開演
雨が降っていた。
ぱらぱら ぱらぱら
全てのものに降り注ぐように。
ボクは傘を持っていた。
なぁ~んてことのない
百円で買ったちゃちなビニール傘を。
でもね?
ボクはそれを差そうと思わなかった。
雨に濡れることを厭うほど偉大なニンゲンではないし、
もとよりそれが好きな性分だったのだろう。
だからボクは歩き始めたんだ。
それを手に持ったまま、ね?
****
「内閣総理大臣の献金問題で、検察側は現総理大臣である矢島 哲夫内閣総理大臣を書類送検―」
プッ
「本日午前二時三十四分ごろ、杉並区烏丸町にあるコンビニエンスストアーで強盗事件が発生しました。犯人は―」
プッ
「先日報道された中学生の自殺疑惑について学校側は保護者に対し謝罪を行い、担当教員であった男を―」
プツンッ
ブラックアウトした画面に頬杖を付いた無表情な女―いや、この部屋の主である女の顔が映る。
彼女の名前は須藤藍那。このアパートから二駅ほど離れた場所にある中堅の印刷会社に勤めているデザイナーだ。といっても、過疎化が進行しているような都市の中での話では、たいした自慢にもならないだろうが。
「ふぅ・・・」
藍那は睨みつけていたテレビ画面から目線を外すと、小さなため息を吐き出してソファの背もたれに深々と体を沈めた。このソファは彼女が吟味に吟味を重ねて買った一品であるだけあって、なかなか座り心地がいい。疲れた体を真綿でそっと包み込んでくれるような感覚は癖になるものだ。
しかし目を閉じている藍那の表情はけして安らかなものではなかった。キュッと眉間によった皺は一向に緩む気配を見せず、口元は阿吽像のように引き結ばれているとくれば、少しくらい鈍感な者でも彼女の機嫌がよくないことは推し量れたに違いない。
彼女は苛立っていた。
五階建てのアパートの最上階にあるこの部屋は、周辺に田畑が多いためか交通量が少なく静かだ。唯一の音源であるテレビの電源を切ってしまえば聞こえてくるものはささやかな鳥の鳴き声か、もしくは学校帰りの子どもたちの奇声ぐらいで、日曜日の午後、朝から雨が降り続いているといえばそれすら聞こえてこない有様だった。さぁっと微かに聞こえる雨音が静寂に拍車をかけている。
だから藍那はその静寂から逃れるようにテレビをつけたはずだった。何か面白い話題でもあれば、静かな室内の様子を気にすることもなくなると考えたのだ。けれど、藍那の期待に反して聞こえてくるニュースはどこかで一度は聞いたことがあるような内容ばかりで正直つまらない。
そもそも不景気真っ盛りの最近ではコンビニ強盗も珍しくはないし、政治なんて腐っているのが当たり前。子どもの自殺にしても昔ほどセンセーショナルな話題ではなくなってしまったとくれば、このどこに興味を喚起させるものがある?
所詮は『人ごと』でしかない。ふっと一瞬目を奪われ、次の瞬間には簡単に頭から離れてしまう程度の代物で、藍那にとっては自身が暮す国の政治も、同じ県内で起きた強盗事件も、そして隣町で起きた学生の自殺疑惑ですら「どうでもいいこと」でくくられてしまう程度のものだった。
「ちぇっ・・・・・・役立たず。」
藍那は役目を終えた家電製品に小さく舌打ちをすると、さすがに床に叩きつけるだけの勇気はないのか、手に持っていたリモコンをソファの上に放り投げた。
テレビはさして面白くはない。
静寂はいまだ彼女とともにある。
「あぁーーーッ、やめやめ!!うだうだしてても腐っていくだけでしょッ!!」
彼女はグシャグシャと自身の頭を掻きむしるとスッと勢いよく立ち上がった。そして、スタスタと部屋の中を歩き回り、財布と携帯を引っつかむと体をくるりと反転させてブラックアウトしているテレビ画面と向き合った。
「あんたの言いたいことはよぉ~くわかった!!お望みどおり出て行ってやろうじゃない。幸い、雨は嫌いじゃないしね?」
藍那はふっと息をつくような笑みを一瞬浮かべると、流れるような仕草で視線を窓ガラスへと移す。
叩きつけられてすぅっと壁面を滑り落ちていく雨粒はまるで誰かが流す涙のようだ。頬を音もなく滑り落ちていく涙のようで、きっとこの瞬間、静かに泣いている人がいる。
藍那はさっと身をひるがえし、玄関に立てかけられていた傘を手に取った。
そして、それは奇妙な男との出会いの一歩だった。
***
ぱらぱら ぱらぱら
雨が降る。
ボクは両手を頭上で組みご機嫌斜めな空に向かって口笛を吹いた。
少し調子の外れたメロディは雨粒の中をヒラヒラと舞い踊り、
容赦なくそれに叩き落される。
自分の口笛はぶかっこうで、下手糞で、滑稽で――
ボクはクスクスと小さく笑っていた。
それを見てすれ違う人々がさりげなく自分と距離をとる。
ははぁ~ん、完全に変人扱いというわけだ。
「ふっ・・・アハハハッ!!!」
それがおかしくてボクは大声で笑った。
探す答えはまだみつからないけど、ね?
***
人は一生のうちに一つくらい大きな決断が迫られる時がくるものだ。それは就職だったり、結婚だったり、はたまた別れ話だったり人によって様々なのだろう。誰もが選べなかった選択に未練を残しながら、それでも何かしらの『答え』を出している。時間をとめることができないかぎり決断を下す場面は必ず来てしまうのだ。選ばないままで未来を過ごすことはできない。
そして、それは藍那にも言えることで、彼女は酷く迷っていた。
藍那はデザイナーの仕事をしている。が、その傍らで学生時代から追いかける夢があった。彼女はいつか舞台女優になりたかったのだ。
パッと自身を照らすライトの中で、誰にも表現できない別人になりきって、舞台の端から端を飛び回る。そして、われんばかりの拍手の中で満面の笑みを浮かべることが彼女のあこがれ続けている瞬間で、それを達成するために当事から様々なオーディションに応募しては落選を繰り返す日々を過ごしていた。
だから今の仕事も大学を卒業する段階で食いつないでいくためだけに仕方なく選んだものであって、彼女はこの仕事を続けていく気などさらさらなかった。その証拠に就職してすぐに町にある小さな社会人劇団に入団して、仕事終わりにささやかな稽古を行っていたのである。少しでも自身の夢の欠片に触れていようと必死で、それが数年前までの彼女の姿だった。
けれど、思いは少しずつ風化していき、夢は様々な経験を経て形を変えるものだ。
藍那の中にあるギラギラとした夢への執着はいつしか繰り返される日常の中で埋没し、それとは別にデザイナーとしての仕事に誇りを感じるようになっていた。何度も流した悔し涙は彼女を着実にプロへと育て上げた。何年もかけて彼女が築き上げてきたものは経験でも手腕でもなく、信頼だ。彼女は信頼されているからこそ仕事を任されるようになり、信頼されているからこそ仕事が増えた。そしてより多くの信頼を得ている人こそがプロと呼ばれ、誰かに代わって何かをすることが許される存在になる。彼女はいいものをよりよく見せるプロだった。そして、夢の欠片を得るためだけに入団した劇団も彼女の気持ちに変化をもたらす要因となった。
藍那の所属する社会劇団はその公演の殆どがボランティアで、養護学校や老人ホームでの活動が殆どをしめている。もちろん、きちんと設備の整った劇場とは程遠い機材を活用して行われる公演は、当時彼女が思い描いていたものよりもずっとちゃちなもので、はっきり言って満足できるものではなかった。が、それが楽しく思えるようになったのは、丁度仕事が軌道に乗り始めたころからだった。
夢が変わったわけではない。
それは今なお彼女の心の灯火であり、諦めたつもりも、諦めるつもりもないものなのだ。そう、藍那は夢と仕事とのバランスがとれるようになっていた。夢を追いかけるには仕事が邪魔で、仕事をこなすには夢が邪魔で、そういった気持ちのバランスを取ることができるようになっていたのだ。
だから彼女の世界は充実していた。
あんな急な話がまいこんでくるまでは――
「は?」
そう返事をした藍那は二重瞼の大きな瞳をさらに見開き、パチパチとせわしなく瞬きを動かしては呆けた顔を惜しげもなくさらしていた。人間本当に驚いたときは大した反応が返せないとはよく言ったもので、彼女は躾のされた犬のようにピタッと硬直している。それを見て顎鬚を蓄えたガタイのいい中年親父が大仰に肩をすくめてみせた。
「まっ、驚くのも無理はないと思うけどな?いつまでも間抜けな面さらしていないで、口を閉じろ。口を。」
ペシッ!!
丸めた台本で頭を叩かれて、藍那はハッと我に変えった。目の前にいる山伏を連想させるこの男こそ、藍那が入団する社会人劇団の団長、山脇信彦その人だった。
「あのぉ~、団長?それって私の聞き間違え・・・じゃないですよね?それこそ私をからかっているとか?」
不振もあらわな藍那の視線を受けて、信彦は苦丁茶を一気に飲み干したときのようななんともいえない複雑な表情を見せた。
「お前失礼なやつだなぁ。俺が人をからかうことができるようなヤツに見え――」
「ます。どう考えても団長の冗談としか思えないような話じゃないですか!!だいたい私はあなたほど悪戯好きな人を見たことありません!!」
「はぁ?オレがいったい何をしたっていうんだ!!根拠もないのに人を悪く言うのはよくないことだと学校でならっただろう?」
ピシッと丸めた台本を突きつけられて、彼女は後ろに仰け反りそうな体をグッと堪えた。どうやら持ち前の頑固さと負けず嫌いな性格がそのまま行動に現れたようだ。
「団長こそ人を指差しちゃいけないって学校で習ったでしょう!!そもそも、この間も稽古場の休憩室にある冷蔵庫にあった牛乳にいたずらをしたのはあなたでしょうが!!」
「牛乳?あぁ、あれか。言っておくけど、オレは悪戯したわけじゃないぞ?ただ牛乳が二口もないくらい少なかったから水を入れて嵩増ししただけで、いわばお前たちの飲み物を確保してやったんだから、感謝されこそすれ、悪戯呼ばわりされるいわれはない。」
そういいきって胸を張る信彦の態度を見て、藍那の瞳がキッと鋭さを増す。
「冗談じゃない!!あの牛乳がどれだけ不味かったかわかります?口に含んだ瞬間全身に広がったいいようのない不快感がどれほどだったか・・・私はその後しばらく気持ち悪くてしかたなかったんですからね!!」
藍那はそう言って信彦の手からパッと台本を奪い取り、先ほど彼がしたようにピシッと相手に突きつけた。信彦の顔に呆れの色が浮かんだ。
「あのなぁ、言わせてもらうが、そんなの確認もしないでパックに口をつけてのみほしたお前の責任だろう?そもそもきちんと行儀よくコップに移し変えて飲めば、色の薄い牛乳に気がついたはずだ。恨むのならオレじゃなくて、ずぼらなお前自身を恨め。」
「うぅ~」
そう言われてはぐうの音もでない。
藍那は自身の行動が褒められたものではないことをきちんと理解していたのだから。
言葉を失った彼女の前で、信彦は大きなため息をついた。
「はぁ~、そんなことでギャーギャー騒いでる場合じゃないだろう、お前は。どうするんだ?」
「どうするって・・・そんな―」
言葉を濁した藍那に信彦の鋭い視線が突き刺さる。
「オレは先方から言われたことをそのまま伝えただけだ。向こうはお前が気に入ったらしい。なんでも、県が主催で行っている劇団フェスティバルでお前の演技を見て興味をもったんだと。俺たちの劇団もあのイベントで何回か公演しているから、たぶんそのときにでも主役はってたお前を見たんだろ。よかったな!!」
「団長・・・」
藍那は酷く頼りない表情をのぞかせた。
「どうしたんだぁ?そんなうかねぇー顔して。チャンスじゃないか。東京にある劇団、それも一般人でも一度は聞いたことあるような有名なそれにスカウトされるなんて、そうそうないことだぞ?しかもこんな田舎の小さな劇団が先方の目に触れること自体滅多にあるもんじゃない。お前は運がいいんだ。」
ポンポンと肩を叩かれて激励されるのだが、彼女の顔に笑みが浮かぶことはない。俯いた顔はまるで迷子になった子どものようだった。
「スカウトなんかじゃありません・・・ただそこで稽古をつけてみないかっていう話だけなんでしょう?そこから舞台女優になれるかどうかはまだやってみなければわからない・・・自分に才能があるのかどうか、舞台女優として芽が出るかどうかは、今回の話とはまた別の問題です。」
そう言った藍那の言葉を受けて信彦の瞳がふっと和らいだ。
「いいか、アイナ?チャンスってのを得るためにはリスクが伴うんだ。だからこそ成功すれば見返りもデカイ。そして世の中にはそれを求めていくつもリスクを背負いながらチャンスを得るやつもいれば、リスクを恐れてチャンスを自ら手放すヤツもいる。お前はリスクを伴うのはイヤか?」
「・・・・・・」
問いかけに答える声はなかった。が、彼は二イッと笑って大きな手で藍那の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「なっ!?団長!?」
「ハハハッ、お前は真面目すぎるんだよ。誰だってリスクを伴うのは嫌にきまっているじゃねぇーか。それこそ、いろんなものをお前は持っているだろ?」
「私が?」
「あぁ。お前、言っていたじゃねーか、仕事はすこぶる順調だって。やっと一人でまかされるようになれたって喜んでいた。でも、この話を受けるってことは、今お前を取り巻く環境をすてていかなけりゃぁならねぇ。向こうで安定した生活ができる保障もねぇ。そんなリスクを恐れないヤツがどこにいる?お前は、何も知らないガキじゃねぇだろ?」
「そりゃまぁ・・・」
乱れた髪を手櫛で整えながら口を濁す藍那のはっきりしない物言いに、信彦がクッと眉間に皺をよせた。
「なんだそのはっきりしない態度は!!言いたいことがあるなら言ってみろ。」
その言葉を受けて藍那はひたと相手を見据える。
「じゃあ、言わせてもらいますけど、それって覚悟がないってことなんじゃないんですか?夢を追いかけるだけの覚悟がないからリスクを恐れている。そんな半端な気持ちで何かができるとは思いません。不確かなものに挑む勇気がない臆病者には成功なんて訪れないと私は思います。」
真っ向から挑まれた視線の強さに信彦は大きく見開いた瞳を一度瞬かせ、次の瞬間には豪快に笑いだした。
「ふ、アハハハッ!!」
「団長?」
「わりぃ、わりぃ。でも、お前・・・そんな、クククッ。」
「団長!!」
地団太を踏む藍那を片手で制止ながら、彼は笑いすぎて目元にたまった涙を指でぬぐった。もう一度彼女と向かい合った信彦の顔にはかみ殺した笑みが残っていた。
「いやぁ、まさかお前からそんな言葉が聞けるとはなぁ。もう少し冷静な人間だと思っていたんだが・・・案外お前も子どもっぽいところがあるというか、なんというか。」
「余計なお世話です!!」
「まぁ、そんなに怒るなって。お前のいいたいこともよくわかるからな。」
ポンポンッと軽く頭を叩かれて藍那は自分が幼い子どもになったような気持ちになった。それは5歳になったばかりの団長の愛娘にとる行動と同じだったのだ。
「確かに成功を望むなら覚悟は必要だ。それがなくちゃぁ、つらいことを乗り越えていくことはできんだろう。目の前に立ちはだかる壁を見た瞬間に諦めちまうからな。でもな?覚悟と無謀は違うんだぞ?なんの計画もなく、ただ気持ちのままに突っ走ることが覚悟ってわけじゃねぇ。お前は社会の中で生きていかなくちゃいけねぇんだから、最低限の義務を果たす必要があるし、突っ走った結果、誰かに迷惑をかけるようなことになるなら、それは覚悟なんかじゃなくて、無謀な行動っていうんだ。ただ無茶やっているだけが覚悟なら、世の中成功している人間がもっといてもいいと思わないか?」
悪戯っぽく笑いかけられる瞳を藍那は呆然と見返していた。
「今の環境を捨てていくのにお前はこの場所に多くのものを持っている。仕事も、家族も、友人も。そして、地位や名誉やプライドも。お前をここに縛り付けるだけの要素はいくらでもある。そして、それを放り投げて突き進むことだけが覚悟だとはオレは思えねぇ。少なくともお前の決断は自分1人に影響するもんじゃねぇだろ?」
「・・・・・・そうですね。」
「だからお前がいろんなリスクを考えちまうのは当然なことだとオレは思う。そして、それはお前が必死になってこの場所でいろんなもの手に入れてきた証で、辛い時も耐え抜いて自分の居場所を作ってきたお前の成果だと思うんだ。」
「・・・・・・」
藍那はすっと信彦の隣を通り過ぎると、彼の後ろにあった窓の傍に立った。二階建てのそこから見下ろす道路にぽつり、ぽつりと小さな円形の染みが浮かぶ。どうやら雨が降り始めたらしい。
「団長――」
「ん?」
「私の夢は舞台女優になることです。」
「あぁ。」
「でも、それを目指すにはいろいろなものがこの場所にはありすぎて・・・。私はこの生活に満足しています。そりゃぁ、不満がないかと聞かれれば小さなそれはいくらでも見つかると思うけど、それでも無理やりにでもここから脱却したいと思ってはいなかった。そんなこと考えていたならとっくに私はここにはいないから。」
「あぁ――」
「だから、選べないんです。選べない・・・」
「そうか・・・」
外を眺め続ける藍那の表情は分からない。だから、その背中に向かって信彦は話しかける。
「今はまだ選ばなくていいさ。どうせ相手が答えを聞きに来るのなんて二ヶ月も先の話だ。答えなんてもんは、出さなくちゃならねぇときになれば、どんなに駄々をこねたって出すしかなくなるもんだろ?なら、今からジタバタしてもしょうがない。そう思わないか?」
軽やかな口調。
振り返った藍那の顔には苦笑いが浮かんでいた。
***
「だぁ~かぁ~らぁ~、これは雨じゃなくて水たまりっていうんだって!!」
「――ッ!?」
いきなり耳に飛び込んできた甲高い声にハッと我に返る。
丁度一ヶ月前に信彦と交わした会話の内容を反芻していた藍那はまるで夢から覚めたアリスのようにきょとんとした顔をさらしていた。霞がかかったようにおぼろげな風景を作り出している雨の残像は現実感を希薄にさせるもので、藍那は一瞬自分が今どこにいるのかを忘れていたのだ。いや、そもそもどこにいるかなどわかっていなかったのだろう。役に立たないテレビに腹を立て、家を飛び出した彼女はずっと過去を反芻しながら当てもなくふらふらと歩いていただけなのだ。どの道をどう歩いてきたかは記憶に残っていなかった。
「でもさ、これって雨からできているんでしょう?だったら、雨って言ってもいいと思うんだけどなぁ?」
パタパタと雨が傘を打ち付ける音に混じって微かに聞こえてきた声は、先ほど聞こえたものよりもずっと低く、落ち着いた色をしている。そして、なによりそれは雨によく溶け込むものだった。
藍那は俯いていた顔をヒョイッと上げて辺りを見回す。すると、人通りも少ない住宅街の一角で黄色い合羽を着た5,6歳の男の子と、全身ずぶ濡れの男がお互いをひたと見据えている姿が見て取れた。
かたや一方は睨みつけるような視線で、もう一方はそれとは対照的に穏やかな瞳で。
2人の顔は真剣そのものだった。
「おじさん雨って言葉をじしょでしらべたことある?雨っていうのは『上空の水じょうきが水てきとなっておちてくるげんしょうまたはその水てき』ってなっていて、おじさんの足元にあるそれは水たまりなんだって!!ボクの言っていることわかる?」
男の子はそう言ってまるで大人がするように額に軽く手を当てて「はぁ」と、ため息をついてみせた。ともすれば、それは男をバカにしているような態度にも見える。が、ため息をつかれたとうの本人はまったく気にした様子がなく、パッと花が咲くように笑った。
「へぇ~、最近の子どもはすごいんだなぁ。そんな細かいところまで俺は知らなかったよ。うん、うん、すごいことだ。あっ!?」
「な、なに?」
「いけない、いけない大切なこと忘れていた。言わせてもらうけど、俺はまだおじさんなんて言われる歳じゃないからね?ほら、髪もちゃんと生えているし、お腹だってでてないでしょう?」
のほほんと笑う男はそう言って雨で顔に張り付いていた前髪をチョイチョイッと引っ張って見せた。
それを見て藍那はなるほど、と一つ頷く。確かに男のクリッとした瞳は子犬のような愛らしさがあり、顔つきもどこか幼さを残しているように見えたのだ。もっとも、ただ単に頼りない風貌をしているといっただけなのかもしれないが。
「確かに君が言っているとおりなら、俺の足元にある水は雨とはいえないかもしれない。でもね?これってもとは小さな雨粒だったんだよね?雨だったわけだ。」
「うん、そうだね。だから?」
「んー、口で言うのは難しいけど、だから、俺たちの目には雨が一つになっちゃったように見えるけれど、本当は押し競饅頭しているみたいに、雨がお互いにピタッてよりそっているだけなんじゃないのかなって思うんだ。そう考えればこいつらは水滴の集まりで、やっぱり雨ってことになるよね?それも一つの答えなんじゃないかなって俺は思うんだけどなぁ。」
そう言って鉛色の空を見上げた男の顔に雨粒が降り注ぐ。それは男のすべらかの頬を流れ落ち、首筋を通って彼の着ていた服にしみこんで消えた。
「だから雨に打たれて全身ビショビショの俺も、体に雨粒をつけて歩いているってわけで。大げさに言えば今の俺は雨なのかもしれないよね?」
まるで悪戯の成功した子どものような笑み。
男はひどく楽しそうだった。その様子を男の子がじっと下から見つめている。
「・・・・・・おじさんってさぁ。」
「ん?」
「変人ってよくいわれるでしょ?」
「は?」
男は一つ瞬きをした。
「だって言っていることも変だけど、やっていることも変だもん。ボク、はじめて変人なんて見たけど、思っていたよりずっとまともな格好しているんだねぇ。」
男の子はそういって、まるで珍獣でも眺めるかのように上から下まで男を眺めながら彼の周りをぐるぐると歩く。男は何を叱られたのか分かっていない子犬のような表情を見せていた。
「えっとぉ、変人って俺のこと?」
「うん。他にだれがいるっていうのさ。」
「えっ!?そうだなぁ、あそこにたっているお姉さんとか?」
「――ッ!?」
鷲色をした男の瞳といきなり視線がかち合ってドキッと藍那の心臓がはねる。が、男の意識はすぐに目の前の幼子へと戻されていた。
「どうしてお姉さんがでてくるんだよ!!関係ない人までまきこむなって!!だいたい、今、ボクと話しているのはおじさんなんだから、おじさんにきまっているでしょ!!」
「う~ん、そうかなぁ?」
「そうだよ!!」
首をかしげた男に少年は鋭い視線を送る。
男は到底納得したとは思えない顔をしていた。
「君はそうやって断定するけど、俺のどこが変人だって思うのかな?別に変な服装をしているわけでもないし、奇妙な声を上げた覚えもないよ?」
「そりゃぁ、そうかもしれないけどさ。変人じゃないならどうして傘を持っているのに差さないの?おじさん、びしょびしょじゃんか。」
その言葉を受けて、藍那は初めて男がこうもり傘を手にしていることに気がついた。どうやら、彼はそれを使っていないようで。男の体は髪から服にいたるまでぐっしょりと水を吸っており、彼が長時間雨にさらされ続けていたことを物語っていた。
「うーん、これもまた難しい話なんだけどね?」
腕を組んだ男の眉間に皺がよっていた。
「普通傘って雨に濡れないためにもつものでしょう?」
「うん。」
「でも、俺は雨に濡れることが嫌いじゃない。だから傘を差す必要を感じないんだ。別に濡れてもいいやって思っているから、本当は傘を持つつもりなんてないんだけどね?俺が傘を持たないで外に出ようとすると、必ず誰かが傘を持たせようとするんだ。雨に濡れないようにって、誰かが声をかけてくれる。そしてそれは君が合羽を着ている理由と同じこと――」
「え?」
彼の手がそっと男の子に伸びて、
「その雨合羽はさ。きっと君のお母さんが、雨に濡れて寒い思いをしないようにって着させてくれたもので、君はお母さんの優しさを着ているってことなんだ。」
外れかけていた雨合羽の胸ボタンを締めなおす。
「そしてそれは俺にも言えることで。この傘は誰かの思いやりそのものなんだ。だから、これを置いていくわけにはいかないし、本当なら使ってあげたい。でもさっきも言ったとおり、俺は雨に濡れるのが嫌じゃないから使う必要がないでしょう?だから俺は探しているんだ。俺がこの傘を使う理由――思わず使いたくなる理由を探している。俺の言っていること分かる?」
幼子を見つめる男の表情は酷く柔らかいものだった。それを受けて男の子がそっと目を伏せた。
「なんか・・・」
「なんか?」
「むすかしいね。おじさんの持っている傘が『思いやり』だっていうなら、差してあげればいいのに。」
そういって口を尖らせる男の子に彼は声を立てて笑う。
「ハハハッ、そうだね。そうすることがこの傘にとって一番良いことなんだと思う。でも、もう少し考えてみたいんだ。雨に濡れないために傘をさすのではく、もっと別の理由――俺の納得できるような『答え』を探し出したくて、だから今日もそれを探して俺は雨の中を歩こうと思う。」
彼はそう言って雨合羽の上から少年の頭を撫でた。その顔には小さな笑みが浮かんでいて、けれど瞳はとても寂しそうで。
男の体は微かに震えていた。
季節は7月。いくら真夏間近だからといって長時間雨に打たれ続けては体が冷えてしまうのも当然だ。唇の色は悪く、心なしか顔色も悪い。寒いわけがなかった。が、それでも彼は歩き続けるのだろうか?
このどしゃぶりの雨の中を?
1人で?
ふっと藍那の中にそんな疑問が浮かんだ。そして、それは歩き続けるのだろうという妙な確信へと変わる。
藍那には男の気持ちが少し分かるような気がした。彼女もまた、『答え』を探して雨の中をさ迷っている者の1人なのだから。
「そうだ!!君はどう思う?」
「え!?」
男は体を折り曲げてずいっと男の子に顔を近づけた。
「君だったらどんな答えをだすのかなって、思ってさ。何でもいいから言ってみてくれない?」
「えぇぇッ!!?そ、そんな急なこといわれても・・・」
少年はよりいっそう顔を近づけてくる男から逃げるように背中をそらしながら後ろに下がるのだけれど、そんなことおかまいなしの男は逃げるその手をギュッと突かんで拘束してしまう。彼の瞳は期待に輝いていた。
『不味いわね。』
藍那の眉間にキュッと皺がよる。
男は人気も少ない住宅街の中で目立ちすぎていた。そもそも全身ずぶ濡れの時点で注目を浴びるというのに、それに加えて傘を使っていないという事実が彼をよりいっそう奇妙な存在へと変えていたのだ。はたから見れば男はただの変人でしかない。その変人がまだ幼い少年の手を拘束し、しかも相手が彼から逃げようとしているとくればどうなるだろう?
事情を知らない人が見れば変体がいたいけな少年を連れ去ろうとしているように見えても仕方がないというものだ。
藍那は先ほどから視界の端でヒソヒソとなにやら話をしている中年の主婦が気になってしかなかった。彼女たちの瞳に宿るのはけして藍那が男に感じている親近感とは程遠いもので。
彼に向けられているものは敵意だった。
「ちょっと、そこのあなた。」
「はい?」
「――の、バカッ。」
藍那は小さな悪態をつく。お約束というか、案の定というか、男の肩をポンッと叩いたのは紺の制服に身を包んだ中年の警官だった。人好きのするような人のいい笑顔を浮かべながら、そのくせ隙のない鋭い瞳が男を観察している。
「えっとぉ、何かごようですか?」
「いえ、たいしたことじゃないんですけどね?少しお話を伺いたいと思いまして。」
「えっ!?」
男はビクッと肩を跳ね上がらせると、大きな瞳をさらに見開いて硬直した。男の子が不安そうにその様子を見上げている。
「あっ、すみません。どうぞ?」
「あぁ、そんなに緊張なさらないで。ただ、びしょ濡れで寒くないのかなって思いましてね?傘が壊れているようならこちらでお貸しいたしますよ?タオルも用意いたしましょうか?」
不自然なほどにニコニコとした笑顔を撒き散らす警官の言葉に彼は小さく首をかしげた。
「はぁ、これはご親切にどうも。でも、傘も壊れていませんし、濡れることも嫌ではないので、ご心配には及びません。ありがとうございます。」
「へぇ、壊れていないんですか。」
「え?まぁ?」
スッと細められた警官の瞳。
藍那ははぁっとため息をはいた。聞かれるままにバカ正直に答える男が不憫でならなかったのだ。
「そういえば、そちらのお子さんはあなたの?」
「いえ、先ほどあったばかりですけど?」
「ここで?」
「ええ。ここで。」
「ふぅん。あのぉ――」
「あなたっ!?」
警官の声を遮るように甲高い声が当たりに響いた。と、その場にいる全ての視線が声のしたほうに向けられる。
セミロングの髪を揺らしながら男に駆け寄ったのは藍那だった。
「あれほど傍を離れないでっていったのに!!どれほど私が心配したと思っているの!!」
「えっ!?」
「『え?』じゃないわよ!!ちょっと目を放した隙にどっかいっちゃって。今までずぅっと探していたんだからね?」
「はぁ・・・そう、なんですか?それは、そのぉ、ごめんなさい?」
疑問符を頭上に浮かべながら謝る男の態度に藍那の瞳が吊りあがる。彼女は迫力のある表情でグッと男に詰め寄っていた。
「もう!!謝るくらいならなんでどっか行っちゃったのよ!!」
「えぇぇっ!?なんで、って・・・それは――」
男に答えられるわけがなかった。彼にしてみれば藍那は会ったこともない女性で、それは彼女にしてもまた同じことだったのだから。
藍那は男が陥っている窮地を救うべく、得意の演技でこの場をごまかそうと画策していた。男の行動を全て病気から来る奇行としてしまうことを思いついたのだ。
そのためには男が情緒不安定であることを警官に伝える役所が必要で、彼女は夫を献身的に支える妻を演じることで、その同情をかうことにする。そのためにも男がさも大切な人であるように演じなければならない。
一度目を閉じて、それを開いたとき、藍那の顔は男の妻そのものに変わっていた。
さぁ、舞台の始まりだ。
「あぁ、ごめんなさい、取り乱したりして。あなたの顔を見たら安心して、それで・・・驚かせたりしてごめんね?」
「あ、うん。」
「あーあ、こんなにびしょ濡れになって。傘は使わなかったの?って、あなた雨が嫌いじゃないものね?」
優しい彩を宿した瞳でふわりと微笑みかければ、男もつられてふっと小さく笑んだ。童顔の男が笑うと幼い顔がさらに幼く見えて、藍那はまるで子どもを相手にしているかのような気持ちになる。だから彼女は無意識に我が子にするように男の濡れた頬をいたわるようにそっと撫でていた。男の体は想像していたとおりに冷え切っていて、
「――ッ!?」
「ありがとう――」
彼は彼女の手をとると、もう片方の手で藍那の頭をポンポンッとあやすように叩いた。その演技ではない優しい仕草と眼差しに一瞬素の表情が現れる。
2人の視線は真っ向からぶつかり合っていた。が、
「あのぉ。すみませんけど・・・」
と、その世界に割り込むように、遠慮がちにかけられた声に藍那はハッと我に返る。肝心なもう1人の登場人物の存在をすっかり忘れていたのだ。彼女はすぐに表情を引き締めた。今は、演技中。プロを目指す身として私情を挟むことは許されない。
警官と向き合った藍那は献身的に夫を支える妻の顔に戻っていた。
「すみません。夫がご迷惑をおかけしたようで。」
「夫?あなたはその男性の奥さんなんですか?」
驚きもあらわな警官に小さく頷くことで彼女は応えた。俯きながらギュッと握り締められた拳が微かに震えている。
「実は・・・夫は今、お医者様に情緒不安定と診断されていまして。ほら、この町で中学生の自殺疑惑事件が起きているのをご存知ですか?」
「あぁ、連日ニュースで取り上げられている?」
「はい・・・夫はその子の担任だったんです。彼が亡くなった日も直前まで話しをしていて、それなのに彼を止められなかった自分を酷く責めて、責め続けて、それで病気に――」
「――ッ!?」
藍那の言葉に男は大きな瞳をさらに見開いた。そうなるのも無理はない。いきなり現れた女性に夫呼ばわりされ、その上病気を発祥しているなどといわれては男の面目はまるつぶれもいいところだ。さらに、ニュースで取り上げられている事件の関係者にされてはいい気持ちはしないだろう。が、これが男を救う一番の理由で方法だと彼女は思っていた。
実際男は真面目そうで、カッコイイというよりはさわやかといったイメージの風体をしており、変な行動を取っていなければ好青年で通る雰囲気を持っていた。教育者といわれても違和感はない。それに、警官が知っている話題が病気の原因だったほうが早く彼を納得させやすいはずだと彼女は考えていた。
藍那は何気なしに見ていたありきたりなニュースの内容を覚えていた自分の記憶力にほくそ笑むと同時に役立たずだと思っていたテレビを少しだけ見直した。
「もし、ご迷惑をおかけしたのならば謝ります。でも、夫を責めないでください!!お願いします。」
瞳に涙をたたえて必死に頭を下げる藍那に慌てたのは警察官で
「お、奥さん、そんなに頭をさげないでください!!旦那さんが何かをしでかしたわけではありませんし、ね?」
「でも・・・」
「私としては素性がはっきりしていればそれでいいんです。奥さんがこの方の身を保障してくださるのでしょう?」
「もちろんです!!」
息をまく藍那に警官はふっと息をつくように笑った。
「なら問題ない。私のほうこそあらぬ疑いをかけて申し訳ありませんでした。そのぉ、旦那さんが早くよくなるといいですね?」
「あ、ありがとうございます!!私、頑張りますから!!」
勢いよく腰を折り曲げた藍那は警官の見えないところで口元を小さくほころばせた。舞台は藍那の描いた台本どおりに進行していた。が、じぃっと自分を見つめるもう一つの視線に気がつき、ギクッと心臓が跳ね上がる。警官からは死角になっていた表情が男の子からはよく見える位置にあったのだ。まるで何かを見定めるかのような力強い眼差しが彼女の横顔につきささる。
『うぅ~、油断した。子どもが一番侮れないって団長にも言われていたのにぃ~。』
藍那は引きつりそうになる顔を何とか堪えながら妻の表情を保つことに専念する。
子どもは聡い生き物だ。
理屈が通用しないからこそ、うわべだけの言葉や表情はすぐに見破られてしまう。常識や理性が通用しないからこそ、それらに惑わされてはくれない。そしてそれは大人にはない強さであると同時に、誰かを平気で傷つける凶器でもあって。
「お姉さん、本当にこの人の奥さんなの?」
といった具合に、意図せず藍那の逃げ道を塞ごうとするのだからたちが悪い。とはいっても、こんなことは即興劇において日常茶飯事なことで、彼女は動揺する心を無理やりねじ伏せた。相手がどんな応えを返してきてもそれに瞬時にあわせることができなければ一流とはいえないのだから。
「えっとぉ、あなたは?もしかして、この人の相手をしていてくれたのかな?だったら、大変だったでしょう。この人ったら、あの事件以来すっかりわけのわからないことばかり言うんだもの。何か変なことを言われたんじゃない?」
腰を屈めて男の子と視線を合わすと、彼は人見知りをするそぶりも見せず、真っ直ぐと藍那を見つめ返した。困惑した表情は警戒心の表れであるようにも見えた。
「変なことって・・・お姉さんだって知っているはずでしょ?さっきからずぅっとそこにいて、ぼくたちのことを見ていたじゃんか!!本当にこの人の奥さんならその時にでも声をかけていたんじゃないのぉ?」
「なっ!?」
そうくるか、と藍那は一瞬言葉を詰まらせる。が、すぐにでもそれに「ふふふ」と小さく笑うことで応えた。
「あらあら、バレちゃったみたいね?なんだか盗み聞きしていたみたいで申し訳なかったから隠そうとしたんだけど・・・とぼけてごめんなさい。本当はすぐにでも声をかけようかと思ったのよ?でも、この人があまりにもあなたと楽しそうに話していたから、声をかけそびれちゃった。なにしろ、楽しそうにしている姿なんて久しぶりだったから、ね?」
「ふぅ~ん。」
そう言って黙り込んだ男の子の態度に藍那は心の中でガッツポーズを決める。悪戯が見つかった子どものような表情も、夫の身を案じる慈愛に満ちた眼差しも完璧に演技きった自身が彼女にはあったのだ。が、そんなものは子どもの前で何の役にも立たなかった。なにしろ、
「お姉さんが声をかけなかった理由はわかった。でも、それとこれとは話が別でしょ?お姉さんがこの人奥さんだって証拠にはならないよ。」
などと、無邪気に笑いかけてきたのだから。
藍那は妙に大人びた物言いをする男の子の態度に苛立ちを感じずにはいられなかった。子どもは子どもらしく理屈でものを考えるな、と声を大にして叫びたい衝動を必死に押さえる。
彼女は少年に向かって笑いかけた。
「夫婦の絆ってものは目に見えないものなのよ?だからそれを目に見える形で君に見せるのはとても難しいの。君はいったいどんな証拠を見せてほしいっていうのかな?」
「えっ!?」
藍那の言葉を受けて少年の顔が引きつった。
「うんとぉ、『こんいんとどけ』は?」
「お役所に提出済みで手元にないわ。」
「じゃあ『けっこんゆびわ』は?」
「なくさないように保管しておく主義なの。」
「それなら『ほけんしょう』は!?」
「私のものはあるけど・・・この人は持って出て行かなかったから持ってないと思うよ?よって2人が夫婦であることは証明できません。」
「う~~~。」
ギュッと握りこぶしを作り、悔しそうに唇をかみ締める男の子とは対照的に藍那はどこまでも澄ました顔をしていた。口先だけがとりえの大人としては言い合いで負けるわけにはいかない。彼女はどんな質問にものらりくらりと逃げきれるよう、男の子の質問をある程度想定していた。大人になればなるほど、いや、経験をつめばつむほど根回しというものが上手くできるようになるものなのだろう。とはいっても、世の中には想定外のこともたくさん起きてしまうわけで、少年は小さな人差し指をビシッと藍那に突きつけて叫んだ。
「じゃあ、『ちかいのキス』は!!」
「は?」
藍那は演技を忘れて口をポカンと開けていた。
「結婚式のときにやるヤツだよ!!『愛しあっているふうふ』なら簡単だよね?」
「えっ!?そ、そうねぇ、夫婦だからできないわけじゃないけど・・・」
「じゃあ!!」
「すとぉーーーーっぷ!!」
「ッ!?む~~~。」
藍那は背中から抱き込むように少年の口を塞いだ。
「おませな君に言わせてもらうけどね?そういった行為は人前でやるようなものじゃないでしょ?日本人の美徳は恥じらいと謙虚さなの。特にこの人って恥ずかしがり屋だからそんな大それたこと人前じゃできないわよ。」
チラリと男に視線を移せば、呆然と成り行きを見守っていた彼のそれとかち合い、男の頬がほんのりと赤みを帯びる。
『う~、そんなふうに照れないでよぉ。私のほうが恥ずかしいんだから!!』
藍那は照れてしまいそうになる自分を演技に集中することで誤魔化した。彼女としては男の見目が生理的に受け付けないものではない時点で、キスの一つや二つしてやってもいいと思っていたのだが、相手は訓練された俳優ではない。演技の一環としてその好意を受け入れられるかどうかと聞かれたら判断がつかなかった。そもそも、素人である男に芝居の一環として会ったこともない女とキスをしろというのも酷な話である。
『それにこの人、今はやりの草食系男子、もとい、ヘタレっぽいし?この展開で私にキスしてくるだけの行動力があれば、私が助けなくても警官にくってかかっているはず。ってことは、男の協力は望めそうにもないってことで・・・あぁぁぁ!!まったく、あのガキめ!!せっかく順調だったのに邪魔して、これからどうやって事態を収束させてけっていうのよ!!』
思わず口を塞ぐ腕にギュッと力がこもった。が、それがよほど苦しかったのか、男の子は力の限り首を横にふることで彼女の拘束から逃れようと躍起になる。
「ちょっ!?」
「ぷはっ!!何するんだよ、お姉さん!!はぁ、苦しかったぁ。」
ぜいぜいと肩で息をする少年に藍那はバツが悪そうな顔をする。
「あー、ごめん、ごめん。ちょっと力入れすぎちゃったかな?」
「はぁぁ!?あれがちょっとの力だって!!お姉さん、どれだけ怪力なんだよ!!ボク、危うく顔をつぶされるかと思ったんだからね!!」
「むっ!?失礼な。それは言いすぎじゃない?まったく、最近の子どもは言葉の重みをしらないんだから。ささいな言葉がどれだけ人を傷つけると思っているの?」
「よく言うよ!!お姉さんそんなことじゃ傷つかないでしょう?だって、すごく男前な顔しているもん!!絶対、やられたら100倍にして返すタイプだ!!」
胸を張って言いきった男の子の態度に藍那の笑顔が引きつった。
「ほぉ、そんな生意気なことを言う口はこれかなぁ?」
「なっ!?いひゃい、いひゃいって!!」
「痛くしているんだから当たり前でしょ?」
ニッコリ笑って少年の訴えを退けた藍那の顔はすでに献身的に夫を支える妻というよりは、夫を尻にしく鬼嫁といったほうがしっくりくるもので、その変わりように警官が目を見開いた。
「あ、あのぉ、奥さん?」
「はい?」
「いや、お子さんが痛がっていますけど・・・」
「そうですね。」
「えっ!?そうですね、じゃなくて・・・ですねぇ。」
「何か問題でも?」
「あ、いや、そのぉ・・・」
いっそすがすがしいと断言できる笑顔で問いかけられて中年の警官はハンカチで額の汗だか雨だかをぬぐった。彼女の手から逃れた男の子はそんな警官の後ろにさっと隠れると藍那を睨みつけながら叫ぶ。
「ちょっと、お巡りさん、なにたじろいでいるんだよ!!これは立派な犯罪だ!!『ようじぎゃくたい』だ!!」
「ふぅ~ん。なかなか口数が減らないんだから、困った子ねぇ?」
「お、奥さん!!いや、相手は子どもですし・・・」
「で?」
「はい?」
キョトンと間抜けな顔をさらす警官を彼女は鼻で笑った。
「だから、子どもだからなんなんです?」
「えっとぉ・・・」
「それともこの平等社会で子どもだけ優遇しろとでもおっしゃるのかしら?」
「そのぉ・・・」
「子どもは甘やかせばいいってものでもないでしょう?大人がきちんと言わなければ、子どもにだって伝わりません。なんのために言葉があると思っているんですか?」
「はぁ、すみませ――イテッ!!」
頭を下げようとした警官の脛を少年が思い切り蹴飛ばした。
「なに言い負かされているんだよ!!お巡りさんは弱い人の味方でしょ!!この中で一番力のない僕を守る義務があるはずで、こんな気の強いお姉さんなんかに負けないでよ!!」
それを受けて藍那が芝居がかった仕草で首を傾げて見せた。
「あら?お巡りさんはか弱い女性の味方でもあるのよ?当然、私の味方ですよね?」
俗に言う顔は笑っているが瞳が笑っていない状態の藍那と遠慮なく脛に蹴りを入れてくる少年との間に挟まれたあわれな警官は、おろおろと視線をさ迷わせて必死に額の汗を拭う。それは傍から見れば異常な光景で、
「ふっ、アハハハッ!!」
「「「ッ!?」」」
と、響きわたった笑い声に三人は同時にパッと顔を横に向けた。そこにはお腹を抱えて笑っている男がいて、彼は一通り笑い終わるとふっと藍那に笑いかけながら、
「まったく、あなたも何をやっているんですか?こんな小さな相手に向きにならなくてもいいでしょう?」
と、言って彼女の頭をポンポンッと軽く叩く。
「お巡りさんも困っているし、その辺で勘弁してあげたらどうです?すみません、家内がご迷惑をおかけいたしました。」
「はぁ。」
深々と頭を下げる男に警官が間抜けな相槌をうった。藍那はそこでようやく自分が役を忘れて暴走していたことに気がつく。男を助けるつもりが、いつの間にか自身の役割と当初の目的を忘れていた己の不甲斐なさが情けなく。また、女優を目指すものとして芝居中に芝居を忘れて素に戻ってしまった自身の未熟さが恥ずかしかった。だから彼女は顔を上げた男とは対照的に俯いて
「ごめんなさい。」
と、小さく謝罪の言葉を口にする。それを聞いて男の瞳が見開かれ、次の瞬間にはすっとほそめられた。
「謝る必要なんてありませんよ?嬉しかったですから。」
「え?」
「声をかけてくれて、必死になってくれて、守ろうとしてくれて、嬉しかったんです。だから――」
「?」
「ありがとう。」
そう言って彼女の頬に触れた男の唇は酷く冷たくて、けれど壊れ物を扱うかのように繊細な動作に藍那は思わず見ほれてしまう。
男は彼女の手を取りそっと握った。
「あ・・・」
冷たい男の手は藍那のそれよりも一回り大きくて、彼女はドキッと跳ね上がった鼓動に困惑する。
男が自身に向ける優しい雰囲気は果たして演技なのだろうか?
それとも偽りのない感情なのか。
藍那は繋がれた手をやんわりと握り返しながら、ふとそんな思いを感じ、慌ててそれを打ち消した。
あくまでもこれは芝居の続き。それは男が藍那を「家内」と呼んだことからでも明らかで、彼女はそれを少し残念に思う自身を恥じた。とはいっても、もう片方の手でどんなに顔を擦ったところで、ほんのり染まった頬の色をなかったことにはできないのだけれど。
「君もありがとう。」
「ぼく?」
「そうだよ。君も声をかけてくれたでしょう?」
「そりゃぁ、まぁ、そうだけど・・・でも!!ぼく、お兄さんのことおじさんだって言ったり、バカにしたようなことたくさん言ったよ?それでもそう言ってくれるの?」
「もちろん。君は俺に勇気をくれたんだ。」
男はそう言って少年の鼻の頭を人差し指でちょんっと叩いて見せた。
「俺は、さ。今まで応えを探して雨の中を傘も差さずに歩いていたけど、本当のことを言えばそれが少し不安だった。だって誰もが自分を避けて通るんだと?不信と敵意とか侮蔑とか。道を歩けばそういった感情を向けられるか、あるいは無視されるかで、人とは違うことをしている自分を意識してしまうと自分が1人のような気がして堪らなく心細くなったりもした。でも、俺は答えを見つけたいからそういった感情に極力蓋をしてなかったことにしていたんだ。蓋をしたってあるものをなくすことなんてできないのに、ね?」
男の空に向かって伸ばされた手のひらに大粒の雨が当たってはじけた。
「そんな時、出会った君はありのままの俺に話しかけてくれただろ?君も言っていたように変人だってわかっていても声をかけてくれた。繋がろうとしてくれた。そのとき初めて自分のやっていることは必ずしも1人になってしまうことではないんだって思えた。これまでみたいに答を探し続ける勇気と気力をもらえたんだ。だから、ありがとう。」
ぱらぱら、ぱらぱらと雨を落とす曇り空に向かって、それとは対照的に男は晴れやかに笑った。それにつられて少年も藍那も空を見上げる。
唇に触れた雨粒はドロップみたいに甘くはなくて、けれども涙のようにしょっぱくはない。
藍那はその事実を少し嬉しく思えた。
「さぁ、いきましょうか?」
瞳で笑いかけられて藍那も同じように相手に笑いかけながら小さく頷いた。それは本当の夫婦のような仕草で言葉では伝えられたな独特の雰囲気が2人の間に流れる。そして遠慮がちに引かれた手の動きに逆らうことなく、彼女は男の歩調に合わせながら足を踏み出した。はじめの一歩が大切なんだ、と彼女はなんとなくそんなことを考えたのだ。それは世間で言う「スタートダッシュが大切だ」といったような教訓めいたものではなく、もっと衝動に近いものだったのかもしれない。
藍那はその一歩を踏み出すことで男と同じ目線にたてるような気がしていて、彼と同じものを見てみたいと思う程度には男のことが気になっていた。もっとも、まだろくに話したこともない名前も知らない人だったのだけれど。
「それではみなさんさようなら!!」
「へ?わっ!?」
男はまるで舞台上であいさつするかのように、うやうやしく少年と警官に頭をさげると、次の瞬間勢いよく駆け出した。それにつられて藍那の体がグッと引っ張られ、足がもつれて転びそうになる。が、さすがは反射神経のいい彼女のことだ。前につんのめるような形で走りながらバランスを取り直し、すぐに男の歩調に合わせて本格的に走り出すことに成功した。
「ちょっ!?あなたたち!!」
全速力で走りながら後方をちらりと伺えば、慌てふためく警官とその横で大きく手を振っている少年がいて、
「がんばって!!」
と、雨の降る音に混じって力強い声が届く。ふと横を見上げれば、丁度同じように下を向いた男の瞳とかち合って、2人はお互いの口元に緩やかな弧を描いた。そして、
「「ありがとう!!」」
同時にクルリと振り返って傘を持っているほうの手を少年にむかって大きくふった。一方は閉じたままの傘を、もう一方は開いた状態の傘を少年に向かってふっていたのだ。
それを見た男の子は歯を見せて笑った。遠くからでもその笑顔だけははっきりと藍那の瞳に焼きつき、彼女は先ほどとは逆に男の手を引いて勢いよく走り出した。ためらう気持ちはどこにもない。
今度は少年の変わりに自分が男の答えを共に探してみようと、そんな思いに駆られる。いや、確かに彼女は少年にこの男を託されたのだろう。彼の妻役として。
ならば舞台が幕を閉じるまで演じきるまでだ。そしてこの舞台は男が答えを探し終えたときにこそ幕が下りるものであり、それまで自分は献身的に夫をささえり妻である。彼女はプロを目指す女優として男と共に行動する決心をした。とはいっても、本当は彼ともう少し話してみたいと思っていただけなのかもしれないけれど、それを認めるほど彼女は素直な性格などしていなかった。
「ふぅ、ここまでくればあの警官も追ってはこない、かな?」
後ろを向きながら歩いていた藍那の頭をコツンッと男が手のひらで叩いた。
「イテッ!」
「ほら、後ろを向いて歩かないで下さい!!危ないでしょう?」
「わかっているわよ!!っていうか、私、さっきの男の子みたいに子どもじゃないんだけど・・・団長には自分の子ども扱いされるし、同い年くらいにみえるあなたにも子ども扱いされるし、私ってそこまで子どもっぽいのかなぁ。」
「団長?」
藍那は苦虫を噛み潰すような顔をしたが、一方で男は驚き目を丸めていた。
「あなたってもしかして舞台女優さんですか?」
「まぁね。っていっても、田舎にある小さな劇団員の1人ってだけじゃぁ、そんなふうに呼んでもらうにはまだ早いかもしれないけど。」
「へぇ。だからあんな助けかたしてくれたんですね?」
「驚いたでしょ?いきなり「あなた」なんて呼ばれるし、自殺した学生の担任にはされるし。」
「え・・・」
彼の瞳がもう一度見開かれた。
「ごめんなさい。あなたを事件の犯人みたいな言い方して。でもあの時はそれが一番手っ取り早い方法だと思ったのよ。情緒不安定なんていわれるようになる理由としてはもってこいだったし、なにしろこの近くで起きた事件だってニュースでいっていたから。間違っても内閣総理大臣の献金問題に係わっている人物じゃなさそうだし、コンビニ強盗に係わっていたらそれこそ、警察に連行されちゃうでしょう?だから、一番ありそうな話を選んでみたの。でも、いくら病気になった理由がほしかったからって、あんまり気持ちのいい話じゃないでしょう?だからごめんなさい。」
頭を下げて謝った藍那に男は困った顔をして笑った。が、
「いいえ。いいんです・・・あなたが謝る必要なんてないんですから。」
と、そう言う男の瞳は酷く悲しそうで、とても大丈夫なようには見えない。よくよく考えてみれば気持ちがいい話ではないどころか、人によっては不愉快極まりない話でもある。そもそも亡くなった学生に失礼だろう。
藍那は軽率な自身の行動を恥じた。けれど、ぽんぽんっと軽く頭を叩く男の仕草は優しくて、
「それって癖なの?」
「え?」
男は藍那の言葉にきょとんっとした顔をした。
「えっとぉ、さっきから頭を撫でたり、慰撫するように叩いたりする場面をよくみかけるようなきがしてね?そうやって人の頭に手を置くのがくせなのかなぁって思っただけ。」
「う~ん、そうでしょうか?初めて言われましたけど?」
「絶対そうよ!!だってあの生意気な子どもの頭もよく撫でていたし、現に私の頭だって無意識に撫でているし・・・子どもならまだしも大人の、しかも女性にあんまりそんなことをしないほうがいいと思うけど?」
「えっ!?どうして?」
「どうしてって・・・それは――」
『まるで自分が大切な人のように思われているんじゃないかって勘違いしそうになるから。なぁ~んてことは口が裂けても言えないわね。』
藍那は小さく首を傾げている男を横目でチラリと伺うと、はぁ、と深いため息を吐き出した。男はよく言えば純粋で、悪く言えば鈍感なのだろう。そうでなければただのバカだ。
彼女は背伸びをして男がよくするように相手の頭をぽんぽんっと叩いてみた。濡れた髪は冷たくて、さわり心地はいいものではなかったけれど、それでもたったそれだけのことでほんの少しだけ穏やかな気持ちになることができる。きっと男が無意識に行動するのはそんな思いもあるからではないか、と藍那は思った。
頭を撫でるという行為は相手を思いやってこその行為だ。そして、相手を思いやるには心が穏やかでなければできない。イラついていたり、疲れていたり、悩んでいるときにそんなことをしようとは思わないだろう。自分のことに一生懸命な人ほど相手をかえりみることはできないのだ。が、それを悪いことだと藍那は思えなかった。毎日を一生懸命生きている命がどうして悪になるというのか。むしろ、かえりみてもらえないことに憤りを感じている人ほど質が悪いと彼女は思っている。なぜなら、そう思う人ほど困っていれば誰かが助けてくれることが当然だと思っている人たちであり、それは自分勝手な期待でしかないからだ。
生きるということは孤独な戦いである。辛いことも、悲しいことも、苦しいことも、自分1人でその気持ちに決着をつけていかなければならないのだ。誰かが助けてくれるという保障はどこにもない。だから人は感謝するのだろう。
優しさが当たり前ではないことを知っているからこそ、思いもよらない手助けにあふれ出す気持ちを感謝という言葉で表している。藍那はそんなふうに思っていた。
男は言いよどんで黙ってしまった藍那の態度に何か感じるものがあったのか、
「あの!!言いづらいなら言わなくても大丈夫です!!言葉では上手く言えないことだってありますし・・・それより、先ほどは助けていただいてありがとうございました。」
と言って、体をくの字に折り曲げた。それを見て強張っていた彼女の顔に小さな笑みが戻る。藍那は歯を見せて笑っていた。
「どういたしまして。って言っても、お礼を言われるほどのことじゃないんだけどね?何だかんだ言って、自分も演技を楽しんでいたし、あんまり感謝されると居心地が悪くなるのよ。」
「はぁ、そんなもんなんですか?」
「そうそう。」
ピシッと手のひらで男のおでこを叩けば「イテッ」と小さく呟いて、彼は自身の額をおさえる。
パチパチと瞬きをする男はやはり子犬のような愛らしさがあった。
「それになんだか人ごとだと思えなかったの。同じように『答え』を探している同士としては。」
「え?あなたも何か『答え』をお探しなんですか?」
質問をする男を彼女は横目でチラリと一瞥すると、傘の柄をくるくると回しながら歩き始めた。
「ひみつ。合って間もない人に話すようなことじゃないし、どこにでもあるようなつまらない話だから気にしないで。」
「っていわれましても・・・」
男はロダンの考える人のポーズを取りながら藍那の後ろをカルガモの親子のようについて歩いた。
藍那が傘を回すたびに飛び散る雨粒が容赦なく彼の体と顔を濡らすのだが、男はそれをまったく気にしているそぶりを見せなかった。
「もしかして結婚の悩みですか?」
「けっこんっ!?」
「あれ?違います?」
「違うも何もなんでそんな話になるかなぁ。」
ピタリと歩みを止めて振り返った藍那の顔を見て男は驚いた顔をした。
「なんでそんな怒っているんです?」
「怒ってない。」
「いや、でも・・・」
「怒ってないって!!」
クルッと体を反転させてまた歩き出した彼女を男はためらいがちに追った。
「えっとぉ、何か気にさわったならごめんなさい。ただあなたくらいの年齢の女性が悩むことって言ったらそれくらいしか思いつかなくて。しかも会ったこともない変人を思わず助けちゃうくらいあなたにとってみが詰まる悩みなんでしょう?俺にはそんな悩みなんて人生に係わる大きなことしか思いつかなかったんですよ。」
彼はそう言うと藍那のさしている傘の露先くいっと引っ張った。その微かな抵抗に彼女は顔だけで振り返る。男は酷く困った顔をしていて、藍那はふっと小さく笑いながら再び前を向いて何事もなかったかのように歩き続けた。
いよいよ途方にくれた気配が後ろから発せられ始めるころになって彼女はようやく口を開いた。
「あたらずも遠からず、かな?」
「へ?」
「あなたの言ったことよ。確かに私は自分の人生を左右する『答え』を迫られているけど、それは結婚なんかじゃないってこと。そもそも私ってそんなに結婚適齢期に見える?」
傘をくるくる回しながら悪戯っぽく笑いかければ、男は首を傾げて見せた。
「女性の結婚適齢期がいつなのかよくわかりませんけど、すくなくともえっとぉ――」
「藍那。」
「藍那さんは俺より年上で、しっかりしている人ですよね?」
「ふぅ~ん。で?」
「はい?」
キョトンとする男。
「だから、あなたの名前は?」
「お、俺ですか!!」
「あなた以外に誰がいるのよ。」
「ですよねぇ。」
男ははぁと小さくため息をつくと恐る恐る上目遣いで藍那の顔色を伺った。と言っても彼のほうが彼女より背丈があるのだからまったく意味のない行為だったのだが。
「どうしたの?」
「う~ん。やっぱり言わないとダメですよね?」
「はぁ!?当たり前でしょ!!名前が分からなかったら呼びようがないじゃない。」
「・・・・・・ろう。」
「はい!?聞こえない!!」
「山田太郎。」
「「・・・・・・」」
目をそらしながら言われてセリフに彼女の中でプチンッと何かが切れた。
「ねぇ、山田君。」
「・・・・・・はい。」
「それって、明らかに偽名だよね?」
「うぅ~。」
「どうなの?」
「・・・・・・・・・・はい。」
小さく呟いた自称山田太郎の言葉に彼女はニッコリ笑った。が、
「ッ!?」
次の瞬間片手だけで相手の襟首を掴むと力任せにそれを引っ張った。その力は到底女性のましてや片手で出せるものとは思えないほどで太郎は絞まる首の苦しさに顔を歪めながらそれでも何とか引きつった笑顔を見せている。
「あんたあたしをなめているの!!」
「ち、違います!!」
「ほぉ、態度とまったく違う行動をとるのはこの口かなぁ~。」
むぎゅぅ~
「うぅ~、ほれはこどもじゃありまひぇん~。」
先ほどの幼子にしたように頬をつねられ、太郎は藍那の手をぺしぺしと叩くことで抗議した。少年のときとは違いまったく手加減のない行為に男の頬が赤く色づく。
藍那は仁王立ちで太郎を睨みつけた。
「あのねぇ、別に感謝されたいから助けたわけじゃないけど、それでもいろいろ協力してくれた人に対して名前も教えないなんて失礼だとは思わないの?」
「・・・思います。」
「じゃあ――」
「・・・ごめんなさい。」
小さく呟かれた声。
男はしゅんと肩を落とし、まるで叱られた子犬のように縮こまっていた。ギュッと握られた手が何かを耐えるかのように見えるのは彼の雰囲気が酷く頼りないものだからだろうか、藍那はふっとそんなことを思った。
「嫌われたくないんです。」
「誰に?」
「あなたですよ。」
「へ?」
目をまるくした彼女に男は一瞬泣き出しそうな顔をするとすぐにそれを苦笑いへと変えた。
「俺は変人です。でも、こうなる前はそんなふうに呼ばれたことは一度もありませんでした。理解のある上司と気兼ねなく愚痴を言い合える同僚や友人がいて、厳しくも温かく見守っていてくれる両親がいた。俺はただ普通に何気なく単調な毎日を過ごす一般人でしなかったんです。」
彼はそう言って目を落として手に持っていたコウモリ傘をじっと見つめた。
「でも、俺はそれをなくしちゃいました。たくさんの人の信頼と期待を裏切った結果になって、俺は今まで自分が育ててきた絆の殆どをなくしたんです。残ったものは不信と同情とほんの少しの好奇心を宿す視線ばかりで、本当はもとからそんなものなかったんじゃないかって思うほどあっけないものだった。」
「そっか・・・」
「はい。だから俺は変人なんてものをやっていられるんだと思います。そうじゃなければ人からどう思われるか怖くて堪らないし、自分のとった行動で親しい人たちに嫌われてしまうんじゃないかって不安で、こんなことできませんから。」
「確かにそうかも。」
「でしょう?変人はそれなりに楽しいんですけど、でもやっぱりこんな雨の日に外を歩いていると、心細くなるもの本当で、そんな時あなたはあの少年と同じように俺に声をかけてくれましたよね?繋がろうとしてくれた。そしてその小さなつながりを失いたくないと俺は思った。だから名前はいえないんです。あなたとの繋がりを失いたくはないから。」
静かに話す男の声は柔らかなテノールで、それはさぁっと絹のようにふる雨音に溶け込むように辺りに響く。藍那はその声をとても綺麗だと思った。静かで儚く、そしてほんの少しの憂いを含んだ声はおぼろげな風景の中でよく映える。が、だからこそ酷く心が痛んだ。そして藍那は
「どうして・・・」
と思わず口にしてから、その問いただすような言葉に狼狽した。
他人が抱えているデリケートな問題に口を挟むべきではないのだ。なぜなら、そういった類のものは大抵本人しかどうしようようもできないことで、間違っても話を聞いたからと言って助けてあげることはできないのだから。
そもそも、自身のことで一杯一杯の者が誰かの重荷を背負うことはできないだろう。期待させておいて途中で投げ出すことほど残酷な仕打ちはない。
人は初めから期待していないものが期待通りにならなくても悔しくはないが、期待していたものがそうならなければ悔しくて仕方なくなるものである。せっかくの親切心や優しさもそうなってしまえば憎悪の対象に切り替わるだけで、もとより何も期待していなければそう思うこともない。
そしてそれを悲しいことだと言えるほど藍那は夢想家ではなかった。
けれどそんなことをグルグルと考えている彼女とは対照的に太郎はまったく藍那の言葉を気にしたそぶりを見せることなく、相変わらずのしまりのない顔で首を傾げて見せた。
「それって俺も聞きたいところなんですよねぇ。なんでこんなことになっちゃったんだろう?」
「はぁ?あなた分からないの?」
「はい。残念ながら・・・俺は自分が間違ったことをしたとは思っていませんから。だって――」
「おやぁ、先生じゃありませんか。」
「「ッ!?」」
パッと2人同時に振り返ると、そこには二十代後半だと思われる男がニコニコとした笑顔を顔に貼り付けながら立っていた。パリッと糊付けされたシャツや整髪料で整えられた髪から誠実そうな印象を受けるのだが、そのとってつけたような笑顔がいかにも嘘くさい。さながらキャッチセールスマンか訪問販売員といったところか。藍那はそう見立てを立てた。が、
「藍那さん!!逃げますよ!!」
「へ?ちょっ!?」
「先生!!」
グイッと男に手を引かれまたもや雨の中を全力疾走する。後方を振り返れば、いつの間にか怪しげな男の隣に大柄のカメラを首からぶら下げた男がかけよっており、まるで親の敵でも見るかのように太郎を鋭く睨みつけていた。
「逃げられた!!追いかけるぞ!!」
「またですかぁ?もういいかげん諦めたら・・・」
「ぐだぐだ言ってないでいくぞ!!ここまできて諦められるか!!」
「はいはい。行けばいいんでしょ、行けば!!」
遠くで男たちが織り成す声が微かに聞こえ、それに続いてバシャバシャと泥水を跳ね飛ばす音が追いかけてくる。
この段階になってようやく藍那は自身のおかれている状況が芳しくないことを感じ取った。そしてパッと男の手を振りほどくと慌てて傘を閉じ、本格的に走る体勢を整える。が、横目で男を睨みつける顔は般若のようだった。
「あんた何やったの!!」
「何もやっていませんよ!!間違っても警察にご厄介になるようなことは断じてしていません!!まぁ、変人である時点で警察に連れて行かれちゃいそうですけど・・・」
「そんなことはどうでもいいから!!じゃあ、あいつらは何!!」
走りながら後方にピシッと指を突きつけると、太郎の顔が微かに歪んだ。
「う~ん、俺にしてみればストーカーみたいなもんです。話すことはないって言っているのにいつまでも追いかけてくる。困った人たちですよ。」
「ふぅ~ん。どうせあんたが何かやらかしたんでしょう?」
「ひどっ!!だから俺は何もしてないんですってぇ~」
勢いよく角を曲がればそこに続く道はなくて。
「まっ、理由なんてどうでもいいわ。私があなたを助けてあげることに変わりはないんだから。」
グイッと太郎の手を引き寄せながら笑った藍那の顔は酷く男らしいものだった。