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遠野先輩の友達が如月澪に優しくしてくれる。
お父さんは私が産まれてすぐ亡くなった。
国外の高地に珍種の植物を採取に行った時に地元の強盗に襲われて殺されたらしい。それ以来、お母さんは何人かの男を家に連れてきたりしたけれども結局誰とも再婚はしなかったし、私は植物園の人が色々と面倒を見てくれたので特に寂しくも無く父親という存在が無い事に対する欠落も無かった。
ただ、お母さんは私が男みたいな考え方をする事とお木々という表現をする事をいつも心配していた。
「お木々、とは言わないのよ、澪。」
「じゃぁなんて言うの?」
「そうね、樹木、とか、単に木々、とかじゃないかしら。」
「お花はお花って言うじゃない。」
「そうね、お花はお花って言うわね。でも、木々にはおは付けないの。」
「ふぅん。」
いつも、こんな会話を繰り返してはその後にすぐ私は「お木々」と言い出してお母さんを呆れさせた。
妖精の花はすくすくと育って、そろそろ蕾を付けそうだった。私は毎朝、あの草達がまだ元気でいる事を確認しては水をやり、満足そうにそれを眺めた。
日曜の朝。白く浮き出た斑点をお湯で絞った布で拭いているとお母さんが後ろから声をかけてくれる。
「順調そうじゃない。」
「うん。なんかコツ掴んだみたい。」
「でも。不思議よね、そんなに丈夫そうに見えてもたった一回水やり忘れただけですぐ枯れちゃうんだから。」
確かに目の前のプランターから伸びている茎は逞しそうでとてもそうには見えない。けれどもちょっとした事で枯れてしまった前例を私もお母さんも見ている。
「そうね、一日も欠かさないって結構、大変。」
「お母さんには無理ね、たまに研究で徹夜するもの。眠くてぼうっとしてる明け方に、水やりの為だけに起きてられないわ。」
「お母さん、それはね、愛が足らないのよ。」
するとお母さんは楽しそうに笑いながら私の頭をくしゃくしゃと撫でて、
「ははは、そっか、そうだな、愛が足らないな。澪も言うようになったじゃないか。」
「ふふん。」
こんなお母さんの反応を見て、きっと私が男の子みたいな考え方をするのはお母さんの影響だろうな、と、思う。
高校の文化祭は無事に終わった。皆はかなり盛り上がっていたけれども私の盛り上がりはもちろんその準備の先輩とのあの一時で、文化祭当日の忙しさと騒がしさはむしろあの一瞬で私に湧き上がった喪失感を埋め合わせてくれるいつもの日常だった。
それに、多分本人からそれとなく聞いたんだろう、先輩の友達がなんかいろいろと私に気を遣ってくれた。私は無下にするのも悪い気がしてされるままにされていた。確かにこんな傷心の時はこうやって優しくされるのは心地よくて嬉しい事ではあった。
だから文化祭の終わり間際、ベンチに二人で座ってたこ焼きを一緒に食べている所をクラスメイトに、あれ、二人付き合ってるの、ってからかわれた時に、そうよ、悪い?と彼に抱きつきながら冗談を返したりした。私としては、ただ余裕を見せつけただけのつもり。
そんな本当にお祭りのような文化祭が終わって、さて、その気を遣ってくれた先輩とも普段どおり、と思っていたら、何故か先輩は文化祭の後も何かにつけて私に話し掛けてくれた。私を振った先輩のさりげない優しさとはまた違う、露骨だけど心のこもってる優しさ。こういうのも悪くなかった。それにこっちの先輩も格好良くて皆の憧れなのは間違いなくて、そんな先輩が私にちょくちょく声をかけてくれるのも嬉しい事に変わりは無かった。
「ふん、ふふん。」
日曜日の朝、鼻歌混じりに妖精の花に伸びてきた細い茎を切り落とし、黄土色の段々模様が浮いてきた茎の根元に栄養剤を差し込む。そんな様子をお母さんが寝起きのぼさぼさの頭で通り過ぎざま、
「あら、随分とご機嫌なのね。」
「ん?そうかな。」
いつも通りポットにお湯を注いでインスタントコーヒーを作るとそれを持ってテーブルに座る。私は妖精の花を手入れしながら、
「そういえば、ね。この花って南米の限られた所だけにしか咲かないんでしょう?こんな手間暇かかる花、どうしてそこだけ咲くのかなぁ?そこの気候だけ病気になったりしない、とか?」
と、聞いてみる。お母さんは口を付けている分のコーヒーを飲み終えてから、
「それが、ね。また不思議なのよ。」
と、話してくれた。
「土は、虫が尿素多めにしといてくれるんですって。で、白い粉がふいたら蟻が群がって取ってくれるんですって。細い茎はカミキリムシ見たいなのがちょんぎってくれて、太い茎は何故かそれだけ食べる芋虫がいて食べてくれるんですって。不思議よね。そんな感じでそこに住むいろんな虫達がその花の、いわば手入れをしてくれてるのよね。」
手入れが終わり私もコーヒーを作ってテーブルに座る。座りながら、その話は信じられないなぁ、と思う。多分本当はその気候だけ病気にならない、って事なんだろう。いかに生態系が複雑で神秘や奇跡が沢山あったとしても、そんなに都合のいい環境が整うはずが無い。それが高校生植物学者の私の素直な感想だった。
でも、それは向かいのお母さんの真顔のこの言葉で揺らいだ。
「本当に、不思議よね。そんな環境が整うのが南米の一部だけらしいのよ。お父さん、澪のお父さんは本当に驚いていたわ。」
「お父さん、そこに居たの?」
もう何年と口にしていない、お父さん、という単語を口にする。自分で違和感を感じるけれど、それは今は気にしないでおく。
「そう、一年程、ね。そのアルフレッドの所にいたのよ。気が合ったみたいね、二人とも。」
「ふぅん。」
どうやらその環境の神秘説は本物で、しかもそれを裏付けているのは私のお父さんらしかった。
それから何日かして、帰ろうと思うと校門のすぐそばに文化祭の日から私にやさしくしてくれてた先輩が居た。
「あ、こんにちわ。」
「を、今帰り?」
「ええ、先輩はどなたか待ち合わせですか。」
私は本当に先輩が誰かを待っているんだと、その時は思った。
「うん、ちょっとね。そうだ、如月、一緒に帰らないか?」
「え?あの、お待ちの方はいいんですか?」
「ああ、もしかしたら先行っちゃったかもしれないし。僕もそろそろ帰らないと塾間に合わないしね。」
「そうですか、じゃぁ。」
友達が多ければこういう事もあるんだろう、と、私は勝手に都合の良い解釈をして一緒に帰る事にした。先輩は流行りの曲の話をしてくれたり、私の花の話を聞いてくれたり、歩くペースも会話のペースも私に合わせてくれてくれた。嬉しかったけれど、いつまでこうやって気を遣ってくれるつもりなんだろう、と、ちょっと不安にもなってくる。それなりに負担はかけてるはずで、いつまでも私も甘えてばかりもいられない。
「でも、遠野(私を振った先輩)も見る目、無いよなぁ。」
そこは大きく曲がってる下り坂で、同じ高校の生徒が一人自転車で私達を追い抜いて行ったのを見た後、先輩がそう言った。
「何の事ですか。」
半分は本当に何の事かわからなくて、もう半分はやっときたのね、と思いながら、私は聞き返す。
「僕だったら如月見たいないい女、断ったりしないんだけどなぁ。」
「はは、ありがとうございます。先輩に告白する人はいいですね。」
もちろん本気で私が褒められてるとは思って無かった。女は泣かせない、って程度の意味だと思った。
「え、別に誰だっておっけするわけじゃないよ。」
「さすがに基準がありますか。」
笑いながら私。
「でもさぁ、如月はなんで遠野の事好きになったん?」
「そうですね。」
すこし考えてから、
「なんかドアとかでレディファーストしてくれたり、そういうさりげない心遣いに感動した、って言ったら大げさですけど、なんか男らしさ感じたんですよね。まぁでも、半分は憧れみたいなもんです。遠野先輩って、なんかすっごい大人っぽいじゃないですか。私、お父さんいないからああいう大きな背中みたいなのに憧れちゃったんだと思います。」
こう話しながら、私の中で特に遠野先輩が好きな理由が無い事に気付く。さりげない優しさに感動したのは本当、好きだったのも本当、振られてショックだったのも本当。でも、心の中を探っても好きだった理由だとか、その好きって気持ちの真ん中がなんかすっぽりと抜けてしまっていて、自分じゃ掴めない。
そんな気持ちに引きずられるようにちょっと声のトーンが落ちて、そして言葉も途切れる。すると、先輩が
「僕じゃぁ、背中、小さいかなぁ。」
とおどけるように言いながら背中を見せてくる。
「はは、そんな事ないですよ、先輩の背中だって充分大きいと思います。」
なんだろう、こういう真ん中のすっぽりに吸い込まれそうな時に、こうやっておどけて笑いを誘ってくれるのがすごい助かる。そのすっぽりのさらに中から安心が溢れてくるような気持ちになる。
「な、如月、今度の日曜日、どっか遊びにいかね?」
「え!?」
驚いた。確かにメールくれたりはしたけれど先輩が学校じゃない所にまで私を誘ってくれるのは初めてで、私は失恋もこの優しさも学校の中だけのもの、と、勝手に思い込んでいたから。
「ちょうど次の日、創立記念で学校も休みじゃん?だったら一日ぐらい、大丈夫だろ?」
「ええ、ええ。」
予定は大丈夫だった。朝に花の手入れをして夕方にも花の手入れをするぐらいしか予定は無かった。でも、そういう事じゃないっていうのは私にもわかる。
ただ、この嬉しい気持ちにちょっと流されてもいいかな、と、私の心が言った。そして私はそれに賛成した。
「はい、大丈夫です。でも、先輩はいいんですか、その、私なんかで。」
隣を歩く先輩を見る。すると、先輩はいつも通りの明るい笑顔で、
「ああ、僕は如月がいいからね。」
と、言ってくれた。
植物園にも学校にもなくなった私の居ていい所は自宅で大事に育ててるがんばれば妖精が飛び出てくれるプランターではなさそうだった。