッとはねる。彼は膝の上に置かれていた握りこぶしにギュッと力を込めると、ガチガチに固まった体で搾り出すように言葉を紡いだ。
「私は・・・篤君が自殺したなんて思えません。こんなことをいうと、責任逃れの言い訳にしか聞こえないかもしれませんが、彼は自分の思うままに生きて、その結果起こる全てのことを甘受していたように見えました。こちらが心配になるほど人に迷惑をかけない範囲内で自分の気持ちに素直だったんです。だから私には篤君がクラスメイトと溶け込めていないことも、雨の中を傘も差さずに歩いていることを奇異に思われていることも、それ自体彼が想定した範囲内の出来事で、そう思われることなど承知の上の行動だったように思えました。だから篤君がそれを苦に自殺したなんて思えません。彼は自分の行動とそれに付随して起こる現象と、そういった全てのものに対してきちんと責任を持っていた。私にはそう見えたんです。」
彰は目をそらすことなく、両親を真っ直ぐと見据えたままそう言い放った。ガチガチに強張った体は彼の緊張と不安を体現しているもので、できることなら逃げ出してしまいたいに違いないのだろう。嫌なことから目をそらすことは簡単だ。が、例え逃げ切ることができたとしてそこに何があるのだろう?逃げる前と逃げた後で何も変っていない世界が待っているだけだ。昨日と同じ明日、明日と同じ未来がどこまでも続いていて、住み慣れた小さな箱庭で変らない日々を送るだけ――
彰は何かを変えるためにここにいる。
それは傘を差さずに歩き続ける自分自身の未来であり、疑惑を胸に抱き続ける記者の疑問であり、悲しみを抱える生者の静かな瞳だった。
篤の両親は彰の言葉を聞くとふっと肩から力を抜いて膝に置いた手元に目線を落とした。
「そう・・・ですか。」
「はい。私はそう信じています。お二人は納得できないかもしれませんが・・・」
「いえ・・・あなたがそう言うのならそうなのでしょう。実際私たちもそう思います。」
「それは――」
どういった意味かと問いただそうとした彰を片手で制止ながら、篤の父はぽつりぽつりと話し始めた。
「息子は・・・篤はけして友だちができにくいタイプの子ではありませんでした。むしろ小さいころは率先して輪の中心にいることもしばしばあるほどで、親の私が言うのもなんですが、話術に長けており、人の心を掴むのが上手い子であったと思います。ただそれが極端ではありましたけれど・・・」
「極端、ですか・・・・・・それは篤君が自分の意志で人を寄せ付けたり、付けなかったりしていたという意味でしょうか?」
「・・・はい。篤はいつでも自分の意志をはっきりと持っていました。それが例え回りと合わないようなことでも、自分が納得する答えでなければ首を縦に振ろうとしなかった。とはいっても、あの子がそういった行動をとるのはいつも自分だけが影響を受けることばかりで、そのせいで誰かが本気で傷つくようなことがあれば、その答えを受け入れるだけの柔軟さは持ち合わせていました。ただの子どもの我がままではないものがそこにはあったんです。それなのに――ッ!!」
「澤田さん?」
言葉の途中で息を呑んだ母親の様子を怪訝に思って呼びかけた声に応えたのは嗚咽を堪えたようなくぐもった声で、俯く彼女の肩が小刻みに震えていた。膝上に置かれている白百合のようなたおやかな手は色を失うほど強く握り締められていた。その背中をさする父親の瞳が今までの日ではないほど深い悲しみの色を帯びる。
「大人なんて・・・バカな生き物ですよね・・・経験はかけがえのない財産であることは間違いなく、過去から積み上げてきたものがあるからこそ、上手く物事を処理することができるとは思います。けれどそれは時に自分の視野を狭くさせるものです。私たちは自分たちの経験から基づく知識が息子の助けになるものだと盲目的に信じていた。そんなものがあの子にも当てはまるかどうかなんてわからないのに、それに気がつくのが遅れてしまったんです。」
夫の声に応えるように妻は嗚咽を耐えながら篤の過去を話し始めた。
「昔・・・あれは篤が丁度小学生に上がったころのことでした。その時の篤はクラスメイトの輪に入って遊びまわることにすっかり興味をなくしていたのか、誘われてもそれに応えることなく友だちを眺めていることが多くなりました。せっかく声をかけてくれる幼稚園からの友だちからの誘いもすげなく断る始末で、手を焼いた担任の先生に呼び出されたんです。そしてここまで意固地になる理由に何か心当たりがないか聞かれました。当時の私たちはお互いの仕事が忙しい時期でもあり、家を留守にしがちなのが原因ではないかと考えたので、なるべく意識して息子と共に過ごす時間を増やしたんです。それこそ子育ての本を読み漁り、いいと言われることは全て実行するようにしました。けれど篤の行動は何も変らなかったんです。私たちは不安でした。このまま息子が社会に順応できなければこの子が可哀相だと、学校の中で居場所が作れなければそれは想像もできないほど孤独なことだと思いました。」
騒がしい教室の中で1人自分の机に座る幼子。
藍那はその姿を想像した。
それは先ほどこの家に入ってきたときに思い浮かべたリビングのソファにポツンと1人座る少年の姿と重なって、彼女の心になんともいえない心細さを感じさせる。が、それすら彼女が今まで体験してきた経験に基づく感情でしかないことに気がつく。
十人中十人が彼は孤独だと言ったところでそれが何の証明になるのだろう。少年にとっての正しい応えであるかどうかは、彼自身にしか判断できないのだから。
「私たちは・・・周囲と違う息子を何とか人並みといえるような子どもにしようと必死になってあの子の言葉を否定し続け、聞き流し続けてきました。どうして周りと同じようなことばかりしなければならないのか納得していない息子を、周りと同じようにすることが一番幸せに繋がるのだといいきかせて、親という立場を利用して無理やり納得させる毎日を続けていたんです。人と違うということは踏みならされた道を行くよりもずっと孤独で痛みを伴うものだということを、私たちはすでに経験から知っています。親として息子にそんな思いをさせたくないと躍起になってはいましたが、今思えば篤は先生の言うようにそれすら覚悟を持っていたのでしょう。子どもは大人が思っているよりもずっと賢いものです。それなのにそんなことも知らないで、息子の抵抗に耐えられなくなった私は先日思わず叫んでしまったんです。『どうしてそんなにお母さんを困らせるの!!あなたは私たちの気持ちなんて何も考えちゃいない!!何も知らない子どものくせに分かったようなすました顔して、あなたなんて周囲からすればただの惨めで可哀相な子どもでしかないのよ!!』って。それを言ったときの傷ついたような篤の表情が忘れられません。それが私が見た子どもらしいあの子の最後の表情でした。そしてその一週間後にあの子は亡くなったんです。」
そう言って泣き崩れる母親は後悔の念に囚われているように見えた。と言ってもそれはそうだろう。その瞬間から両親と彼との間に何かしらの溝ができてしまったのは間違いのないことのように思えた。
「息子が死んだと聞いたとき、真っ先にそのことを思い出しました。もしかしたら私たちの言葉があの子を深く傷つけて、それが今回の事件の引き金になったのではないかという疑念が消えないんです。ただでさえ、私たちはずっと息子の言葉に耳を傾けることも、それを理解しようとすることも放棄していたんですから――」
「きっとあの子は私たちを恨んでいるんです!!あの子の死の原因を作ったのは積もり積もった私たちの慢心だったんですよ!!あの子の未来を勝手に決め付けていた私たちの!!」
わぁわぁと声を出して泣き出した妻の肩を支えながら、夫は目じりにたまった涙をその手で拭い去った。
これが澤田篤が抱えていた真実。
そう、彼を追い詰めたのはほかでもない彼の両親で、常識というものに雁字搦めにされた大人たちが持つ狭い視野だった。彼はそんな世界の中で酷く窮屈な思いをしていたのだろう。大人たちが正解だと信じていた見当違いの答えを無理やり背負わされて、いい迷惑だと思っていたに違いない。
藍那は後悔の念に駆られ震える女性を慰めるために手を伸ばした。が、
「彰?」
そうする前に彼がすっと両親との距離をつめ二人の手をとった。右手は父親を励ますようにギュッと力を込めて、左手は母親を慰撫するようにそっと包み込むように――
「傘を・・・」
「え?」
「篤君は傘を撫でていたんです。いたわるようにそっと、コンビニで売っているようなちゃちなビニール傘をまるで宝物のように撫でていました。澤田さん、篤君がなぜ差すことのない傘をわざわざ手に持って歩いていたか分かりますか?使わない傘を毎回持ち歩いていたその理由が?」
小さくかぶりを振る彼らを彰は泣きそうな表情で見返した。
「事件があったあの日・・・篤君は言っていました。”このちゃちな傘にはわざわざこれを買って来てくれた父さんと、それを忘れないで手渡してくれる母さんの思いやりがこもっているような気がするんだ”って。”できることならこれを使いたいと思うのに、まだその理由が見つからないんだって”そういっていたんです。雨に濡れることを厭わない彼が、わざわざ傘を差す理由をさがす・・・それはこの傘が特別だったからではないでしょうか?いえ、傘自体が特別だったわけではなく、そこに込められた思いが特別だった・・・だから彼は何度電車の中にそれを置き忘れても、傘を手にすることをやめようとはしなかった。私にはそう思えます。わかりますか?彼が特別に思っていたのはあなたたちが傘に込めた彼を思う気持ちそのものだったんです!!」
「――ッ!?」
安っぽいつくりのビニール傘。
それを“特別”に変えることは難しいことではない。
なぜなら特別とは自分自身の中で思い入れの強いものを差す言葉であり、ただのものを特別に変えたいのなら自分の思いをそれに込めればいい話だからだ。
人は様々な思いを何かに込める。
ある人は古い記憶を懐かしむ気持ちを込め、またある人は未来に繋がる思いを込めるのだろう。そして澤田篤のように両親を大切にしたいという思いを込めることもまた、どこにでもある傘を“特別な傘”にさせる方法の一つであった。
「あなたたちは篤君がお二人を恨んでいたという・・・でも私はそうは思いません。そうでなければ、あんなちゃちな傘を大切そうに撫でていた彼の行動が説明できませんよね?傘を差したいんだと一生懸命その答えを探していた彼の行動も、ね?」
そう言って人々に笑いかける彰に答える者はいない。真実など誰にもわからないからだ。が、澤田篤が特別に思っていた大人の1人ある男、そして唯一彼と最後に会話をした男の言葉は他の誰が言うそれよりも説得力があるように思えた。
「澤田さん、私は篤君があなたたちの言葉を受けて今の状態を変えようとしたんじゃないかなって思うんです。あなたたちは今まで篤君の言葉を聞き流してきたといいましたよね?否定し続けてきたと・・・」
「はい・・・」
「でもそれは彼も同じだったのではないでしょうか?あなたたちがそうだと思うように篤君も思ったはずです。自分のことを考えてくれている両親の言葉を今までずっと受け入れてこなかった、理解しようとしてこなかった、って――」
彰は仏壇に納められている遺影に目線を移した。それに合わせて皆の視線もまた、静かな微笑を浮かべる少年へ向けられる。
「自分の考えを貫き通すことができる大人は少ないです。それは彼らが様々なしがらみに雁字搦めにされているからで、操り人形のような姿を滑稽だと嘲笑されてもおかしくはありません。けれどそれは平行線の未来を変えようとあがいた結果だと私は思います。」
「平行線の未来?」
「えぇ・・・何かを変えようとしたとき自分を取り巻く環境を変えることは並大抵のことではできません。自分の意志を貫き通すためだからと言って地球を火星にしてしまうことはできませんよね?自分1人の力で変えられる環境には限界があります。それなら自分の意志を変えるしかないでしょう?変えられるものを変えなければいつまでも膠着状態が続くだけなんです。突き破ることのできないほど分厚い壁の前で立ち往生していてもその状態が明日も明後日も続くだけで、引き返すことにより別の未来が待っていることだってある・・・篤君もそれに気がついたと思うんです。」
納得していなくても、逃避だと誰かに笑われても、未来を変えようとあがいた結果が常識に雁字搦めにされた社会の中で生きることに繋がるのならば、それはけして滑稽な姿だと嘲笑される対照にはならないはずだ。そして真っ直ぐで一途な子どもたちはいずれそれを繰り返すことで大人になっていくのだろう。子どもから大人に変ることで動きだす未来もあるのだから。
「篤君は普段使わない傘を使うことで、ほんの少し自分の日常を変えてみようと思ったのでしょう。それはたから見れば小さな変化なのかもしれません。けれど自分を変えようと決意していなければできない行動です。それほど傘を差さないという行為は彼の中で当たり前のことになっていたはずですからね?篤君の未来にはあなたたち二人の姿がいつも傍らにあって、だから彼は自分を変えようとしたのだと思います。すれ違いの未来ではなく、互いを理解して笑い合える未来に向かって・・・」
そう言って彰は笑った。
泣きながら、晴れ晴れとした表情で。
澤田篤がなぜ死んでしまったのかその理由を彼らが見つけ出すことはできないだろう。真実はもの言わぬ死者が黄泉の国までもっていってしまったのだから。が、故人が見せた様々な記憶の欠片は痛みと優しさを伴って生者を慰めるはずだ。死者が生きた証は人々の記憶の中にある。
「そう・・・ですか・・・篤は――」
少年の両親は嗚咽を耐えるように言葉を区切ると涙を流し続ける。
それは先ほどまでの後悔の念に彩られたものではなく、純粋に故人を悼む気持ちに溢れていた。
「ねぇ、澤田さん。篤君の話をしませんか?」
「息子の・・・話、ですか?」
「ええ。」
彰は二人に笑いかける。
「人は自分自身で未来に向かって希望を持つことなどできません。誰かの姿を見てそこに希望を見出すんです。誰かの言葉や仕草や考え方に自分の未来を重ねて、それが明日を生きる勇気につながるんです。篤君は・・・もうこの世にはいません。けれど私の記憶の中にある彼の仕草や言葉はきっと誰かの希望に繋がるものだと思うんです。彼の思いがあなたたちを後悔の念から救い上げたように、篤君の思いはこれからも誰かの希望となりえるかもしれない。だから話をしませんか?彼がどんな人だったのか、どんなことを思っていたのか、篤君を懐かしみながら、たくさんの人と話をしましょうよ、ね?」
未来を変える力は自分の中にある。
が、それを呼び起こすきっかけは自分の中にあるものではない。
マイナスの感情を抱える人間にいきなり希望を持てといったところで、そんなものをもてているのならばその者が不安や絶望にさいなまれているわけがないのだ。
自分の中にある希望を自分自身で見つけ出すことは並大抵のことではできない。
だからこそ人は自分ではない誰かの姿に希望を見つけ出すのだろう。
雨の中をさ迷っていた男の言葉が不安定な未来に悩む女を救ったように。
未来を受け止める覚悟を決めた女の言葉がその男に過去と向き合う勇気を与えたように。
そして、死者が残した記憶と思いが後悔を続ける彼の両親をかえたように――
誰かの思いは誰かの心に希望という名の灯火を分け与えていくのだ。
「澤田さん、私、篤くんの話をもっと聞いてみたいです。こんなことを言ったら失礼かもしれませんけど、篤くんって他の子どもたちよりずっと言っていることもやっていることも面白くて、私では到底思いつきそうのないことがたくさんあったんじゃないかって、わくわくするんですよ。だから話して聞かせてくれませんか?」
「藍那さん・・・」
そんな彼女の言葉にふっと目元をほころばせた彰。するとその後ろで、
「俺も知りたいッス!!」
「――ッ!?」
と渡辺がビシッと挙手をしながら身を乗り出した。が、パッと振り返る人々の視線を受けてたじろいだのか口元を引きつらせながら硬直する。
「――の、バカッ!!お前はなんでそう空気を読めないんだ!!」
「イテッ!!」
「いいか?お前の発言は大抵どうでもいいことなんだから、大人しくしてろよ。一緒にいる俺が恥かくだろうが!!」
「でも先輩!!俺、みなさんの話を聞いて思ったんッスよ。俺たちがしなくちゃいけない仕事って篤くんがなんで死んだのかってことを世間に知らせることだけじゃなくて、彼がどんな人だったのかってこととか、どんなことを思っていたのかってこととか、そう言ったものを伝えていくことじゃないかって!!」
「は?」
目を丸くした高木に渡辺はしどろもどろになりながら説明をする。
「えっとぉ、上手く言えないんッスけどね?俺たちの仕事って出来事を文字とか写真にして伝えることじゃないッスか。真実をあるがままに記すことが使命だと俺も思っていたんッス。でも、そもそも文字も写真も残したいと思う何かがあったからこそ生み出されたものじゃないんッスか?ただ真実や情報を伝えるだけでいいのなら、話して聞かせればいいことで、そうしないで文字と写真に表したってことは、その真実を後世に残していきたいと思ったからだと思ったんッス。だから俺たちはそれをただ単に書くだけじゃダメなんッスよ!!そこに含まれる残していかなくちゃいけないと思う何かを書かなくちゃ意味がないんッス!!少なくとも俺はそう思いました。」
「おまえ――」
グッと拳を握り締める彼の姿に高木は言葉を失った。
「先輩はどうなんッスか?俺は先生が言ったように篤君の生き方や行動に勇気付けられる人がまだまだたくさんいると思うんッス。だから彼の死の真相よりもっと彼という存在自体を文字に残したい。それが俺が今やらなくちゃいけないことだと思うから――」
渡辺はそう言うと俯いてしまった。自分の発言に自信がないのだろう。今までの価値観とは異なったそれを口にするには確かなものなどなく、ただ単に自分の気持ちに素直に従っただけの話なのだから。けれど、
「だ、そうです、澤田さん。」
と言って高木は笑った。
「聞きましたか?こいつは本当にバカで、言葉遣いもなっていない奴なんです。やることもとろいし、相手に自分の意見をはっきり伝えることもできない。でも仕事にかける情熱だけは人一倍あるんです。だからあつかましいことを承知でお願い致します。どうかもう一度取材させていただけませんか?篤君の死の真相を究明するためではなく、彼がどんな人物だったのかをもっと多くの人に知ってもらうために、もう一度話を聞かせてください。そしてそれを記事にさせてください。お願いします。」
高木は頭を下げた。
両手を畳につけ、まるで神々に許しを請うように深々と。だから澤田篤の両親もそれにならって深々と頭を下げた。
“こちらこそお願いします”と。
それは今までとはほんの少し違う未来をそれぞれが歩き出した瞬間だった。