ひとりぽっちのフリースロー
○○県立××女子高校バスケットボール部は、県内でも有数の強豪校として知られている。その主将という重責を担うのは、3年生の冨田麻里だ。彼女のバスケットボールの実力、部員を統率するカリスマ性、ストイックに練習に取り組む姿勢などから判断して、その人選は至極当然と受け取られていた。そのうえ、学力もトップクラス、容姿端麗とくれば、校内でも常に一目置かれる存在だ。
7月も半ばを過ぎ、学校は夏休みに入ったが、バスケ部の練習は毎朝9時から行われる。しかし、主将の麻里は、練習開始時刻の1時間前にはすでに学校に到着している。
校内にまだ人影はなく、体育館ももちろん無人だ。麻里が体育館に入ってから数分、中からボールが床に跳ね返る音が響き始める。彼女は一人きりで練習を開始したのだろうか…
しんと静まり返った体育館の中。
麻里はフリースローラインの手前に立ち、前方頭上のリングをじっと見つめる。ボールをもって構え、呼吸を整え精神を集中させ、リングめがけてボールを放つ。しかし、力が入りすぎたのか、ボールはボードに当たって跳ね返り、下に落ちてくる。次の一投はボールが右に少しずれて失敗。そしてまたその次も…
毎朝他の部員達が来る前に、麻里は一人きりでフリースローの練習を行っているのだ。日頃の練習熱心さを考えれば別段不思議なことではない。しかし彼女のバスケの実力にしては、なかなかフリースローが成功しないのはなぜなのか。
もしこの時、だれか他の人が来て麻里の姿を目撃したら、あまりの驚きに目を疑うだろう。
麻里は今、全裸だった。
いや正確に言えば、足元にバスケシューズとソックスこそ履いてはいるが、それ以外は一糸まとわぬ裸だ。いったい、麻里はなぜそんな格好でフリースローの練習をしているのだろうか。
スポーツにおいて、技術の上達と同じくらい、精神力の強さを鍛えることが重要だ、というのが麻里の持論だ。練習を積めば、おのずと技術は向上するが、精神力が伴わなければ、試合本番で実力を100パーセント発揮できるとは限らない。
精神力が弱ければ、大事な試合のここ一番というときに、プレッシャーや緊張で押し潰されてしまう。
例えばこんな状況を想定してみる。県大会決勝の試合終盤。自分のチームが僅差で負けている。試合終了間際、相手チームがファールを犯し、自分がフリースローを任されたと仮定する。全部成功すれば、逆転し、そのまま試合終了。このような状況で、雑念を振り払い神経を集中させ、冷静な気持ちでフリースローを行えるだろうか。
麻里にその自信はなかった。しかし、伝統ある強豪チームの主将を任されている以上、精神力を鍛えることの義務を麻里は感じていた。そのためには、ただ単に普通のフリースローの練習を繰り返して、技術面のみを磨くだけでは十分ではない。なにか極限の状況を意図的に作り出して、その状態でも冷静な気持ちでいられる鍛錬を積まなくては。
そこで思いついたのが、全裸で行うフリースローなのだ。毎朝1時間早く来て、他の部員が来る前にフリースローを10回成功させる。それが麻里が自らに課したノルマだ。10回成功すれば服を着ることができる。しかし、もしも成功できなければ…
この極限状況においても精神を集中し、冷静にフリースローを決められるようになれば、それが精神力の鍛錬につながる。というのがこの奇抜な練習の意図するところなのだ。しかし、いくら他にだれもいないとはいえ、年頃の女の子が体育館で全裸になる、というだけでかなり恥ずかしく、緊張することなのに、ぐずぐずしていれば、他の部員たちがやってきて恥ずかしい姿を見られてしまう。そして、部員の口から、瞬く間に全校中に知れ渡ってしまうという恐怖感。それらを克服して、フリースローだけに集中できるようになるのは至難の業だ。
そして今、麻里は体育館で、なかなかフリースローが決まらず四苦八苦しているというわけである。
<あぁん、早くしないとみんなが来ちゃう…>
焦ってくると、失敗してから次の一投までの間隔が短くなり、十分に集中しないうちにボールを投げてまた失敗する、という悪循環に陥る。
麻里は、失敗して落ちてきたボールを拾うと、いったん投げるのを中止し、呼吸を整える。目を閉じて、神経を集中させようと、羞恥心を捨て、自分に言い聞かせる。
<大丈夫。みんなが来るまで、まだ時間はある。だから、落ち着いて普段通り投げればいいの>
十分に時間をかけて狙いを定めてからボールを放つと、理想的なアーチを描いて、リングネットに吸い込まれた。
気持ちが集中できてくると、麻里本来の調子が戻ってきて、フリースローが次々と決まりだした。彼女の実力からすれば、フリースローを10回成功させること自体はそれほど難しいことではない。
<この調子。だいぶ気持ちがコントロールできるようになってきたわ>
調子を取り戻した麻里は、最初の連続失投がうそのように、ついに9回目成功までこぎつけた。しかし、ここで思わず油断して気が緩んだのか、麻里の心に雑念が浮かんだ。
<もし、今日に限って誰かいつもより早く来たら…>
そう考えた途端、集中が乱れた。今にも突然体育館の扉が開いて、部員がぞろぞろ入ってくる光景が麻里の脳裏をかすめ、恐怖感に襲われる。集中しきれぬまま放たれたボールは、的を大きく外れコートに落ちてきた。次の一投も、またその次も…
時間は刻一刻と過ぎていく。焦って冷静さを失った麻里は、周囲のささいな物音にも敏感になり、ますます集中力が失われていった。思わず弱気になって、「今日はこれで中断して、もう服を着たほうが…」という考えさえ心に浮かんだ。しかし、麻里は土壇場でその考えを振り払った。
<ここまできて、そんな弱気でどうするの。わたしは名門バスケットボールチームのキャプテン。もっと精神的に強くならなくちゃ。よし、今度の一投で決めてしまおう>
大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、リングを見据えながらボールを構え、焦らずじっくり狙いを定めた。麻里の手から放たれたボールは、イメージ通りの放物線を描いて、リングに吸い込まれた。
<やった…>
ついに全裸でフリースローを10回成功させた麻里は、安心する間もなく、急いで服を着なければならない。練習はまだこれからというのに、麻里の顔や裸身には早くも大粒の汗が浮かんでいた。
「おはようございます」
練習開始時刻の9時近くになり、バスケ部員達が次々に到着し始める。部員達がキャプテンの麻里を見ると、すでに何か練習をしたのか、顔が紅潮し汗ばんでいる。その練習熱心さに、部員たちはあらためて畏敬の念を込めて、麻里を見つめるのだった。
部員達の思いを知ってか知らずか、麻里は練習前のストレッチをみんなと一緒に黙々と行いながら、心の中でこんなことを考えていた。
<なんとか今日もフリースローを10回成功できたけど、わたしもまだまだね。集中しきれなくてだいぶ手こずっちゃった。でも以前よりも気持ちをコントロールできるようになってきてる。そうだ、明日は始めるのを少し遅らせてみよう。そして明後日はさらに何分か。自分をギリギリまで追い込んで、もっともっと精神的にタフにならなくちゃ…>
そして翌日の早朝もまた、人気のない校内に、体育館からバスケットボールの音が響いてくるのだった。